OjohmbonX

創作のブログです。

奈落の底の、もうひとつ底

 お姉ちゃん、ねえお姉ちゃん。あなたは天才だよ。きっと誰も彼もがあなたの前で帽子を脱いで、あなたの存在に感謝することになる。私にはわかる。
 私はお姉ちゃんの過去の作品をモニターに表示させて見ている。本当に誇らしい。一目瞭然という言葉はこの絵のためにあると思う。美しさ、肉感、切なさ、甘さ、全てがお姉ちゃんの絵、この線に結実している。人はただ一瞬それを目にしただけで、全身が武装解除されて気だるくため息をつくことしかできない。
 私は本当に誇らしい。お姉ちゃんと一緒に、BL同人ユニットを組めるという僥倖。ただそばにいた、私が妹だったからというだけで、誰よりも早くあなたの絵を見られるなんて何事にもかえがたい悦び、たとえば無慈悲な神様に、鋼のカミソリで私の喉をゆっくり切り裂かれるような苦痛と引き換えにしたって余りあるほどの悦びだ。
 BL同人ユニット、YOZORA☆NO☆MUKOU。私とお姉ちゃんの、YOZORA☆NO☆MUKOU。


 私は右手をマウスに、左手を下腹部に添える。パソコンの画面には亮太と拓海の二人がついに唇を重ねる、その一秒前の瞬間が映し出されている。ふれあう直前のその唇のやわらかさ、かすかな戸惑いと怯えを伝えるうっすらと開けられた目、涙がその表面を濡らして光を鈍く反射する角膜から少し奥まった位置にある瞳、冬の冷たい空気をはらんだ髪、硬く滑らかな黒の学生服……男子中学生の身体だけが放つ、美しいとは言いがたいけれど、嫌悪して捨て去るには忍びないあの臭いまでもがこの画面から漂うようなのだ。私は今たしかにその臭いを鼻孔いっぱいに嗅いでいる。
 特殊な能力もない、特別容姿に恵まれているわけでもない、どこにいてもおかしくない、紛れもなくどこかの家庭の子供である二人の中学生が、ついに免れがたく、生まれてはじめて唇を重ね合わせようとする。その瞬間を私が目撃している。
 お姉ちゃんのその絵が、彼らの存在を私の前で現実にしている。
 そして大きく割ったそのコマに続いて、やや小さい次のコマで彼らはもう目を閉じて唇を押し付けあっている。亮太が拓海の左右の二の腕をつかんで、顔を寄せて。亮太の幼さくはないけれど大人ほど骨ばってもいない手が、厚い制服の布越しにある拓海の二の腕をつかんでいる。その現実を完璧にお姉ちゃんの線は描出している。


 亮太と拓海の息づかいを前にして、私は下腹部が熱く重くなるのを感じる。スウェットの下、下着の下の素肌に左手を潜り込ませる。性器に触れる必要はないし、そこに愉しみはほとんど覚えない。ただ下腹部に手のひらを密着させて撫でるだけで全身に熱がゆきわたる。座椅子に深く体をもたせかけ、ノートパソコンの画面を見つめる。
 キスの場面より前、授業中に亮太が前の席の拓海の背中や首筋を眺める場面や、移動授業の帰りにふざけて脇腹をつかんでこそぐり合ったりする場面を見つめながら私は、絶頂なんてそ知らぬ顔で、ひたすらだるく体が熱を帯びるのを左手をとおして感じるばかりだ。
 でももう時間だった。ウィンドウを閉じてパソコンの電源を落とす。ノートパソコンを閉じる勢いで座椅子から立ち上がる。もう出勤の時間だ。お姉ちゃんの新しい原稿データが届くのを待っていたのに、今日もこなかった。
 ひとつも覇気のない堕落した同僚たちが働き、そんな私たちの粗を探しては糾弾することに血道を上げる老人の客たちが朝から夕方までたむろする私の職場、郵便局に行く時間だった。


