piano-treeの日記

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「騎士団長殺し」のトポロジー。物語に潜む2つの三面鏡

トポロジーとは数学の一種で、どのように連続変形しても保たれる図形的な性質に着目する幾何学だ。位相幾何学と訳される。切ったりくっつけたりはせず、曲げたり伸ばしたりを繰り返すことを連続変形という。ドーナツ型を曲げたり伸ばしたりした(切ったりくっつけたりはせずに)型は、元のドーナツ型とは似ても似つかないとしても、やはり例えば球とは本質的に異なり、ドーナツ型の図形的性質をどこかで保っている。その本質とは何か、を研究するのがトポロジーである。


 トポロジー的な視点で見て、「騎士団長殺し」には二つの、二重の対象関係がある。一つはこの物語自身と”The Great Gatsby”だ。1925年に発表されたScott Fitzgeraldの小説で、本邦では野崎孝による名訳が長く親しまれてきたが、2006年には村上もこの小説を翻訳している。素性の知れないビジネスで財をなし、曰くつきの過去をもつ大富豪のJay Gatsbyは、ニューヨークの高級住宅街、「イーストエッグ」の湾を挟んだ向かい側、「ウェストエッグ」に豪邸を構えている。彼はその邸宅で毎週のように盛大なパーティーを繰り広げる。パーティーには招待状もないので、毎回それこそ乱痴気騒ぎなのだが、それには訳がある。イーストエッグに住む人妻で、Gatsbyの昔の恋人であるDaisy Buchananが「偶然」パーティーを訪れ、彼女とドラマチックに再開することを待ち望んでいるのだ。


 ãã†ã„う形での偶然の再会はついぞ叶わないが、その乱痴気騒ぎを通じて、彼は物語の語り手であり、Daisyの従兄弟、そしてすぐ隣に住む隣人であるNick Carrawayと出会う。GatsbyはDaisyの従兄弟であると知らされたNickに近づき、友人同士の間柄になろうと試みる。得体の知れないGatsbyに対するNickの警戒感から、二人の間には常によそよそしさが漂うが、それでもGatsbyは時間をかけてNickとの親交を暖め、Daisyを自宅でのお茶に誘ってもうようお願いする。自分がそこに隣人として「偶然ふらっと立ち寄る」ためだ。そのようにして、GatsbyはDaisyとの再会を果たす。


 この関係性は、「騎士団長殺し」における「私」と「免色」、そして「秋川まりえ」の関係性とトポロジー的に一致する。私の邸宅と丘を隔てた向かいにある免色の豪邸。絵画教室の教え子である秋川まりえは、私と「秘密の通路」を隔てた隣人関係にある。免色はその豪邸を、彼が自分の娘だと信じる秋川まりえを観察するために購入し、「私」を通じて偶然を装い秋川まりえに接近する。以下に引用する、「私」に秋川まりえの肖像画を依頼するときの免色は、Daisyを自宅に招いてもらうようお願いするときのGatsbyを強く想起させる。

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 「・・・しかし、私の言ったもう一つのお願いについてはいかがでしょう?覚えておられますか?」

 「うちのスタジオでぼくが秋川まりえをモデルにして絵を書いているときに、免色さんがふらりと訪ねてこられるということですかね」

 「そうです」

 私は少し考えてから言った。「それについてはとくに問題はないと思いますよ。あなたはぼくが懇意にしている、近所に住んでいる人で、日曜日の朝に散歩がてらふらりとうちにやってきた。そこでみんなで軽い世間話みたいなことをする。それはぜんぜん不自然な成り行きじゃないでしょう」

 免色はそれを聞いて少しほっとしたようだった。
 
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 二つの物語のトポロジー的な同質性は他にもあり、「私」の妻であるユズは建築士という男性的な仕事をしているが、Nickの恋人候補であるJordan Bakerはプロゴルファーでユズ同様にサバサバとした中性的な性格だ。絵の中の人物である騎士団長に相当するのは、自身のクリニックを広告する野立て看板に描かれた、眼科医T.J.Eckleburgの青い大きな眼。この大きな(Gigantic)青い眼は、それ自体が広告という経済的成功と商業主義の象徴でありながら、富と欲望に突き動かせるニューヨークの人々の行いを監視するようだ。異様で、人の注意を引かずにはおかない。


