シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ソーシャルゲームよりゲーセンのほうが「高コスト」問題

 (※タイトル変更しました)
 
ドラクエ7雑感:スマホ脳になったことを思い知らされる:村上福之の「ネットとケータイと俺様」:オルタナティブ・ブログ
 
 上記リンク先の記事には、「スマホ脳」になった人が久しぶりにドラゴンクエスト7をやってみた際の「めんどうくささ」が書き記されている。
 
 こういう記事を読むと、俺は「あなたが欲しかったのは真正のゲームではなく、エンターテイメントならなんでも良かったんですね」と思ってしまいがちだ。俺は、ゲームがゲームである与件として「上達感が感じられるプロセス」を重視しているので、ゲームの上達プロセスを面倒と呼んで憚らない人はゲーマーとして認めない。なにか「手応え」がなければゲームとして楽しくないじゃないか。
 
 そういえば、俺のシューター仲間の一人が、スマートフォンに移植されたケイブのシューティングゲームについてこう評していた;「あれは俺達が楽しんでいるほうのシューティングゲームじゃない。シューティングゲームの爽快感だけ欲しがっている人のためのエンターテイメントだ」「パターンを組む戦略性や、攻略性が欠けている」とも。
 
 今、スマートフォンで娯楽を消費する人達のゲーム観からすれば「上達プロセスを楽しむ」は理解しにくいことか、忌避されるものかもしれない。それは分かっている。だが、「今、とにかく楽しいゲームがしたい」――ああ、なんというマニア心の欠落!
 
 

「アーケードゲームはソーシャルゲームより高コスト」

 
 しかし、個人的なノスタルジー感覚抜きに考えてみれば、「上達プロセスを愉しむゲーム体験」とは贅沢な遊びではないか。
 
 「上達プロセスを愉しむゲーム体験」は決して安いものではない。どうしたって時間はかかってしまうし、神経を集中させる時間は肉体的にも高コストだ。金額的には低コストでも、金では買えない多くのリソースを費やさなければ「上達プロセス」を体験できない。そのくせ、スポーツのように身体に良いわけでもなく、一部の娯楽のようにステータスになるわけでもないゲームは、社会生活に寄与する余地もない。
 
 まして、ゲームセンターに通って難度の高いアーケードゲームをプレイするとなれば、金銭以外のコストは計り知れない。首都圏在住の人なら、目当てのゲームが最寄の駅前ゲーセンにあるかもしれないけれども、地方在住者の場合、自分の好きなゲームを遊ぶために数十キロ移動しなければならないこともザラだ。
 
 ゲーセンは、いまだ1プレイ100円を基本にしている。金銭的な意味では、現代のゲームエンターテイメントとして破格の低コストと言える。しかし、移動距離・時間的コスト・身体的コストといった観点からすれば、げっそりするほど高コストだ。21世紀にありがちな、忙しくて神経を休める余裕の無い顧客層にとって、ゲームセンターは高コスト体質すぎる。少なくとも、ドラゴンクエスト7を面倒と感じるような人にはそうだろう。
 
 これと対照的なのはソーシャルゲームだ。ソーシャルゲームにも「上達プロセス」は幾らかあるかもしれないけれども、対戦格闘ゲームやシューティングゲームほど顕著ではない。そして課金の程度によっては金銭的コストが際限なく上昇するので、金銭面では高コストなゲームと言える。
 
 そのかわり、ソーシャルゲームはまとまった時間をゴッソリ奪ったりはしないし、集中力を費やさなくても遊べる手軽さはある。スマホで遊べるので移動距離もゼロ、それどころかベッドに寝転がったまま遊ぶこともできる。移動距離・時間的コスト・身体的コストの面から見ると、ソーシャルゲームは低コスト体質だ。コミュニケーションの技能も要らないし、(昔のゲーセンのように)不良にカツアゲされる心配も要らない。金銭面にさえ目を瞑るなら、ここまで低コストで間口の広いゲームは無かったのではないかと思うほど低コストだ。
 
 アーケードゲームとソーシャルゲーム、21世紀の日本の顧客層にリーチしているのはどちらかといわれたら、ソーシャルゲームをはじめとするスマートフォン向けのゲームだと答えざるを得ない。低コスト指向で手軽になったゲームは「上達プロセス」を存分に愉しむようなものではなく、アーケードゲームや海外産シミュレーションゲームが好きな俺としては悲しい限りだが、これも時代の趨勢、時代のニーズなのだろう。みんな、忙しくて、疲れている。
 
 

もうすぐ俺は、ゲーセンでゲームを遊ぶコストに耐えきれなくなる

 
 いや、俺はこんな話がしたかったんじゃない。
 サンクコストとか、そういう話もお呼びじゃない。
 
 嘆きたかった。
 悲しみたかったのだった。
 
 つい先日、友人の一人から「シロクマさん、まだゲーセンでゲームやってるんだ。それって、すごい贅沢だよ」と言われた。その少し前には、全一級のプレイヤーが「もうゲーセンのゲームはやめるしかない。そんな時間も体力も残っていない」と呟いているのを見かけた。悲しかった。
 
 実際、俺もそう呟く側に回るのだろう。アーケードゲームからの引退・シューターとしての死が、すぐそこまで迫っている。仕事に就いた頃の悲観的予測よりはずっと善戦しているというか、ゲーム技能をこの歳まで温存し続けたことを嬉しく思うし、自分が積み重ねてきた体験が無駄だったとも思っていない。『レイフォース』『バトルガレッガ』といった青春時代のシューティングゲームをいつでもクリアできるのも、嬉しいことではある。
 
 けれども、ゲーセンに行って『怒首領蜂最大往生』や『ダライアスバーストAC』を遊ぶためのコストが、いよいよ支払いきれなくなってきた。ここ数年、衰えた動体視力と反射神経に鞭打って戦ってきたのは、無限の後退戦――衰えていく自分自身を直視し続けるゲーム体験だった。かつて俺はゲームの上達プロセスを愉しんでいた筈だった。しかし今は、ゲームを愉しんでいるのか、それとも自分の衰えと戦っているのか、よく分からなくなってきている。若い頃のように、電光石火、アドリブでザックリと弾幕をさばく力ももう無い。俺は目の前の蜂型メカやクジラ型メカと戦っているのか、それとも……。
 
 もともとコンピュータゲームは、若者の、若者による、若者のための娯楽だった。今もそうだろう。だったら、歳を取った俺がシューティングゲームを“ゴール”しても、誰も文句は言うまい。少なくとも、先に引退した連中は文句を言うまい。シューティングゲームに楽しさより疲労を感じるようになってしまった以上、もう先は長くないだろう。哀しみを受け入れ、それでも人生を前進させなければならない。