シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

50代で浮かび上がってくる承認欲求のヤバさ

 
togetter.com
 
正月明けに、「50代くらいになると何をやっても褒められなくて、不安になり、承認欲求をこじらせる人が多い」というtogetterを発見した。
 
本当だろうか?
だとしたら世知辛い世の中だ、大変ですね、でも自分も無関係とは言えないな、などと思った。
 
そもそも、50代にもなって他人に褒められたい、それも、褒められているとはっきりわかるかたちで他者からの承認をいただきたい心境とは、どんなものだろうか。
 
私は、そのような心境は
 
・心理発達のプロセスが厳しかったことのあらわれか
・その人を取り囲む環境が特に難しくなっているか
 
のどちらかに思われ、どっちにしても滅茶苦茶厳しいよね……といった風に思った。しかも、案外他人事とも思えなかったりもした。今回は、それらについて書いてみる。
 
 

「50代になって、わかりやすく褒められなきゃ不安ってどういう心理発達なのよ」

 
まず心理発達のプロセスという視点でみた時、50代とは、どれぐらい褒められなければ気が済まない年頃だろうか。この際、呼び方は承認欲求でも所属欲求でもナルシシズムでもなんでも構わないが、社会的欲求の充たし方には年齢によって成熟の度合いがあり、基本的には、成熟が進むほど褒められ具合が低くても満足しやすくなる。
 
たとえば乳児は存在するだけでも養育者に肯定してもらえるし、また、肯定されるのがお似合いでもある。小学校低学年なら、学校のルールを守っていたり宿題を片付けたりした時には褒めてもらえる一方、悪いことをした時には叱られることだってあるだろう。高校生ぐらいになれば、褒めてもらえる場面はより少なくなり、褒めてもらえたとしても、乳幼児のように存在するだけで全肯定というわけにはいかない。
 
こんな具合に、年齢が高まり、社会的立場が変わるにつれて(そして接する他人の幅が広がるにつれて)、くっきりと褒めてもらえる場面は少なくなる。もちろん今どきはアメリカっぽいカジュアルな肯定文句が良いとみなされたりもするので、少し意識の高い場所で働いていれば、togetterに書かれているほど褒められないなんてことはないのかもしれない。とはいえ、50代になってもなお、幼児みたく「ぼく、えらいねー」とか「すごいすごいー」とか褒めてもらう機会はめったにないし、運よくそういう機会を獲得したとしても、それは(たとえば祝賀会や授与式のように)高度に社会化・儀礼化されているだろう。
 
では、もう幼児のように褒めてもらえなくなった中年の心は枯れ果てるしかないのか?
そんなことはない。成長するにつれて、人は、よりマイルドでより社会化・儀礼化した様式でも、だいたい社会的欲求を充たせるようになる。そういうことを数年前の私は繰り返し書き続けていた。以下の二冊の本などは、まさにそれにあたる。
 

認められたい

認められたい

Amazon
 
この二冊の書籍のバックグランドとなっているエリクソンとコフートは、それぞれ論の核心は異なるにせよ、「社会的欲求がエイジングに伴って成熟していく」という見立てでは共通している。というより精神分析的な考え方には多かれ少なかれ、成長するにつれて欲求充足の様式が成熟していくといった含意があり、と同時に、そうした欲求充足の成熟不全が治療の焦点とみなされたりもしたのだった*1。
 
そうした精神分析的なモデリングを思い浮かべながら現実の50代や60代を見ていると、やたら褒めてもらいたがっている中年、褒めてもらえないと困っている中年が多数派になっている風にはみえない。いや、誰かに悪く言われたり誰かと喧嘩したりした直後などは、自分が褒めてもらえていない・評価されていないと悲しく思うことだってあるだろう。私もときどきそういう気分になる。けれども総体としては、職場で挨拶を交わす時、仕事のなかで自分の持ち味を生かせている時、趣味の集まりで旧交を温めている時などに、社会的欲求はだいたい充たせるのではないだろうか。
 
その際に、「ぼく、えらいねー」とか「すごいすごいー」とかお互いに指差し確認する必要性を感じている人はもういない。信頼しあっていること、メンバーシップであること、挨拶を欠かさない間柄であること、それだけでも十分だ。もちろん、ヘビーな自己愛パーソナリティの人などは50代になっても絶賛を期待し、そうでない肯定を肯定と感じられないものかもしれないし、それなら精神病理と呼ぶにふさわしいだろう。けれどもそういうわけでない多くの人は、社会的欲求の充足がまずまず成熟しているおかげで、幼児のように褒めてもらわなくても、あるいは万雷の拍手に包まれていなくても、だいたい充足できたりする。親をやっている人だったら、自分の子どもが元気に食事をとっているのを見ているだけで、社会的欲求が充たされたりもしないだろうか。
 
こんな具合に、ある年齢を越えてくると、社会的欲求は、自分の子どもの健在や自分の後輩の成長を見ているだけでも充たされると感じるようにもなる。別に自分が褒められなくても、自分より年下の人間が健在だったり成長していたりしているのを見ているだけで、それがもう心理的にはご褒美なのだ。この場合の充足感は、"ネットスラングとしての承認欲求"の意味合いからはかけ離れていると言わざるを得ない。が、ともあれ社会的欲求が充たされる経路には違いない。
 
そうしたわけで、この心理発達の側面からみると「50代にもなって、自分自身が、わかりやすく褒められなきゃ不安ってどういう心理発達なのよ?」と私は思いたくなる。それは社会的欲求の充足様式があまり成熟していないうまい具合に社会化していない、という問題や不全を含んでいるのではないか?
 
