🗽22」─2─1000年前のハワイに人類はどうたどり着いた。ポリネシア伝統航海カヌー「ホクレア」。~No.86 

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 2025年3月14日 MicrosoftStartニュース トラベル Watch「1000年前のハワイに人類はどうたどり着いた? 地球と生きる、ポリネシア伝統航海カヌー「ホクレア」50周年を祝う
 大澤陽子
 50周年誕生祭の日の朝8時。砂浜近くに停泊できないため中央奥にホクレアが見える
 © トラベル Watch
 「ホクレア(H?k?le?a)」というカヌーをご存じだろうか? エンジン、舵、コンパスを使わず、自然の様子から針路を読み取って航海をする双胴船で、この航海術を復活させるため、1975年にポリネシア航海協会が復元したのがホクレアだ。ハワイ語で「幸せの星」を意味しており、釘を使わずすべての部位がロープで縛って組み立てられている。
 遡ること1000年以上前、ポリネシアからハワイに人類がやってきたとされている。コンパスもない時代にどのように新たな土地を見出し、ハワイにたどり着いたかといえば、彼らは月や太陽、星となどの天体の動き、風、雲、海のうねり、そして海鳥の様子など、自然からサインを読み取っていたという。
 ホクレアの様子を会場で中継していた
 © トラベル Watch
 伝承により伝わっていたこの伝統航海術は一度は失われていたが、ホクレアの誕生によってよみがえった。ホクレアは1975年3月8日にオアフ島のカネオヘ湾クアロアから初出航を果たした。それから50年を迎えた今年3月8日、同じクアロアで「ホクレア50周年誕生祭/第16回クアロア・ハキプウ・カヌー・フェスティバル」が開催された。
 この50年間、文化伝承、自然・地球への敬意、いたわる心を育み、自然と調和のとれた持続可能な世界を目指して世界中を航海してきたホクレアを祝うため、会場のクアロア・リージョナル・パークには、これまでの乗組員や航海士、文化実践者、教育者、そしてホクレアの使命を支えてきたコミュニティが集結した。
 ホクレアの到着をビーチで見守る人たち
 © トラベル Watch
 乗組員のなかには日本人女性もいる。2017年の世界一周航海にクルーとして参加したファネリアス多美子さんは、以前インタビューでホクレアの航海術について尋ねた際にこう教えてくれた。
 「エンジンも舵も付いていないホクレアは、風の力を受けて航行します。風がないときは風が来るまで待ちます。進路は大きなパドルを使って変え、セイル(帆)でバランスを取りながら進みます。方位を知るには、星や太陽が昇り沈む方向を手掛かりにして、緯度は水平線からの北極星などの星の高さによって測っています。星が見えないときは、波のうねりなどを頼りにして方角を定めるのですが、真っ暗ななかでは体でうねりを感じ取るしかないんです」
 1975年の誕生から1年後、ホクレアはハワイを出発し、1か月をかけてタヒチに到着するという大海原での初航海を成功させた。これは600年ぶりの伝統航海術による航海となった。
 ホクレアクルーがこの後に陸へと移動するのにボートに乗り換えている
 © トラベル Watch
 海のなかでホクレアを迎える人たち
 © トラベル Watch
 彼らのミッションについて、日本人初の女性クルー内野加奈子さんに話を伺ったことがある。彼女は2000年にホクレアクルーとなり、伝統航海術をハワイに伝授したマウ・ピアイルグ氏に師事し、2007年に歴史的航海となったハワイ~日本航海に参加した。
 「ホクレアのミッションは地球をいたわること。地球というとあまりにも大きなことに聞こえますが、私たちは、まずはカヌーというホームでそれを意識しています。皆さんそれぞれが生活のなかで自分のホームをより気持ちのよい場所にしていく。一人の心掛けが広がると大きな力になるので、ホクレアは各寄港地で『皆さんもホームをいたわっていますか?』と問いかけています」
 まったく同じことを多美子さんも話してくれた。「『カヌーの上で互いを思いやる生き方は、島でもできる。それは地球という島でも同じこと』というのが、私たちの考えです」と。彼女たちは世界各地の寄港地に滞在し、学校訪問をして教育活動や文化交流をしている。
 ポリネシア航海協会は、活動の目的を「ハワイの伝統航海術を継承し、世界を航海しながら環境保全や文化伝承、いたわり合う大切さを次世代に伝えることを目的に活動する」としている。こうしたミッションを掲げて、ホクレアはハワイから太平洋の島々、日本、そして世界一周航海など、25万海里以上を航海してきた。
 砂浜にホクレアのクルーたちが海から上がってくる直前
 © トラベル Watch
 そんなホクレアの50周年記念の日。8時にホクレアがクアロア沖に到着。神聖なハワイアンの儀式が執り行なわれた。
 クルーたちを迎える儀式のなかの一シーン
 © トラベル Watch
 ホクレアからカヌーに乗り換えて陸へ上がるクルーたち
 © トラベル Watch
 9時に50周年記念プログラムがスタートし、タヒチとハワイのストーリーに影響を受けたフラが踊られたり、ポリネシア航海協会会長でホクレア初航海時から参加してきた航海士ナイノア・トンプソン氏らがあいさつをしたり、2時間にわたってセレブレーションが行なわれた。
 レイがかけられハグを交わすクルーたち
 © トラベル Watch
 実は2023年に、ホクレアは姉妹カヌー「ヒキアナリア」とともに、2027年までの予定で太平洋を一巡する環太平洋航海「モアナヌイアケア航海」へ出航した。その最中に起こったマウイ島の大規模な山火事を「私たちのホームで起こっている災害」と言い、「ラハイナは海の原動力ともいえる場所。マウイが呼んでいる。ホクレアの温かさを必要としている」とコメントを出してハワイへ戻ってきた。この航海は引き続き挑む予定で、終着地は日本となっている。
 2023年の環太平洋航海「モアナヌイアケア航海」へ出航直前の儀式の様子
