『東のエデン(2009 Japan)』 神山健治監督  ニート(若者)と既得権益世代(大人)の二元論という既に意味のなくなった二項対立のテーマの設定が失敗だった

東のエデン TV版&劇場版2作品 コンプリート DVD-BOX (全11話+劇場版2作品, 540分) 神山健治 アニメ [DVD] [Import] [PAL, 再生環境をご確認ください]

アニメシリーズ
評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★星5つ)

劇場版
評価:★★☆星2つ半
(僕的主観:★★★3つ)

実は、神山監督の『東のエデン』を見ていなかったんだよね。そんで、全部見直してみた。テレビシリーズは2009年公開当時8割がた見ているはずなんだけれども、記憶に残ってないんだよね。当時見たときも凄いレベルの演出だったはずで、なぜ記憶に残っていないのか、不思議だったんですが、、、、、。一気にすべて見て、その理由がわかった気がします。記憶に残っていないのは、これって、すべて見て一本の映画として演出されているので、全部一気に見ないと謎ばかりで、理解できないんですよね。仕事が忙しかったか何かで見逃したままになったので、ちゃんと見れていないので記憶に残らなかったんですね。ましてや完結編の劇場版も見ていないので、さらに作品が「どういうものだったか?」の自分の中の決着がない。神山監督を評価するには、『攻殻機動隊S.A.C.』を見てから出ないとだめだ、と親友に強く言われているのですが、それも見れていないので、神山監督の評価文脈が自分の中でまだ設定できていないのも、評価が定めにくかった理由の一つでもあると思います。ようは、評価が、文句なしで最高にならないんですね、これほどの演出レベルなのに。なので、困っちゃっていたんだと思います。

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まず結論から言うと、テレビシリーズを一つのまとまりとすると、凄いレベルの傑作だと思います。★5つ文句なし。特に演出のレベルが群を抜いている。超一流ですねさすがの神山さん。しかし劇場版は、まったく面白くなかったし、エンターテイメントの敷居を少し超えてしまって、テレビ版で設定した「問い」に対して答えようとしているんだけれども、物語の次元で答えることができなくて、哲学問答のような形式で答える形になってしまっているので、これはエンターテイメントとは言い難いなということで★3を割り込む(=僕にとっては物語失格の線引き)★2つのラインでした。こういうのは、よくあることですね。しかし、分けて見れるかというと、できないんですよね。全体で一つのまとまった作品であり、特に謎解きのサスペンス形式、1)滝沢の記憶ががない、2)王になるというのはどういうことか?(滝沢の出生の秘密)の演出仕立てになっていて、それがすべてつながっているので、分割して劇場版だけがダメな作品でした、というわけにもいかない。なので、評価は微妙になってしまう。


また、哲学問答的に、物語の次元(=現実のレベル)で答えが出せないものを抽象的に答える場合は、それならば哲学書なり学問の専門書を読めばいいということになってしまい、物語の次元、アニメーションという媒体を使う意味がどれほどあったのか?という前提問題(媒体選びが正しかったのか?)を惹起してしまうので、やはりこれも、いまいちですね。この話は、逆に抽象的なレベルの問いを、見事に具体に落とした『図書館戦争』の有川浩さんの作品のところで語ったことがあるので、よくわからない人は読んでみてください。これほどの高い演出レベルを維持していながら、死ぬ気で僕が最終話あたりを見ようと2009年当時しなかったのも、劇場版を見に行こうとしてないのも、やはり全体的にいまいちだったからだ、といわざるを得ないでしょう。なので、絶対見るべきだ!!!とお勧めするというほどではないかもしれません。ちなみに、もしかしたら、この作品は、小説で読んだら、とびっきり面白い作品なのかもしれません。そんな気がします。


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前回『反逆のルルーシュ』のアニメの記事を書いたときに、枢木スザクが好きでたまらないという話をしたのですが、このキャラクターを好きという時に、なんというか、監督やアニメーションの演出家が付与したこの記号の意味だけではなく、それ以前に、CLAMPのキャラクターのデザインの力が大きいのではないか、というようなことをずっと思っていました。スザクの容姿に、僕は『ツバサ-RESERVoir CHRoNiCLE-』や『カードキャプターさくら』のシャオランくんのイメージをずっと強く重ねてきました。あの背景の記号の体積のイメージがなければ、あそこまで魅力的にならなかったんじゃないかな?という気がします。そういう意味で、キャラクターデザインに超一流の書き手を採用すると、キャラクターに不思議な魅力が重なるような気がします。というのは、この作品は、滝沢朗と森美咲というカップルが軸で物語が動くわけですが、そのほかのキャラクターの関係性も含めて、天才作家羽海野チカさんの世界観が内包されていて、それがこの作品の見事なまでの底上げになっていると思います。ましてや、神山監督が、激情版で見せた抽象的な次元へ話が落ち込んでいってしまうような(それとも、狙った?)性格がある場合には、そういう人は、逆にキャラクターの関係性や内面が全く描けない場合が多いので、それが見事なまでに補完して、というか逆に魅力になっている。ハチクロの森田忍が神山監督のイメージしていた滝沢朗像に似ていたらしく、羽海野さんに依頼したそうですね。これ、大成功ですね。そう考えると、アニメーションのオリジナルストーリーには、こうしたキャラクターの力が非常に必要なのかもしれませんね。ましてや12-24話しぐらいで、一つの物語を語り切ってしまおうとするには、そうでなくともショートカットが必要なこともあり、キャラクターの関係性のエピソード積み上げをかなり短縮できたうえに、それ以上の効果があるのは、凄い意味があることかもしれません。えっと、羽海野チカさん、、、、天才というか、素晴らしすぎる物語作家なので、『3月のライオン』『ハチミツとクローバー』とか、もし読まれていない人が、いるならば必須です!。現代日本に生まれて、これ読んでないなんてっ!!!というレベルの素晴らしい作品です。ぜひとも。