 私がストーリーを考えネームを書き、お姉ちゃんが絵を描き、それに私がトーンやベタ、写植を入れる。
 5年前まではすべてアナログでやっていた。入稿の期日ぎりぎりまで、お姉ちゃんの部屋の小さなローテーブルの上で二人、はす向かいに並んでお姉ちゃんから手渡された原稿に私が手を入れていく。まさに私の目の前でお姉ちゃんの絵が誕生する瞬間に立ち会えるという、心震えるような体験に浴することのできた幸福な日々。実際にはとにかく間に合わせるために必死で、そんな幸福を味わう余裕なんてなかった。今から思えばもったいないことをした。
 今はお互いデジタルデータでやり取りするから、それぞれ自分の部屋で作業するだけだ。一駅離れたところに同じような安アパートに住んでいる。けれどお姉ちゃんからのデータはまだこない。
 まだアナログだったころ、もう作業を終えて次の一枚を待つ私の目の前で、一本の線を引くたびに一度手を止めて穏やかな顔で良否を判断するお姉ちゃんの姿が浮かぶ。お姉ちゃん早くして、間に合わなくなっちゃうよ。そう言おうとしても、お姉ちゃんの深く満足した顔を見れば何も言えずに、私は腰をあげて二人分のお茶を入れに立つだけだ。お姉ちゃんは最高の絵を描き上げ、そして満ち足りた顔で眠ればいい。私は徹夜をしても糞みたいな局を仮病で休んでも何をしてでも、穏やかに寝息を立てるお姉ちゃんの横で原稿を仕上げるだけだ。
 だけどその新しい絵がこない。私はなすすべもない。もうすみずみまで記憶しているのにあてどもなく、ただ過去の私達の作品を何度も見返すばかりだ。


 座ってPCを見るのが億劫で、布団にねころがってYOZORA☆NO☆MUKOUの紙の同人誌を見る。ただエロくやってるだけのBL漫画だ。今は中学生の亮太と拓海の話を丁寧に展開しているけれど、以前はストーリーらしいストーリーもないそんな漫画をいくつも書いてきた。
 男同士だということに何の葛藤もなく、当たり前のように明るくテンポよく、スポーツみたいに性交するだけの漫画。笑顔で精液を飛ばし合うような漫画。お姉ちゃんの絵はこういうものにだって本当に上手くマッチする。どうしたって触れたいと思わせる肉体がお姉ちゃんの絵にはある。汗で輝くはりつめた皮膚の下に薄い脂肪の柔らかさと形の明確な筋肉が触れられそうで、エロ漫画としても最高なのだ。
 だけどこれは、男性受けしても女性受けはあまりしない。ただ肉体的な快楽で彼女たちは満足してくれない。
 女たちがBLを欲するのは、距離の創出の一手段としてなのだ。そもそも恋愛は距離の問題だ。二人がいかに距離を詰めるか、その物語だ。お金持ちと貧乏人、敵対する家柄、遠距離恋愛、非業の事故死、ありとあらゆる距離をつくりだして、どうやってその距離を埋めていくかを見せていく。男同士、社会的に許されない恋、あるいは自分を求める相手を社会を内面化させて嫌悪する、その距離をいかに取り除いていくか。BLもまた、そうした距離の廃棄という物語の一つのバリエーションに過ぎない。
 男たちの多くはエロの道を、女たちの多くは恋愛の道を歩いてBLを辿ってくる。途中で引き返す者、腰を下ろす者、妙なルートからやってくる者さまざまいる中で、歩みを続けた者たちはいつしか自分が男女の別もなく、エロと恋愛の分け隔てないBLの道を歩いていることに気づくだろう。
 私もまた恋愛と具体的な肉体としてのエロの両方を楽しめる地点には着いたけれど、本当に興味があるのはもはやそのどちらでもない。私はただ、お姉ちゃんの絵を、線を、最高の形で実現したいだけだ。あの人の絵を最高に輝かせるために、ストーリー、コマ割り、構図、セリフ……すべての要素が奉仕するように差し向ける、その交通整理をしているだけなのだ。


