シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

なめる/なめられる についての話

 
blog.tinect.jp
 
上掲リンク先の記事は、刺激的なタイトルのためか、はてなブックマークでも喧々諤々の様子になっている。私個人としては、海外でコミュニケーションをする際には、日本の標準的な構えよりも自己主張を強めにするとちょうど良い、逆に、日本の標準的な構えのままでは意思疎通に支障をきたすと思っていたので、外国の人々にまともに相手をしてもらうためには、明確に自分の意見や願望や意志を伝える・表出しないとだめだ、とは思っていた。表出のなかには、もちろん身振り手振りも含まれる。
 
国内外の違いはさておき、私は、「なめられるか、なめられないか」は社会適応において非常に重要だと思っている。鳩の群れを眺めていると、なめられる鳩はろくなことがなく、やせ細って死んでいく。チンパンジーなども、群れのなかでの順位のために、お互いに無理をしている感がある。であるから、「なめるか、なめられないか」は、社会的生物が生存と繁殖を賭けて競り合うにあたって元々重要な要素だったのではないか……と考えたくなる。
 
ただし、「どんな人がなめられるのか」「どういうことがなめられるのか」に関しては、文化や社会による修飾をかなり受ける。共同体や部族によっても異なるだろう。たとえば平安貴族がなめられないようにするために必要だったことと、鎌倉武士がなめられないようにするために必要だったことは、共通点もあるが相違点もある。現代でも、新興企業でなめられないために必要なことと、伝統的な日本企業でなめられないために必要なことと、街の中小企業の工場でなめられないために必要なことが同一とは思えない。
 
そうした[なめる/なめられる]の局地性が、ときには「文学フリマでなめられないようにするために必要なこと」みたいな問題をクローズアップするかもだし、実際、文学フリマでなめられないための条件が世間一般と同一とは思えない。そして文学フリマにもコミケにも、人をなめてかかる人が複数名混じっているのは想像にかたくない。
 
 

「なめられたら」まずいこと

 
なめられているとは、いっぱしとみなされていないこと・軽視されていること・あなどられていることだ。なにをやってもやり返してこないと思われていたり、不平等を押し付けて構わないと思われていたり、搾取できると思われていたりするかもしれない。
 
かえってそれが望ましい場面がないわけでもない。うつけ者のように振る舞っておき、相手をあなどらせておくことが最適な状況もある。だがそれは例外で、基本的にはなめられていないほうが良いに決まっている。周囲の人間になめられていると、軽んじられ、不平等を押し付けられ、搾取される可能性が高くなる。自己主張はもちろん、業務連絡すらうまく伝わらない・伝えられなくなるやもしれない。
 
その場合、業務連絡がうまくいかない責があるのはなめている側で、なめられている側ではない。しかし責が誰にあるのであれ、なめられている側にとって大きなハンディになることには変わりない。だから、なめる側が悪いという問題とは別個の命題として、私たちひとりひとりはなめられないに越したことはない。
 
そのうえ、なめられると心が苦しくなるように人間はできている。なめられると、ストレスに直結する。きっと大昔の人間のうち、なめられてもへっちゃらだった人間は生存も世代再生産も難しい立場に追い込まれ、死に絶えたのだろう。なめられたらストレスを感じ、必死に対処していた人間が生存しやすく、世代再生産もしやすかったから人間はそのような性質を帯びるに至った。ストレスを感じる状況、つまり副腎からコルチゾールやアドレナリンが分泌される状況とは、生存や生殖にかかわるクリティカルな状態が専らだから、なめられたらストレスを感じるということは、なめられることが生存や生殖にとって致命的だったことを示唆している。
 
また、歴史学のアナール学派の書籍を読むと、"中世ヨーロッパにおいても、なめられるのは死活問題で、だから馬鹿にされたり挑発されたりしたら立ち向かわなければ沽券にかかわった"、と書かれている。
 
立つ瀬。
沽券。
面子。
 
これらの言葉が象徴するように、なめられるとは、ストレスをこうむるだけでなく、社会的立場が危うくなる事態でもある。なめられれば、家族を養うための土台を脅かされるかもしれないし、なんなら命を脅かされるかもしれない。飢饉や災害に際しても生き残りにくかっただろう。少なくとも昔はそうだった。それに比べれば、現代社会では沽券や面子が生死に直結するわけではないし、それでいきなり失職するわけでもない。それでも、なめられたたら社会的立場が危うくなる一面はまだ残っている。
  
たとえば教室や職場でなめられると、ストレスでメンタルヘルスがやられるかもしれないし、自分の主張や利益や立場を守れなくなるかもしれない。逆に考えると、なめるとは、良くないこと・誰かに悪影響を及ぼし得ることだから、人は、おいそれと他人をなめるべきではない。そしてなめないためにも、なめられたと相手に誤解されないためにも、礼節や礼儀が重要になる。
 
この礼節や礼儀も少し厄介で、それらにはローカルルールがあり、そのローカルルールを知らないと、結果的になめる/なめられないの問題が発生することもあったりする。ときには、ローカルルールを遵守していないことを大義名分とし、攻撃や軽侮を始める人もいる。
 