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さて、作品評価にもう少し踏み込みましょう。この作品全体の問いを、僕の切り口で(それだけですべてが説明できるほど軟な作品じゃないですが・・・)説明するならば、まぁ、やはり普通に考えて、滝沢朗とは何者か?という軸になるでしょう。謎解きのサスペンス形式、


1)滝沢の記憶ががない(テレビシリーズ)


2)王になるというのはどういうことか?/滝沢の出生の秘密(劇場版)


の演出仕立てという分解の仕方をしたのですが、この演出の意図している前提は、滝沢朗というヒーローが、現代日本社会(2009年当時)を救うにはどうすればいいのか?という設問です。


そして、テレビシリーズでは、滝沢朗が記憶をなくした理由は、自分が救おうとした人々にも、自分の味方だったと思っていた人にすべてに裏切られたからだとなっています。このへんは、まぁ僕はネタバレ基本なんですが、具体的には見てもらえればいいと思うのですが、この設問には、現代の民主主義をベースにした大衆社会においては、一人の英雄によって世界を救済することはできない、という前提&答えが設問の裏側にワンセットで張り付いています。


この部分を読み解こうとすると、僕とLD教授がずっと考えてきている脱英雄譚等いう英雄譚の類型のテーマを読んでいただくと、わかると思います。橙乃ままれさんの『まおゆう魔王勇者』の物語を語った時に浮かび上がってきたテーマですね。僕はこのテーマをここで見つけましたが、日本のサブカルチャーに限らず、アメリカのヒーローモノも、もちろん地域的な文脈の違いはありますが、非常に似た問題意識を持って発達しています。『バッドマン』などのアメリカンコミックの系譜やハリウッドのヒーローモノは、確実にこの英雄譚の解体とリビルドを志向しています。クリストファーノーラン監督のダークナイトは、まさにまさにのアメリカ版のこのテーマの追及です。これらがベトナム戦争の後の自国への不信や911以後の世界の文脈と結びつつところはとてもアメリカ的になります。この辺の世界のリアルの歴史とアメリカのナショナルなものへつながる感覚は、WW2で自国による主体的運営意識を失った日本が、世界を語る時にファンタジーに屈折してしまいやすいのと鮮やかな対比を見せます。

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とはいえ、個人的には、現代の日本人には、任天堂ファミリーコンピュターに源を発するゲーム文化のRPG『ドラゴンクエスト』のファンタジー系から、もしくはガンダムなどのロボットものの文脈から生まれ出てきた善悪二元論などのサブカルチャー文脈からだと、非常によく理解しやすいと思います。日本のサブカルチャーは、僕のブログでコツコツ書き溜めているので、このタグで読んでもらえればたくさんの例があります。アメリカの作品の文脈だと、鈴木透先生の『現代アメリカを観る―映画が描く超大国の鼓動 (丸善ライブラリー)』などがとてもよくに説明しています。ちなみに、ヒーローモノの文脈と善悪二元論の文脈は分かちがたく結びついているので、この話もぜひ読んでもらえると、この物語三昧の文脈がよく理解できると思います。


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http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110123/p2

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2014年の現在の時点では、いまだ日本の子供向けのアニメーションとハリウッド映画こそが、大衆社会、現代社会までのスコープにいれた巨大なテーマを内包し発展しつつあるエンターテイメント群ですので、それを同時に包括的に体験できる日本人は、なんと幸せな立場がなのだろう、としみじみ思います。アメリカ人が、日本の作品にリアルタイムで包括的に触れるのは、それなりに大変ですからね。逆は、かなり簡単ですが。英語がわかれば、なお広がります。ちなみに、これくらいのエンタメの発展が英雄譚の解体まで行くレベルには、僕の感じでは、やっぱり近代国家として確立され、資本主義(エンタメのマーケットが大衆社会を軸に広がるということ)が、最低でも150年以上はいるものなので、なかなか歴史の深みをもっては見れません。いやーそんなの、西ヨーロッパ、日本、北米しかないわけなので、まだまだここに生きる運の良さってあるよなーて思います。あとそうですね、、、30年ぐらい生きれば、東アジアはこれくらい成熟すると思います。。。そうなるまで戦争がないといいなぁー。。。