 © トラベル Watch
 のポリネシア伝統の飲み物カヴァでモアナヌイアケア航海安全を祈願した
 © トラベル Watch
 ハワイに暮らす我々にとって誇りであり、アロハスピリッツの象徴ともいえるホクレア。地元メディアでも大きく報じられ、生中継も行なわれた。これからも見守りながら応援していこうと思う。
 50周年記念プログラムのスタート
 © トラベル Watch
 神聖な水にティーリーフをつけるのもハワイアンの儀式の一つ
 © トラベル Watch
 あいさつとフラが繰り返される特別のセレブレーションだった
 © トラベル Watch
 タヒチとハワイの歴史を物語るフラが踊られた
 © トラベル Watch
 ポリネシア航海協会会長のナイノア・トンプソン航海士
 © トラベル Watch
 カヴァが供えられた岩の向こうにはホクレアが見えていた
 © トラベル Watch
 ハワイの歴史に敬意を表してハワイアンの食事が祀られていた
 © トラベル Watch
 50周年記念Tシャツ。購入するのに45分間待った……!
 © トラベル Watch
 ホクレアの修繕作業や教育プログラム実施などポリネシア航海協会の活動のすべてがボランティアと寄付金によって運営されている。今回の記念イベントで販売された50周年の記念Tシャツをはじめとするグッズは大行列ができるほど好調に売れていた。この行動は、売上が応援につながるということを知っているハワイの人たちのアロハな気持ちにほかならない。
 翌週にはワイキキのアラワイに停泊してコミュニティに披露されたホクレア
 © トラベル Watch
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🦟30」─2・②─中国がアメリカを上回ってロボット産業で優位性を確保できる要因とは。〜No.95 

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 中国はアメリカに次ぐロボット・AI大国で、日本は衰退し今や後進国である。
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 日本の政府、財界・産業界、教育界、メディアは、若者達に頻りにイノベーションやリノベーションを叫んでいるが、それを潰しているのが老人や大人達である。
 それを例えるなら、老朽化したマンションの住人達の出資で建て替え、もしくは大リフォームに賛成する若い住人と高齢の住人の賛否両論の大論争に似ている。
 つまり、高齢の住人は総論では賛成するが各論で反対して立て替えも大リフォームも認めない。
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 2025年3月16日 MicrosoftStartニュース GIGAZINE「中国がアメリカを上回ってロボット産業で優位性を確保できる要因とは?
 近年ではレストランでネコ型配膳ロボットが用いられるなど、ロボティクス産業の需要が高まっています。これまでは、ボストン・ダイナミクスのヒューマノイド型ロボット「Atlas」や商用物流ロボット「Stretch」など、アメリカがロボティクス産業における優位性を保持していましたが、近年、中国がロボティクス技術と製造業において急速にその地位を拡大しています。
 中国がアメリカを上回ってロボット産業で優位性を確保できる要因とは?
 分析会社・SemiAnalysisによると、中国のロボット国産化の取り組みは順調に進んでおり、中国国内のロボティクス産業における中国メーカーのシェアは2020年時点で30%だったものの、2025年3月には50%に達したとのこと。さらに一部の中国メーカーは西側諸国の大企業と肩を並べるほどにまで成長したローエンドロボット市場を離れ、近年ではより高価格帯の市場に進出し始めているそうです。
 その代表例が、中国のロボット開発メーカー「Unitree」が開発した「Unitree G1」で、SemiAnalysisは「アメリカの部品に依存しない中国メーカーの高い技術力を示しています」と評しています。
 独自AIやLiDARセンサー搭載で軽快な動作が可能なヒューマノイド型ロボット「Unitree G1」が発売される、価格は250万円から - GIGAZINE
 独自AIやLiDARセンサー搭載で軽快な動作が可能なヒューマノイド型ロボット「Unitree G1」が発売される、価格は250万円から
 © GIGAZINE 提供
 こうしたロボティクス産業における中国メーカーの急速な発展の背景には、中国政府の強力な推進力や圧倒的な製造能力、国内市場が持つ特性、そして将来を見据えた戦略的な投資が挙げられます。実際に中国政府は、ロボティクス産業を「国家戦略の重要な分野」と位置付け、「中国製造2025」などの計画を通じて、積極的な投資と補助金政策を推進しています。特に近年では、ヒューマノイド型ロボットを経済成長の新たなエンジンと捉え、集中的な投資を行っているとのこと。
 また、長年にわたり世界の工場としての地位を確立してきた中国は、高度な大量生産技術と巨大な産業基盤を有しています。この基盤はロボットの製造においてもコストパフォーマンスや生産スピードにおいて他国を大きく引き離す要因になっています。具体的には、アメリカ国内でユニバーサルロボット「UR5e」を製造しようとした場合、中国国内で製造した時と比べてそのコストは約2.2倍にまで膨れあがります。また、バッテリーなどの重要部品においても、中国企業は世界市場で高いシェアを有しています。
 中国のロボットメーカーの中には、主要部品の垂直統合に取り組んでいる企業もあり、実際にロボットメーカーのESTUNの内製化率は95%に達しています。これにより、製品開発のスピードと柔軟性を著しく向上させることが可能です。
 中国がアメリカを上回ってロボット産業で優位性を確保できる要因とは?