 The Great Gatsbyでは、そうして誰もが欲に突き動かされる中で、最後には結局一番純粋なロマンチストであるGatsbyだけが決定的な破滅を迎える。Daisyは、一度はGatsbyと恋仲に陥りながら、結局は夫のTomと子供達の元へと帰っていく。この小説のハイライトは、全てを失ってなお一途にDaisyを思い、信じ続けるGatsbyに対し、Nickが初めて賛辞を述べる以下のシーンだ。

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 We shook hands and I started away. Just before I reached the hedge I remembered something and turned around. 

“They're a rotten crowd . . . You're worth the whole damn bunch put together”.

I’ve always been glad I said that. It was the only compliment I ever gave him, because I disapproved him from beginning to end. 

 

ぼくらは握手をして、別れた。ちょうど庭の生垣についたところで、ふと思い立って振り返った。

「みんな腐ったような奴らだ。君はあいつらを全員寄せ集めたよりずっと価値がある」

思い出すたびいつも、それを言っておいてよかったと思う。ぼくが彼に送った唯一の賛辞だった。ぼくは彼を初めから終わりまで認めたことはなかったのだ。

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 この美しいシーンは以下の会話と呼応する。秋川まりえが行方不明になって、対策を講じるために「私」の家に立ち寄った免色が、秋川まりえの保護者である叔母との不倫を告白した後の「私」のセリフだ。

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  「免色さん」と私は言った。「どうしてそう思うのか自分でも説明はつかないのですが、ぼくはあなたは基本的に正直な人だと思っています」

 「ありがとう」と免色は言った。そしてほんの少しだけ微笑んだ。いかにも居心地の悪そうな微笑みだったが、全く嬉しくないというのでもなさそうだった。
 
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 このような類似性は、いくつかの文学作品同士に見られるが、一番近しい例はホメロスの「オデュッセイア」とJames Joyceの” Ulysses” だろう。タイトルからも解る通り、”Ulysses”はオデュッセイアを下敷きにした物語だが、表面上のストーリーは似ても似つかない。トロイ戦争の英雄である勇者オデュッセウスの、10年の歳月をかけた故郷イタケーへの帰還を描くオデュッセイアに対して、Ulyssesはさえない中年男性Leopold Bloomがダブリンの街を1日かけて徘徊する物語だ。しかし登場人物の相関関係など、両作品には「変形を繰り返してもなお保たれる同質性」、まさにトポロジー的な同質性がある。


 文芸批評の世界には、narrative structureという言葉がある。もともとは文化人類学のターミノロジーで、あらゆる神話に共通した物語の構造のようなものを示す。例えば、古事記の「因幡の白兎」の挿話は、世界中の神話に類似のストーリー展開が見られる。登場するのがワニだったりサメだったりという違いはあれど、基本的な舞台設定と物語の展開には共通の構造のようなものが見られるのだ。この「共通の構造」は、近現代の文芸作品にも意図的に取り入れられており、例えばShakespeareの作品のnarrative structureがwest side storyの脚本に応用されていたりする。
 

 しかし、「騎士団長殺し」や”Ulysses“に見る参照元との同質性はそれらとは次元が異なり、より複雑であると同時により本質に迫るものだと言える。表面的なストーリーのレベルでは、そうして本質に迫れば迫るほど、逆説的に全く相反して見えてくるのも興味深い。その意味では、「騎士団長殺し」は、”Ulysses”にすらおよぶ文学的高みに到達していると言えるのではないか。

 
 はじめに私は、この「騎士団長殺し」には、トポロジー的な視点で見て二つの、二重の対象関係があると言った。もう一つの対象関係は、絵画「騎士団長殺し」の中の寓意と、物語の中の史実の対象関係だ。これは、日本画家「雨田具彦」のウィーン滞在中の将校暗殺未遂事件を深掘りすることで作品中に明示されているが、正確に言うとここにはもう一つの対象関係がある。絵画の中の寓意と、オペラ「ドン・ジョバンニ」の構図との対象関係である。つまり、ここには3つのトポロジー的に同質な図形が重なっているのである。


