シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

twitter(X)の有料化が「オンライン囲い込み」だとしたら

 
www3.nhk.or.jp
 
 
twitter の有料化について報じられている。自分のタイムラインを見る限り、これを狂気の沙汰とみなす人のほうが多い様子だが、私のあまのじゃくな部分が「twitter の有料化を合理的な決定とみたうえで、その道理を考えてみたい」と欲しがっている。
 
いや、本当のところは「資本主義の『囲い込み』にかこつけて、twitter の有料化についてしゃべってみたくなった」だ。よってしばらく、「Twitter の有料化は合理的で資本主義のロジックにも適っている」と考えてみる。
 
 
twitterの有料化によっておこるのは、twitter というひとまとまりのオンライン空間の囲い込みだ。ほかの多くの無料オンライン空間と同様、twitterは長らく共有地とみなされていた。金持ちや有名人が手を振ってみせることもあれば、狂人が都大路を駆け抜けることも、行者が苦行に耽ることも、犯罪者がつぶやくこともある、正真正銘の共有地(コモンズ)。
 
しかしイーロンマスク氏によって、その共有地が共有地ではなくなろうとしている。私はこの現象を見て、これって見たことあるやつやーと思った。渋谷駅の近くの公園が商業区画になったとか、ありとあらゆるカオスな業態が軒を連ねる区画が有料で清潔になったとか、そういうやつだ。街でそういったことが起こる時、人は、それをジェントリフィケーションと呼ぶ。
 
twitterにしてもそれは同じだったりしないか?  twitterはとてつもなく巨大な公園、あるいはアメリカやイギリスのストリートの超巨大版みたいな無料オンライン空間だった。本当は私企業が作りだし、広告収入などに頼りながらやりくりしようとしていたものだったのだけど、多くのユーザーはそんなのお構い無し、そこを公園のように利用した。
 
そこは功利主義に抵触するのでない限り、誰がいても構わないし、何が叫ばれようと、誰がうろついていようと自由なオンライン空間だった。しかし有料化されればこの限りではなく、お金を払えない人はtwitterにいづらくなる。ひょっとしたらいられるかもしれないが、ものすごく居心地が悪くなるような措置がほどこされるだろう、寝転がりたい人が寝転がれなくなった公園のベンチのように。そうして有料会員のための空間になっていく。
 

 
そのときお金が払えない人がこうむるのは、ジェントリフィケーションが進行した街でホームレスが受ける排除、それか煌びやかなショッピングモールに紛れ込んだ支払い能力の無い人のばつの悪さである。過去のtwitterは発展途上国の路上のように貧乏な人が横たわっていても構わないし、奇妙な人が奇妙な振る舞いをしていても誰も見咎めない、そのようなオンライン空間だった。が、これからはそうではない。無一文の人が横たわっていられるtwitterは、家賃を支払うなら横たわっていられるオンライン空間になる。奇妙な人が奇妙な振る舞いをするのも有料だ。有料化をとおして、無料でなければtwitterにいられなかった人々が、botともども排除される。
 
しかしTwitter は私企業が運営していたオンライン空間だから、そういう人々が排除されること自体、悪く言われる筋合いはなかったはずなのだ。少なくとも東京の公園のベンチを誰も寝転がれないようにしたり、ストリートのあちこちにモスキート音を仕掛けたりするのに比べれば、イーロンマスク氏がtwitterを有料化するのはおかしなことではないのでは?
 
考えてみればかつてのtwitterはとんでもないオンライン空間だった。私企業が運営しているにもかかわらず、そこは社会契約の透徹した(東京都のオフィス街のような)オンライン空間ではなく、明確な犯罪でない限り誰もが自由に振舞える公共空間とみなされていた、あるいは誤解されていた。そうした誤解のうえに政府機関もアメリカ大統領も市町村の災害対策のアカウントも便乗していた。そう考えると、あらゆるものが囲い込まれ、内部化され、商業化され、ジェントリフィケーションしていく資本主義&社会契約の透徹しつつある現代社会において、twitterは奇跡だったのだと今にして思う。
 
