みつめる

観たもの、考えたこと、あれこれ

2025年はじまった

2024年の総括をあんまりしないまま2025年に突入した。年末年始は珍しく忙しくしていた。忘年会してお芝居観に行って、友だちの行きつけのお店の忘年会になぜか顔を出し、確保していた1日で家の大掃除をやり、リキッドルームの年越しに行って初詣をして、新年早々映画を観に行った。伊勢丹で散財したりお笑いを観に行ったりもした。年越し前につくったご飯をあっためて食べるだけの日もあったけど結構いろんなところを動き回っていた2週間だった。

2024年は仕事が大変だった。けど、プライベートに目を向けるとわりといろんなことをやった年でもあった。旅行というものを7回くらいして、引っ越しを2回した。文フリに本を出してみたり、細々と受け続けていたTOPIKでようやく6級を取ったりもした(これで履歴書だけ見ると四言語べらべらっぽく見える謎の人間になった)。大変だったぶん本もそこそこたくさん読み、2月頃からちゃんとしようと思った毎日の日記的なものもそこそこ続いた。精神的には大変だったけど改めて自分自身と向き合ってみる1年でもあった気がする。

マユリカと紅しょうがとこたけ正義感のラジオをよく聴いた。聴くものがなくなったときにはマヂラブを聴いてた。マヂラブってなんであんなにちょうど良いんだろう。

そういえば普段あまり見ないM-1を去年は最初から最後まで見た。なんなら敗者復活戦から見てた。銃殺から入るトム・ブラウンのネタが好きな意味の分からなさでいちばん好きだった。ハネにハネたバッテリィズもよかった。年末年始で十九人とバッテリィズとネコニスズの動画をたくさん見ている。バッテリィズはM-1で1本目のネタをやった直後にチケット取って年始にライブを見てきたりもした。エバースとやってるツーマンライブにも行ってみたい。

バッテリィズのエースを心の中に存在させてると色んなことどうでもよくなって気が楽になりそう。2024年大変すぎたせいですぐ自己否定に走りがちになっているので、イマジナリーエースになんでもかんでもすごいやんと言ってもらいたい。ちょっと思考回路が気持ち悪いな。十九人のゆッちゃんwとトム・ブラウンのみちおも心にいてほしい。いやこのふたりは心の中にいるとヤバいか。

2025年はやりたいことをやれるようにしたい。今はまだあんまり高い目標を設定するとダメそうだから心身の回復をゆっくり待ちつつ、自分にとってちょうど良いペースでいろんなことがやれたらいいなと思う。

おわり

20241224 桜の園@世田谷パブリックシアター

滑り込み桜の園。有言実行。こういうときの行動力だけやたらある。直前にチケット譲ってもらって会社をちょっと早めに上がって観てきた。

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「桜の園」自体は去年のパルコ劇場でやってたのを観ていたのであらすじは知っていた。パルコのは海外の人(ショーン・ホームズ)が演出していたのもあってか、そもそもあらすじがそんなに劇的なものではないからか、当時はちょっと眠いなーと思いながら見ていた。が、最後にロパーヒン(八嶋智人)がばーっとまくしたてるところで、それまでの道化のようだった雰囲気が徐々に変わっていって、ぜんぶ観終わったときにはどこか爽快な気分になっていた。

今日観たシスカンパニーのはラネーフスカヤ(天海祐希)が美しすぎたのと、ロパーヒン(荒川良々)が最初から真面目そうすぎたとので、愉快というよりはしんみりした感情になった。芝居のなかに笑える部分がちりばめられてはいて、それらが浮かずに全体になじんではいるものの、パルコで観たのよりは悲劇っぽく見えた。観てる側のメンタリティの問題とかもあるのかな。

でも新しい世界のはじまり感は今回の方があった気もする。パルコのはロパーヒンに焦点が当たってる感じで、今回感じたトロフィーモフとアーニャのふたりがまき散らす理想に燃えたぎるような雰囲気があんまりなかったような。

なんだかんだで今回はじめて舞台で芝居をしてる天海祐希を見たけどとにかく美しかった。お芝居がうまいのかは分からなかった、というか「天海祐希」が強すぎてそれに圧倒された。衣装も4回くらいチェンジがあってそのたびにときめいてた。最後のファーがたくさんついたマントを羽織った姿の優美なこと。

