シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

大の大人がブログを書き続けているんだぞ!わかっているのか!

 
 先日、「「散るログ。ポジ熊。青二才。」 - シロクマの屑籠」という記事を書いたところ、はてなブックマークでやたらと反応があって驚いた。
 
 はてなブックマークのなかには、私が「散るログ、ポジ熊、青二才」という三つのブログを否定していると考えたがっている者が少なくなかった。「ブロガーを馬鹿にするシロクマ」という構図を期待している向きがあったようだが、そのような期待を持たせてしまったのは、ひとえに私の不徳のためだろう。
 
 しかし、あの文章のなかで私は、彼らのブロガーとしての武運長久を祈りたかった。ブロガーとして今を生きているかけがえなさに思いを馳せて、彼らがこの先どう生きていくのであれ、少しでも良く生きて欲しいと願った。
 
 

 それでもチルドさんはときどきヘドロ爆弾のような炎上記事を書くのかもしれない。そのときは、私はきっと「浅ましいやつめ!」と思うことでしょう。しかし、それはそれ、これはこれとして、ブログライフの武運長久をお祈りしております。

 上に書いたように、私はチルドさんやポジ熊さんや青二才さんが浅ましいことを書けば浅ましいと思うだろうし、馬鹿馬鹿しいことを書けば馬鹿馬鹿しいと思うだろう。現に、彼らのブログ記事のなかには、不確かなものや内実を欠いたものもあるし、炎上狙いのものもあろう。青二才さんなどは、人の書いた書籍を読みもせず、知ったようなことをブログ記事に書き散らかしたこともあって、クソが、と思ったこともある。
 
 だが、個別のブログ記事はともかくとして、彼らは既に何年もブログを書き続けて、それが生活の一部となっているわけだ。尊いことも、卑しいことも、ユニークなことも、平凡なことも、とにかくもブログ記事として書き続けている。それも、アラサー、アラフォーといった人々が、何年もブログを続けているのである。そのことの意味を、そののっぴきならなさを、決して軽くみることはできない。彼らはブログを書き続ける者――ブロガーである。
 
 彼らのブログ記事を、みっともないとか浅ましいと言う人もいるかもしれない。私も、そういう風に言うことはある。だとしても、それなら私だって彼らと五十歩百歩だ。いや、私は彼らよりも更に長くブログを書いているわけだから、彼ら以上に、私はみっともなさや浅ましさを書き続けて、恥を積み重ねてきたとも言える。
 
 彼らのブロガーとしての生を馬鹿にするのは容易いが、もし彼らのブロガーとしての生を馬鹿にすれば、その言葉はそっくりそのまま私自身に跳ね返って来る。彼らのやっていることと、私がやり続けていることは地続きだ。ブログを書かない人達には、ひょっとしたらわからないかもしれないが、ブロガーってのは恥ずかしいことであり、浅ましいことでもあり、しかして、それぞれが意味を見出し必死に取り組むものなのだと思う。少なくとも、数年単位で書き続けるようなブロガーはそうだ。
 
 考えてもみろ、アラサー、アラフォーにもなる大の大人が、ブログを書き続けているってことを。そこには意図があり、欲求があり、目的があり、衝動がある。そういったもの抜きではブログなんて書きつづけられるわけがない。マトモなキャリアを真っ直ぐに突き進んでいく人は、決してブログなんて書かない。私も含め、数年以上にわたって頻繁にブログを書き続ける人間は、どこかおかしいし、どこか憑りつかれている。マトモじゃあない。ほかにすることはないのですか。だけど書かずにはいられないからブログが生き残っていく。それは、めでたいことかもしれないが、おめでたいことかもしれないのだ。
 
 そういうことを承知したうえで、私は、散るログ、ポジ熊、青二才という三つのブログに幸いあれ、と祈らずにはいられなかった。
 
 三人とも、それぞれ少しずつ違いはあるし、ブログを書く目的も態度も違ってはいよう。だが、大の大人なのにブログを書き続けているという点では共通しているし、ブログに何かを賭けているという点でも共通している。
 
 彼らがブログを書き続けるモチベーションは、私のソレと同じかもしれないし、違うかもしれない。どの程度までカネのためで、どの程度まで承認欲求のためで、どの程度まで表現欲求や衝動の発散のためなのかもわからない。だがそんな事は些末な違いでしかない。大の大人が、少なくない時間とエネルギーをブログに投げかけているという点では彼らは同じだし、私もまた同じである。
 
 ブログを書き続けることに時間やエネルギーを費やせば費やすほど、その選択は大の大人にとってのっぴきならないものになる。少なくとも私自身はそうだと思う。私はブログを書き続けてブロガーになってしまった。それで得た可能性もあるが、失った可能性もある。他人から評価されることもあるかわりに、たくさんの人から指をさされ、馬鹿にされて、笑い者にされることもある。どちらにせよ、ブロガーをやるとは、そういうことなのだ。
 
 でもって、散るログ、ポジ熊、青二才、この三つのブログもまた、だいぶ年季が入ってきて、随分と時間やエネルギーをブログに費やし続けてきて、のっぴきならない雰囲気になってきた。良くも悪くも、彼らはブログにたくさんのものを賭け続けてきた。得るものも多かっただろうが、失うものも多かったに違いない。かりに彼らがブログを今すぐ畳んだとしても、これまで積み上げてきた時間やエネルギーは膨大で、ブログを畳むという決断自体がのっぴきならないだろう。ブログを長く続けるというのは、そういうことだ。それでもブログを続けていくのがブロガーだし、彼らはまさにブロガーになってきているのである。
 
 私は彼らに「武運長久であれ」と祈った。それは私自身への祈りでもあり、ブログを書かずにはいられない者、インターネットに膨大な時間やエネルギーを費やして、それで人生の帳尻を合わせようと生きあがいている者全てへの祈りでもある。大の大人になっても、まだブログを延々と書き続けている人々よ、まだtwitterに執着を装填し続けている人々よ、どうかお達者で! 個々のアウトプットへの評価はさておき、いい歳してもインターネットに何かを迸らせずにはいられない人々を、最もベーシックなところでは私は肯定したいし、すべきである。なぜなら私自身がその最たるものだからだ。
 
 「すべてのブロガー、すべてのインターネットのアウトプット者に幸いあれ。」
 
 大それた願いだし、叶わぬ夢でもある。だけど根底のところには、そういう祈りがあって然るべきだと思うし、誰かのブログ記事をdisっている時ですら、そのことは憶えておきたい。十年ほど前の私は、こういう事に考えが至っていなかった。だが、今はこう言いたい。大の大人がブログを書き続けているんだぞ!わかっているのか!、と。