 競争が激しい中国国内市場では、最速で規模拡大できる企業が有利になる構造が存在しており、この環境こそが企業による迅速な製品開発と改良を促しています。その最たる例がDJIで、経済特区の深圳に拠点を置くことで部品調達と施策の迅速な繰り返しを実現し、ドローン市場で競合他社に対する圧倒的優位性を確保しています。
 加えて、中国のロボティクス産業は外部環境の変化に対する高い適応力と強力なサプライチェーンを保有しており、2020年の新型コロナウイルスのパンデミックの際には、中国メーカーは迅速に自動化を進め、労働力不足を補ったそうです。
 これまでのロボティクス産業は、ボストン・ダイナミクスを代表するようにアメリカが大きな支配力を持っていました。しかし、近年ではその優位性が失われており、その理由についてSemiAnalysisは「アメリカ経済はこれまで、デジタルイノベーションや最先端技術、サービス業に重きを置いており、この結果製造業の能力が低下しました。そのためアメリカのメーカーはコストパフォーマンスに優れる海外に生産拠点を置くようになっています。この結果、国内の製造基盤が貧弱になり、ロボティクスに必要な部品や材料の製造能力が不足しています」と指摘。さらに、「Made in America」のラベル表示に関する原則では中国から輸入した主要な部品をアメリカ国内で組み立てた場合でも、「Made in America」と表示できるため、海外依存の実態が曖昧になっています。
 また、中国が長期的な国家イニシアチブでロボティクス産業を育成しているのに対し、アメリカではCHIPS法といった、政権ごとにその方向性が変わる制度が定められているのみで、一貫した戦略が存在しません。そのほか、長年ロボティクス業界をけん引してきた「Big 4」と呼ばれるFANUC・ABB・安川電機・KUKAなどの企業は、研究開発への投資や次世代ロボット開発への意欲が中国メーカーと比べて低いことも指摘されています。一方で中国のSiasunはドイツの職業訓練学校を買収し、海外での人材育成や技術ノウハウの獲得に積極的に取り組んでいます。
 中国がアメリカを上回ってロボット産業で優位性を確保できる要因とは?
 SemiAnalysisによると、あらゆるタスクをあらゆる環境で実行できる「汎用(はんよう)ロボティクス」は現代のロボティクスにおける「聖杯」であり、最初に開発に成功した国が大きな恩恵を得られるとのこと。現代のロボットは構造化された環境と静的なタスクに限定されていますが、近年ではハードウェアの制約やデータ不足、AIの限界などが克服されつつあるそうです。
 アメリカでは、ロボティクス産業において遅れをとっている現状に対する認識が高まっており、政府や産業界、研究機関の連携を促す声も挙がっています。SemiAnalysisは「中国によるロボティクス産業の支配を阻止し、アメリカが今後も競争力を維持するために、適切な国家戦略の策定や国内製造業の再構築、サプライチェーンの強化、研究開発への投資などが喫緊の課題である」と論じました。
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 3月16日 MicrosoftStartニュース Record China「「脳」も「体」も造る、進化が加速する上海の人型ロボット産業―中国
 智元ロボットは多機能探索ロボット「霊犀X2」を発表した。
 © Record China
 中国のインターネット大手・螞蟻集団(アントグループ)が人型ロボット分野に参入し、上海市浦東新区に拠点を設立した。上海螞蟻霊波科技が11日、浦東で設立された。
 上海初の人型ロボット量産企業「智元ロボット」は11日、最新の多機能探索ロボット「霊犀X2」を発表した。その前日には、汎用エンボディド基盤モデル「Genie Operator-1」(以下GO-1)を発表したばかりだった。
 人型ロボットの開発において、上海は次第に百花繚乱の様相を呈している。数多くのリーディングカンパニーが浦東でロボットの「脳」だけでなく「体」も造るようになり、現地の人型ロボット産業は進化が加速している。
業界では2025年が人型ロボットの「量産元年」になると考えられており、人型ロボットが汎用製品としてさまざまな分野やシーンで広く活用されることが期待されている。その中核拠点となる上海市浦東新区の張江サイエンスシティーには関連企業73社が集まり、複数の重要な分野を網羅している。
 第1陣の国家レベル「専精特新(専門化・精密化・特徴化・新規性)小巨人企業(高い成長性または大きい発展のポテンシャルを持つテクノロジーイノベーション中小企業)」の一つとなった緑的諧波(上海)伝動科技は、人型ロボットの重要部品である精密駆動装置の技術で大きな強みを持つ。同社の翁進賢(ウォン・ジンシエン)販売ディレクターによると、同社は今年張江に一部の生産拠点を設立しており、人型ロボットの小型・軽量化に適した新製品の研究開発と製造を進める計画だという。
 人型ロボットは「体」だけでなく「脳」の進化も加速し続けている。
 智元ロボットが10日に発表した「GO-1」は、人型ロボットの「新たな脳」とも言える存在だ。このモデルは強力な汎用性を備え、極めて少ないデータサポート下でも新しいタスクに迅速に適応できる。この画期的な進展により、ロボットは家庭やオフィス、ビジネス、産業などさまざまなシーンで柔軟に活用できるようになる。
 智元ロボットの共同創業者でエンボディド事業部責任者の姚卯青(ヤオ・マオチン)氏は、「GO-1の出現は単なる技術的ブレークスルーにとどまらず、未来のエンボディドAIロボットのエコシステムを再定義するものだ。このモデルを通じて、ロボットを単一のタスクをこなすツールから汎用AIを備えた自律的な存在へと進化させたい」と語る。
 この「新しい脳」は活用しやすいのだろうか。智元ロボットの共同創業者の彭志輝(ポン・ジーフイ)氏が公開した動画では、「新しい脳」を搭載した「霊犀X2」が歩行や走行、旋回に加え、セグウェイのような乗り物や自転車の運転までこなしている。智元ロボットによると、「GO-1」に基づく「霊犀X2」は初歩的ながらシンプルなタスクにおいてゼロショット(事前学習なし)での物体操作能力を備え、特定のタスクにおいて複数のロボットによる協調作業が可能となった。この技術は日常生活の各方面にも活用できる。
