さようならアーティスト
道端に吐かれたゲボ、階段に吐かれたゲボ、駅のホームに吐かれたゲボ、スクロールしていけばいくつもの、色とりどりのゲボの写真が流れていく。そんなブログがあった。何のコメントもプロフィールもなく、それがどこなのか、どんな意図で撮られたのか、いったい誰が撮っているのかもわからなかった。
ブログタイトルは「ゲボ」だった。
インターネットが広く開かれた空間だなどという言説は、まるで正しく、その正しさゆえにまるで無意味なのだ。例えばいつも通る道の脇にふいに空き地ができたとき、人はいったい今までそこに何が建っていたのか思い出せない。民家だったのだろうと思っても、かつての形も特徴も何も思い出せない。衆目にさらされた環境にあっても誰もが見過ごしてしまう。そんな民家に似たブログは世界中にいくらでもあって「ゲボ」もその一つだった。
2004年から開始され、当初月に1枚ほどのペースで写真はアップされていたが、2007年の5月あたりから月3、4枚に増えていた。たとえ更新頻度が上がろうと、言葉がほとんど書かれていないため検索エンジンに引っかかることもなく、誰にも省みられることのないまま開設から5年ほどが過ぎた。ほとんど道端に建ってさえいない家、他の家々に阻まれた奥に建った家のようだった。
しかしそれが家である以上、アクセス可能な小路がひとつは用意されていた。ブログサービスのポータルサイトの脇に小さく表示された5件分の新着記事リストがそれだった。「ゲボ」が更新されたタイミングと、ポータルサイトにアクセスしたタイミングが重なり、さらにリストに意識がいき、その上でクリックするという奇跡に近い偶然の重層によってようやく、月に5人ほどのアクセスがあった。ほとんどが鮮明な写真に気分を害されて即刻退去した。しかしたまには奇妙に思って少し記事をさかのぼる人もいた。さらにそのうちの数人が「変なブログ見つけた」と2ちゃんねるやツイッターに書いた。何人目かの紹介者のツイートが数人にリツイートされ、偶然二段目のリツイートでフォロワーが8千人ほどいるユーザーがいたために、これはいくらか広まった。
そこから遅れて「ゲボ」ははてなブックマークでホットエントリ入りを果たした。そうした日本の情報を自国に紹介する人が海外にもいて、世界中の一部でこの奇妙なブログは紹介された。数千人の脳に、「GEBO」という単語がほんのひととき記憶された。
こうしてついに、住宅地の奥にひっそり建っていた「ゲボ」は耳目を集めるに至った。しかしそれはせいぜいインターネットの一部であり、世の中の大多数はそんな話題を知る由もなかった。「ゲボ」というミステリーを楽しんだ人々も「知る人ぞ知る、私だけの楽しみ」という形で面白がっただけで、ほとんどが根本的にゲボそれ自体に対しての興味が希薄だったため、これを機会に「ゲボ」が多くの講読者を獲得するといったことにはならなかった。ただ数人の物好きと、真実のゲボ愛好者だけが残っただけだった。
一瞬の喧騒の前も後も、「ゲボ」は一貫して淡々とゲボの写真を載せ続けるだけだった。住宅街の静寂が取り戻され、世界中で30人ほどに増えた閲覧者たちに見守られていた。
一時的に興味をもって騒いだ連中も、もうすっかり「ゲボ」のことは忘れていた。しかしその記憶をふいに呼び覚まされる出来事が起きたのだった。
「ゲボ」の作者がタモリ倶楽部に出演したのだ。
テレビの前で彼らは阿呆みたいに「あーっ」と言って、独りで見ていた者たちはそのまま「あれー。あれー。わー」などと奇妙なうわ言を発し、誰かと見ていた者たちはかつての騒動の顛末をなぜか自慢げに、テレビに追い付かれまいと必死にそばにいる者に語ったのだった。
タモリ倶楽部に現れた以上、一家言を持った趣味人に違いないと誰もが確信して視線をテレビに注いでいたし、タモリ他出演者も彼をそう見なした素振りだったが、すぐに様子が違うことに気づき誰もが困惑した。ゲボには何かこだわりがあるのかとタモリが訊ねると特にないというのだ。ただ会社帰りに見つけたら写真を撮っているだけだという。冷笑的な態度ではなく極めて真面目に言うのだ。ほんこんが「ほななんであんたタモリ倶楽部に出とんねん」とデリカシーの一切欠如したツッコミを浴びせると、少し狼狽した様子すら見せながら、タモリに会いたかったからオファーを受けたのだと言う。若手お笑いコンビの一人が、ネットで一時期話題になったことに触れると、彼は知らなかったと答えて驚いた様子だった。彼はたまにヤフーのニュースを見るくらいだという。