屋敷のいちばん古株の召使であるフィールスを演じていた浅野和之さんは演技がとにかくすごかった。

所有する土地が競売にかけられて住む場所を失ってしまうかもしれない状況なのに、それらを無視して享楽的な生活に興じ、ロパーヒンに桜の園が自分たちにとってどれほど情緒的な点で重要なのかを説くラネーフスカヤたち。本に書いてあることが理解できず、しゃれのきいた言葉遊びもできず、ラネーフスカヤらからは下に見られているが、現実的に堅実に生きるために金を稼ぎ成り上がったロパーヒン。今回の「桜の園」という作品のなかだとロパーヒンが正しいように見えるけれど、現代で考えてみるとロパーヒンは現実的な視点を持ち、経済合理性を優先し、仕事を自分のアイデンティティと読み替える労働者にも見えて(ここまで書いて思ったけど勝手にホワイトカラーにしてる)、それはどちらかというと私があまり理想とはしない姿で、意外とふらふらしてるラネーフスカヤたちのほうが理想って意味では近かったりするんだなと思って変な気分になった。

今年さいごのお芝居は週末のハイバイ。最後まで健康なまま2024年を終えるぞ。

おわり

20241221 ケレン・ヘラー@シアタートラム

数えてみたら今年5本目のお芝居だった。今年はあんまりたくさんお芝居を観に行かなかったな。

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女性お笑いコンビ、“ポジティboo”のアフロ子とケイトは、ヘレン・ケラーを題材にした不謹慎なコントが原因で活動休止に追い込まれ、価値観の違いから解散に!
ひとりぼっちになったアフロ子の前に、突如、神様さんという謎の人物が現れる。
神様さんの助言により、アフロ子はお喋りロボットのサリバンちゃんを購入して相方にすると、新生“ポジティboo”として一発逆転を試みる!
神様さんの助言に従うほど注目されていくアフロ子だったが、あるとき、自分の目と耳に不調が起きていることに気づき……

2018年に書いたものだそうだが、大島育宙さんがM-1ファイナリストのジェンダーバランスについて投稿したらなぜか燃やされたという出来事があったばかりだったし、松本人志のごたごたがあったのも(性暴力の件もだけどファン?的な人たちがサムいのも)今年だったので、漠然と今っぽいなと思った。

ただ、これが女性コンビである必要があったのかはあんまり分からなかった。現実を踏襲する必要は全くないし、大事なのは芸人の性別がどちらなのかにあるのではないのかもしれないけど、性別はお笑い芸人を表現するときに無視できなさすぎる要素に思えてしまい、そこで無駄にもやっとしてしまった。今年ハイツ友の会が解散したのが悲しすぎてそれが尾を引いているのもある。関係ないにもほどがあるか。ハイツ友の会が解散したのほんとに悲しい。

「神様さん」というキャラクターは、アフロ子(歩子)がつけていた香水が実はドラッグで、そのドラッグが見せていた幻覚だったというオチ?があったのだが、それを知るまでは統合失調症とかその類だと思っていた。途中から神様さんだけじゃなくてエロ子とか、アフロ子(歩子)の別人格みたいなのが出てきたから最終的に多重人格みたいになってお話自体がぐちゃぐちゃになるのかなーと思ってたけどそうはならなかった。

不条理なお話は好きなはずなのにいまいちハマらなかったのはどうしてだろう。テンポが良いというか展開が次々あり、ちょこちょこ細かいネタが挟まれるので楽しく見ることはできるんだけど、めちゃくちゃ後味が悪くて忘れられないって感じでもなく、後味爽快って感じでもなく、なんともいえない感じ。

アフロ子がSNSのアカウント作ってからやる「面白いこと」が全部現実文脈依存っぽい?のも興味深かった。過激Youtuber的な。ヘレン・ケラーのネタだけが現実に依存してなかった?のか?それがなんだって話はある。あとケイトに言い寄る桂というコミュニケーションに難ありっぽい男性の役がモグライダーのともしげをベースに宮下草薙の草薙を合体させたみたいなキャラクターでちょっとおもしろかった。