 このことから導かれる帰結は?「騎士団長殺し」と”The Great Gatsby”との対象関係に、もう一つトポロジー的に同質な図形が重ねられることが予定されているのではないか。それはあるいは、村上の個人的なアジェンダなのかもしれないし、Joyceが”Ulysses”で試みたような、より大きなテーマと時代性がそこには隠されているのかもしれない。もし後者である場合、最後に突然登場した東日本大震災の話題がそのヒントになる。その意味では、それがヒントに留まっている限りにおいて、この物語はまだ完結していない。続きがある。

マイルス・デイビスに学ぶビジネスイノベーター5箇条

世にクリエイターは数多かれど、マイルス・デイビスほどクリエイティブな人は空前絶後です。スウィングジャズの全盛にはパーカーやガレスピーらとビバップの創設に携わり、その後クールジャズ、ハードバップ、モードジャズ、フュージョンと新しい音楽の「ジャンル」自体を次々と生み出し、あるいは創設に深く関わりました。一つのジャンルの中で新しい音楽を生み出し続けた人、パンクからブルーアイドソウル、といった具合に既存のジャンルを渡り歩いてスタイルを変遷させた人や、新しいジャンルを一つ生み出した人は少なくありません。しかし、一人のミュージシャンが新しいジャンルを次々と創造する、というのはマイルスにしか見ることのできないクリエイティビティです。

そして、マイルスが創造したのは音楽だけではありません。ジョン・コルトレーンはじめ、ソニー・ロリンズ、ウェザー・リポートの創始者ウェイン・ショーター、ハービー・ハンコック、ビル・エヴァンス、キース・ジャレット、マーカス・ミラー。ジャズファンのみならずとも名前は知っているであろう彼らは、全員マイルスバンドの卒業生達です。ギル・エバンスやプリンスなどとの対等な立場でのコラボレーション、彼の音楽にインスパイアされた、という間接的な影響までを含めたら、人材育成の観点から音楽の発展にどれだけ寄与したか、という視点でマイルスと肩を並べる人はいないでしょう。

さて、この尋常ならざる創造性は一体どこから来るのでしょうか。音楽に向き合う姿勢や態度といった点で、彼が秀でて他のミュージシャンと異なる特徴を分析していくと、その秘密が見えてきます。そしてそれは、広告・マーケティングやインターネット界隈に生息しているとたまに出くわす、類稀なるビジネスイノベーターたちの特徴と符合します。結論を急げば、マイルスに特に顕著な特徴、矜持というような意識的なものでは恐らくなく、ほとんど本能的な性向に近い特徴は以下の5つです。

1. 新しいことに興味を持ち続ける
2. 自尊心に創造の邪魔をさせない
3. 偶然の力を知って信じる
4. チーム全体に自分の自我を投影する
5. 自主性を重んじる

以下、1から詳しく。

1. 新しいことに興味を持ち続ける
私も高校生や大学生の頃は、常に新しい音楽を貪るように聞いていましたが、40歳近くになった最近はあまり新しいものに興味がもてなくなりました。しかしマイルスは、晩年ヒップホップに傾倒するに至るまで、新しいジャズはもちろん、クラシックや現代音楽、ロック、ソウル、ファンクと様々な音楽に興味を変遷させて来ました。ポップスもしかり。マイケル・ジャクソンやシンディー・ローパーがスターになると、コンサートに足を運び真剣に、敬意をもってレコードを聴きこみます。例えばジョン・マクラフリンがジミ・ヘンドリックス風のギターを響かせるエレキトリック期初期の音楽は、このような飽くなき新しい音楽への興味から生まれます。

