シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

過労死する人の気持ちがちょっとわかる気がする

 
ちょうど一か月前に「早起きできるようになった。年を取った - シロクマの屑籠」と書いたけれども、11月に入ってからは過労死な気分だ。矛盾も甚だしいが、矛盾した状況を生きていることを書き残せば、生命力の不安定な脈動を思い出せる気がするので書いてみる。
 
今週はとても忙しくて、週のはじめからフルパワー稼働だった。最近は午後8時を回っても普通に全力で働けてしまうので困る。リンク先にあるとおり、あまり遅くまで働くと眠れなくなるので午後9時までには作業を停止したいのだが、昨日とおとといは午後10時まで働いてしまったし、働く必要のあることごとが存在していたりする。今期唯一楽しみにしている『ウマ娘シンデレラグレイ』を視聴するのも遅れているし、『ヨーロッパユニバーサリス5』を遊ぶなど夢のまた夢だ。
 
昭和時代には「24時間働けますか」などとリゲインのCMは歌っていたが、密度の高い令和の労働状況のなかで同じ時間働いていたらたちまち心身が溶けるだろう。私の就業時間+αは、労働生産性の向上や副業としての文章づくりも含めて力の限り・効率のおよぶ限りやり遂げるもので、かつての自分自身のそれを大幅に上回る。私は勤勉になってしまった。異常に勤勉だ。資本主義の悪魔や近代社会の魍魎に憑かれているのではないかと我が身を勘ぐりたくなる。
 
勤勉のバックグラウンドに怠惰がある点も見逃せない。私は怠惰なのだ。怠惰ゆえに勤勉である。怠惰をきわめんとして勤勉をやってしまい、気がつけば自分自身の首がしまっている。向上するのは生産性だけだ。それでは良くないとも言えるし、それで良いとも言える。……いいわけあるか!
 
この身体は、オーバーヒートするマシンのように駆動死反応する。夕方になってくると頭痛がしてくる。たびたび身体は血糖を求める。思うさま糖分を補充していれば糖尿病にまっしぐらだから、飢えたまま作業をしたり干した昆布をかじったまま作業をしたりする。35歳の頃の私だったら休んでいただろう場面でも働くし働けてしまう。衰えた身体。老眼。腰痛。それでも作業できてしまうのは悪いことだ。きりがない。
  
仕事ができて、できる意味や意義もあって、「たぶん今が生涯でいちばん仕事ができるんだ」と魍魎が耳元でささやいて、それらに取り憑かれている自分がいる。文章制作や文献調査もそうだ。繰り返すが私はワーカホリックでなく怠惰なので、休暇をこのうえなく好む。だのに仕事や活動にどこか魅入られている自分自身もいて、それが自分の身体をいじめつつある。これをずっと続けていたら、たぶん血圧や血糖がおかしくなり、脳出血や脳梗塞や心筋梗塞などに討たれるだろう。怠惰であるはずの自分がそんなことを心配しなきゃいけないとはね。でも、この頭痛は本物だ。間違いなく、一生のなかで今が一番頭痛の発生頻度が高くなっている。
 
40代までと比較して働く意義や意味が異様に高まり、働く能力も異様に高まり、だのに自分の身体の耐久性が低下しているというのは怖いものだな、と思う。私の身体は着実に老化していて、壊れたら取返しがつかない。私は身体からのメッセージとしての痛みや疲労に敏感であるべき、なのだろうと思う。ところが夢中になって作業している時、私はしばしばその身体からのメッセージに鈍感になる。そんなことを一週間続けていると、金曜日の午前にはきついと感じるとようになり、土曜日はミイラのように寝ている。『ヨーロッパユニバーサリス5』なんてやっている場合じゃない。土日すら休まなかったら、すみやかに心身を破壊してしまうだろう。
 
できることが増え、すべきことも増えたことで、良かったこともたくさんある。フロイトが言ったとされる*1、中年の課題「働くことと愛すること」の渦中に私はいると思うが、それゆえ、リミッターを超えるとまではいかなくても、身体のアラートが出るまで働くパターンを毎週繰り返している。危険な兆候だ。
 
ははあ、人生にはこういう風景もあったのか。これは、ここまで来てみなければまったくわからなかった境地だった。20代や30代の、身体のホメオスタシス機構が丈夫で、怠惰がもっと前に出ていて構わなかった頃には想像すらできなかった境地でもあった。私は、人生のなかで新しい一ページをめくるのが大好きなので、こういう境地が存在すると自覚できたのは獲得だったが、これは一歩間違えれば全部失いかねないやつなので、ここでこれを書いておいて、自戒にしたいと思っています。
 
 

*1:注:実際には言ったかどうかは甚だ怪しい