まぁ、日本が特に辺境の特異な言語なので、ここがネイティヴなのは、英語によるグローバルマーケットへのアクセシビリティが限定されるを差し引いても、なかなかに幸運だよな、といつも思います。こういうのこそが国力でありソフトパワーであり、そして、たぶん代替性が効かない価値の「何か」だろうと思います。2000年代まで来ると、岡倉天心じゃないけど、この代替の効かない「何か」が、日本にとってアニメとかマンガだよって言ったら、彼はどう思うでしょう(笑)。僕は、いまはアメリカで経営者をしていて、まあ裕福な生活を送っていると思いますが(アメリカ超大好きです!)、それでも日本がうらやましくてたまりませんし、日本を愛してやみません。海外に出てみたかったのはありますが、同時に日本を出たくなかったというのも、本音ですよ。そこに合理性はないし、金銭でも比較できません。愛のコアは、ナショナリティーは、心の原風景の代替性の無さにしかないので、辻村深月さんの小説『ハケンアニメ』のセリフではないですが、あれこそが、僕の魂の「帰るべきところ」なので(笑)。海外に生まれても、日本のアニメとかが好きすぎて、そう思ってしまう人は、めちゃくちゃいるはずです。それこそが、ほんとうに価値なんだと僕は思います。外にうまく輸出することではなく(輸出を志向する人は、たぶんこのことの価値がわかっていない人です)、どれだけ人々の魂を無条件、問答無用で引き付けることができるか、金銭などでは還元しきれない、なにか。


 王子の顔が、一瞬、完全な無表情になる。そして、――次の瞬間、彼が「ええ」とにっこり微笑みを浮かべ、香屋子は息を呑んだ。

「リア充どもが、現実に彼氏彼女とのデートとセックスに励んでる横で、俺は一生自分が童貞だったらどうしようって不安で夜も眠れない中、数々のアニメキャラでオナニーして青春過ごしてきたんだよ。だけど、ベルダンディーや草薙素子を知ってる俺の人生を不幸だなんて誰にも呼ばせない」


『ハケンアニメ』 辻村深月

ハケンアニメ!



メイド姉が目指したモノ〜世界を支える責任を選ばれた人だけに押しつける卑怯な虫にはなりたくない!(4)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100512/p1

英雄譚の類型の倫理的欠陥〜魔法騎士レイアイース(1993-96)に見る、全体主義への告発(3)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100511/p1

善悪二元論を超えるためには、歴史を語り、具体的な解決処方を示さないといけない (2)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100510/p1

魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 ママレードサンド(橙乃ままれ)著  
その先の物語〜次世代の物語類型のテンプレート (1)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100429/p4

まおゆう魔王勇者 1「この我のものとなれ、勇者よ」「断る!」

そもそも、エンターテイメントの次元で物語を物語ろうとする時には、読み手のレベルが抽象的なレベルでの理解を前提としないので、どうしてもスターや主人公、ヒーロー、ヒロインのようなキャラクターによってその世界の問題と解決をワンセットに体現している結集点が必要になります。でないと、読み手が理解できないので。まぁ、もっとぶっちゃけて簡単にいうと、エンタメって、英雄譚が多いんですよね。ヒーローが世界を救ってめでたしめでたしが、とても効率のいい物語類型。大衆社会に広く受け入れられて理解されやすいシンプルな類型です。・・・・けど、エンターテイメントの発達の歴史の過程で、アメリカでも日本でもそうですが、一人の人間が世界を救済するってのは、そもそも無理なんだというところまで見ている側とクリエイターの側での理解が進んできました。それが、上記の「英雄譚」から「脱英雄譚の英雄譚」までの発達の過程ですね。この話は話すと長いので、興味がある人は上記の記事を読んでくださいね。


さて、滝沢朗が何者か?という演出構成がされていますが、そこには、脱英雄譚の英雄譚の文脈が隠されていて(本当に素晴らしい作品は、時代性の文脈が見事に理解され描かれています)、


滝沢朗(=英雄)が、現代日本を救済するにはどうすればいいのか?


という問題意識とその前提でのある



現代社会は、一人のヒーローによって救済することはできない


がワンセットで描かれています。そしてこの「現代社会は、一人のヒーローによって救済することができない」の文脈の枝葉の一つに、大衆は、生贄として英雄を血祭りに上げたがりヒーロー殺しを常に望む傾向があるということが、数々の英雄たろうとした物語の類型でわかってきています。テレビシリーズの滝沢君の物語はまさにそれですよね。自分が救おうとした人々、救うことに共感してくれた仲間の両方によって裏切られ殺される。これが、現代におけるヒーローの在り方です。