 パソコンを立ち上げてpixivを見る。YOZORA☆NO☆MUKOUのページを開く。これはサークル名義だけどお姉ちゃんが一人で管理してる。新着作品はなし。息抜きに別の絵をアップしたりしてるかもと思ったけど、原稿に専念してるのかな。
 現実のお姉ちゃんが時給900円のゴミみたいなコンビニバイトに甘んじているなんて不当な仕打ちだ。月に数枚の絵を描いて悠々と暮らしていけないなんて変だ。なのに商業誌からの誘いもかからない。ちゃんと声をあげないといけないと思った。ここに天才がいるよ、誰もがその存在に無償の感謝を捧げずにはいられないほどの、天才がここにいるよって。
 今まで自分たちのホームページを持ったことがなくて、ただ他のサークルと仲良くなってイベントで委託販売してもらってただけだった。ぜんぜん売れなくて、それはアピール不足のせいだと思ってた。でもpixivのことを知ってこれだと思った。ここで有名になればお姉ちゃんは世界のお姉ちゃんになる。そうして始めたpixivだった。
 最初はオリジナルの絵を描いていたけどお気に入りがつかなくて、エロだと思ってエロを始めてもらったけどだめで、版権の方が見てもらえると思ってミスフル、黒バス、ハイキューといったジャンプのキャラも描いてもらった。ノルマンディー秘密倶楽部だって描いた。CCさくらなんかの少し前のにも手を出した。忍たまみたいなド王道も描いた。ちゃんとタグもつけた。そうしていつからか、お気に入りをつけてくれる人があらわれた。


 YOZORA☆NO☆MUKOUの作品にお気に入りをつけて、メッセージをくれた人が一人だけいたのだ。
 いつも楽しみにしています。素朴というか、素直さが伝わってくる絵ですね。心がきれいなんだと思います。これからもがんばってください。
 お姉ちゃんがメッセージを私に見せて返事を書いてと頼んできたのだった。同じお姉ちゃんの絵を前にしても、人によって感想も違うんだなと新鮮な気持ちだった。ようやく世界にひとつヒビが入ったと思った。ここから決壊して世界中のファンがなだれ込み、お姉ちゃんの天才に熱狂することになるんだ。今その瞬間に私は立ち会っている、そう興奮しながら返事を書いたけど、そのあと特にお姉ちゃんから返事がきたとも聞いていないし、最近はまたお気に入りがゼロになっているから、世界に入ったヒビはすみやかに修復された模様。
 ファンからのメッセージを私に見せてくれたときお姉ちゃんはうれしそうにしていたけれど、私から誕生日プレゼントを受け取るときくらいの顔をしていただけで、私ほどには興奮していなかった。お姉ちゃんはファンとの交流なんて関心がないのかもしれない。
 だからお気に入りが消えたっていうの? そんなこと関係ない。揺るぎなく真の才能がここにあって、それを私が十分に目に見える形にしてきたのだ。なのに、どうして正当に評価されない?


 この世界は本当に腐っている。今日も仕事中に客のババアが私の顔を見てもっと笑えという。あんたは美人じゃないんだから、ちょっとでも愛嬌を見せないとだめだという。愛嬌なんて見せれば気味悪がられて生きてきた人生なんだよババア。そんな思いを目線に込めたら、ひいーぃ、こわいこわい、そんな目で客をにらむんじゃないよ、あたしは客だよ、とババアが怒り始めて主任が謝った。
 イベントに参加せずいつも委託なのは、地方で遠いからというばかりじゃない。私もお姉ちゃんも美人というタイプではないから、顔を見られて幻滅されないようにという配慮もある。お姉ちゃんの絵を高めるためのブランディングというわけだ。なのに、どうして実を結ばない?
 お姉ちゃんはpixivでお気に入りがぜんぜんつかなくても、イベントで100部刷って97部売れ残っても(1冊は委託先のサークルに無償で渡してる)、ほほやまぶたが落ちて年々目付きが悪くなっていく自分の顔のことも、何一つ気にせずにただ世界最高の絵を描き続けている。なのに世界はそれを無視している。
 こんな無情な世界に放り出されたあわれなお姉ちゃんのことを思って、そしてこの世界の情けなさにまるで気づかずに満ち足りた顔をして生きていくお姉ちゃんのことを思って、私は泣いてる。