 国家地方共同構築人型ロボットイノベーションセンターの許彬(シュー・ビン)ゼネラルマネージャーによると、上海は技術革新の面で多くの画期的進展を遂げており、特にAIアルゴリズムの最適化やロボットの精密制御技術において、一部の成果はすでに国際先進レベルに達している。ロボットの動作制御精度はミリ単位であり、さらにはそれより微細な操作も可能になっている。マンマシンインタラクションもますます自然でスムーズになり、ユーザーエクスペリエンスが大幅に向上している。
 自動車と産業用ロボットの先進地となっている上海は優れた製造業の基盤と整った産業チェーンを有しており、これらの優位性が人型ロボットの進化の加速を促している。(提供/人民網日本語版・編集/NA)
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 3月16日 MicrosoftStartニュース Record China「チャットボットから知能玩具まで、中国におけるAIの急成長―英メディア
 中国メディアの環球時報によると、英BBCはこのほど、「チャットボットから知能玩具まで、中国における人工知能(AI)の急成長」とする記事を掲載した。資料写真。
 © Record China
 中国メディアの環球時報によると、英BBCはこのほど、「チャットボットから知能玩具まで、中国における人工知能(AI)の急成長」とする記事を掲載した。
 記事はまず、AIを搭載したチェスロボットがAIのショールームでも研究室でもなく北京市内のアパートで8歳男児と対局をしているとした上で、「中国は2030年までにテクノロジー超大国になることを目指しAIを導入している。さらに多くの資金を求めるAI企業にそれが流れ込み、国内の競争が激化している。AIを開発・販売する企業は4500社余りに上り、首都北京の小中学校では今年後半にAIを教える授業が始まり、大学ではAIを学ぶ学生の受け入れ枠を増やしている」と伝えた。
 記事によると、このAIチェスロボットは、AI開発大手、商湯科技(センスタイム)の子会社である元蘿蔔(センスロボット)のもので、同社のトミー・タン氏は「親たちはまず値段について聞いてくる。次にわれわれがどこから来た会社か聞いてくる。米国か欧州から来たと思っているようで、中国の会社だと聞いてとても驚く」と笑いながら語る。
 記事はまた、中国のAI企業、深度求索(ディープシーク)が、米OpenAIのChatGPTに匹敵するAIチャットボットをリリースしてシリコンバレーに衝撃を与えたことや、上海に拠点を置きAI玩具を製造する鯨魚機器人(ホエールズボット)の副社長アボット・リュウ氏が、中国は改革開放以来「人材と技術を蓄積する過程を経てきた」とし、「このAI時代に中国には多くのエンジニアがいる。彼らは勤勉だ」と語ったことも紹介した。
 記事は「中国ではAIが大規模に応用されている。国営メディアは人型ロボットであふれる工場を報道している。政府は高齢者向けのAI搭載人型ロボットの開発を推進すると発表した。中国の指導者は『科学技術の自立自強』を目標の一つとして掲げている。中国は最終的に優勝することを期待しているマラソンに備えてAIやロボットなどの先端技術に多額の投資を行っている」と伝えた。(翻訳・編集/柳川)
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 3月16日 MicrosoftStartニュース AFPBB News CGTN Japanese「AI技術の進化と普及で中国スマホ市場に新たな課題が
 © CGTN Japanese
 【3月16日 CGTN Japanese】中国ではスマートフォンの価格が上昇しています。その背景には人工知能技術の普及や半導体コストの上昇など複数の要因が絡んでいます。
 専門家はスマホ価格高騰の要因として、チップやメモリなどの上位部品の価格上昇、サプライチェーンのコスト上昇のほか、AI技術の普及による研究開発費の増加を挙げています。
 今年に入り、オープンソースの大規模言語モデル「ディープシーク」の登場により、AIが広く普及しています。これにより、スマホメーカー各社はAI機能を強化した新製品を次々と投入しています。小米(シャオミ)は「Xiaomi15」に米クアルコムが開発した最新のSoC(システム・オン・チップ)「Snapdragon 8 Elite」を搭載し、前モデルより約70ドル(約1万300円)高くなりました。このように、AI機能の搭載がスマホの高価格化を促進しています。
 しかし、価格上昇に対する消費者の反応は必ずしも好意的ではありません。新浪科技が行った調査では、7割ものユーザーがスマホの値上げを受け入れられないと回答しました。また、ネット通販大手京東集団(JDドットコム)の昨年第4四半期(10~12月)のデータでは、フラッグシップモデルの販売台数が前年同期比8%減少し、一方で2000~3500元(約4万~7万円)の中価格帯モデルは同12%増加しました。これは、価格に敏感な消費者が増えていることを示しています。
 AI技術の進化と普及はスマホ市場に新たな価値をもたらすと期待されています。しかし価格上昇が消費者の購買意欲にどのように影響するかは、今後の市場動向を見守る必要があります。メーカー各社は技術革新と価格設定のバランスを取りながら消費者ニーズに応える商品開発が求められています。(c)CGTN Japanese/AFPBB News
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🔯20」─6─宗教家イエスと哲学者ソクラテスの意外な共通点。~No.66 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
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 2025年3月6日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「イエスとソクラテスの「意外な共通点」、二人の「偉大な思想家」はこんな能力が高かった…!