かつて評論家の中島梓がその著書『文学の輪郭』や『ベストセラーの構造』で、この仕組みを、王に祭り上げてスキャンダルで暴いて王を殺す儀式というような言い方をしていました。もしくは、それでも英雄譚を望もうとするとCLAMPの大傑作『魔法騎士レイアース』や、谷口悟朗監督の『コードギアス反逆のルルーシュ』、永野護の『ファイブスター物語』城平京の『ヴァンパイア十字界』のような、一人の人間を徹底的に犠牲にすることで世界を守るという類型が生み出されてきました。ちなみに、レイアースが傑作なのは、この英雄譚の物語の「ヒーローを犠牲にして生贄に捧げている(=無自覚に他者の犠牲の上にのうのうと生きている我々)」ことを見事に、明示的に、誰にでもわかりやすい物語に仕立てたところにその凄さがあります。できれば、長いシリーズですが、アニメーションで見ると、、、、このことは凄いよくわかるのですが、、、ああ、でも、当時の文脈で、当時の時間帯で、まさかそんな裏があるとはつゆとも思わず見ていた時に、信じられない衝撃とショックをうけるのは、「その時、その場」にいないと、わからないかもしれません。文脈を理解するだけなら、漫画のほうがシンプルで、よくできてて、、、ってまぁCLAMPさんのクオリティですからね、それでいいと思います。

魔法騎士レイアース(1)

しかしながら、現代社会、大衆社会は、『涼宮ハルヒの憂鬱』の自分が一億分の一の無価値な存在だという恐怖という、見事な問題意識で語られるように、要はこの価値が限りなく薄くなる社会です。みんなが平等で、リベラリズム(=入れ替え可能性の容認)が隅々までいきわたろうとする野心的なわれわれ現代社会は、それが故に、個人の価値が全く「特別ではありえない」という苦しみに悶え悩みのたうち回ることになります。いいかえれば、それは、英雄がいない社会です。英雄が世界を救えるような、戦乱に満ちて、非効率で、人権もない時代に比べれば、このシステム分業によって統治システムが複雑化し多層レイヤーに分岐した我々の現代社会は、基本正し方向に向かってきたんだろうと思います。


かつて作家栗本薫が「グインサーガシリーズ」を描くときに最初の文章に、「英雄がまだ英雄であり得た時代」と書きました。彼女は、中世から近世への移行期をグインサーガの中原舞台設定に選び、それは、まだ英雄がかろうじて英雄でいられた時代だからこそ、ヒロイックファンタジーを書けるのだ、と喝破しました。言い換えれば、近世以降の社会では、ヒロイックファンタジーは成立しないといっていることになります。



しかしながら、我々は基本的に正しい方向へ発展してきたのですが、ステージが変われば問題意識も変わります。個人の価値がここまで希薄化して、個人が自分の生きる「特別な価値」を認識できなくなった(=物語とはいえ前提として人は平等なので)時代に置いては、王を殺すことが常態化してしまいます。なぜならば、僕らの社会の理想は、傑出した王によって世界が統治されることを望まないからです。


「この国には頭のいい連中がいっぱいいんのに、アイディアを実現させるための損な役回りやる奴がいない」


滝沢君がそういうセリフを吐く意味は、現代日本に生きる人ならば、誰もが感じるでしょう。王というと大袈裟になりすぎますが、ようは、リーダーになろう、自分がまずパスファインダーになって道を切り開こう、そう思う人が社会から消え去ってしまったが故に、政治的には愚民社会化するし、経済的にはイノヴェイターが生まれない社会になっているからです。ちきりんさんが、いつも言っている話ですね(苦笑)。このテーマは、ビジネスマンとして僕が、書く問題意識の記事にはよく出てくる話ですね。ちなみに、これを見事に熱かったわかりやすい本では、マッキンゼーの元採用マネージャーだった伊賀泰代さんという方の下記の本が素晴らしくよいので、ぜひとも。基本、アニメだろうが、現実だろうが、素晴らしいものは、見ているものは、とても似ていることがいつも思います。

採用基準

ついでに上げておくと、たぶん記事を書く余裕がないので書かないと思うんだけど、えがった!!!と思うのに、『独裁力 ビジネスパーソンのための権力学入門』というのがあって、この本はよかったです。いろいろ気づきがあったことも(日本のWW2の戦争指導者とナチスの戦争指導の比較に対する感想とか、マジで、なるほど!!!と物凄い唸ったんだよ)、それ以上に、日本社会は、知識人系というか、少しマクロ的に社会を鳥瞰図で見ようとする時には、強く左翼的な、リベラリズム的なバイアスとイデオロギーがかかりすぎていて、、、、それだけならまだしも、日本人は基本的に、自分の信じたイデオロギーがムラ(所属しているところ)の幻想となって、現実を無視して、あまつさえ捏造する傾向が強いのは、もう歴史的な、みんなが知っている性癖なんですが、、、それが故に、権力に関して、学問的にも、実際的にも忌避する傾向があるので、そこがスポット抜けているという指摘は、上記の伊賀泰代さんのリーダーシップに関する考察に負けないくらい、おおっと思うものでした。

独裁力 ビジネスパーソンのための権力学入門 (ディスカヴァー・レボリューションズ)