イーロンマスク氏はtwitterを有料化し、囲い込み、それをとおしてジェントリフィケーション化し、なんらかの新秩序を打ち立てることになりそうだが、この場合、異常だったのはイーロンマスク氏ではなくこれまでのtwitterのほうだった。その公共空間で広告事業をやろうと努めていたのはわかるけれども、こうして有料化が迫って振り返るに、あんなガンジス川のほとりのようなオンライン空間が世界をまたにかけたかたちで存在し、貧乏人や異常者やインフルエンサーだけでなく、政府機関や市町村まで公共地(コモンズ)としてダダ乗りできていたのは一種異様なことだった。
 
twitterが本当に有料化された時、たぶん、少なくない人がtwitterから逃げ出す、または追い出されるだろう。囲い込みが行われれば人が減るのは当然で、イーロンマスク氏も百も承知に違いない。しかし、よく考えてみれば支払い能力のないユーザーをtwitterは必要としていないし、そのようなユーザーが排除されたからといってtwitterは痛くも痒くもない。むしろ逆ではないか。twitterはそのぶん有料会員たちにとって居心地の良い場所になる。残念ながら完全に居心地が良くなるわけではなく、たとえばbotなどは残存するかもしれない。が、しかし、そのbotにしてもtwitterに「家賃」を支払うぶんにはカスタマーの一部をなす。twitter、もといXは、そのとき社会契約と資本主義の論理によって囲い込まれる。これは、イーロンマスク氏率いるXにとっても、Xのカスタマーの皆さまにとってもそんなに悪い話ではないはずだ。
 
オンライン空間の共有地としての無料のtwitterにぶら下がっていた人たちだけが、この変化で不遇をかこつことになる──。
 
 

「囲い込み」の歴史が繰り返されようとしているとしたら

 
実際のところ、オンライン空間の共有地だったtwitterがイーロンマスク氏にベネフィットをもたらす商業地に変身しきれるのかは、わからない。わからないけれどtwitterの歴史もすっかり長くなり、インターネットの諸インフラがフロンティアではなく既知のアドレスになっている以上、そこで囲い込みが行われ、ジェントリフィケーションも行われ、ユーザーから家賃を取り立てるようになるのは私にはおかしなことには見えない。で、これは昔あったアレと似ているんじゃないか? とも思う。
 

 

……世界ははるか昔から、豊かな自然の糧に恵まれていた。一方、それを使う人は少なかった。自然の糧のうち、一個の人間の努力そのものが及ぶ部分、そして他の人々の利益をないがしろにして独り占めできる部分はきわめて小さかった。とりわけ、道理によって課される有用物の利用限度を守っている限りにおいてはそうだったのだ。
 しかし今日では、所有権の主たる対象は、地上の果実や地上に生きる獣ではなく、土地そのものである。土地は、それ以外のすべてのものを孕む。私の考えでは土地の所有権も、果実や獣の所有権と同じ要領で獲得される。それは明らかである。土地を耕し、苗床にし、改良、開墾する。そして、そこから上がる収穫物を使いこなせるなら、まさにその分の土地が所有地となるのである。労働を加えることによって、その土地はいわば囲い込まれ、共有地から切り離されるのである。  ──ロック『市民政府論』

 
囲い込みといえばジョン・ロック。かつて、共有地としての土地が耕作などをとおして私有地へと囲い込まれ、事業に用いられていく歴史があった。それはフロンティアにおける資本主義による囲い込みでもあり、私有地や私有財産を巡る社会契約のニーズの高まりと成立でもあった。誰もが薪を拾って良い共有地や誰もが耕して構わない共有地から、私有地や借地へ。誰もが住み着いて構わない空間から、家賃を取る空間へ。いまどきは土地以外も囲い込まれているのかもしれない。物事の道理はゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ。遠足の時に持っていく水やお茶も、恋人に贈るプレゼントも、就職活動も、冠婚葬祭も、そうやってありとあらゆるものが資本主義の辺縁から資本主義の中心に取り込まれ、社会契約の道理に沿った商品や財産に改変されていく。
 

