何人かの知友から、「日本絵本研究賞」を受賞したその論文はどうすれば読めるのか、とのお尋ねがあったので、経緯とアクセス方法を改めてご紹介しておきたい。
このたび授賞対象となった論文は、白百合女子大学児童文化研究センターで開催した拙レクチャー(2020年3月7日の予定がコロナ禍で延期され、2022年3月26日に実施)から、その核心部分を抜き出して再構成したもの。内容は論考「光吉夏弥旧蔵のロシア絵本について」とその附録「光吉夏弥旧蔵ロシア絵本リスト」からなり、『白百合女子大学児童文化研究センター研究論文集』26 (2023年3月刊)の巻頭論文として世に出た。
それから半年ほど経ってから論文はネット上でも公開され、全く同じ紙面構成のまま、いつでもどなたでもお手元のPCから読むことが可能になった。下のリンク先から pdf ファイルをダウンロードできる(「ダウンロード」をクリック)。
併せてその要旨をご紹介する。ご興味をおもちの方はぜひリンク先から全文をご一読ください。
――1940年代から80年代まで、わが国の絵本・児童文学界を牽引した重要な翻訳家・研究者の光吉夏弥(1904~1989)は、ごく早い時期に1920・30年代のロシア絵本に注目し、数多くの実例を蒐集した。本論考では、白百合女子大学児童文化研究センターに残る光吉旧蔵ロシア絵本61点を紹介・分析するとともに、光吉が1943年に著した優れた論考「絵本の世界」におけるロシア絵本についての記述を参照し、彼が当時それらの絵本をどのように理解していたかを考察する。
今はどうだか知らないが、履歴書にはたいがい賞罰欄というものがあった。そこに何を書いたらいいのか困惑して、いつも空欄で済ませていた。「罰」すなわち犯罪歴や逮捕歴をわざわざ書き込む者はいないだろうが、小生の場合「賞」のほう、つまり受賞歴や表彰歴も全く持ち合わせていない。これまでの短くない人生で、表彰状なるものを貰ったためしが一度もないのだ。無位無冠といえば聞こえがいいが、公的に業績を認められることがないまま、ひたすら気儘に自己満足で生きてきた。
そういう小生なので、一週間ほど前に絵本学会という団体から、「選考の結果、昨年あなたが発表した論文が第五回〈日本絵本研究賞〉の受賞作に内定した。受ける意思があるかどうか返答してほしい」とだしぬけにメールで尋ねられたとき、思わずわが耳を疑ったものである。昨年の拙論といえば、白百合女子大学児童文化研究センターの研究論文集(第26号、2023年3月刊)に載った「光吉夏弥旧蔵のロシア絵本について」のことを指すに違いない。あんな地味でニッチな論考がはたしてそんな晴れがましい賞に値するだろうか。本当のところ自信はない。
なんでも、絵本に関する国内で出た研究書や研究論文のうち、ここ三年間に出たものを専門家が査読し、その一篇に「日本絵本研究賞」を授けるのだといい、このたび厳正な審査の結果、審査委員全員が一致してこれを推挙したそうな。そもそも小生は絵本学会の会員ですらなく、そんな賞を受ける資格があるのかも定かでない。
半信半疑のまま、今日その授賞式があるというので、絵本学会の大会が開かれる聖心女子大学まで出向いたら、本当に賞状と副賞の金一封を授与された。今でもまだ実感が湧かないのが正直なところである。褒められるのに馴れていないのだ。
鉄路はそこから急角度に右折して、南信と北信とを分かつ筑摩【ちくま】山地の登りにかかった。そとはまだいくらか明るいが車内にポッと電燈がついた。やがて美しく細長い山間の麻績【おみ】盆地。