三茶の駅構内にある掲示板でそういえば桜の園やってたんじゃん、と思い出して今さらチケットを入手できないものかと慌てている。遅いよー。

おわり

12月9日

通ってる眼科でコンタクトをもらってきた。ここの眼科は帰るときに「おだいじに」ではなく「さようなら」と言ってくれるのが好き。受付の人も、看護師さん的な人もあんまり変わらない。先生も説明が分かりやすくて居心地が良い。

小さい男の子が診察を怖がっていて、それをお母さんがたしなめていた。「ご挨拶するだけだからねー」というお母さんの言葉で男の子が落ち着きを取り戻して、「ほら、ご挨拶するよ」と促されるままに診察室に入っていった。「ご挨拶」という単語で落ち着いたのが不思議でかわいかった。

夏みたいな秋から冬に移り変わったあたりからまたまたメンタルの調子が芳しくない。今日も良いか悪いかで言うと悪い方だった。ちょっと早めに仕事を切り上げて、andymori聴きながら虎ノ門の交差点で信号待ちしてたら東京タワーが夕焼けに浮かんでてなんだかしんみりした気持ちになった。andymori聴いてるからな気もするけど。

あとなんかあったかな。五感をはたらかせることが大事、と言われた。おいしいものをちゃんと味わって食べるとか。なるほど、と思いながら、そういう意味で音楽がずっとそばにいるのはありがたかったなーと思ったりした。

V系を漁る流れで最近はPIERROTをたくさん聴いてる。どういうコンセプトなのか分からないけどギターがカッコよくてこの白いアルバムばかり聴いちゃってる。来年やるらしいライブもうっかり申し込んでみた。行けるといいなー。


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おわり

今さらヴィジュアル系を漁る

こないだ友だちに教えてもらった色々な十字架というバンド。歌詞の意味がわからないのに曲がやたらとカッコいい。勢いと好奇心でライブに行ってみたらさらに良くて久しぶりに「ハマる」をやってる。


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中学くらいのときにラルクがえらい流行ってて、ニコニコ動画だかYoutubeで音源聴いてみたことはあったものの、歌い方に苦手意識をおぼえて以来、V系的なもの全体からなんとなく距離を置いてきた。が、色々な十字架以外にも色々漁って聴いてみると、歌い方への苦手意識はまだありつつも、中学のときよりはいろんな音楽を聴くようになったのもあってか、曲が全然カッコいいじゃないのよ!という感想を抱く場合がほとんどで、昔は嫌いだった食べ物が食べられるようになる現象ってこういうカテゴリにも適応されるのかという驚き。漁ってみるとなんだかんだでバンド名だけは聞いたことがあったな、という人たちも多くてそれもなんだか意外。

髭ちゃん(バンド)好きだったときにルーツが知りたくて英米のロック史をたどりつつインタビュー集めてインスパイア元らしきバンドをメモしながら片っ端から聴いてたけどそれの再来って感じで楽しい。新しいことを知って未知の領域だった場所の解像度が徐々にあがっていくは楽しい。

友だちにはテミンからV系に行くのは逆流、とツッコまれたけどそれも確かにそうかもしれない。テミンが今回のコンサートで演出している世界観って確かにとってもV系っぽさがある。そもそもV系とは、あたりがまだよく分かってなくて入門書的に解説本を読んでるとこだけど、音楽的な共通要素があってまとめられているわけではないらしいことは学んだ。勉強がてら最近のV系バンドにインタビューしてる音楽雑誌を買ったらヒップホップやってるとこもあるようで、想像してた多様性を超えてきてびっくりしている。

とかなんとかで自分にとっての新しい場所にテンション上がってたらBODY(高校のとき聴いてたバンドがオールナイトとかでやってた音楽イベント)が何年かぶりに開催されるお知らせが入って来てさらにテンションが上がる。まだ音楽の嗜好が全然定まってなかった思春期の頃にLillies and Remainsとかサイサリを熱心に聴いてたからついてた免疫もあるのかな。でもPIERROT聴いててふつうにミッシェルっぽいじゃんね、と思ったりもする。サブスクがあると何に分類されるのかを分からないままなんとなく音楽だけで聴いてカッコいいカッコよくないの判断がしやすいけど、物理的な音盤で流通してたときはそんなことはなかっただろうから、分類する側(音楽事務所、イベンター、ライブハウス、雑誌、店舗あたりすべて?)の差配のおかげで音楽は刺さったはずなのに見えないとこにいた、みたいなのもあるのかな。(音楽に限らず何かに名前を付けて分類することについて、対象を分かりやすくしてはくれるけどその行為自体はそもそも暴力的な行為だよなと思っているところがある)

