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by no_moyan
| 2010-05-21 07:42
冷たく実用的な世の中に見捨てられた、熱く居心地の悪い記憶。 歴史を振り返ることを知らない人々の政権下で、再び読み返す昔の記憶。 光州の血を黙認した「地域感情」が、未だに進行形という事実はとても重要である。 これの殆どは光州への無知からもたらされる。なぜ光州が戦わなければならなかったのか。 血を流さなければならなかったのか。そしてなぜキムデジュン(金大中)に揺るぎない支持を送るしかなかったのか、他地域の人々はあまり知らない。制限的に縮小再現した映画とドラマの類はこのような無知を再生産することに寄与する。関連文献などから借りてきた文章でまとめてみた。 More #
by no_moyan
| 2010-05-18 20:57
ろうそくデモ2周年を迎え、朝鮮日報で大々的に報道した記事ら(「狂牛病ろうそく」それから2年)のおかげで、青瓦台からウェブ社会までが騒々しくなっている。ろうそくデモに対する検討がかなりなされて久しい時点で、「アゴラ」(*憶測が飛び交うDaumの討論掲示板)とたいして変わらない水準の朝鮮日報記事がいまさら話題になるということは、韓国社会公論場の凄惨な水準を良く反映していると思える。朝鮮日報が望むこと、そして青瓦台が望むことは、ノイズマーケティングを通じて陣営戦線で確固とした線引きをしようということではないだろうか。彼らは進歩派を声高に糾弾しているものの、反対勢力を包摂と妥協の対象ではなく、絶滅させるべき敵とみなすという点では、ある意味、進歩派と瓜二つの双子とも言えるだろう。
いままで、ろうそくデモについて青瓦台およびブログ界隈で提議されたいくつかの論議を調べてみると、残念なことにろうそくデモ当時に出てきた分析と大きな差別点は見られないようだ。つまり、これは進歩と保守どちらもが、2年近い時間の間、ろうそくを実証的検証の対象として扱うよりは、神話化した表象の領域に留め、自分たちの先験的趣向に合わせて活用してきたということを物語っている。このような反応にてもっとも心配なところは、政権に反対した知識人たちに反省を強要し、道徳再武装運動を注文する青瓦台の反応(第20回国務会議関連ブリーフィング)は反対勢力に対する勝利から起因した過度な自信感を超え、民主主義そのものを否定するファシズム的思考の匂いがするというところだ。筆者は凡進歩派の一角で提議する、いわゆる「MBファシズム論」に対してとても否定的な立場であるにもかかわらず、少なくともイミョンバク大統領の今回のブリーフィングと朝鮮日報の態度、ハンナラ党の論評に限っては、このような評価を下すしかない。 代議制民主主義体制下で政治家が人民を代議することを考えず、人民を咎め導こうとすることは、民主主義の本領から外れた行動であるだけでなく(もっとも驚愕すべきは次のようなことが挙げられる。朝鮮日報のキムチャンギュン政治部長は紙面を通じ、特定人民をデモスから排除しようという、民主主義の原則と正面から背馳する発言をしている―無責任極まる扇動、3陣アウトさせるべき―。民主主義の理念的基本要件の一つがデモスの包括性という点と、切磋的民主主義の基本要件は組織化した反対の権利だという点を忘却しているようだ)、道徳的再武装を強いることは、多元的自由民主主義から離脱した極端的共和主義の談論であり、共和主義的メンタリティと前衛のメンタリティが結合すれば、出てくるのはジャコバン主義である。簡単にまとめると、はじめに言及したように、現在イミョンバク大統領からなる韓国保守派主流の市民に対する態度は、彼らがあれだけ咎めた「左翼全体主義」とたいして変わらない態度だということだ。また、一国の政治人が市民の政治的行動より特定言論の報道を露骨的に肯定することは、政党と代議体制を迂回する別の手段による政治を助長する、民主主義にとってあまり宜しくない、慎重さに欠けた行動だと言える。 また、ろうそくデモに対する進歩派の態度もまた、無気力を克服するための幻想への逃避に思える節がある。彼らにとってろうそくデモは市民意識の道徳的裁可であり、欲望の時代の中で生きながらえた正義であり、目覚めた市民の政治理念である。しかし、残念ながらこのような方式で消費させるろうそくは、人民の阿片である。進歩派のろうそくへの賛美はヨーロッパの68運動に対応して提議された新社会運動論と多くの部分で類似性を見せるが、新社会運動論と同様に、彼らの関心もまた集合行動に対する一般理論を定礎するよりも、運動そのもののアイデンティティ(を騙った正当性)を定礎することにばかり留まっているように見える。このような接近方式は残念ながらろうそくの歴史的偉大性を事後的に作り出すことはできるとしても、彼らの希望と違い、また別のろうそく、そして成功するろうそくを作り出すにはあまり役に立たないだろうと思われる。もちろん、進歩派の一角ではろうそくの中産層中心性とスペクタクルに対する魅惑という側面を強調しながら階級的イシューの重要性を強調する接近が提議されたが、このような流れは相対的に少数であるように見えるうえ、それすらも実証研究を欠如している点において、印象批評であるという嫌疑から逃れ難い。 問題は、現在ろうそくに対して提議されている数多くの論争らは、殆どが実証が不在した解釈の饗宴だという点にある。筆者は実証主義者ではなく、統計だけを利用した研究に対して否定的であるにもかかわらず、いかなる実証もない論争は消耗的な主観の羅列以上ではないと考えている。朝鮮日報の問題の報道は、それこそ労働新聞と大差ないと一蹴することができるだろうが、これへの対応がろうそくデモの客観的実在を描こうとする努力よりは、先験的に想定された正当性を強弁するための彩色、また、朝鮮日報の報道に対する断片的反駁に留まることもまた、論議の発展とろうそくに対する生産的考察にはあまり助けにならない。したがって、この文は現在まで出ている資料を基盤とし、ろうそくデモの実態的真実に近づく努力をすることを最も大きい目的としている。ただし、論議の前に述べるべきところは、現在までろうそくデモの全体像に迫れる信頼度のある資料がとても不足しているため、この文がろうそくデモをめぐる数多くの論争を終結させるにはその精度がとても足りないと言えるし、ろうそくデモに影響した理念そのものの正当性について論ずることはこの文の目的ではないという点だ。この文の目的は、具体的対象のない解釈の饗宴から離れるための試みであり、実態的真実に対する関心の喚起にある。 More #
by no_moyan
| 2010-05-15 18:46
ユ・シミンの話すメディア法改正問題(1/2)のつづき。
動画題名:ユシミン - メディア法改正関連 2/2 実際にメディアを誰が支配しているのか。 新聞社や放送社のオーナーや 経営陣が支配しているのも確かですが、 広告主もまた支配しています。広告主が。 最近、京郷新聞とハンギョレ新聞には 大企業の広告がほとんどありません。 More #
by no_moyan
| 2009-06-30 23:02
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