 グローバル化が進むなかで、自分とは異なったさまざまな背景をもつ人と関係を築くようになったという人は多いかもしれません。たとえば、日本で、あまり宗教を意識せずに育った人にとっても、キリスト教の知識をもっておくことは、以前に比べて重要性を増していそうです。
 キリスト教について知るために非常に役に立つのが、『キリスト教入門』(講談社学術文庫)という一冊。著者は、比較文化史家でキリスト教に関する著書が多数ある竹下節子氏です。
 本書は旧約聖書と新約聖書の内容をわかりやすく紹介しつつ、キリスト教を知るうえでポイントとなる「キーワード」を整理して提示してくれます。
 さらには、イエスという人物について、その秀でていた点を指摘しつつ、生き生きとしたイメージを与えてくれる部分があるのも本書の特徴の一つ。そのなかで、イエスは意外にもソクラテスに似ていたのではないかという考えが飛び出します。同書より引用します(読みやすさのため、改行などを編集しています)。
 ***
 殺伐としていた2000年前のパレスティナで愛を説いたのも、イエスが最初ではなかった。イエスの教えの内容は、当時の進歩的ファリサイ(パリサイ)派に近い。イエスはファリサイ派のように縁のある上衣を着ていたし、ファリサイ派の人たちと共に食事もした(ルカ7・36、11・37)。
 ラビ・ヒレルやラビ・シャンマイといった人たちは愛を語り、イエスと同様、モラルにおいては外的な形よりも内的良心の方が重要だと言っていた。しかしイエスが彼らと違っていたのは、その言い方だ。
 進歩的なファリサイ派といえども、律法の解釈を説いたのであって自分たちの言葉に絶対的権威を付与することはない。ところがイエスはたとえば、「あなたがたも聞いているとおり……しかし、わたしは言っておく」(マタイ5・21~22)というふうに、自分の言葉が先験的に正しいという立場で語った。だからこそ神殿の祭司長や律法学者や長老たちがやってきて「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」とイエスを問い詰めたのだ(マルコ11・28)。
 イエスは天から付与された権威を持って語り、預言者としてふるまった。厖大な数の群衆を前にして説教できたということは、よく通る堂々とした声の持ち主であったに違いない。そして天才的なのはその説教のしかただった。分かりやすくしかも深い含蓄のある数々の喩え話は、その後キリスト教文化共通の貴重な教養源になっている。山上の垂訓などで有名なイエスの説教を知るためにだけでも福音書は必読書だ(マタイ5~7ほか)。
 中国の思想書などにも巧みな喩え話はたくさんあるけれど、分かりやすさや絶妙な効果でイエスの喩え話は独特だ。柔軟で弁証法的でパラドクスに満ちていて、紋切り型や教条主義と縁遠く、質問に対して質問で答え、相手の自問を促すやり方は、むしろソクラテスに一番似ているかもしれない。
 イエスはユダヤ教をつきつめ、ソクラテスはギリシャ哲学をつきつめて、両者とも自然の美を愛した。ソクラテスは汝自身を知れ、そうすれば宇宙と神々を知ることになろうと語り、イエスは「神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17・21)と言った。
 でも、ものごとの本質を深く語る人は、既成の価値観に従って満足して生きている人たちからは歓迎されない。だからソクラテスもイエスも権力者に殺されてしまった。
 真理とは銀の盆にのせて押しつけられるものではなく、いろいろな綾を織り成しながら人を誘う道のように与えられるのかもしれない。イエスは預言者の権威をもって語ったが、人間性の深いところにある、人々の中の最善のものを引き出そうとした。律法などが、時代や場所や民族の文脈が変化するにつれて多くの意味が理解不能になるのと違って、ソクラテスの言葉やイエスの説教が決して古くならないのはそのためだろう。
 ***
 イエスが当時において、どのような意味で新しかったのかをおしえてくれる記述です。
 さらに【つづき】「なぜキリスト教は、神を「父と子と聖霊の“三位一体”」としたのか…? そこには「意外すぎる理由」があった」でも、キリスト教の「三位一体説」についてくわしく紹介しています。
 学術文庫&選書メチエ編集部
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 2024年12月3日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「なぜキリスト教は、神を「父と子と聖霊の“三位一体”」としたのか…? そこには「意外すぎる理由」があった
 どうして「父と子と精霊」?