しだいに空席の多くなってゆく車内で、私は自分と斜めにむかいあってすわっているひとりの若い娘にそれとない注意を向けていた。年のころならようやく二十才ぐらいであろうか、薄色の夏服を着て、つつましくそろえたひざの上にハンドバッグを載せ、松本から乗ると間もなく取り出した小さい本を今もずっと読みつづけている。見たところ地方事務所か類似の役所のようなところへつとめている娘らしいが、その誠実で怜悧【れいり】そうな風貌【ふうぼう】が、特にたそがれのひとり旅の客である私には好ましいものに思われた。
彼女が私の注意をひいたのは、しかしその存在のためばかりではなく、一つには熱心に読まれている書物のためでもあった。それは小型の文庫本で、何かのはずみに表紙の文字が見えた時、私はそれが豊島与志雄氏の訳になる『ジャン・クリストフ』の中の一冊であることを知ったのだった。
ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』。今朝も私は高原の森の木かげ、しだの茂った泉のほとりで、その最終巻「新しき日」の数ページを読んだのだった。朝の心の清めとして初まる一日の祝福として・・・・・・
今、私は同じその本をじっと読みふけっているひとりの若い娘を、たがいに見知らぬ道連れとして向かい合った席に持っている。何かことばをかけてみたい衝動をおさえ切れなかったとしてもしかたがないであろう。それで汽車が麻績【おみ】をすぎてあたりがふたりだけになった時、私はとうとう思い切って、
「ジャン・クリストフをお読みのようでしたが面白いですか。」と、きいてしまった。娘はちょっと驚いたようすだったが、すぐ静かに、「はい。好きでございます。」と信州の若い女性によく見られるはっきりとした返事をした。
「そうですか。私にとっても若い時から愛読書です。今、読んでおられるのは何巻ですか。」
娘は虚を突かれたようだったが、顔を赤らめて手さげ袋の中をのぞいて見て、
「五巻でした。アントワネットのところを読んでいました。」と、すなおに答えた。
「アントワネットは弟のオリヴィエに学資をみつぐために、もうドイツへ働きに行きましたか。」
「はい。そのドイツでスキャンダルのために職を失ってフランスへ帰る途中、すれ違ったむこうの汽車の窓にクリストフの眼を見ました。」
私はほとんどこみあげるような感動を覚えた。この時、惜しいかな汽車は冠着【かむりき】の駅に近づいて、娘は「失礼しました。」と軽く会釈して車の出口へ向かって行った。ようやく山の迫って来た寂しい風景の中に、停車した駅は小さく、三、四人の客が今にもザッと降って来そうな空の下を急ぎ足で改札口から出て行った。娘はいちばん後から窓のそとを通る時、今度はじっと私の顔を見ながら、それとわかる親愛のまなざしで深く辞儀をして行った。
どうです、なかなかに味わい深い名文ではあるまいか。小生は中学三年のとき偶然この文章を知り、ひどく心惹かれた。「昭和四十二年度 浦和市一せいテスト」の国語の問題でこの一節が出題されたのだ。小生は文章を二度、三度と味読し、映画の一場面さながらの光景にしばしうっとり夢心地となり、これに続く設問を解くのをつい忘れそうになった。登場する若い女性を描写する抑制された筆致がなんとも好もしく思えたのだ。「怜悧」という語をこのとき始めて知った。
このたびの身辺大整理で、五十七年前の試験問題がひょっこり姿を現した。子供心にもこの文章が気になって、どうしても捨てられず、後生大事に半世紀以上もの長きにわたってしまい込んであったのである。
そのときも、そして今も、小生は出題されたこの文章の出典がわからないのが残念でならない。夏の信州が舞台というところから堀辰雄あたりかと目星をつけてみたが、どうもそうではないらしい。なんとなく戦後の1950年代あたりに書かれた文章かと推察するが、文中で重要な役割を果たす岩波文庫版『ジャン・クリストフ』は戦前から流布しているので、年代を特定する手がかりとはなりえない。どなたか博雅の士のご教示を待ち望んでいる。