2.自尊心に創造の邪魔をさせない
テナーサックスのジョン・コルトレーンは今やマイルスとも並び称されるジャズの巨人ですが、マイルスが発掘し周囲の反対を押し切ってバンドに入れた無名の新人でした。やがてマイルスの「カインド・オブ・ブルー」などで知名度をあげて独立し、フリージャズというジャンルを確立しますが、マイルスはこの、いわば「元部下が始めた新しいビジネス」にも深い興味と敬意を示します。ロック全盛期には、当時のロックスターの前座になることも厭わず、ロックの殿堂であるフィルモア・イーストでのライブを楽しみます。ロックを愛好する白人の観客が、ジャズとロックを融合させた自分の音楽をどう受け止めるかに興味があったためです。

3.偶然の力を知って信じる
おそらくこれがもっとも重要なポイントです。マイルスは、偉大なクリエイションは偶然が生み出すことを理解していました。現在では教科書で覚える体系だった音楽理論であるモードイディオムですら、ギル・エバンスとの歓談やセッションの中から自然と生み出されました。それゆえ、マイルスはライブやレコーディングにおいてインプロビゼーションを重んじます。事前の打ち合わせやリハーサルは一切なし。演奏直前に簡単なリズム譜を渡し、そこだけ事前に作っておいた数小節のテーマを吹き始めると、あとはメンバー同士のアドリブが織りなすケミストリーに任せる、というスタイルを好みます。メンバー選びも独創的で、信頼できるミュージシャンの推薦であれば、オーディションはおろか演奏も聞かないままレコーディングやライブに参加させたことも一度や二度ではありません。まさに、偶然の力を知り、それを信じていたのです。

4. チーム全体に自分の自我を投影する
マイルスのレコードの中には、マイルスのトランペットが入っていない曲が含まれているものもあります。それは極端な例ですが、マイルスは常にグループ全体のサウンドをこそ自分自身のサウンドと考え、自分のパートやソロが悪くても全体がよければそれをOKテイクとしました。派手な服に身を包み、フェラーリを乗り回す自我の強い彼ですが、演奏ではその自我を出さず、というよりはその自我をグループ全体に投影させ、いわばグループ全体を自分自身と考えて演奏しました。そこから、「クールの誕生」や「カインド・オブ・ブルー」におけるあの類稀なるグループサウンドが生まれたのです。

5. 自主性を重んじる
ジャズの帝王として、独善的なイメージがあるマイルスですが、ライブやレコーディングでメンバーに細かい指示をすることはありませんでした。3.のポイントとも大いに関連しますが、あのリリカルなトランペットの音色からも想像される実は繊細な感性が、メンバーたちの自我を敏感に感じ取っていたから、なのかもしれません。そしてこれはもちろん、彼のグループがジャズ史に燦然と輝く卒業生たちを輩出したことと無関係ではありません。メンバーは自主性の中で成長し、グループの演奏をより一層の高みに運んで、やがて卒業していくのです。


すでにお気付きかと思いますが、これら5つのポイントはそれぞれ密接に関連しています。全てが有機的に結合し、マイルスというクリエイターの人格、「クリエイター人格」のようなものを形作っているのです。そしてそれは、前段でも述べたように、ビジネスにおける偉大なリーダー・イノベーターの資質ととても似通っています。マイルスにとっては、これらは恐らく天性のものだったと思いますが、こうしてその特徴を体系化し理解することで、我々もそこから学び鍛錬通じてそれを体得することはできないでしょうか?まずはお前がやってみろ?そうですね!


自分を見下した人を、もし大統領になったらどう処するか?