ちなみに、このへんの王殺しの文脈は、日本とアメリカでは全く異なる出方をします。文脈は同じでも、アメリカのように、決断主義的な・・・・ものが決められなくて悩み続けるのに飽きて、そこを抜けて決断が重要となっても、日本であればファンタジーの世界に屈折しているし、なかなかストレートに現実に反映してくるのが一拍ワンクッションがあるのですが、アメリカは暴走しやすいので、そのへんは全然違いますよね。けれども、それがただ能天気な、世界は俺の手で救えるぜなんていうご都合主義ばかりをみんなが信じているわけではありません。アメリカにも、そこの懐疑を深く悩み続ける世界最先進の現代国家ですから。



おお、、、また無駄に話が飛んでいるんですが、滝沢君のテレビシリーズの物語は、この王殺しの話でしたね。「みんな」を救おうとしてヒーローたろうとして、「みんな」に裏切られる。これが現代国家の、民主主義が根付いた国におけるもっとも最先端のテーマ類型です。



それはわかる。神山健二さんのテーマを僕は、まだ追い切れていないのですが、このヒーローものの類型に関して深く追及している文脈意識があることは痛いほどわかります。そして、この先の『009 RE:CYBORG』、そして過去の『攻殻機動隊S.A.C.』(僕はまだ見れていないのですが、、、内容は大体わかっています)を考えれば、それが、独自に切り込まれている深みがあることも。


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しかし、、、、ぼくは『東のエデン』は、失敗だったと思います。



それは、この作品が、この問題意識の具体的なポイントとして、ニート(若者)と既得権益世代(大人)の二元論という既に意味のなくなった二項対立を選んだからです。現在2014年のペトロニウスがこれを見ていて、2009年のこの争点のポイントを見ると、まったく共感できないうえに、あまりに普遍性を失っていると感じます。なので、ニートニートと叫ばれると、、、非常に、なんというか、どうでもいい気持ちになってしまいます。2014年には、もう全く僕にはリアリティが感じられない。


2009年見たときに、この争点の深刻な雰囲気や空気は僕もよく覚えているので、同時代性では、これは素晴らしく輝くテーマではありました。が、あまりに普遍性を持ちえなかっただけではなく、、、、いまニートの意味文脈が変わった(と僕は思っている)時点でこれを見返すと、ああ、この作品は、ニートの意味を独自に深めてちゃんと独自の解釈を持って書いているのではなく、同時代性の記号として使っているのが痛いほどわかります。「それが、ニート精神じゃろうが?」みたいなセリフが随所に出てきますが、何がニートかの定義が全くないのです。なので、平澤一臣君が起業して会社の社長になって権力の側にまわった時(=劇場版)に、すぐにも、まったくおかしなちぐはぐを感じさせてしまいます。ニートが、既得権益側が権力を握っているという前提でのプロテスト(抵抗)になってるので、権力の側に自分が回ったり、既得権益側が譲歩した瞬間に分断統治で簡単に壊せるような弱いものだからです。なので、この作品は、とても普遍性がない作品に、堕してしまっています。同時代性のものを使うと、陳腐化が激しいといわれますが、その典型例だと思います。演出力があまりに超一流であるだけに、また主軸のテーマ自体は、普遍性につながる素晴らしいもので、かつ神山さん自体も凄い個性の持ち主であるだけに、少し残念な感じがします。これは、当時の空気を覚えている人が意味ないと、かなり、もう物語として共感を得る力を失っていると僕は思います。


えっと、ニートの意味文脈が変わってしまったという話は、延々と、このブログで話し続けているので、これから簡易な説明を行いますが、興味がある人は、過去の記事を読んでいただければ、、、この日記・口語形式の垂れ流しブログは、ずっと読んでいるとペトロニウスの思考の履歴がよくわかる、ほんとたれ流しなので、一つの記事で深く説明するのは、しんどいので。


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ニート(若者)と既得権益世代(大人)の二元論という二項対立が意味を失ったと思う大きな理由は、2つ。


一つは、先進国の貧困が何によってもたらされているかといえば、グローバルレベルでの全世界の接続のせいで最低労働賃金が平均値に収斂しているからです。先進国の貧困層が手厚い福祉を受けられなくなり、過酷な競争に巻き込まれ先進国の人並みな生活がおくれなくなるのは、その代わりに、これまで踏みつけられ収奪されて沈むだけだったその他の途上国が成長しているからです。いいかえれば、先進国以外の国では平均賃金は上がるわけなので、弱者をいじめるな!という左翼の倫理的根拠が、ここで失われるのが、我々はもうわかってしまったからです。これは、大きい、と僕は思っています。もちろん、多くの具体的な問題点や構造の隠れたポイントなど、いろいろ問題は残るでしょう。言ったらキリはありません。