なんの話だっけ。そんな感じで最近はBUCK-TICKとかPIERROTとかDIR EN GREYとかを聴いている。ほんとは今日は韓国にいるはずだったんだけど飛行機が欠航になってしまってただの休日になった。仕事が大変だった2024年、年が明けたらしばらく休むことにした。今の積み重ねが未来になるのだからと自分に言い聞かせつつも、あまりにも未来が見通せない状態にいるのがやっぱりどうしてもつらかったけど、休むと言い切ってしまうとなんだかさっぱりして元気になった。12月いっぱいやるべきことをやりさえすればいいのだ、という気楽さ。

一緒に書くようなことじゃない気もするけど、ペトロールズのボブさんが亡くなった。大学のときから年に1回くらいのペースで楽しい音楽を聴きに行きつつ、ボブさんのX JAPANバリの高速ドラムとか変なあおりとか金八先生のものまねとか長岡さんへの幼馴染ムーブ(ほっこり)を見に行く場所だったので、そのボブさんがいなくなったのはとてもさみしい。文字に起こすとそっけない。書きながらも全然実感がない。たぶんまたこの目でペトロールズを見たときじゃないと実感はしないんだろう。

おわり

旅先で見たり読んだりしたもの

気づいたら10月も終盤。なのに東京はまだ暑い。最近知ったf5veがこないだ出した曲がめっちゃ良くてここんとこずっと聴いてる。


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10月は友だちを訪ねて回る旅行をふたつ。ひとつは国内、もうひとつはオーストラリア。なんだかんだで10年そこそこの付き合いになる人たちばかりだった。あちこち忙しく動き回った割には元気だったけど、最後の最後でおもいきり風邪をひいた。友だちが薬を探し回ってくれ、ない薬を買いに行ってくれ、手の込んだ朝ご飯をつくってくれた(めっちゃおいしくて日本でも作ることを決意)。

あれこれを世話を焼いてもらいながら、こんな風に誰かにできるなんてすごいなと感嘆していた。そういえば誰かの看病らしき看病をしたことがないかもしれない。母親が風邪引いたときに看病チャンスはあったんだろうけど、自分以外の人が準備したものにはすべてケチをつける人だったので(着替えやタオルを持って行く、ぐらいは大丈夫だったかな)、やらない方がお互いのためによさそうということになってやらなくなったのを書きながら思い出してしまった。だから友だちがこんなのは当たり前でしょみたいな感じであれやこれやと世話をしてくれるのはカッコよかった。そうなりたいなと思ったりした。(と言いつつ、あれやこれやと世話を焼けるかは正直相手にもよりそうだなと思っちゃう)

誰かと旅行をすると、相手を介して自分の面倒なところや嫌なところ、自分がよしとしないものが見えるのでおもしろい。旅の最中は若干微妙な気持ちになることもあるけど(例えば、一緒にいる相手は特に気にしていなさそうなことに自分だけ苛立ってしまっていて、その事実にちょっと落ち込んでしまうとか)、終わってから振り返ると、なるほど自分はこういうのが苦手な人なんだなということが分かるのでおもしろい。

これは誰でもそうなのかもしれないけど、自分が計画時点で中途半端にでもかかわった予定が計画した通りに進まないと苛立ってしまうところがある。反対に自分が計画にかかわっていない場合はそもそも予定の内容すらろくに把握しておらず(事前に共有された場合は別だけど)、それが予定通りいってもいかなくても気にならない。協力するというマインドセットが足りないってだけな気もしてきた。至らぬ人間。いつだったごきげんでいたいのに。すり合わせ、妥協、難しいけどこれを続けていくのが人とかかわるってことなんだなーと当たり前のことを改めて感じたりもする。

