「なんとなく」の重さ

自分の仕事が休みの日、夫を駅まで車で送っていく前に、近所の喫茶店に時々立ち寄る。この小さな町に引っ越してきた当初は、蝶ネクタイをしたおじいさんが切り盛りしており、やがて息子さんに代替わりして、それからもう十数年。しばらく行っていない時期もあったが、夫が頻繁に行き始め、この数年は二人で週に二回は通い、その店でコーヒーを飲むのがすっかり日常の一部に定着した。
一ヶ月ほど前、A新聞のインタビュー記事に顔写真が載ったのを見たらしく、マスターのHさんに話しかけられた。それから拙書を店頭に置いて下さった。話しているうち、シンガー・ソングライターのHさんと昔バンドをやっていた私が、どこかですれ違っていたこともわかった。
「世の中狭いですねぇ」というわけで、前より気さくにお話するようになった。Hさんは温厚な人柄で、結構話し好きだった。


その日もいつものように二人で行くと、ドアに「しばらく休業します」の貼り紙があった。ん?と思いながらその下の表示を見て、私たちは固まった。そこにはHさんの通夜と葬儀のお知らせが出ていた。
どういうことだか一瞬わからず、私と夫は呆然とその紙を見つめた。たった二日前に来たばかりである。その日Hさんは、水とおしぼりを出しながら「日展の権威も地に堕ちましたねぇ」と言い、私は「そうですねぇ」と答えた。それから二言三言交わした覚えがある。いつもの会話、いつものコーヒータイム。


「信じられない‥‥」「どういうこと‥‥?」。「享年六十二歳」とあった。私たちは何度も何度も貼り紙を読み直し、暗い店内を覗き込み、呆然としたままのろのろとその場を離れた。ついこの間まで元気だった人が突然なんの前触れもなく、しかも永久にいなくなったという事実が、うまく呑み込めない。*1
Hさん個人というより、その喫茶店のマスターであるHさんと、Hさんの作る空間やコーヒーやちょっとした会話といったもの。そういうものが渾然一体となって、私たちの日常の一部になっていた。あって当たり前に思えたものだった。それがある日突然そっくり失われた、そのことに打ちのめされた。
しばらくすると、底冷えのするような淋しさと悲しみが襲ってきた。


その夜、親友宅の夕食会に招かれていた。暗い気持ちを少しの間忘れようと出かけたそこで、私はまた辛い話を耳にすることになった。
一冊目と二冊目の著作を出した時にインタビューをして下さったC新聞の記者のMさんが、一ヶ月前に亡くなっていたのである。その席に彼女のずっと上の上司の方がいて、話しているうちにそのことがわかった。


Mさんとは二回会っただけだが、なかなかツボをついた質問をして下さる人で、記事も過不足なくうまくまとまっていた。本を出した時にネットで誰かが書いてくれるのも嬉しいものだが、新聞で取り上げられることは、著者としてはやはり有り難いのである。私はまったく無名だったし、新聞の影響力はまだまだ大きい。
三冊目も彼女に取材してもらいたいと思っていた時、東京に転勤となったようだった。優秀な方だから、きっと出世されるんだろうなと思っていた。なのに、36歳の若さで癌で亡くなってしまった。
あまりのショックに、私はその場に似つかわしくない悲鳴をあげてしまい、急いで「ごめんなさい」と周りの人に謝った。楽しい食事の席なのに、遣る瀬なさで涙が滲んできた。


この一年の間に身近なところで、一人の親族、一人の知人、一匹のペットとの死別を体験した。特に「多い」とも言えないだろう。しかし災害や事故に遭ったわけでもないのに、一日に二回も知人の死を知らされるのは身に堪える。
知人と言っても、単に知っているというだけの人ではない。一人は私にとって日常にあって「なんとなく安心できる人」であり、一人は日常ではないやや特殊な場面だったが「なんとなく信頼できる人」だった。


特に親しいわけではないけれども、「なんとなく安心できる人」と「なんとなく信頼できる人」。そういう人が、自分の生活やこれまでの人生において、リアルでもネット上でも、ぽつりぽつりと点在している。
その存在は、近くにいる人に比べると目立たない。「絆」と呼ぶほどのものもない。「その人を絆とするであろう世界」の少し外側、少しずれたところに私はいる。
ただ時々、その人がいるのを確認して、なんの根拠もなく「まだ大丈夫」と思ったりする。何がどう「大丈夫」なのかは知らない。”なんとなく”そう思うだけ。
そのことがどれだけ大きなことだったのかは、たぶんずっと後になってみないとわからない。

*1:翌日、葬儀に出席して聞いた話では心筋梗塞だったそうだ。あの日、私たちが店を出て数時間後に倒れられたことになる…。