シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

現代人の超自我と、逃れられない「こころ」の問題

 
最近は見かけることも少なくなったが、かつては神経症とかノイローゼとかいった「こころ」の病名をよく見かけた。
 
これらはフロイト以来の精神分析にかかわる「こころ」の病名で、おおざっぱにいえば「こころ」の内面の葛藤やこじれに関するものだった。1990年代に目立った境界性パーソナリティや自己愛パーソナリティなども、「こころ」の成熟を問題としていたから、「こころ」の病名の一部とクローズアップされたとみていい。
 
しかし現在は違う。
 
精神医療の診断の多くは、アメリカ精神医学会の診断基準(DSM)に基づいて行われるようになり、その診断基準には、神経症やノイローゼといった病名は存在しない。現代の精神医療は、患者さんの「こころ」に関して病名をつけるのでなく、第三者にも観察可能な振る舞いを診断基準としている。「こころ」に深入りしなくなったからといって、精神医療が衰退したわけではない。むしろ逆で、「こころ」にこだわらず、エビデンスに基づいた診断と治療を心がけるようになったことで、精神医療はテクノロジーとしてますます強力になり、より信頼できるものとなった。
 

 二〇世紀の終わりには、精神科医は「こころ」を司る者だったし、世間の人々も精神科医にそのような役割を期待していた。ところがこのように、現代の精神科医はもう「こころ」を診ていないし、司ってもいないのである 。
『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』より

 
 

病名が消えても「こころ」の葛藤やこじれは無くならない

 
では、神経症やノイローゼといった病名がなくなったことによって、「こころ」の葛藤やこじれは消滅したのか?
 
そんなことはない。
現代でも、「こころ」の葛藤やこじれを抱えている人は珍しくないはずだ。少なくとも世間には、「こころ」の葛藤やこじれを思わせる呪詛や嘆きが遍在している。
 
たとえば、少し前に流行った漫画『東京タラレバ娘』で描かれた葛藤やこじれにしても、多かれ少なかれ心当たりのある人がいるからこそ、人々のリアクションを呼び起こし、話題となったのではなかったか。
 

 

かつて、(古典)神経症と呼ばれる「こころ」の病、いや葛藤状態がありふれていた時代があった。
 
古典的な神経症とは、家父長的な抑圧に基づいた「かくあるべし」をタイトに内面化し過ぎて、それに束縛されるあまり、人生の生き幅が狭められたりメンタルヘルス上のトラブルが生じたりする状態だった。
 
……彼女達は、古典的な神経症には該当しない。だが、「少女としての正解」「自立した都会の女性」といった「かくあるべし」を強固に内面化し、それに束縛されているさまは、東京というフリーダムな街ならではの神経症的葛藤のようにみえて仕方ない。さしずめ、彼女達は“少女神経症”といったところか。
 
昔の人は、「家父長的抑圧がなくなれば子ども達は自由になれる」と考えたらしく、実際、家父長的抑圧が緩和されて古典的な神経症が減ったのは事実である。だが、今にしてみれば呑気な考え方だったと言わざるを得ない。父がいなくなっても、よしんば母がいなくなってさえ、なにかが強固に内面化されれば人間はそれに束縛されるし、状況に合わせて人生のギアチェンジをし損ねれば、神経症的葛藤は顕れるのである。
 
私は、『東京タラレバ娘』に「少女」や「自立した都会の女性」にまつわる自縄自縛をみずにいられない。本作品が示唆しているように、たとえ自由な街に住んでいても、価値観や人生観の融通が利かないのなら、その人は不自由な人である。
『東京タラレバ娘』という神経症的葛藤 - シロクマの屑籠より

 
『東京タラレバ娘』で描かれていたのは、自立した都会の女性にありがちな「かくあるべし」「かくあらねばならない」だった。マスメディアが女性に吹聴しつづけてきた「かくあるべし」「かくあらねばならない」でもあるだろう。とはいえ、これはメディア漬けの東京女性が陥りそうな「こころ」の葛藤やこじれではあって、現代人の大半に当てはまるほど幅広いものではない。
 
世間には、もっと幅広く皆に受け入れられ、常識のように思われている「かくあらねばならない」「かくあるべし」が存在している。
 

・清潔であれ。無臭であれ。
・他人に迷惑をかけたり不審感や威圧感を与えない個人であれ。
・誰ともコミュニケーションできる個人であれ。
・できるだけ健康であれ。できるだけ不健康を避けるべし。
・経済的に自立した個人であれ。

 
現代社会は多様なライフスタイルを許す、といわれているが、その多様なライフスタイルの大前提として、私たちには無数の「かくあらねばならない」「かくあるべし」が課されていて、それが私たちの「こころ」に内面化されている。上で箇条書きにしたものは、現代人の超自我のリストである、と言っても差支えないだろう。
  
このリストを苦も無く守れる人々は、こうした一つ一つの「かくあらねばならない」「かくあるべし」が葛藤の源になることなどなく、むしろ現代社会を颯爽と生きていける。フロイトが活躍した社会*1も現在もそうだが、その時代の「かくあらねばならない」「かくあるべし」を難なくこなしてみせる人を、超自我は祝福してやまない。
 
一方、ここに挙げた「かくあらねばならない」「かくあるべし」が簡単にはこなせない人、現代人の超自我のリストの命ずるとおりに生きられない人にとって、このリストは束縛、劣等感、罪悪感、不全感、コンプレックスの源たりえる。フロイト時代と同様の「こころ」の葛藤やこじれを抱える人は珍しくなったが、キモいか否か、コミュニケーションできるか否か、経済的に自立しているか否か、そういった現代人の超自我のリストに妥当せずに悩んでいる人・葛藤している人・過敏になっている人はとても多い。
 
「清潔であれ。」
「迷惑や不審感を与えない個人であれ。」
「コミュニケーション可能な個人であれ。」
「健康であれ。」
「経済的に自立した個人であれ。」

こうしたメッセージは街にもテレビにもインターネットにも溢れていて、誰もが常識だと思っていて、幼い頃から家庭でも学校でも「かくあらねばならない」「かくあるべし」として教えられるから、逃げ場所が無い。逃げ場所がなく、おのずとインストールされ、社会全体でも常識とみなされている「かくあらねばならない」「かくあるべし」から「こころ」を自由にするのはとても難しい。
 
 

精神医療は、超自我リストのオルタナティブというより推進者では?