 グローバル化が進むなかで、自分とは異なったさまざまな背景をもつ人と関係を築くようになったという人は多いかもしれない。
 たとえば、日本であまり宗教を意識せずに育った人にとっても、キリスト教の知識をもっておくことは、以前に比べて重要性を増している。
 キリスト教について知るために非常に役に立つのが、『キリスト教入門』(講談社学術文庫)という一冊。著者は、比較文化史家でキリスト教に関する著書が多数ある竹下節子氏だ。
 『キリスト教入門』(講談社学術文庫)
 本書は旧約聖書と新約聖書の内容をわかりやすく紹介しつつ、キリスト教を知るうえでポイントとなる「キーワード」を整理して提示してくれる。
 キリスト教徒と言えば、「三位一体」という考え方を取り入れていることで知られるが、なぜ三位一体は教えに組み込まれていったのか?
 その背景に関する解説を『キリスト教入門』から抜粋する(読みやすさのため、改行などを編集しています)。
 ***
 三位一体の神とは「父と子と聖霊」だ。父は「目」であったり白髪のおじいさんだったりし、子は小羊やイエス・キリストで表され、聖霊は白鳩で描かれることが多い。
 モーセの神は、最初はその名も分からず、子音表記しかしない古代ヘブライ語でただ三人称の「存在する」という動詞の現在形の語根によって示された「在りて在る者」という抽象的なものだった。
 それが、イスラエルの民がカナンに定住した後でなぜか「父」のイメージを持つようになった。カナン人は父なる神とその妻である神々の母アシェラ、息子のバール、「乙女」と呼ばれた娘のアナトの四つの神性を拝していたから、ユダヤ人がカナン人を征服して、彼らの一神教を押しつけた時に、ヤハウェが「父」の地位を継承したのだろう。
 この「父子」の家族的なイメージは、本来の一神教を曖昧にしてしまった。後にこれが「父と子と聖霊」という「三位一体」の教義のベースになった。
 しかし、キリスト教が三位一体の教義(三八一年の第一コンスタンティノポリス公会議で教義化された)を真に必要としたのは、教会という制度を神格化したかったからだろう。
 原始教会の集まりではヒエラルキーも聖職者の地位も曖昧だったが、五五三年の第二コンスタンティノポリス公会議において、「父」と「子」に「聖霊」(具体的には聖霊によって導入された教会)を加えた三位一体によって教会の権威は超越的なものになった。
 同時に聖職者とは聖霊降臨で福音を伝える能力や赦しや癒しの能力を付与された者となる。こうして教会を批判したり攻撃したりすることは、聖霊を批判したり攻撃したりするに等しいことになった。
 ***
 じつは「三位一体」の考え方には、そもそもほかの信仰との影響関係があったり、教会の権威を高める効果を狙った部分があったりした……。宗教というものがどのようにかたちを変えていくのかの一端を垣間見ることができます。
 さらに【つづき】「「キリスト教の神」が、「三角形の中の目」で示されることがあるのはなぜか…? じつは「深い理由」があった」の記事でも、キリスト教の意外な側面についてくわしく解説していきます。
 本記事の引用元である『キリスト教入門』では、ほかにもキリスト教に関するさまざまな解説を収録している。
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 2024年12月23日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「キリスト教の神」が、「三角形の中の目」で示されることがあるのはなぜか…? じつは「深い理由」があった
 「三角形の中の目」
 グローバル化が進むなかで、自分とは異なったさまざまな背景をもつ人と関係を築くようになったという人は多いかもしれません。たとえば、日本で、あまり宗教を意識せずに育った人にとっても、キリスト教の知識をもっておくことは、以前に比べて重要性を増していそうです。
 キリスト教について知るために非常に役に立つのが、『キリスト教入門』(講談社学術文庫)という一冊。著者は、比較文化史家でキリスト教に関する著書が多数ある竹下節子さんです。
 本書は旧約聖書と新約聖書の内容をわかりやすく紹介しつつ、キリスト教を知るうえでポイントとなる「キーワード」を整理して提示してくれます。
 たとえば、キリスト教では、神がシンボリックに「三角形の中の目」として描かれることがあります。これはなぜなのか。同書より引用します(読みやすさのため、改行などを編集しています)。
 〈「万物の中に神を見る」という意味の遍在の他に、「至るところで神から見られている」という遍在の強迫観念も存在した。子供に「だれが見ていなくても神さまからは全部お見通しですよ」というタイプのもので、その時の神は実際に目のあるイエス・キリストのイメージではなくて、三位一体の父なる神の方だ。シンボルとしてはイエス・キリストが小羊なら父なる神は三角形の中に描かれた大きな目だった。
 「目」のシンボルはフリーメイスンでも使われているが、罪を神父に告解して赦免を受けるというカトリック教会による信者支配システムにも有効に働いた。フランスでは一九世紀になってからも、公共の場所にその「目」の石版画が貼られて「神が見ています、ここでは宣誓に背かないこと」と書いてあったようだ。〉