オーストラリアへの飛行機のなかとか現地での空き時間で『現代美術史』と『闇の自己啓発』を読んだ。『現代美術史』は分かりやすく、ちらほらと知った名前が出てくるので嬉しかった。大学での専攻を決めるときに、美術史も候補のひとつに含まれていた。ミーハー心と、一般教養的な講義の内容がおもしろかったからという理由からだった気がする。ただ、当時履修した若干専門的な講義で出た課題(ピサロ展のレポート)が壊滅的に書けず、これは私の道ではなさそうだと思って諦めた。メルボルンの美術館に行ったらピサロに再会して(しかも見た瞬間に「これはピサロだ!」と分かったのがなんだか感慨深かった)、美術史のレポートの書き方自体をあんまり分かってなかったもんなあと当時のことを思い出したりした。『現代美術史』には全然出てこない時代の話。

『闇の自己啓発』は、本の中で挙げられている本は面白そうだなと思ったものの、語りの内容自体はなんともいえない浮遊感。言葉を選ばずに言うと「浮世離れ」しているような雰囲気があってあまりなじまなかった。語られている話はだいぶ日常生活ではあるんだけど、こういうことをやっている集まりの性別がどうしても気になっちゃう。というかたぶんその奥にある身体性の違いにこだわりがあるんだと思う。私とはあまりにも異なる身体、実存に対する感覚、自身の性や身体を規定する外的な基準を持っていそうな人しかいない、と思ってしまう。なんかそう思っちゃう自分もなんとなく嫌だな。それと幸福ではない生に絶望している風のメンバーがいて不思議だった。幸福ではない状態があるからこそ幸福が存在するのに、どうしてそう思うのか私にはよく分からなかった。もっともっと深い絶望の話をしていて、それは私には分かるものではないのかもしれない。

そういえばメルボルンにいる間、ちょうどFringe Festivalなるものをやっていて、ふたつほど演目を見てきた。ひとつがアジア系のバックグラウンドを持つコメディアンたちによるスタンダップコメディ、もうひとつが暗黒舞踏っぽさのあるコンテンポラリーダンス&サーカス(あれなんて形容すればいいんだろう)

melbournefringe.com.au

暗黒舞踏みたいなコンテンポラリーダンスは作品のなかでわかりやすく家父長制やマスキュリニティをコケにしまくる演出があったりして面白かった。女性ダンサーにサポートされてなんとか姿勢を保っていた男性ダンサーが徐々に調子に乗り始め、最終的に女性ダンサーを踏みつけるようにする、という流れで、男性ダンサーがつけていた睾丸に見立てたふたつのレモンを女性ダンサーが引きちぎって果汁をしたたらせながら食う、という演出があって、悲鳴をあげつつちょっと笑ってしまった。全体的におどろおどろしい感じ、扇情的な雰囲気、コミカルさがなんともいえないバランスで混じりあいながら行き来していておもしろかった。あとダンサーさんたちのフィジカルが強すぎてすごかった。コンテンポラリーのこと全然よく分からないし見方も正しいのか分かってないけど、見たあとに解説とか読んでみるとそのまま伝わってきてることが多いから結構好き。

オーストラリアから帰ってくるときに、飛行機がガラガラだったおかげで3席使って爆睡するというのが出来て嬉しかった。(がっつり風邪ひいてたから着陸時の気圧変化でしっかり航空性中耳炎になったけど)今年トータルで4回海外行くとか言ってたけど来月も行くことになってトータル5回になった。やりたいこと全部やるぞ。

今週末は待望のADOYを見に行く。風邪治ってくれー。

おわり

アウトレイジ最終章とリア王の悲劇

北野武作品を見るためだけに加入していたツタヤディスカスの無料期間が終わった。まだ『ソナチネ』も『HANA-BI』も観れてない。明日からの平日どこかで観れるといいな。ソナチネはまた新しく借りなきゃだ。