あまり有名ではないけど、大好きなあるアメリカ大統領のanecdote(逸話)。リンカーンが当時しがない田舎町だったシカゴの、名もない弁護士だったとき、全米で話題の特許裁判の共同弁護人を、当時のスター弁護士だったハーディング弁護士とワトソン弁護士に依頼されます。

裁判が僻地であったイリノイ州シカゴで行われるため、地元の裁判所に詳しいであろう無名のリンカーンに白羽の矢がたったのですが、その後裁判の地はオハイオ州シンシナティに移り、それならリンカーンにこだわる必要はなく、もっと名のある弁護士が良いだろうということで、ハーディングとワトソンは著名なエドウィン・スタントンに共同弁護士を依頼し直します。

しかし、手違いがあってリンカーンにはそれが知らされませんでした。リンカーンは乾坤一擲の裁判に血眼になって資料を集め弁論を用意して、万全の準備でシンシナティに乗り込みます。裁判の日時や場所は新聞で知りました。何の連絡もないのはおかしいなとも思いますが、スター弁護士というのはそういうものだろう、と自分に言い聞かせます。当日両弁護士を訪ねたリンカーンはそこで初めて解任を知らされますが、気を取り直して無報酬での裁判参加を打診します。

難色を示したのはスタントンでした。スタントンは無名の田舎弁護士を相手にせず、結局裁判にはワトソン、ハーディング、スタントンの3人で臨むことになりました。このときのリンカーンの悔しさを思うと胸が痛みます。普通の人なら、自分の不甲斐なさに押しつぶされるか、復讐心に胸を焦がすでしょう。

しかしリンカーンは、虚心坦懐に裁判を傍聴し、塩対応されたスタントンの弁護術に素直に感嘆します。そして、後に彼が大統領になったとき、なんとこのスタントンを司法長官に任命するのです。スタントンは司法長官として、後にsecretary of war(当時の国防長官)としてリンカーン政権の文字通り要となります。

スタントンのみならず、腹心の国務長官スワードもエドワード・ベーツもサーモン・チェースも、リンカーンの主要な閣僚は、みな泡沫候補であった彼を見下し、相手にしていなかった軽蔑者たちでした。トランプはリンカーンのような度量を見せられるでしょうか。アメリカを一つにするため、彼一流のエンターテイメントとしてでも、bipartisanで(党を超えて)批判者やライバルまでを取り込んだサプライズ人事が行われることを、密かに期待します。

マーケティングはもはや組織の一機能ではなく、一つの思想である

「カスタマーマーケティング」という名前を聞いて、どんな仕事をしているセクションを思い浮かべるでしょうか。英語圏の消費財メーカーでカスタマーマーケティングというと、一般的には小売企業に対するマーケティング活動を意味します。ボリュームインセンティブ(仕入れ数量に応じた割引)の仕組みを考案したり、なるべく目立つポジションに自社商品を陳列してもらうための提案を企画したりする活動です。

消費財企業には、大きく3つのマーケティング機能があります。1つ目は、コンシューマーマーケティング。これは商品コンセプトの開発やメディアでのコミュニケーションを中心とした、消費者、つまり「使う人」を対象としたマーケティング活動です。

2つ目は、ショッパーマーケティングと呼ばれる機能です。店頭で商品を選ぶお客様、「買う人」に向けたマーケティング活動で、POPの作成やトライアルセットの企画などが典型例です。同じお客様でも、商品を利用する「コンシューマー」の顔と、店頭で商品を選ぶ「ショッパー」の顔をあわせもっています。また、商材によってはコンシューマー(ドックフードなら犬)とショッパー(飼い主)がまったく異なる場合もあります。

3つ目が、カスタマーマーケティングで、仕事の内容は上記の通り、小売企業のバイヤーに対するマーケティング活動です。消費財メーカーにとって、商品を直接買ってくれるお客様(カスタマー)は小売や卸のバイヤーさんなので、このような呼称になっています。

いや、バイヤーが相手なら営業だろ、と思う方もいらっしゃると思います。それは販売企画だろ、という方もいらっしゃるでしょう。カスタマーマーケティング、ショッパーマーケティング、コンシューマーマーケティング、何でもいいですが、とにかくどこか一社で「マーケティング○○」「○○マーケティング」と呼ばれている機能を全てマーケティングと解釈すると、きっとかなりの数のマーケティング機能が、皆さんの会社にも存在することになります。

The Economist主催のThe Big Rethink USというイベントにおけるセッションで、Schneider Electric(シュナイダーエレクトリック)のCMO、クリス・ヒュンメルがこんな発言をしています。 