けれども、少なくとも先進国における、弱者を守れという言葉の、無条件な普遍性は失われてしまったからです。先進近代国家におけるもう弱者が王であったあの時代は戻ってこないのです。だって、もっともっと弱いものが救われている現状は、グローバリズムは正しいのです。弱者を軸にするならば、倫理的根拠は、グローバリズムに傾きます。グローバリズムによる貧困が経済学者や様々な人に声高に叫ばれるのは、先進国中産階級が貧困層に落ちることへ警鐘です。先進国の分厚い中産階級が没落すれば、政治が不安定化して民主主義が失われ、世界に戦争や混乱の危険が増すといっているのです。いいかえれば、先進国の中産階級を守れ!(=遅れてきたほかの新興国や途上国は無視しろ)といっているに等しいです。いろいろな本を読みましたし、話しましたが、それ以外の話を聞いたことが僕はありません。経済学者の保護主義の話は、究極それ以外ではありえないでしょう?。世界中の生きるのも難しかった層に、近代的な生活を営むチャンスをもたらしていることを押さえてまで、何らかの倫理的正統性があるならば、むしろ、あるなら教えてほしいくらいです。まぁ、このままグローバリズムが進んで、ほんとうに人類がよくなるか?ってのは、もちろんわかりませんがねー(苦笑)。未来はわからないですし、アナーキーなものは絶対にバランスを取らないので、行きつくとこまではいきそうですけどね(苦笑)。まぁ、その結果が次の時代の扉を開くのは、人類の歴史そのものです。

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道 グローバリズムが世界を滅ぼす (文春新書) 楽観主義者の未来予測(上): テクノロジーの爆発的進化が世界を豊かにする 世界がもし100億人になったなら



『きっと、うまくいく(3 idiots 2009 India)』 Rajkumar Hirani監督 高度成長を超えつつある新興国インドの現在
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130521/p1

『「当事者」の時代』 佐々木俊尚著  極端ではなく極をつなぐ中間領域を代表するリベラルの再構築を
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140419/p1


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もう一つは、若者世代が、既得権益(=勝ち逃げしている老人世代)に搾取されているという感覚と事実です。これは、たしかに、いまだ事実です。僕のこのブログで益体ものなくつぶやき続けてきた、ずっといろいろな問題点に対する大きな答えの一つは、日本社会が、高度成長期のアンシャンレジーム(古い仕組み)に適応したまま、新しい時代に適応できていないことが、ポイントだということでした。そして、日本のガンは、団塊の世代の既得権益が、若者世代の未来を食いものにしているからだ、という視点は、まぁ、ほぼ事実だと僕も思います(笑)。けれどもね、この事実は、既に白日ものとに照らされて、ほとんどの人が共有するコモンセンスになりつつあります。それくらいに日本経済は、失われた20年で酷くなってしまったし、なによりも、団塊の世代が既得権益の権力の座から、少なくとも企業レベルでは、どんどん降りてきているからです。


けれども、 亜東才蔵とのやり取りで、戦後の焼け野原になった時に、彼らも「未来なんかわからないでがむしゃらにやってきただけだ」、、、と語らせたときに、もうこのやり取りで、結局、団塊の世代を引き摺り下ろしたからといって、未来がいきなりよくなるわけではないのは、当然なのがわかるんだよね。そんな復讐が何かを生み出すとも思えないし。彼らはいつかはいなくなるし、既にもう今の時点でかなり権力の座から降りつつあり、時代が変わってきているのを感じます。また、亜東がここで話しているのは、確かに現代のアンシャンレジームの問題は、既得権益世代が作りだしたことも事実ですが、同時にいまの世代が生きていくための、先進国としてかなり前に進んでいる現代日本は彼らが血と汗で作り上げてきたことも事実なのです。悪さの原因であっても、良さも彼らが原因です。大日本帝国が滅びたからといって、明治維新をやった日本尾ご先祖様たちの功績が消えるわけではないじゃないですか。良さも悪さも大体裏表ですから。なので、話し合いの席についた時点で、この二項対立は意味をなくしてしまいます。話し合いで、じゃあ、どうするの?って話になって、そんで、上のグローバリズムによる先進国の中産階級没落が構造的要因であるのならば、どうにもならん!、、、いいかえれば、少なくとも既得権益を殺して破壊しても意味はない、という話になるだけです。


それだけではなく、前に日本社会がストックできる、まったく構造として異なる国になっているという話を書きましたが、


ストックで生きていく世界とはどんなところなのだろうか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140425/p1

ストックで生きていく世界とはどんなところなのだろうか?2〜ストックはどこから来たの?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140429/p1

『ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体』 原田曜平著 世界はメガリージョン(=広域大都市圏)と地方・郊外の二極化が起きるのか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140316/p1

『里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く』 藻谷浩介著  これからの人生をどう生きるかの指針に
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130814/p1


イギリス 繁栄のあとさき (講談社学術文庫)


この世界で、、、この来るべき没落衰退傾向のある日本社会が、どうなっていくか?というとストックのあがりで食べる旧大英帝国のような斜陽の社会になると思われます。たぶん、これは構造的に不可避。いろいろなシナリオはあるでしょうが、少なくとも過去に戻る=高度成長期が再到来するということは、いくらなんでもありえません。なので、その社会では、若者世代には、常に職はありません。ストックの社会は、成長と輝く未来がな社会なのです。全世界的に見て、高度成長期の国を除けば、先進国は、どこも若年層の失業問題が深刻になっているのは、構造的問題で変えようがありませんし、解決方法もいまのところありません。新しいビジネスをイノヴェーションで生み出さない限り、ディマンド(需要)が増えないのが、先進国共通の問題なのです。