 いたたまれなくなって、自転車をこいでお姉ちゃんのアパートに向かった。ひざがいたい。寒さで耳の先と鼻の奥が割れそうに痛い。お姉ちゃんはいなかった。バイトかもしれない。近所のマックで待つ。お姉ちゃんの連絡先はパソコンのメールアドレスしか知らない。ケータイやスマホを持ってるのかどうかも知らない。ひざがいたい。一時間してもう一度アパートに行ったら明かりがついていた。ねえお姉ちゃん、そろそろ原稿を描かないと、夏のコミケに間に合わないよ?
「ごめんね。すぐに描くね。」
 ひょっとして描きにくいところある? ストーリーとかネーム直そっか? まだコミケまで7ヶ月あるし大丈夫だよ?
「そんなことないよ。またできたら送るね。」
 うん。楽しみにしてる。お姉ちゃん、なんかちょっと、雰囲気かわったことない? どこがってわけじゃないけど……
「えっへへ? 気のせいでしょ。」


 ついに新しい絵が届く。亮太の家へ学校帰りに遊びにきた拓海が、ベッドの端に腰かけて漫画を読んでいる。二人とも学生服の上を脱いで、長袖の体操服姿だ。拓海のうしろで寝転がっていた亮太がふと上半身を起こして拓海の背中にぴったりと体をつける。そして拓海を抱え込むように座る。拓海は気にせずそのまま漫画を読み続けている。ふいにあははと笑う。
「それ面白い?」
「うん」
 生地のやや厚い体操服の綿の質感や、そこに腕を回してできるシワ。男子中学生の部屋の雰囲気。そうそう、亮太はポスターの類を壁に貼るタイプではないし、壁にあるのは新聞屋がタダでくれる大判のカレンダーだけで、部屋の隅に技術家庭の授業で作らされたキャスターつきの木のラックが置いてあるのもとても実感として迫ってくる。
 やっぱりすごい。この絵、この才能なのだ。世界の誰よりも早くこの途方もない感動に接するのは私。しかしこの感動の存在を世界はまだ知らない。ほとんどのファンたちがまだ深い水の底に沈んでこの輝く光があるのを知らない。


 この夏コミ用の1枚目の原稿は、お姉ちゃんから送られてきたその翌朝までに徹夜して仕上げたけれど、2枚目は2ヶ月経ってもまだ送られてこなかった。もう一度自転車に乗ってお姉ちゃんのアパートに出かけた。冷たい風が私の耳や鼻を攻撃してこなくなっていて、もう春なんだと思った。ひざがいたい。お姉ちゃんは部屋にいた。お腹がふくらんでいた。えっ、どうしたの、妊娠……相手はだれ……?
「えっへへ?」
 父親のことはわからない。
「ごめんね。次の原稿、すぐに描くね。」
 うん。だけど、赤ちゃんのことはどうするの……
「だいじょうぶだよ。」
 私は少し混乱して落ち着こうと思ってトイレを借りた。便座に腰を下ろして、まぶたをやや強く両手でおして、何も考えないようにしてしばらくじっとしてから、トイレを出た。洗面所でまだ水は冷たいからお湯になるのを待って、水が流れる音を聞きながら、蛇口から鏡に視線を移したら、お姉ちゃんそっくりな顔がま正面で私を見返していて私は声も出ない。
 肌は枯れ、細かなしわが表面を覆い、まぶたは重く垂れて目からは光が奪われている。
 いつの間にこんなに年を取ったんだろうと思ったけど、何言ってんの、いつもの顔じゃんかと思い直して、手を洗って部屋に戻った。お姉ちゃん、ほんとに大丈夫なの、相手の男の人、お金のこととか……結婚とか……
「うん。だいじょうぶだよ。心配かけてごめんね。」
 あまり私の顔が晴れないのを見てか、お姉ちゃんは冗談めかしてこう言った。
「今までさんざん男の子たちに精液を浴びせて、注いできたんだから、ばちが当たったのかも。」
 ばち。赤ちゃんをばちと呼ぶの。


