計算機と天気予報

気象というのはスパコンの有力なアプリケーションの一つである。地球シミュレータは、名前からして地球規模の環境変動をシミュレーションすることを目的に作られた計算機だし、ICPP報告書の地球温暖化予測にも活用された。また、京(HPCI)でも戦略プログラム5つのうちの1つになっている。もう少し身近なところでは、天気予報に気象庁などのスパコンが使われている。

気象庁に初めて導入された電子計算機はIBM 704であり、その辺の記録がまとめられた本が「人と技術で語る天気予報史」である。ちなみに気象庁のスパコンは5年程度でリプレースされていて、そのスピードアップに合わせて気象予測モデルが精緻化され、予測精度が高まってきた。IBM 704の次はHITAC 5020/5020F、以降日立製のスパコンが続き、現行機はHITACHI SR11000/K1である。さらに最近、次世代機はHITACHI SR16000 M1(847TFLOPS)に決まったと発表された。

さて、計算機を利用した天気予報、数値予報が日本で始まったのは1959年のことである。それ以前は、職人が天気図を眺めて、経験と勘から予報を行っていた。日本海海戦の「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の時代である。この有名な電報は秋山真之が考えたのかと思っていたが、後に中央気象台長(現気象庁長官)になる岡田武松が原典だった。数値予報の先駆けとしては「リチャードソンの夢」が有名である。まだ電子計算機が発明される前で、人力で並列計算を行おうとしたのである。この試みは失敗に終わったが、それから30年後の1950年、プリンストンのチャーニーとフォン・ノイマンらによってその夢は現実となる。その計算にはENIACが使われた。この成果は瞬く間に世界に伝わり、日本でも数値予報を行おうという機運が高まった。

中央気象台に導入される計算機の選定はIBM 704とUNIVAC 1103で争われた。結局、大規模な計算をやるには少ないメモリを効率的に使う必要があるので、ハーフワード演算が可能という点、そして米国気象局での実績から、IBM 704をレンタルするという契約が成立した。当時のプログラミング言語は登場間もないFORTRAN。計算機の世代は移って性能が10の10乗も速くなろうとも、FORTRANはこの分野ではまだまだ現役である。ソフトウェアはハードウェアより「固い」とは最近よく聞く言葉だし、「10年後に数値演算をどんな言語で書いているかしらないが、それがFortranだ」と言った人もいる。導入されて早速台風の進路予測に成功したりしたようだが、天気予報は予報官による主観的な技術から、物理法則に基づく数値予報という客観的な技術へ移り変わっていった。

話は変わるが、IBM 704が導入されてから数年後、気象庁は富士山頂に富士山頂気象レーダを建設することになる。この工事を指揮した気象庁測器課長の藤原寛人(新田次郎)は、その様子を小説「富士山頂」に記している。「富士山頂」は実体験に基づいた小説で、プロジェクトXとしても官製談合の暴露話としても読め、面白い。新田次郎は、岡田武松の次に中央気象台長に就任した藤原咲平の甥である。

さらに余談になるが、たまたま「ソフトウェア品質技術の歴史 その2 (日本のソフトウェア検査)」というページを見つけた。ここには日本語で書かれた計算機関連の文献に「テスト」という言葉が登場したのは、気象庁の著者によって書かれた「大型電子計算機IBM704をプログラムテストして」が最初だろうと書かれている。この著者、藤原滋水は藤原咲平の次男である。藤原正彦は新田次郎の子だし、こうなると藤原咲平が書いたものも読みたくなるなぁ。藤原咲平は一流の気象学者だったが、戦時中に風船爆弾に関わったことで公職追放され、戦後は作家としても活躍したようだ。

人と技術で語る天気予報史―数値予報を開いた“金色の鍵”

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富士山頂 (文春文庫)

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