“There is a branding problem in marketing. What is the brand of marketing? What is the value that brings and what is that supposed to do? And I know as I talk to fellow CMOs all over the place, none of us have the same definition, none of us have the same organizational structure, none of us even have the same naming convention for the roles we have. ”

「マーケティングという言葉自体がブランディングの問題を抱えています。マーケティングのブランド、とは何でしょうか。組織にどう貢献するのでしょう。そもそも何をするはずのものなのでしょうか。だからいつもCMO仲間と話すとき、マーケティングについて、誰も共通の定義を持っておらず、共通の組織や、役割についての共通の命名ルールのようなものすらないことに気づくのです」

彼はこの状態を、マーケティングの「アイデンティティの危機」と呼んでいます。しかし、なぜこのようなことが起こるのでしょうか。「統合マーケティングコミュニケーション(IMC)」という言葉がありますが、統合販売企画とか、統合営業戦略とか、統合経理とか、統合コールセンターなどというものはありません。

それが会社の一機能なのであれば、部門長のもとサブとなる機能が自ずと全て統合されるので、わざわざ統合○○などという必要はありません。このことからも、マーケティングというものが、その他の会社機能とはかなり性質を異にするのがわかります。

そうなると頭をよぎるのは、マーケティングとはもはや「組織の一機能」ではないのではないか、という考えです。今日において、マーケティングの役割は、一言でいえば「あらゆるタッチポイントを通じて商品やブランドにまつわる体験をデザインすること」だと筆者は考えます。

それはもはや、例えばカイゼンのような「考え方」、大げさに言えば「思想」のようなもので、全ての部署に存在することができ、そして存在しなくてはならないものです。逆に「カイゼン事業部」のようなものが存在しないように、マーケティング部という特定のセクションも、その存在意義は果たしてあいまいにならざるをえないのです。

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広告は人類を幸福にするのか?

ドイツで受けたプレゼンテーションのトレーニングで、こんなスピーチのお題がありました。

“地球が滅亡する。有志の科学者集団が火星にプランテーションをつくり、そこには100人の地球人が50年過ごせるだけの食料が備蓄してある。50年の間に、その100人はそこで新しい持続可能な社会を築き、人類のバトンをつながなくてはならない。自分がその100人に選ばれるためのプレゼンテーションをしなさい”
 
ここで筆者は考え込んでしまいました。プレゼンテーションのテクニックに関してではありません。

ブランドマーケターとしての自分を、100人の1人として売り込む戦略を考えようとしたわけですが、そうして考えてみると、果たして広告宣伝、ブランドマーケティングという仕事は、人類にとって欠くべからざるものなのか?畢竟、人類を幸せにするものなのだろうか?自動車がないと困ってしまう人は多いと思いますが、自動車の宣伝がないと困ってしまう人というのは、いるのでしょうか。
 
広告宣伝がないと、困ってしまう企業は多いでしょう。あらゆるジャンルの商品が供給過多になり、コモディティ化するなかで、企業にとっての広告宣伝、ブランドマーケティングの必要性には、少なくとも現時点においては疑問の余地がありません。

しかし、人類にとっては?その答えはすなわち、地球滅亡という極端な事態を想定しなくても、遠い将来の、もしかしたら近い将来の、我々ブランドマーケターの仕事を占うものになるのかもしれません。

リアル・デジタル空間における口コミで企業や商品のブランドが形成される現代に、広告宣伝が担う役割に疑問を感じているマーケターは少なくないと思います。制限時間いっぱいまで思い悩んだすえ、筆者の作ったプレゼンストーリーは次のようなものでした。

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あらゆる「メディア」が終焉を迎える時、企業コミュニケーションの形が変わる

【コンテンツは「メディア」ではなく「カタリスト」に】

スターバックスで一番小さいドリンクのサイズは、ご存じの通りショートです。その次に大きなサイズがトールで、グランデと続きます。今やもう当たり前になってしまって何も感じませんが、これには最初少し違和感を覚えました。標準サイズがわからないのです。中庸を重んじる日本人としては、まず小さいサイズと大きいサイズがあって、その中間を「ミディアム」としてほしいところです。そうすると何となく、サイズが選びやすくはないでしょうか。