 亮太は拓海の腹のあたりに回していた右手を股間に伸ばす。
「は? なに?」
 拓海は漫画を読みながら右手でそれを引き離す。亮太はおとなしく右手を腰の位置まで戻して、拓海は漫画を読み続けている。しばらく亮太も拓海の肩越しに漫画を見ている。それからまた亮太は拓海の股間に手を伸ばす。拓海は無言のままそれをまた跳ね除ける。顔つきや態度から苛ついているのがわかる。だが亮太は力を込めてしつこく狙い続ける。
「え。マジでうっとうしいんだけど」
「いいじゃん。別に」
「はあ? てか何がしたいわけ? 意味わかんねーし」
「何って、別に……」
 言葉を交わしながら攻防が続いていく。
 亮太が一度あきらめてぼんやりした顔で拓海の漫画を見ているコマは二人の並んだ顔のアップになっているけど、これだとまるで仲睦まじく見えて少し違う気がする。むしろ引き絵にして、ベッドに腰かけた全身を見せた方がそれらしい気がしてきた。なにか突き放した視点から見た方が関係が現れてくる。
 前作で亮太は拓海とキスしているけれど、あれはさんざん迫った末なのだ。「彼女できてキスするときに下手だと困るじゃん」、「練習っていうか」、「拓海にとっても練習になるし」、云々。そうした本当に愚かで拙劣な説得を積み重ねて、頭があまりいいわけではない拓海を曖昧に納得させた上での、あのキスなのだ。


 これは直接話をした方がいいなと思ってお姉ちゃんちに行った。お姉ちゃんは嫌な顔なんてせずにそうだねと言ってその場で直し始めた。
 もともと私たちのコマ割りは複雑じゃない。コマ枠を斜めにしたり、ぶち抜きで人物を入れたりはしない。そうした動きに頼ることはお姉ちゃんの絵を活かすこととは違うから。そのお陰で直しもただそのコマだけで済んだ。
 急になつかしい感じがした。昔お姉ちゃんと一緒にこたつに入ってマンガを描いたりしてたことを思い出した。そうだ。私はお姉ちゃんの才能がどうとかじゃなくて最初は、熱心にお姉ちゃんにカップリングやシチュの話したり、一緒に絵を描いたりするのが楽しくてやってきたんだ、その先にいるんだってことを今さら思い出してなんか恥ずかしいような気持ちがした。
 そんな話をしたらお姉ちゃんはまたそうしたらいいという。一緒に住んでマンガを描いたりお話したりすればいいという。私は、この子の父親はどうするつもりなのと思ったけど、お姉ちゃんは自然な顔をしていたから何も言えなかった。
「それに、私もだんだんお腹が大きくなってきていろいろ不便なこともあるし、妹が一緒だと安心だしね。」