 守護のシンボル
 〈キリスト教以前のヨーロッパにすでにあった呪術的な「邪悪な目」もこの「目」に転用されている。遍在する悪意のような「邪悪な目」に対抗する守護シンボルとして役立ったのだろう。
 目ほどには一般的ではないが、「神の耳」のイコンもたまにあって目を補強する。これはパワー発信装置ではなくて純粋な情報収集装置らしい。ギリシャ哲学の影響もあって、光と音の照応関係(太陽光線のプリズムと音階などが結びつけられた)は教会建築や教会音楽のベースになっていた。
 これに、典礼の時に燻らす香や、イエスの血と肉にして口に入れられるパンとワインの味と香りも加わって、人々は五感に充溢しミクロコスモスに遍在する神を実感したに違いない。〉
 「神が見ている」という感覚、そして、邪悪なものからの守護のシンボル。さまざまな考え方が融合しつつ、宗教的シンボルが形成されていく様子は、非常に興味深いものがあります。
 *
 さらに【つづき】「なぜキリスト教は、神を「父と子と聖霊の“三位一体”」としたのか…? そこには「意外すぎる理由」があった」では、キリスト教の「三位一体説」についてくわしく紹介しています。
学術文庫&選書メチエ編集部
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🐉22」─4・③─中国人は「チンギス・ハンは中国の英雄」を信じている。「歴史の書き換え」の悪辣さ。~No.87 

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 中国共産党は、モンゴル民族を漢族系日本人の中に吸収して殲滅するべく、チンギス・ハンを中国の英雄に祭りあげた。 
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 2025年3月10日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「中国人は「チンギス・ハンは中国の英雄」と本気で信じている…習近平が推し進める「歴史の書き換え」の悪辣さ
 南モンゴルの位置(写真=Joowwww/CIA public domain maps/PD-self/Wikimedia Commons)
 中国政府による少数民族の弾圧が続いている。南モンゴル出身で静岡大学教授の楊海英さんは「根底には、歴史を自国にとって都合のいいものにする『歴史改竄』がある」という。ライターの山川徹さんが聞いた――。(前編/全2回)
 【写真】静岡大学教授の楊海英さん
■中国によって私の故郷の歴史は塗り替えられている
 ――楊先生は、中国政府による「歴史の書き換え」について、これまで幾度も警鐘を鳴らしてきました。歴史の書き換えは、日本にどのような影響を及ぼすのでしょうか。
 【楊】中国政府による歴史の改竄を他人事だと感じて、日本への影響を懸念する人は少ないかもしれません。しかし、2026年には在留中国人が100万人を突破する日本にも降りかかってくる危険性があります。
 私は中国東北部の南モンゴル(編集註:中国は「内モンゴル自治区」と呼称。本稿では南モンゴルで統一)のオルドスという町でモンゴル人として生まれました。いま私の生まれ故郷では、まさに歴史の書き換えが行われ、固有の文化や紡いできた歴史が塗り替えられようとしています。
 中国には56の少数民族が存在します。南モンゴルには漢族、モンゴル族、半周族などさまざまな民族が暮らしています。自治区内の小中学校は、中国語学校とモンゴル語学校にわかれていました。モンゴル人の子どもはモンゴル語学校に通ってモンゴル語で授業を受け、モンゴルの歴史や道徳などを学んでいました。
 しかし、2020年9月から、突然、南モンゴルのすべての小中学校でモンゴル語やモンゴル史の教育が禁止されたのです。
 歴史の授業はもともと中国史がメインだったので、モンゴル人は日本人よりも自民族の歴史を知りません。それが完全に消えることになる。
 道徳の授業では、共産党の思想が唯一の正しい価値観であり、中国共産党だけが人民を幸せにできるというプロパガンダを注入されているのです。
■モンゴル語で書かれた書籍すら消えた
 そもそも南モンゴルは、13世紀にチンギス・ハンが築いた大帝国の一部でした。1949年の中華人民共和国の成立とともに現在の南モンゴルとなりましたが、文化大革命(1966〜76年)の時代に激しい同化政策が行われ、34万6000人が不当に逮捕されました。
 かねてから南モンゴルの草原は、漢人によって田畑に開墾されていたのですが、乾燥地帯のためすぐに砂漠化が進んでしまった。その結果、モンゴル人の伝統である遊牧ができなくなり、政策として定住を強いられました。農耕技術がないのでうまくいくはずもなく、豊かな中国人と彼らに雇われるモンゴル人という構図ができあがったのです。
 そして現在。中国出身のモンゴル人にとって、母語であるモンゴル語が、アイデンティティを守る最後の砦だったのですが……。モンゴル語が禁止されたのは民族学校だけではありません。モンゴル語の看板は撤去され、書店ではモンゴル語で書かれた本が消えてしまいました。
 モンゴル語禁止から5年たった今、南モンゴル出身の来日留学生と接していると、その影響は年々深刻になっていると言わざるをえません。