 
してみればオンライン空間は奇跡的なフロンティアだった。もちろんオンライン空間を支えていたのは広告収入だったと言えるし、新しいインフラやネットサービスが立ち上がってはフロンティアを形成し、猛烈な勢いで人が集まってきたから、フロンティアであり続けられたのだと思う。けれども広告収入が停滞し、インターネットの膨張速度がピークアウトし、既に誰もがスマホを持ちどこかのSNSに居ついてしまっている現在において、もし、広告収入だけでは(twitterに限らず)オンライン空間が支えきれなくなったら?
 
もし、そうしたオンライン空間が広告収入だけでは厳しくなっていくのだとしたら、ロックの時代の囲い込み運動、または『若者殺しの時代』で記されていたような諸物の資本主義化が加速するかもしれない。で、twitterで囲い込み運動がある程度成功するとしたら、Facebookやインスタグラムではもっと囲い込み運動が成功するかもしれず、人の集まっているオンライン空間はあっちもこっちも囲い込み運動の対象となり、人もbotもサブスクリプションという家賃を支払うのかもしれない。
 
「かもしれない」、を連発しすぎているな。
 
実際にはtwitterは囲い込みに失敗して大願成就せず、小さな無料のオンライン共有地がポコポコとできあがるだけかもしれない。けれども人が大勢集まっているオンライン空間には人のまばらなオンライン空間よりも利用価値があり、従来、とめどもなく広がるフロンティアと増え続ける人口をあてにして広告収入できていたオンライン空間が本当に曲がり角に来ているとしたら、案外、イーロンマスク氏の選択こそ資本主義や社会契約の過去の流れにかなうことで、そうでなかった今までのインターネットがどこかおかしかった、いや、西部開拓時代のアメリカ西部のように特別だったのかもしれない。
 
現在までのtwitterにはすでに大勢の人が集まっていて、そこで商売をしている人も大勢いて、市町村や政治家までもが共有地として利用していたのだから、そこはもう、西部開拓時代のアメリカ西部ではない。既にオンライン空間としてあてにされている土地なら、囲い込みが起こってもおかしくないし、カネのとれる人からは家賃を取り立て、そうでもない人は追っ払おうとするのも案外、自然なことではなかっただろうか。サーバー代だって無料ではないのだから。

 
 

PostScript

ところで私はイーロンマスク氏という人をある種の英雄だと想定している。それは巨額の富を築いたこと、電気自動車や宇宙産業で成功をおさめたこと、そうしたことが嵩じた結果として世界の政治経済にも影響力を持つことからそう思うのに加えて、人々をざわめかせ、どうあれ、人々の話題の渦中に彼の姿があるからだ。醜聞をなすのも才能と言われるぐらいなら、イーロンマスク氏にもその種の才能がある。
 
そうでなくても、英雄なるものが、民草の思いどおりに振舞ってくれる優等生だった試しがあっただろうか。それならイーロンマスク氏は現代の英雄、またはその候補と言ってもいいのではないだろうか。
 
でもって、これを書いているうちに、イーロンマスク氏がわざわざtwitterを買収したのは、このオンライン空間の共有地→囲い込みのためだったとしたらめちゃ面白いよね、とも思った。旧twitterが耕しに耕したtwitterという土地を、イーロンマスク氏が買って、そこにXという御旗を立てて、「ここは今日から我々の私有地である」とかっさらっていったとしたら、なんと抜け目ないことだろう、と思う。これがうまくいって、Facebookやインスタグラムもどしどし囲い込まれて、共有地としてのオンライン空間を囲い込むターニングポイントを作った人として記憶されたとしたら、これは氏の伝記を飾る一幕になるだろう。もちろん、何も考えてなくて勢いでやったことでしかなく、惨めな失敗に終わる可能性もあるだろうけれども。けれども私は「イーロンマスク氏は社会をブン回す、よくある英雄」説を採用したいくちなので、これからどうなっていくのか、どうなってしまうのか、他人事のように興味を持ってみていたいと思う。