「ってゆーか落ち着けって」
 亮太と拓海の攻防は続いている。落ち着けなどと言われて亮太は顔を真っ赤にする。後に引けなくなっている意地と、拒絶の身振りそれ自体が高めていく性欲のはざまでどうにもならずに、無意味に顔をにやつかせて力任せに拓海のズボンに手を伸ばそうとしている。
 ベッドの端に座っていた二人が、そのまま背中から倒れてマンガは床に落ちた。
「てか人にされたことないだろ? 自分でするより気持ちいいんだって」
「だから別にいいし、そういうの」
「試してないのにいいとか言うのおかしくね」
 亮太は自分が馬鹿なことを言っていると言いながらわかっているけどどうしようもない。どうせ拓海は頭が悪いから、こうした言い分がとても馬鹿げているということに気づかないだろうという侮りで自分を騙すしかない。なんの説得にもなっていない説得、理由になっていない理由を重ねて欲望を果たすしかない。
 そんな亮太の内面は直接どこにも描かれはしない。言葉で説明したりもしない。ただ外側から二人の攻防が描かれるだけだ。だからこれは、書き手の優越権なんてどこにも存在しない中での、私の一解釈でしかない。だけど、たしかにお姉ちゃんの絵はそうした亮太の男子中学生の愚かで切実な性衝動を説得的に描いているのだ。
 すごくいいと思うよ。私は好きだな。ただそれだけ言うと、ローテーブルを挟んで向かいに座っていたお姉ちゃんは次の原稿を描く手を止めて、
「えっへへ?」と嬉しそうに笑った。「私もこの話かなり好きだよ。男の子の、なんていうか、焦ってる感じがあって。」
 私は私が考えているところがそのままお姉ちゃんと共有できていることを実感できてとても大きな満足を感じた。


 自分のアパートはとりあえずそのままにしてお姉ちゃんの部屋で同居を始めた。私のノートパソコンも持ってきた。原稿の進みも早くなった。一人暮らしが当たり前になってきていたから、久しぶりに人と一緒に生活するっていうだけで楽しかった。
 赤ちゃんの名前はYOZORA☆NO☆MUKOUにしよう。これなら女の子でも男の子でも大丈夫だし。
「とんでもないキラキラネームだね。」とお姉ちゃんが言って二人で笑った。じゃあ拓海か亮太ならいいんじゃない。普通の名前だし、シューカツで落とされたりしないんじゃない。
「でもぜったいホモじゃん。」また二人で大笑いした。昔二人で何時間でもずっと飽きずに話し続けてた感覚がなつかしくよみがえってきた。学校の友達とかより誰よりも、お姉ちゃんと話をするのが楽しかったんだ。


 あっという間に三十分以上も経って、その間ずっと「いいじゃん別に」と同じことを言い続けて亮太が迫り、「意味わかんない」と同じことを言い続けて拓海が拒絶していたのに、ふいに拓海は「えー……」と曖昧な態度で拒絶を緩め始めた。亮太は拓海を抱え込みながら後ろから手を伸ばして、ズボンの上からぎこちなく乱暴に擦っている。
 それは何も、拓海が亮太の説得に納得したからじゃない。どれだけ抵抗しても止まない現実に、諦めるという態度で彼なりに対処しただけだ。ただし彼自身はそうした諦念には無自覚で、(まあ、確かに一度くらい体験するのも悪くないし)と自分の意志で納得したのだと思い込んでいる。
 私がネームにそこまで書いていたわけじゃないのに、亮太が拓海の股間をズボンの上からさする手が、握るわけでもつまむわけでもなく、手のひらでごしごしと擦っているだけというのがとてもよくて、うれしくなってしまう。布の膨らみ加減も全く適切に表現されている。
 やっぱり素晴らしい。ため息をついて思わず向かいのお姉ちゃんをみると、お腹に手を乗せて天井を見上げていた。ずいぶんお腹が大きくなってきてつらいらしく、最近はあぐらをかいて座っている。
 作品が完成していく。お腹が膨らんでいく。私の顔が、どんどんお姉ちゃんに醜く近づいていく。