ひとわたりの尋問がすんだところでゲボ写の閲覧会が始まった。彼にはこだわりがないので写真はスタッフが選んだものだったし、タモリや江川がゲボの形状から吐かれたときの様子や、内容物から食べたものをあれこれ想像してコメントしているのに、彼はただ感心するばかりでゲボに関する興味も洞察も江川以下だった。
唯一彼が意見らしい意見をしたのは、若手芸人が、モザイクばかりで視聴者にはぜんぜんわからないとツッコんで笑いを誘った直後だった。でもお酒の会だって視聴者には味はわからないけれど、皆さんのリアクションを見て楽しめます、と言った。タモリが笑いながらそうだねと言って、ようやく彼はうれしそうな顔をした。
この放送で「ゲボ」は一般の人にも少しは知られる存在になった。しかしほどなくして「ゲボ」は閉鎖された。家族や同僚にこのブログが発覚したのだ。彼には妻子があった。誰もなにも言わなかったが、恥ずかしくなって自主的にやめたのだった。なんの跡形もなく消えてしまった。
けれどすべての写真と日付を保存していた奇特な人はいて、しかも掲示板を立ててまとめてアップまでした。それに続いて自ら撮ったゲボ写を投稿する者たちが現れた。ゲボを愛する者だけではなく、ほとんど悪意に近く、なかばふざけて写真を投稿する者たちもいてそれなりに賑わっていた。
ハンドルネーム「師匠」はかなりの投稿量を誇っていたが、いつも似た内容物のゲボで場所も代わり映えしなかったため自演疑惑が沸き上がった。掲示板は荒れに荒れ、師匠は反論と罵倒で迎え撃っていたが、発言の矛盾点をつかれて馬脚をあらわし、ついには自演で何が悪いと開き直る始末だった。改めて自演で悪いかと言われれば別に悪くないなという話になり、撮影後に路上のゲボを片付けるという約束で自演は容認された。
それとやや平行する形でライブゲボが議論の的となった。路上にたたずむゲボのみならず、現に吐かれている最中のゲボと吐き主の写真が投稿され始めたのだ。人を写すのは倫理に反するとか美学に反するとかいう反対論の一方で、そもそも路上にゲボる奴が反倫理的なのだから制裁の意味も込めて載せればよいという肯定論もあがった。結局、管理人が介入し、ライブゲボ写は削除するし、あまりに投稿が跡を絶たないようなら掲示板を閉鎖する旨を通告して収束した。
ところどころで大小の騒動をはらみながら、ゲボ板の運営は落ち着いていった。
ところがブログ時代からの古参たちはゲボ板の写真に違和と不満を感じ始めていた。アップで鮮明に捉えた写真か、解像度が低く暗いケータイのレンズで撮られた写真ばかりで、かつての「ゲボ」が見せた写真と何かが違うのだ。
うまく撮ろうとしてしまっている、あるいはあまりに無頓着に撮ってしまっている。しかしかつての「ゲボ」はどちらでもなかった。一枚一枚を比べてはっきり違いがわからなくとも、並べて流れで見てみればその姿勢や思想がまるで違うのだ。そもそもそうした姿勢や思想などとは無縁のあり方がそれらの写真には具現化されている。どこか淡々としているという印象はそこからくるのだ。対象を突き放しているというのでもない。突き放すとは意思である。そうした意思を欠いて、遠くもなく近くでもない位置から捉え、最もゲボが輝くアングルには収まらず、かといって無造作に撮った風でもなく、もはやそこでは意思も撮った主体も消失している。作者性なき作者性という稀有な事態が、ここに顕現しているのである。
そういった批評のような論を展開したブロガーがいて、はてなブックマークを12人集めたものの、ただそれだけだった。
そんなわけで、かつての「ゲボ」の新作を待ち望む者が世界中に120人ほど存在していた。しかし本人はそんな気などさらさらなかった。
世界に咲いた一輪の花、高潔なゲロの花はもう咲かない。誰の意図とも無関係に偶発的に咲いた奇跡だったのだ。しかしゲボに限らず無数の花々が人知れず咲いてはしぼみ、誰に省みられることもなく家々が取り壊されては姿を消し、それで世界は何食わぬ顔で永続しているのだから、ことさらゲボの花だけを惜しむには値しないのかもしれない。
彼はタモリと会ったことを誰かに自慢することもなく、前のままの会社に勤めて、ネットは調べものとヤフーニュースを見るくらい、専業主婦の妻と小学生の娘との生活に満足していた。2018年だった。彼の娘は8歳になっていた。彼は日常的に、妻の目の届かないところで娘の口に指を突き込んで吐かせては興奮していた。父親に愛されていると信じずにはいられない子供の心を利用して口止めさせて、ただ自分の悦びを貪っていた。ゲボに興味がないなんて、大ウソ。じゃなきゃあんなゲボの写真なんか撮るわけないじゃん。こんな手元にいつでも好きに吐かせられる奴がいるとか、ハハッ、最高。もう写真なんか撮る意味ねーし。