 

それとも、挨拶する相手にも窮するほど社会環境が悪いのか

 
じゃあ、そういう悩みを持っている人が必ず成熟不全的側面を持ち合わせているかといったら……そうとも限らないように思う。
 
さきほど私は、「信頼しあっていること、メンバーシップであること、挨拶を欠かさない間柄であること、それで十分」と書いた。また私は、「別に自分が褒められなくても、自分より年下の人間が健在だったり成長していたりしているのを見ているだけで、それがもう心理的にはご褒美」とも書いた。けれども2021年の社会において、そうした信頼関係やメンバーシップや年下の存在が全員に行き届いているとは、到底思えない。
 
人的流動性が極限まで高まった社会では、どこでも働けるしどこでも住める。人間関係を続けたってやめたって構わない。けれどもそうした社会の帰結として、信頼関係やメンバーシップや家族といったものは、持てる人は持てるけれども持てない人は持てないといった具合に、格差が広がりやすくなった。タテマエとしての機会の平等を推し進めた*2今の日本社会は、経済的格差に加え、社会関係の格差の問題を内包している。ということは、社会的欲求の充足の格差を内包している、ということでもある。
 
結果、挨拶する相手にも窮するような孤立状態の人がほうぼうに現れることになった。日本に限らず、先進国では孤立が大きな社会問題となっているが、人的流動性を極限まで高めておいて、中間共同体が壊れていくことを寿ぎ、中間共同体をどこまでも悪者呼ばわりしていた人々が今更孤立に鼻白んでいるのを見ると不思議な気持ちになる──この事態が予想できなかったのなら見識が足りなかったということだし、予想していたけれども頬かむりをしていたのなら良識が足りなかったということではないか?
 
ともあれ、中間共同体に所属するよすがを失い、人的流動性がサラサラに高まった社会を身一つで漂流する人が、「何をやっても褒められなくて、不安になり、承認欲求をこじらせる」事態は十分にあり得るし、高齢者に怪しい商品を売りつける人々は、そうした事態をハックして商売をやっているという読みもできるだろう。年齢相応に社会的欲求が成熟している人とて、それこそ挨拶できる相手にも困るほど孤立していては社会的欲求が充たされなくなり、精神衛生の歯車がギクシャクしてくるのは十分考えられることだ。
 
 

どちらが理由であれ、なるほど、危機と呼ぶのがふさわしい

 
そうしたわけで、私は50代になって承認欲求がやたらクローズアップされる状態はだいたい危ういようにみえるし、なるほど、これをひとつの危機とみなすのもわかる気がする。
 
心理発達の不全にもとづいているのであれ、社会関係の欠乏によるのであれ、両方が重なっているのであれ、そのような50代は社会的欲求の充足という点で大きな問題を抱えているようにみえる。逆に言えば、この年齢の頃に「褒めてもらえなくて不安になる」とあまり感じない人は、今はまあまあ社会関係と社会的欲求に困っていないのだろう。
 
危機、などというと大げさに響くかもしれない。
また実際、危機というにはあまりにもありふれた危機でもある。
 
というのも、今の日本では中間共同体と呼べるものはすごく少なくなっているし、たとえば職場にそれを求めることも難しくなっているからだ。家族ですらそうだと言える。子育てをとおして社会的欲求が充たされていた人は、空の巣症候群に直面するかもしれないし、職場に貢献して社会的欲求を充たしていた人が退職後もそうできるという保証はどこにもない。パートナーに先立たれる人、健康を害し趣味を失う人だっているだろう。そうやって社会的欲求を充たす経路をひとつひとつ失っていった先に、「褒めてもらえなくて不安になる」と意識する未来を想像するのは案外たやすい。
 
日本でコフート理論に貢献し続けてきた精神科医の和田秀樹は、高齢者のナルシシズムの問題を重視してきたけれども、実際、社会関係を失いやすく、人間関係の喪失にも直面しやすく、健康までもが損なわれやすい境遇になってくれば、「褒めてもらえなくて不安になる」は差し迫った問題になりやすいだろう。親子といえども別れ別れになりやすく、金の切れ目が縁の切れ目にもなりやすい、この、サラッサラの社会が続く限り、中年期以降に浮かび上がってくる社会的欲求のヤバさを他人事とみなしてしまうのは、結構難しそうに思える。
 

*1:もちろん欲求充足の様式「だけ」が問題なのではない。臨床寄りのポジションで考えなければならない事例の場合、それより防衛機制の様式のほうに着眼したほうが実地に適っているよう、私には思える。

*2:タテマエとしての機会の平等、とわざわざ書いたのは、実際には生まれや育ちによって不平等なかたちで皆の人生のスタートラインが切られるからなのは言うまでもない