 亮太が拓海のズボンのベルトを外す。拓海はもう特に抵抗しない。それどころかズボンをずり下げるとき腰を浮かして協力的でさえあった。これは自分の積極的な選択だと本人は思い込んでいるけれど、無意識に早く終わらせたいだけなのだ。
「え、下にジャージ履いてんの」
「だって寒いじゃんか」
「でも部屋は寒くなくない?」
「うん」
 ジャージも下ろすと拓海はチェック柄の裾が長いトランクスを履いている。洗濯を繰り返して生地が薄くなっている。真ん中が勃起に押し上げられている。それも膝まで下げると性器があらわになる。陰毛はそれなりに生えているものの、細長く未発達な性器がぴんと立っているのを二人して黙ってみている。亮太がつまんで何気なく皮をぐっと押し下げる。
「いてっ。ちょっ」「え、むけないの」「そうだよ。亮太むけんの?」「うん」「マジ?」
 それから黙ってつまんだ性器を上下し始める。
 修正を入れるのは惜しい気がした。皮に包まれて、手で触れなければ亀頭の段差もわからないような先の細い子供ちんちんをこんなにたしかに描いているのに。それがぴんぴんに勃起している様子のかわいさといったらない。最小限に細い線を入れるだけにしよう。
 彼らの世界は冬のままなのに、だんだん私たちの生活は夏めいてきた。彼らの季節を置きざりにして私達の季節がどんどん進んでいく。


 ずいぶん暑くなってきたけれど電気代がきついからエアコンはつけない。お姉ちゃんは小さなシャツがめくれ上がってふくらんだお腹をまるだしにしている。本当にみごとにスイカみたいにまるい。ベランダのそばにぼんやり立ってうちわで扇ぐお姉ちゃんのお腹を、カーペットの上に座って眺めていると、お姉ちゃんはよちよち近づいてきた。だんだんお腹が視界を圧迫していって、すごい迫力。つるつるして、全体にうっすらと汗をかいてつやつやしたまるいお腹が顔面にある。私はその球体に口づけした。唇がぴったり吸い付いて、お姉ちゃんが「くすぐったい。」と言って笑ったから口を離した。
 本当にいとおしいと思った。生まれてくる赤ちゃんはどんな子だろう。そしてどう大きくなっていくんだろう。
 ほとんど完成に近くなって、もうこの先をぼんやり想像している。
 亮太はきっと自分のを見せたいだろう。拓海より子供らしくなく成長している自分の性器を誇示して優越感を得たいに決まっている。そのための言い訳とストーリーを私と亮太は考えていく。たとえばAVを見せて一緒にしこるとか。自分のケータイをまだ持たせてもらえない拓海と、もうスマホを持っている自分との差を利用して適当にネットで落としてきたAVを用意して交渉材料にするのだ。
 ゆくゆくは性器の挿入をしたいとか思うのだろうか。だけど絶対に拓海はそこまでは許さないのだろう。コンドームでも持ち出して、付け方とかわからないと彼女できたときに困るだろ、練習だよ、なんて言い訳を亮太はむなしく並べ立てるのだろう。もうその頃には高校生になって拓海は女の子と遊ぶことも覚えてもうそんな代替行為に意義を見いださない。
 お姉ちゃんはきっとコンドームのきつさや張力を完璧に、切ないほどに生々しく描き出すだろう。
 本当に将来が楽しみで仕方がない。だけどまずは目の前の原稿が大事。お姉ちゃんの完璧を目指して私は最後まで気を抜かない。