とはいえ、できればお互いに礼節や礼儀をおこたらず、相手とすり合わせながら守り合うのが理想なのだと思う。上掲リンク先の話でいえば、外国人観光客は日本の礼節や礼儀をなるべく知っておいたほうが良く、寺院や神社に不敬を働かないのが好ましいと思う。また、日本人が海外渡航した際も、現地で敬われているものには敬意を払い、礼節や礼儀を守るよう努めたい。それはそれとして、ときには誤解やボタンのかけちがえだってある。だから、「すみませんでした」と言えること・言ってもらえることも大切なのだと思う。
  
しかし、そうしたことも、たとえば差別意識に基づいてはじめからなめてかかっている相手だとぶち壊しだ。すると話は振り出しに戻って、差別心を持っている相手からもなめられないような個人的自衛が必要、みたいな辛い話になる。残念ながら、世界にはそんな辛い話が鬱積していると、最近のインターネットをみていると特に思う。
 
 

なめられないためにどうすればいい?

 
じゃ、なめられないようにするために何をすればいいのか。
これは年齢・職業・住んでいる地域や文化、属している部族、などによってまちまちだろう。
 
男性の場合、なめられにくくなる条件というか属性はいくつか思いつく。
ひとつは、身体ががっしりしていること、筋肉がしっかりあること。筋トレを異様に信仰する人がいるが、実際、体格がしっかりしていればそうでないよりはなめられにくくなる。体格の大きさ、腕っぷしの強さは、どこに行ってもなめられる確率を下げてくれる。
 
身振り手振りもたぶん重要だ。はっきりとした声で、相手をみて話せることは、そうでないよりはなめられにくい。身体のがっしりさ同様、これはフィジカルな性質にも由来している。しかし、効果的な筋トレが体格をしっかりさせるのと同じく、身振り手振りにもトレーニングの余地はある。姿勢や歩き方、返事の仕方などもそうだ。娑婆世界を長く観察していれば、どんな身振り手振りがなめられやすいのか(逆になめられにくいのか)を観察する機会はあると思う。観察したうえで、自分に可能なことを可能なようにやっていくのが好ましいよう思われる。
 
服装も、なめられやすさを左右する一要素かもしれない。服装はメッセージを発するメディアであり、自己主張が反映される社会装置であり、社会的立場やステータスや機敏さや鈍感さが現れ出るキャンバスでもある。そのうえ、属する文化や部族によってなめられにくい服装にも違いがあり、それが流行によって揺れ動くから厄介だ。自分の属する文化や部族のなかで、なめられにくい服装はどんなものか、逆になめられやすい服装はどんなものか? そして自分の身体に似合うのはどんな服装か? ──特に思春期以降、たいていの人がこのクエスチョンを模索し、自分なりの回答を持つに至る。
 
知識や知恵も、なめられやすさを左右する。自分の属する文化や部族で必要な知識がしっかりしている人は、そうでない人よりもなめられにくい。同じことは趣味の世界でも言える。繰り返すが、なめるのが悪いのであってなめられるのが悪いわけではない。が、なめられる確率を低下させたければ、自分の属する文化や部族に即した知識をそろえ、それを使いこなす知恵を期待したい。
 
それから経済力とそれを示す符牒。経済力は、資本主義社会において影響力であり、しばしば才能や能力に近いものとして取り扱われる。そして経済力に異様に偏ったかたちで人物を評価し、なめたりなめられたりする人たちもいる。しかし『STATUS AND CULTURE ――文化をかたちづくる〈ステイタス〉の力学 感性・慣習・流行はいかに生まれるか?』に記されているとおり、経済力の高さがそのままカッコよさに繋がるとは限らない。自分の属する部族、属する文化圏にふさわしいかたちで経済力を持っていることの兆しが示されるのが好ましいのであって、たとえば文化貴族の集まりで金ピカ趣味を開陳したら、これは、なめられるおそれがある。
 
ちなみに、私は女性のなめる/なめられないについてほとんどわからない。化粧にせよ、服装にせよ、女性は男性に媚びるためにそれらをやっているというより、むしろ同性に対するメッセージや牽制の意味合いを持つかたちでそれをやっているようにみえる(実際は、女性が化粧をしなければならないのは男尊女卑的ジェンダー勾配による、ということなのだろうけれども、とはいえ、女性たちの化粧や服装からは同性に対する鋭い意識がいつも感じられ、男性に対する意識をそれに優先させる場面はかなり少ないように私にはみえている)。女性においても、体格はなめられないための一要素となるだろうが、その重みが男性と同等だとは思えない。
 
この文章は学術的ではなく、いわゆる雑談として読んでいただきたいわけだが、とりわけ女性の人は「これを書いたのは男性」なのであてにならないと思っておいていただきたい。
 
が、なんにせよ、なめられやすい状態、なめられにくい状態というのは存在し、前者は後者に比べて不利で不遇になりやすいので、面倒くさくてもコストがかかっても、なめられにくくなるように多かれ少なかれの努力をしたほうが良いのだと思う。そして自分とは異なる文化や部族とコンタクトをとる場合には、相手をなめないように/相手になめられないように、いつも以上の工夫や配慮が必要になる。