悪の段階―――『悪童日記』【読書会紹介本】

 

 大晦日ですね。今年の振り返りとか来年の抱負とかを語ることもなく、本の紹介をしたいと思います。

 

 街にカップルが溢れるクリスマスイヴ、大阪で読書会をしてきました。
 (人が多すぎて席を確保できなかったらどうしようかと思った。)
 みんないろいろ予定があるため18時からだったのですが、クリスマスデートの人たちはなんかいい感じのレストランに移動するのでしょう。いつものカフェで今年もまた、語り合うことができました。

 

 私が紹介したのは、アゴタ・クリストフの『悪童日記』。

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 戦争の激化で、大都会から田舎のおばあちゃんの家に疎開してきた「双子」。彼らは何をするのも一緒で、おばあちゃんに殴れるのも、村人を観察するのも、体を鍛えるのも、勉強するのだって、いつも一緒。この小説は、「主観を排した」双子の日記という体裁を取り、情緒的な描写を完全に排して、出来事だけで、戦火の中で逞しく醜く生きる、哀しさを湛えた人間の姿を描いている。

 [以下、ネタバレを大いに含みます]

 

 祖母は貧しく、そして恐ろしくケチで不潔だ。大都会ではお母さんに体を洗ってもらっていたのに、祖母の家には風呂場がない。よく病気にならなかったな! というくらいの劣悪な環境である。しかも夫殺しの疑いを村中からかけられているので、その孫である「ぼくら」も憐れまれるどころか「魔女の孫だ!」と石を投げられる。戦火に焼かれるまでもなく、飛び降りでもしたろかと思ってしまう。

 が、双子は驚きの生命力と我慢強さ、そして賢さを開花させる。お父さんが残してくれた辞書と聖書を使い、作文と暗唱で言葉を学び、大人顔負けの交渉能力を身につける。殴られたとき、罵倒されたときに傷つかないよう、自分たちで殴り合い罵り合う。心の痛みが麻痺するまで。牧師館(神父か?)の女中や家に住まわせている将校に性的に迫られたときは、彼らを受け入れ、その代わりに清潔な衣服と甘いケーキ、権力を手に入れる。

 したたか。とにかくしたたかだ。

 

 彼らは悪いことをする。そりゃそうだ「悪童」なのだから。

 因縁をつけてきたクソガキは剃刀を仕込んだ拳で成敗し、盗み、そして殺人すら犯す。病に倒れ自分の死を覚悟した祖母に、ミルクに毒を混ぜるように言われその通りにする。何もかもを失った隣人の奥さんに「殺して」と言われ喉を切って家を燃やす。積極的な自殺幇助というところか。

 だが、悪童に困らされているように見える、いわゆる「ふつうの」村の住民や、戦況が変わって「独裁政権から国民を救い出す」ためにやってきたはずの兵隊たちも、どう考えても「悪」としか思えない行動をする。人種差別と性犯罪だ。戦時中、村から連行される人々(明記はしていないがユダヤ人)を馬鹿にし、囃し立てる村人。救いに来たはずなのに、村の若い女たちを襲う兵隊の男たち。

 

 悪童(と祖母)と、「ふつう」の人たち。

 どうも私には、彼らの悪のカタチが違って見える。

 

 このぼんやりとした違和感に、考えるヒントを与えてくれたのは、マズローの5段階欲求説だ。

マズローの5段階欲求説 画像

マズローの5段階欲求説

 

 悪童(と祖母)が手に染める悪は、ピラミッドの中でも下の方、生理欲求・安全欲求を満たすため、自分のカラダを守り生き抜くための悪なのではないかと思えてならない。自分に危害を与える奴を殴る、お腹が空いて飢え死にしそうだから物を盗む。そして殺人すら、頼まれたから、自分が罪を背負ってまで人の人生を終わらせる。犯罪だけど、その行動の底にあるのは「愛」というものではないのか? とすら思える。

 村人と兵隊たちは違う。人種差別をしたってお腹は膨らまない。三大欲求に性欲を挙げる人もいるけれど、別にセックスをしなくたって即座に死ぬわけじゃない。食欲・睡眠欲・排泄欲を満たせないと人は死ぬのだ。人種差別も性犯罪(強姦)も、仕方がなかった、そうしなければ自分が死んでいたといえる余地が全くない、極めて自分本位の悪*1である。この人たちの悪は、権力を誇示するため、支配欲を満たすため、弱者の心を砕き自分たちが上だと知らしめるための執拗な嫌がらせに他ならない。社会の中のポジション争いなので、ピラミッドに置き換えると「社会欲求」「尊敬欲求」に当たる。

 マズローの5段階欲求説では、上に行くほど人間として高度な欲求である、成熟しているとされている。しかし、悪の見本市みたいな本作『悪童日記』では、ピラミッドに悪の種類を置き換えると、上にあてはまるほど悪辣さ、人間としての愚かさが際立つ自分勝手な悪だと言うことができる。最後の自己実現欲求レベルの悪ともなると、快楽殺人とかになってきそうである。

 

 人種差別や性犯罪は、そのあまりの醜悪さに、私は憎しみを覚えずにはいられない。加害者は不幸な死に方をすればいいと思う。けれど、生理欲求・安全欲求の―――生きるために、「悪」とされることをせざるを得なかったことは、とても悲しいことで、本人の悪性ではなく、環境にそうさせられたのではないか、と思わずにはいられない。

 「善人」でいられるということは、実はとても恵まれているのだ。努力せずとも善であれる世界だったら、この世はどんなに美しいだろう。そう思いながら、私は本を閉じる。

*1:時代によっては、人種差別に加担しないというだけで殺されるシーンもあっただろうけど、少なくとも現代では、という意味である。