 
ところで、精神医療はこうした現代の神経症的葛藤から私たちを自由にしてくれるだろうか。
 
私には、あまりそう思えない。ひとつひとつの精神疾患の症状についてはよく治療してくれるが、診断基準に記されていない「こころ」の葛藤やこじれ、現代の超自我にまつわる問題に真正面から取り扱ってくれるとは考えにくい。
 
むしろ、清潔ではない者をより清潔に、コミュニケーションが困難な者をよりコミュニケーション可能な者に、不健康な者を健康に、経済的に自立できていない個人を経済的に自立した個人へと変えていくのが、精神医療が担っている事実上の役割ではないか。入院治療にせよ、外来での認知行動療法にせよ、それらは現代人の超自我のリストのオルタナティブではなく、被-支援者を現代人の超自我のリストのほうへと招き入れる営みではないだろうか。
 
そうした現代の「かくあらねばならない」や「かくあるべし」の中心には、「経済的自立」という金科玉条が居座っている。
 

沖縄県の民間セラピーをルポルタージュした心理学者の東畑開人は、著書『野の医者は笑う』のなかで、民間セラピーの治療効果のうちに「セラピストとしての起業」という、一事業者としての自立までもが含まれていることを指摘している。ブルジョワ的な考え方 が浸透した社会環境では個人の経済的自立が強く要請されるのだから、セラピーに経済的自立の方法が含まれているのは、とても理に適っている。
『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』より

拙著でも引用した東畑さんの著作では、セラピーと資本主義、精神医療とお金の問題について、鋭い意識が投げかけられている。お金という問題系は、患者さんやセラピストや医療機関も捉えて離さない (このあたりについては、東畑さんのご著書をお読みいただくのが一番だと思う)。
 

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

 
経済的自立が困難な人に経済的自立のすべを提供するのは、ともあれ、重要に違いない。ただ、そうやって現代社会の「かくあらねばならない」「かくあるべし」に寄り添うからこそ、民間療法も正統な精神医療も、現代人に課せられた「かくあらねばならない」「かくあるべし」から私たちを自由にしてはくれない。もちろん、そうした超自我のリストによる締め付けを緩和してくれることならあるだろう。だが、緩和してくれても自由にしてくれるわけではないし、むしろ「かくあらねばならない」「かくあるべし」から遠いところで暮らしていた精神的マイノリティまで、現代人の超自我リストの傘下へと招き寄せるきらいがある。
 

いわばこの、お金によって傷つき、お金によって癒やされ、家庭でも学校でも医療機関でも資本主義と個人主義と社会契約がついてまわる社会のなかで、精神科医もカウンセラーもソーシャルワーカーも、この壮大なシステムと思想を当然のものとみなし、日常業務のなかでは意識すらしない。彼らは、いや私たちは、そうしたシステムにそぐわない思想、システムからはみ出した言動に出くわした時、それらもまた多様性の範疇とみなすことができるものだろうか?
それともやはり、秩序からのはみ出しとして、つまり症状や疾患として取り扱わずにはいられなくなるのだろうか?
※『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』より

 
もし21世紀に神経症的葛藤があるとしたら(いや、あるに決まっているのだが)、その葛藤から自由になれる場所はいったいどこだろう? 少なくとも、精神医療や福祉の現場ではあるまい。もちろん、ここで挙げた「かくあらねばならない」や「かくあるべし」は現代人の超自我であるだけでなく、現代社会の常識であり通念でもあるから、"長い物には巻かれろ"というか、馴れてしまったほうが生きやすくはあるし、馴れるよう援助すべきニーズが存在するのは理解しているのだけれど。
 
私は、そういった援助のニーズとは別に、現代の「かくあらねばならない」や「かくあるべし」から距離を置ける場所、「こころ」の葛藤や束縛から自由なライフスタイルがあっても良いように思う。ところが昭和から平成、平成から令和へと時代が変わるにつれて、人々は行儀良くなり、社会は清潔になり、コスパ主義や効率主義はますます私たちの「こころ」に刻み付けられてしまったから、どこに行けば現代人の超自我のリストの彼岸にたどり着けるのか、さっぱりわからなくなってしまった。
 
"そんなリスト、気にせずに生きたって構わないんだよ"と言ってくれる人は、今、いったいどこにいるだろう? 清潔でもなく、コミュニケーションが得手なわけでもなく、不健康で、不経済で、それでいて葛藤せずに生きる人・生きていける境地は令和の日本にも残っているのだろうか?
 
清潔であるよう、コミュニケーション可能であるよう、健康であるよう、経済的であるよう命じる「こころ」の声に服従しながら暮らしている私には、それがわからない。少なくとも全部わかったとは到底言えないから、もっと知りたいと思いながら本を書いている。
 

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
 

*1:ここでいうフロイトが活躍した社会とは、ヴィクトリア朝時代、とりわけフロイトが診療や研究の対象とした中~上流階級の子女の社会を指す。そこでの「かくあらねばならない」や「かくあるべし」は現在よりもずっと家父長的制度の力が強く、性規範も厳しく、それらが社会全体、階級全体に浸透していて逃れがたいものだった