シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

承認欲求・マズロー周りの、最近の記事クリップ&私見

 
 

 最近、「承認欲求」関連の記事を立て続けに見かけたので、保存がてら、まとめてコメントしてみようと思う。百家争鳴の観だが、多くの記事に共通しているのは「時代の変化」「承認欲求的な何かを体感することの、現代的困難さ」だったとは思う。そのうえで、見通しや対策について色々な人が意見交換している、という風にみえた。
 
 
 なお、このまとめ記事では、混乱をできるだけ避けるために、A.マズローの欲求段階説にある用語「承認欲求」「所属欲求」「自己実現欲求」に統一したニュアンスで書いていくこととする。以下のリンク先の文章は「承認」「承認欲求」がそれぞれで微妙に違っているような気がするが、この記事クリップ上では、一律にマズローの欲求の階層を念頭に置いたうえで言及してみる。
 
 
 
 
 

 今回のやりとりのスタート地点、とおぼしき記事。この記事では、まず「承認」の定義づけから入っているが、内容から察するに、マズローで言う[承認欲求][所属欲求][自己実現欲求]がない交ぜになったもの、を指しているのだろうと想定して読んだ。
 
 内容にはだいたい同意だが、幾つか、注意深くなっておきたい点もある。
 
 例えば、「友人関係」や「恋愛」が、承認欲求や所属欲求を本当に提供し続けるのか?という問題。沢山の同性に囲まれていても、異性との交際があっても、承認欲求や所属欲求が満たされていない、ということが、現代のコミュニケーションのなかでは往々にして見受けられる。携帯メールのひっきりなしな応酬なども、承認欲求が充たされているというよりは、そこまでやってもまだ充たされきれない不安が、強迫的なやりとりの源になっているのではないか、と私は勘繰ってしまいがちだ*1。
 
 http://d.hatena.ne.jp/nitino/20080626にもあるように、お互いの齟齬や疎外にも直面するのが男女関係であり、友人関係でさえも、そういった齟齬や疎外は常に含まれている。とりわけ、相手に対して承認欲求を厳格に求めようとすればするほど、齟齬や疎外をいっそう意識せざるを得ない。個人と個人との付き合いのなかで各種の欲求を充たす際には、“充たしてくれる部分”だけでなく“充たされない部分”が必ずついて回る。そして、この齟齬や疎外----果物に喩えるなら、種や渋みにあたるような部分----を上手く取り扱えない人は、「友人関係」「恋愛」といった機会を持っていてもなお、承認欲求や所属欲求を足りなく感じてしまうことが多い。単に、充たされる度合いの多寡だけでなく、充たされない部分にがっかりする度合いの多寡や、「私の思い通りのあなた」でなければ苛立ってしまう度合いの多寡によっても、承認欲求の体感密度は変化するのではないか。
 
 thirさんも後半で触れているが、これは「コミュニケーションが多ければ良い」「承認が数多いほど良い」というほど単純な問題ではなく、コミュニケーションの質や、消化のされ方、不満の持ち方にも左右される問題と思われる。そして「友人関係」や「恋愛」のような、本来、承認欲求や所属欲求がたくさん充たせると思われがちな関係においても例外ではない、という意識も必要だろう。とりもなおさず、これは「僕らのコミュニケーションって、何なんですか?」を再考しなきゃ話が先に進まない、ということでもある。
 
 

 …なので、このdankogaiさんの記事には、私は割と悲観的にならざるを得ない。
 
 確かに、個人対個人の接続点を持ちやすい時代にはなった。だが、だとすれば、twitterでfollowersが沢山いる人や、SNSで沢山繋がっている人は、もう満腹きわまりないほどに承認欲求や所属欲求で充たされていても良いような気がするし、単なる接続点から、もう少し踏み込んだ関係に発展していって皆がhappyになっていても良いような気もする。
 