『企業が「帝国化」する アップル、マクドナルド、エクソン〜新しい統治者たちの素顔』 松井博著 これからの時代に必要なものとは?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130503/p3


世界の最先端にいる先進国では、そう簡単には需要は生まれません。また、若者世代に「限らず」すべての世代で、高度成長期のようなキラキラとして成長なんかありえません。生活のスタイル自体が、デジタル中世的な、ニートとまではいかなくとも、かなり緩やかなものになるでしょう。たぶん、高度成長期の生活に比較したら、貧しいとでも言ってしまえるような、、、。そういうライフスタイルに、全世代が緩やかにシフトしていく中で、ごく一部の先鋭的な層だけ特筆して救う必要性は全くありません。でしょ?。その層だけが取り残されるなら、まだいうのもわかりますが、全体的に似た方向へ構造的にシフトしていくのならば、この問題意識は無駄な設定です。みんなが貧しくなる時、一部のことだけを語ることは、ないと思うのです。



ということで、ニート問題は、僕は争点にはならないし、既に日本において社会規模の争点としての意味も失っていると思います。若年層の失業問題&魂の救済(=個の価値がリベラリズムや平等、人権の貫徹故になくなってしまうこと)は、先進国のストック化した社会における、全世界、全人類共通の課題です。この層が、右翼的傾向を強め、移民反対などの差別に傾倒して、ナショナリズムを煽り、さらには、脱社会的な存在になり、劇場型の動機なき自分の空虚さから世界を滅ぼそうとする無差別テロリズムに走るのは、日本、西ヨーロッパ、アメリカの例を見れば、まったく共通していることがわかると思います。これは、もう構造的なテーマであって、個別の処方箋程度で急に解決できるレベルの問題ではありません。歴史とマクロ規模で、どうにか変化していくというレベルの話です。


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というところで、2009年の空気(=あの時は、上記のようなグローバリズムの中身がわかっていなかったし、日本がもう高度成長は構造的に不可能なんだというほどのあきらめはなかった)を前提に、ニートニートと叫ばれて、既得権益=大人世代だけが勝ち逃げしているという鬱屈を話されても、、、既に、僕にはしらーっとしてしまいました。いや、そんな話終わったんだけど、、、って。



けど、これは、劇場版で走っている時にもうわかっていたことなんじゃないかなって思うんですよね、、、、というのは、結局のところ、この設定した問題意識に対する答えを、劇場版いおいては、全然具体的に出せていません。テレビシリーズのところでは、脱英雄の英雄譚、王殺しの物語できゅとっとシめているので、とてもいい完成度を誇っています。けど、この問題意識に対する、もう一歩踏み込んだ謎解きと答えを出さなければいけない時点で、設問自体が間違えだったということがわかってしまったのではないかと思います。なので、抽象的に、問題意識を繰り返すだけになっており、具体的にどうするかについて迷走しているように僕は思います。「この国の王になる」という部分で、滝沢君が、前首相の子供なのかどうか?ということが謎解きの大きなポイントになるんですが、そんなこと、どうでもいいことじゃないですか?(苦笑)。だって、彼に総理大臣になっても、この国はかわりゃしませんよ。226のクーデターなどの、軍事力による戦争や革命ですら変わらなかったんだから。なので、そんなことで、物語が展開するのは、そもそもナンセンスなんです。問題設定からすればね。王になるという言葉というか設問自体は、すばらしかったのですが、それの中身がないままにはしってしまった。まおゆうの分析でも書きましたが、この手の問題意識は、歴史的にその時代がどのような構造転換を遂げたのかの分析が終わっていないと、同時代性のテーマでは、抽象的な掛け声だけで終わってしまうんです。ガンダムSEEDの分析をしている時に、なぜ世界が三軸にまで分裂して、緩やかに地球連邦政府の形成が始まっているのに、三軸の次が見いだせなくて、このままじゃいけない(=二元論で殺しあうのは未来がない)という事実だけど、それを繰り返し声高に主張するだけで、次へ物語が進まない様にがっかりしたと書きましたが、、、これって、現代の話にすると、次がどうなるのかがわからないんですね。歴史の変化は、イノヴェーションであったり、時間が過ぎ去る(=その時代を生きている人が死に絶え、次世代に移る)ようは、構造的な変化によって解決というか、それまでの問題が問題足りえなくなるようなことが起きるので、物語では表現できないんですよ。いやできなくはないけれども、少なくとも「その主人公」のみの世代で解決することはかなわないんですよ。これは、ガンダム00のときにスメラギさんらを、我慢が効かない子供(by LD教授)と怒ったのと同じ話ですね。