大学生のときか、難波にツタヤがあってそこで借りれるだけDVDを借りてなんとか期間内に消化するというのをやっていた時期があった。今はだいたいなんでも配信でどうにかなっちゃうけど、ツタヤのあのジャンルを視覚的にとらえることができる空間は大事だったよなあとすっかり配信に慣れたからだで思う。ネットでも買える本を買うために本屋さんに行くのもその空間でうろうろして空気感のようなものを知るためで、そういう偶然性(偶発性?なんていうんだろ?)の大切さがここ数年で特に沁みている。

何年か前にジャケットがかわいいなあと思って買った『失われた未来を求めて』をここんところで読んでいる。ちょっと前にスペクテイターで自己啓発特集がされていたのを思い出したり、『反逆の神話』で読んだのが出てきてこういう繋がり方(あるいはつなげ方?)をするんだと思ったりしながら楽しく読んでいる。魅力的な文体、語り口、内容でありつつも、全体的にどこか浮世離れしている感触があって、その浮ついたような感触に自家中毒になっているだけではないのかという思いも否めない。ぎりぎりの精神状態で理路整然と何かを語ったときの文章に魅力を感じるタチなので、ということは?とも思ったりする。そこはかとなく漂う厭世的な雰囲気とそれと相反した諦めの悪さみたいな感じ。ついこないだ『終わるまではすべてが永遠』という本も出しているようなので、本屋さんで見つかったら手に入れたい。

アウトレイジ最終章はビヨンドよりインパクトがなくて、いちばん最後の印象的なシーンと、大森南朋が散弾銃をぶっ放しているシーン以外はほとんど覚えていない。フェイス侵害行為が絶対的に許されず、それがあらゆる紛争の原因になる世界。まあカタギの世界とそう変わらないけど。

今日はKAATで『リア王の悲劇』を観てきた。こないだパルコで観たやつが信じられないぐらい眠かったのでそこまで期待せずだったけど期待を大いに裏切ったとても面白かった。初日だったからか関係者祭って感じであちこちに関係者がいた。(私は誰が関係者なのかてんで分からなかったけど一緒に行った演劇に詳しい友達が知ってる顔を次々発見していた)

これでハムレットとオセローとリア王は観たことになる。あと観てないのはマクベスか。伊坂幸太郎の小説に出てきて高校生のときぐらいに原作戯曲読んだけどなんにも覚えてないな。これまで観たなかでいちばんおもしろかったのはオセローだったけど、劇団新感線だったからストプレと言って良いのか分からない。

KAATのリア王はなんというか「老い」に向ける視線の分量が多くて、鋭いというか、ある人間の「老い」に対する本人の哀しみ、周囲が感じる愛おしさ、煩わしさがありありと描かれていたように感じた。長女と次女のリア王への接し方も、単なる意地悪や陰謀めいた何かではなく、耄碌した/頑固な老人に対する苛立ちを含んでいて、それが理解できる一方で、大雨のなかで長女と次女に城を追い出され、彷徨う中で徐々に気がふれていく(あるいは弱って本当に耄碌していく)ように見えるリア王は切なかった。パンフレットには「忠孝」について書かれていたけれど、個人的には「老い」に関する部分が印象的だった。

「老い」によって自信を失っていくとき、何がそれを補填してくれるんだろう。補填されないと不安になってしまうのは仕方ないだろうし、そんなときに誰かから「なめた」態度を取られたら憤ってしまうだろうし。リア王にそんな自信の喪失を直接的に想起させるような場面はなかったけれども、おつきの人を100人から50人に減らせと言う長女、それに愕然とするリア王のシーンでそんなことを考えていた。リア王が最初は「俺はリア王だぞ」と言っていたのが、後半、終盤で「俺は老人だ」と言うようになっていて、それもなんだかぐさっと来た。

末娘の死をまえに「馬も木も生きているのになぜお前は生きていないのだ」といったことをぼんやりした口調でつぶやくリア王の姿は哀しかった。でもリア王自身が見極められなくてはじまったことでもある。

リア王役の木場勝己さんは、威厳ある王の姿も、コミカルな演技も、弱った老人のような足取りも、何をしていても不思議な愛嬌があってすごくしっくりきて魅力的だった。そしてこないだ観て寝落ちしたリア王で小池徹平がめっちゃいい役だったことに今さら気づいた。もったいないことした。でも素敵なリア王に出会えてよかった。

おわり