 だが、現状のネット利用者達の姿をみる限り、そうなっていない。
 
 その理由の第一は、単に接続点を持つというだけで承認欲求/所属欲求が継続的に充たせる人というのは、あまり沢山いない、ということだろう。接続点を100持とうが1000持とうが、親密度の高い数人程度とのやりとりを代替することは出来ないのではないか。dankogaiさんなら「俺は大丈夫だよ」と仰るかもしれないが、それはdankogaiさんが比較的濃度の薄い繋がりでも承認欲求や所属欲求が十分に充たせる人で、しかも接続点を橋頭堡に関係性を膨らませていくことにも長けた人だからじゃないかな、と思う。または、奥さんなり何なり、単なる接続点以外の人間関係を既に保有しているからではないかとも推測する。社会的成功やら「アルファブロガー的ステータス」やら、配偶者やらといったバックボーンも無しに、ただ接続点をやたら増やしても、それだけで満足出来る人間は、あんまりいないんじゃないだろうか*2。
 
 第二の理由は、“そのような接続点を持ち続けること”“接続点を橋頭堡に関係性を膨らませていくこと”にも、それなりの技能や能力が要求される、ということだろう。確かにインターネットは、沢山の接続点を提供してはいる。しかしインターネットは、その接続点が一期一会に終わってしまわず、持続的で良好な関係へと発展していくかどうかまでは保障してくれない。極論を言うなら、ろくでもない事しか言わない超自己中心的な人間などは、接続点を持っても誰も相手にしてくれず、接続点の維持すら危うい。いくら無限に近い接続点の機会が与えられたとしても、私達が時間的制約や肉体的制約を持っている限りは、個々の人間は、重点をおくべき接続対象〜あまり重視しない接続対象〜全く相手にしない接続対象、などを選別せざるを得ない。接続点の自由化は、コミュニケーション巧者や魅力的な者には、殆ど無尽蔵のチャンスと、良好な関係性への糸口を提供するかもしれないが、コミュニケーションの不得手な者や、嫌悪されやすい振る舞いの者には、むしろ疎外を体験する確率を高めさえするのではないか、とも思う。しかも、インターネット上ではこれらは可視的に進行していくときている*3。
 
 dankogaiさんの記事には、関係性を膨らませていくような出会いの確率の多寡も、関係性を膨らませる能力も、個人の能力的・素養的担保しだい、という含意があると思う。それは致し方のない所だと私も思うけれども、こういう致し方のない部分について認識したうえでdankogaiさんが仰っているのか、それとも気付かずに仰っているのかは、気になるところではある。
 
 

 YOSHIZOさんはリンク先の文章で「自分で承認すれば?」と書いているが、実際にYOSHIZOさんが本当にスタンドアロンなのかといったら多分違うと思う。なるほど、YOSHIZOさんが今すぐブログを辞めたところで、承認欲求や自己実現欲求に飢えてしまうことは無いだろう。だが、「フリーで家族4人が食っていけてる」状態が失われ、現在維持しているそれ以外の種々の人間関係を失っても、果たして同じことが言えるだろうか。私は、結構キツいんじゃないか、と思う(もし、YOSHIZOさんが、奥さんも子どもも顔も見たくないだとか、取替え可能だとか思っているなら、話は違ってくるかもしれないが…)。
 
 空気中の酸素が十分な時には酸素の有難みが全く体感できないのと同様に、承認欲求や所属欲求ってやつも、それが十分に提供されているうちは、ありがたみが分かりにくいものなんじゃないかと私は常々思っている。だからこそ、それを提供してくれる間近な人達のありがたさも、失いかけるまでは気付きにくく、薄情に振る舞って後で悔やむこともあるのだろう。だから、「承認とかどうでもいいや、俺フツーに生活できてるし」と仰っても、それをもってYOSHIZOさんが承認欲求や所属欲求なしでも大丈夫なスタンドアロンな存在、とは私は考えない*4。きっと、YOSHIZOさんも、承認や所属の感覚を誰かと提供しあって生きていると推測する。
 
 尤も、YOSHIZOさんが日常の人間関係や社会的関係から充たしている承認欲求/所属欲求の水準と、はてなダイアラーや非モテ界隈で求められているソレの間には大きな差があるような気はする。YOSHIZOさんが十分に充たされるレベルの承認感や所属感では、案外、非モテ界隈の人達はまだ満足出来ないんじゃないか。あるいは、YOSHIZOさんなら承認欲求/所属欲求が一時的に枯渇したぐらいでも何とかなるけれども、今、困った困ったと嘆いている人達は、絶えず濃密に充たされてなければ満足できない人が多いのではないか。だとすれば、YOSHIZOさん達からみて「なんなんだあの人達は」と見える部分があるのも不思議ではない。この、感覚のギャップは記憶しておきたいところだと思う。
 