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ただし100億円をセレソンに与えて、この国を救えというゲーム形式にして、ゲームクリアできなければ死ぬという「設定」は、まさに2000年代的な物語の面白さやアイディアを凝縮したもので、超がいくつもつくぐらいの一流の作品でした。また迂闊な月曜日などのネーミングもさるところながら、日本の閉塞感を、ミサイル攻撃で吹き飛ばそうというアイディア、そいしてそれによって廃墟になった東京の一部とはいえ風景と、豊かな日本が共存する風景など、テレビシリーズは、超一級のエンターテイメントでした。そこは、見る価値が、、、あまりに演出レベルが高いので、僕は凄いあると思います。まっ、劇場版、いらないかな(苦笑)。


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『GATCHAMAN CROWDS』 中村健治監督 ヒーローものはどこへ行くのか? みんながヒーローになったその先は?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131015/p1

海燕の『ゆるオタ流☆成熟社会の遊び方』
西暦2013年の最前線。『ガッチャマンクラウズ』がテン年代のコンテクストを刷新する。
http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar322009


ちなみに、今の時点で、僕が見ているのものの中で、ヒーロー文脈の最先端にあるのは、2013年中村健治監督の『GATCHAMAN CROWDS』です。はじめちゃんエンド(たしか劇場版)は見ていないので、内輪の友人が、最高だ!と叫んでいるのを見て、みなきゃなーって、、、ずっと考えています。まぁ、近いうちにてれびんにお願いしてみるつもり。


えっと、脱英雄譚の英雄譚や王殺しのテーマは、これまででは「ヒーロが世界を救う」の裏側に「現代では一人の人間が世界を救うことはできない」という構造に気づくという物語が多い。その「気づき」を絶望ととらえ、滝沢朗くんのように記憶を失うとか死ぬとかそういったエンドで描かれることが多い。一つには、それくらいヒーロー、、、正義の味方になろうとする人の気合というか内的ポテンシャルが高すぎて、それでもできないこと、周りすべてに構造的に裏切られることで、絶望していくというドラマトゥルギーが描きやすいからです。もう一つの大きな理由としては、現代社会の問題点を解決しようとしても、もちろんのこと、現代の現実ですらわからない。解決方法がわからないから物語として演出しにくい。さらにいえば、脱英雄譚という英雄譚という表現にも表れているが、そもそもエンターテイメントの領域では、ヒーローを主人公に物語を動かすことが前提条件的にあるので(出ないとまず売れないし、理解されない)、そこからスタートすると、どうしても終わりが、ヒーローになれないこと(=絶望)で終わってしまいやすいのだ。いまのところ、かなりの出来の作品は、ほとんどがここまでで止まっています。この先は、まだ現実が見えていないからですね。


なので、なかなかエンタメのましてやアニメなどの尺の短さの中では、これを超えてヒーロー文脈を前に進めている作品はまれです。挑戦するのも、相当の気合が要ります。答えがないものを描かなければならないので。ましてや、それなりに面白いとなると、ものすごく難しい。マクロを描く思考のある人はたくさんいるので、経済とか、いろいろなものを描こうとするのですが、それらはかなりの確率で全然面白くない。やはり、ヒーロー文脈は、とても面白い類型であって、「ここ」からブレイクスルーしないと、だめなんだろうと思う。そのなかで、『GATCHAMAN CROWDS』は、なかなかいいところまで到達している。


現代に置いて、ヒーローがヒーロたれない部分をよくわかって最初からそこに踏み込んで、『そのこと』を詳細に描き、逆手に取ろうとして描く。その次を描こうとしているのです。ネットで善意を拾おう!それを収集するアーキテクチャーを作ればいい!とか、すべてを情報公開して(=自分がヒーロであることも公開してしまう)などは、要はデジタルネットワークの力で直接民主制に近い、全員参加型の意思決定を模索している話なわけです。しかしながら、全員参加は、すぐ衆愚に堕する大衆社会ななので、それをどうより分けるかで、評価社会を模索するなど、、、現在の人類の血の最先端お思考錯誤を物語に乗せていて、それでいてはじめちゃんというキャラが立っているのか、エンタメのギリギリのラインを僕は維持している内容に感じます。


ちなみに、『東のエデン』も、エデンネットワークの画像検索エンジン、フリーの電話で国民すべてに呼びかけること、お金を送金(それも1円で)言い換えれば善意を送金すること、など、ほとんど同じ潜在的なアイテム、エピソードを持っているので、監督は気づいているのか、、、、、いやわかっているんでしょう。でも2009年の時点では、これをまとめきれなかったんだと思います。けれども、王殺しの、、、ヒーローの絶望という物語にしてしまったが故に、それに引きづられて、「その先」を描くことができなかったんだと思います。とはいえ、このへんに、「答え」がありそうだ、とみんな気付いているのですね。あとは、学問の世界では、ネットにおける共産主義的な性質は、どっちかというと、あっ政治学ですね、、、難しいかなという感じのトレンドですが、直接民主制や全体と個のSFテーマなど、飛躍ができる物語としては、こなたりは金鉱のような感じがしています。


そろそろ、、、2015年ぐらいには、「この先」を描く作品が出てきてもいい頃かもしれません。楽しみです。


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