「メディア(media)」というのは、「ミディアム(medium)」の複数形です。ミディアムというのは、上記の用法のとおり中間を意味しますが、複数形があることからもわかるように、中間にある「もの」、間に入る「もの」、という具体的な意味も持ちます。メディアの本来の意味は、この「間に入るもの」です。中間にあって媒介するもの。広告の文脈で、何と何の「中間にある」ものなのか、といえば、企業と消費者です。何を媒介するのかというと、企業と消費者のコミュニケーションです。

大前提として、本稿におけるメディアとは、ヤフーや日経新聞など広告主が広告メッセージを配信する場所を示すだけではなく、上記のとおり「消費者と企業の中間にあって企業のメッセージを媒介するすべてのコンテンツ」を意味します。広義のメディアとも言えそうですが、実際そう考えないと、全てが広告メッセージである広告主のブランドサイトが、なぜオウンド「メディア」なのか理解できないはずです。

トラディショナルメディアが凋落し、デジタルメディアの時代がやってくる。ペイドメディアだけではもう消費者にリーチしきれず、オウンドメディア・アーンドメディアの重要性は高まるばかりだ。こうした議論のなかで、企業と消費者の間に入ってメッセージを媒介する「メディア」という発想自体の妥当性は、あまり議論されてきていないように思われます。

結論を急げば、トラディショナルであれデジタルであれ、ペイドであれオウンドであれ、そもそもメディアという発想自体が、近く賞味期限をむかえると筆者は考えています。その代わりに台頭してくるのが「カタリスト(触媒)」と名付ける概念です。企業と消費者の間に入ってメッセージの伝達を媒介するのがメディアなのであれば、カタリストは、1.消費者と消費者の間に入って、2.消費者同士のコミュニケーションを、3.促進するものです。

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広告宣伝は「雨乞い」のようなもの、ブランドは「自然発生」する

日本の漫画やアニメは海外でも人気ですが、「クール」だと思われているかというと疑問です。ビジネスで日本に駐在しているある外国人の友人は、「日本に住んでいる、というとよく勘違いされるけど、自分は漫画オタクではない」と眉をひそめます。一方で、国内ではその人気ぶりがあまりよく知られていませんが、海外で正真正銘にクールだと思われている日本ブランドがあります。「Wagyu(和牛)」です。

このWagyuブランド、国が戦略的に推進したクールジャパンとは対照的に、消費者や生産者、レストラン関係者の間に「自然発生」したともいえるその出自が、広告界にとってとても示唆に富んでいます。

3〜4年前くらいからでしょうか、外国のレストランでWagyuという単語をよく見かけるようになりました。これらの和牛の多くは、和牛といいながら実はオーストラリア産なのですが、海外でいうWagyuとは、神戸牛など純血の和牛「種」を意味します。

オーストラリアでは、それら純血種のほか、アンガス種などとの混血種も「準」和牛としてブリーディングされ、オーストラリア・ワギュー・アソシエーションという団体が品質と等級を管理しています。その名を冠すれば5ドルのバーガーが15ドルで売れるほどの価格プレミアムが付く、Wagyuブランドの盛り上がりに機敏にも目をつけたオーストラリアの食肉業者が、それをビジネスチャンスとして有効に活用したわけです。

こういったことがなぜ日本国内ではあまり知られていないかというと、「仕掛け人」的な人が誰もいないためです。日本の食肉関係者が仕掛けていたのであれば、産地ではなく「種」をもって和牛と呼ぶ、という我々には直感に反する発想をまずしないでしょうし、仮にしたとしても、国産牛のアドバンテージを奪うので積極的に推進はしないでしょう。

そして、実際海外で消費されるWagyuの多くをオーストラリアの食肉業者が生産しているのですから、経産省も農水省も大手を振って推進する由はないわけです。そうなると、このWagyuブランド、やはり消費者や生産者、レストラン関係者の間に「自然発生した」としか言いようがないのです。

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