 この記事で一番重要にみえたのは、「承認欲求の問題が、幼少期のコンテキストによって大きく左右される」ということに言及している点だと思う。しかし、マズローの欲求段階説だけでは、この、幼少期のコンテキストと承認欲求の問題を接続して取り扱うことが難しい。例えば、mkusunokさんの言うところの『自我の肥大した若者』が、どういう幼少期のコンテキストに基づいて育ってくるのか・ヤマアラシのジレンマをこじらせやすい若者がどのようにして生み出されるのか、について、多分マズローは上手い答えを出してくれないし、そもそも欲求段階説自体、そういう原因探しを目的としたツールではないので仕方が無いと思う。そこから先は、マズロー以外の何かを引用していくのが適当なんじゃないかな、と思う。ポピュラーなところではエリクソン、面倒っちいけど興味深いところでは、ラカンやウィニコットあたりが候補として良いかもしれない。
 
 あと、宗教と承認欲求/所属欲求の問題は、確かに宗教が担ってきた部分は大きいとは思う。ただ個人的には、新しい宗教を新たに信仰していくのと、「生まれた時から、家族も近所もみなが信仰している宗教に、物心ついた頃から違和感無く包まれている」では、かなりニュアンスが違うと思う。「宗教が承認欲求や所属欲求を提供する」と一言で言っても、自分が小さい頃から信仰して当然としている宗教と、新たにみつけた・入信した宗教では、得られる承認欲求/所属欲求の質的相違は無視できないものだと思う。この辺り、時間と根性ががあれば、いつか検討してみたい*5。
 
 ちなみに、この視点で、宗教化していくロストジェネレーション - the deconstruKction of rightの記事を読み直してみると、東浩紀さんが『宗教』ではなく、わざわざ『世界宗教』などと表現していることが、なんとも意味深にみえてくる。一言でスピリチュアルと言っても、その体験の形式と内容は様々だ。カトリックの国で何百年もの間、空気の如く当然のものとして呼吸されてきたキリスト教・明治生まれの人達にとっての日本仏教や神道・江原何某による“スピリチュアルカウンセリング”では、提供される承認欲求や所属欲求の質感はすごく違う筈だ。ましてや、ネットにおける祭りや炎上となれば言うまでも無い。この辺りの、経路の違いと備給内容の違いにまで、誰か踏み込んでくれたらいいなーと期待してみる。
 

 



 
 結局、突き詰めて考えれば考えるほど、マズローの欲求段階説というモデルだけでは、この問題を精密に取り扱うことが困難にみえてきてしまう。「人は、所属や承認や自己実現の感覚を求める傾向にある」という所まではマズロー単品でも納得が出来るし、多分、実際そうなのだろうとは思う。だが、そこから先のところ----「なぜ、承認/所属/自己実現を人は求めずにいられないのか」「なぜ、個人差があるのか」「なぜ、今の時代にそれが枯渇するのか」----はマズローでは分からないし、社会工学的にどういうソリューションが望ましいのかも、これだけでは見出しにくい。ここから先、肝心のソリューションを検討するにあたっては、[承認欲求][所属欲求]といった切り込み方だけで、どこまで問題の核心にアプローチしきれるのか、心もとないような気がする。もちろん、徒手空拳よりはマシかもしれないが。
 
 
 
 [関連:]承認フレームワークの拡張 - socioarc
 [関連:]承認欲求 の検索結果 - シロクマの屑籠
 [関連:]REVの日記 @はてな

*1:これは、twitterでの応酬、MSNメッセンジャーでの応酬、についても概ね当てはまる

*2:ただし、接続点をただ増やすやり方でも、接続点の数がうなぎのぼりに増えている瞬間だけは、一時的に承認欲求や自己実現欲求が充たされる、かのように体感できる場合はあるだろう。しかしこのような体験は長続きしない。うなぎのぼりが終わってしまえば、元の木阿弥、のような感覚に苛まれることになる。それどころか、うなぎのぼりの状態を維持出来なければ飢えた感じに陥ってしまう、という事例も数多い。

*3:いわゆる「けまらしい」問題

*4:稀に、ほぼ完全にスタンドアロンでも全く平気という人もいないことはないが、滅多にいるものではない

*5:が、むしろ頭のいい人達が、何か気の利いたことを言ってくれるのを待っていたい。