 拓海は自分で体操服を胸の上までたくしあげている。剣道部で筋トレをさせられているせいで腹筋が割れている。亮太はあいている方の手で拓海の腹を撫でる。拓海のもう一方の手はあいまいに自分の太ももの付け根あたりに置かれている。二人とも頬が紅潮して息が荒い。
「やばっ。あ、出る」
 無言で耐えられるほど射精に慣れきっているわけではない中学生が上ずった声を上げる。その性器は痙攣するけれど、精液は皮のすぼまった先からだらだらと流れるだけだ。お姉ちゃんのお腹が突然しぼんでしまった。
「産んできちゃった。」
 私は少しぼんやりしてしまって、それから憤りが私の体をこわばらせながら叫んでた。赤ちゃん! どうしたのよ!? あたしたちの赤ちゃん! だけどお姉ちゃんは笑ってた。
「どうしたの、母親みたいな顔して怒ったりして。」
 赤ちゃんはどうしたの、どこで産んだの、蒙昧な女子高生みたいに、公園の公衆便所で産み捨てたとでも言うの? お姉ちゃんはそうした問いに答えずにただにこやかに笑うばかりだった。私は戦慄した。
「あんたが怒ることないじゃない、私が母親なんだよ。だってほら、こんなにおっぱいも張って。」
 お姉ちゃんはシャツを胸の上までたくしあげた。私はそれを見上げてた。もともと大きかった胸がさらに容積を増していた。お姉ちゃんは胸を乱暴につかんで絞ると母乳がほとばしった。私は真夏にそれを浴びていた。
 ティッシュを何枚も使って拭きながら、亮太が拓海にキスしようとするが、拓海は間に腕をさしはさんでそれを拒む。
「この前だってしたじゃん。」
 亮太のこの卑怯な非難には答えずに拓海が聞き返す。
「あのさ。お前俺のこと好きなの?」
 亮太は拓海の顔を見たまま固まってしまう。何も答えられない。だって別に好きなわけじゃない。ただこいつの見た目に何かたまらず性欲を掻き立てられるというだけだ。正直に性欲の捌け口だと言うことも、平気で好きだと嘘をつくこともできずに亮太は黙ってしまう。その顔を拓海は黙って見返している。もう私はお姉ちゃんのためにお話を書いたりしない! お姉ちゃんの絵を仕上げたりしない!
「そっか。じゃあ私ももう絵を描かない。」
 お姉ちゃんは寂しそうにそう言った。私は信じられない。ふいをつかれた。だってそんなのあり得ない。お姉ちゃんは天才だよ。なのにもう描かないなんてひどすぎる。
「じゃあ桜も書くよね。お姉ちゃんと書くよね。いままで通り。」


 YOZORA☆NO☆MUKOUの新作は、夏コミで1冊だけ売れて、委託してくれたサークルさんに1冊渡して98冊が手元に残った。
 夏コミに出す原稿が仕上がるまで。お姉ちゃんが妊婦でいるあいだ。そうやって始めた同居だったから、理由が終わって私は自分の部屋に帰った。
 何も変わってない。今までと変わらず、これからもただ、私はお姉ちゃんの絵をパソコンの前で待つだけだ。


 私たちにはやっぱり絵しかないんだと思った。YOZORA☆NO☆MUKOUに人生をかけて、めちゃめちゃ本気でやっていかなくちゃと思った。
 決意を固めて、リセットする。もう亮太と拓海の話は続けない。一から考え直そう。それから他人の評価が知りたいと思った。世界を呪うのはもうやめよう。売れないとしたら私のプロデュース能力が足りないか、ストーリーやネームやセリフ回しが悪いか、何かなのだ。
 それではじめてエゴサーチをした。YOZORA☆NO☆MUKOUでググるとpixivや委託してくれてるサークルさんの告知ページが最初にヒットしていった。その後の方に2chのスレが引っかかった。
【据え膳食わぬは】腐を食うスレ その8【男の恥】
「YOZORA☆NO☆MUKOUとかいうやつ食ったった。pixivでブクマつけ続けてメッセージ送ったら普通に会えたぞ」「見てきたけど絵が小学生みたい。アスペだろ」「アスペじゃなかったけどブスでババアだったorz」「でも食ったとかww」「人気の絵師は狙えないけど人気無さすぎもヤバイな」「ふつうに名前とか出して大丈夫かよ」「番号も本アドも渡してないし平気。pixivのアカも消したし」


 なるほどね、と思った。ブラウザを閉じてノートパソコンも閉じた。立ち上がってベランダに歩み寄って窓を開けた。涼しい風が吹いて、もう秋めいている。
 お姉ちゃんが35歳、私が33歳になっていた。