 中国政府による歴史の書き換え、公式見解を信じるモンゴル人留学生が増えました。モンゴル語禁止以前は、日本で数カ月も過ごせば、中国政府が話す歴史とは異なる国際的にスタンダードな歴史を受け入れられる留学生がほとんどだったのですが、いまはもっと時間がかかります。
■「漢民族」が住むところ=中国
 ――中国政府の公式見解とはどんな歴史なのでしょう。
 たとえば、中国政府はロシア領の世界でもっとも深いバイカル湖を中国の領土だと主張しています。根拠は、バイカル湖があるロシア連邦のブリヤート共和国には、中国にも住んでいる少数民族のブリヤート・モンゴル人が暮らしているからです。
 ――しかし、ブリヤート・モンゴル人はロシアに住んでいるから中国には関係ないように思います。また、清朝は、56の少数民族のひとつ満州族の王朝ですよね。
 そこが、中国政府の歴史の書き換えのポイントです。
 中国では、漢民族以外の56の少数民族は、漢民族から枝分かれしたサブグループという位置づけになっています。彼らも大きくは漢民族という括りに。つまり、「漢民族」が住むところ=中国になっている。
 「漢民族=中華民族」もしくは「中華民族=漢民族」。これがいわゆる大漢民族主義です。
 中国の隣国カザフスタンのバルハシ湖の近くには18世紀の清朝時代の遺跡がたくさん残っています。近隣の人々が清朝の皇帝に貢ぎ物を送っていた記録もあり、ここは清朝最盛期の領有地でした。
 我々には理解しがたいですが、大漢民族主義では、中華民族のサブグループである満州族が樹立した清朝の版図だったバルハシ湖も「我が領土」という考え方に発展します。その影響か、現在バルハシ湖は中国人観光客にも人気のスポットです。
 最近では、インドネシアとマレーシア、ブルネイの領土であるボルネオ島に対しても領土を主張しはじめました。理由はボルネオ島から漢の時代の須恵器が出土するからだそうです。その理屈だと後漢時代の金印や鏡が残る日本も中国の領土になってしまいます。
■かつての異民族も今は漢民族
 いま中国では、満州人やモンゴル人、チベット人、ウイグル人らに対して、民族という言葉を使わずに、「族群」(英語ではエスニック・グループ)という呼び方をします。
 実は、中国では1990年代まで少数民族に対し、英語の「ネーション」を使って、モンゴルネーション、ウイグルネーション、チベットネーション……としていました。エスニック・グループはアメリカ的な概念なので、中国には馴染まないと考えていたのです。
 それが、1990年代に、ネーションはまずいと気がついた。
 マルクスやレーニン、スターリンの概念では、国民国家を形成できる権利や、独立の権利を持つ民族がネーションだからです。そこで急いで、中国政府はネーションをエスニック・グループに書き換えた。だから私はいまだにエスニック・グループではなく、モンゴルネーションと言い続けています。
 言葉遊びのように感じる人もいるかもしれませんが、当事者として深刻です。
 かつて中国では、モンゴル族や満州族などの北方民族を北疆、匈奴、突厥などと呼んでいました。漢民族ではない“異民族”の北疆はモンゴル帝国を築き、匈奴や突厥も王朝を打ち立てた。隋の建国者の楊氏も唐の建国者の李氏も、鮮卑族というモンゴル人の出身です。
■チンギス・ハンは中華民族の英雄
 歴史を学んだ日本人であれば、中国の歴史は、漢民族が一貫して支配し続けたのではなく、さまざまな民族が広大な国土にやってきては居つき、そして戦いに敗れまた新たな民族が国を築いたことを知っているはずです。
 しかしながら、いまの中国政府からしてみれば、すべて漢民族が築いた「我が国」という位置づけに改竄しているのです。
 中国では、モンゴル帝国ならびに元について、13世紀にモンゴル人が中国やユーラシアを征服して誕生した王朝だとは決して教えません。あくまでも中国の地方政権だと教えます。
 だから、中国では、チンギス・ハンは中華民族の英雄であり、ユーラシア大陸全体で国土を開拓した中国人として教えられます。
 ――一般的な中国人は、チンギス・ハンが中華民族だったと本当に信じているのですか?
 はい。それこそが、歴史の書き換えであり、中国政府の教育の賜なのでしょうね。中国国内の南モンゴルには、少数民族のモンゴル人たちがいる。モンゴル人は中華民族のサブグループだという意識になるので、教育によって「チンギス・ハン=中華民族の英雄」という共通認識になったのです。
■中国政府の詭弁
 2006年はモンゴル帝国成立800周年でした。モンゴル国では大々的に祝っていましたが、中国のモンゴル人が祝うのは禁じられました。またモンゴル文化ではなく、草原文化と言うように強制されました。やがて草原文化もダメになり、いまは北疆文化と呼ぶように決められています。
 日本人が天皇を精神の拠り所にするように、私たちモンゴル人のアイデンティティを支える誇りがチンギス・ハンであり、チンギス・ハンが築いたモンゴル帝国です。私たちの英雄が、中国人だとされるのは、本当に悔しいし、許しがたい。
 では、中国の見解として、南モンゴルの北にモンゴル国が独立しているのはどう考えているのか。中国では、帝政ロシアと日本、そして悪いモンゴル人が、善良なモンゴル人をたぶらかして、中華民族の族群であるモンゴル人を分断し、独立させたという歴史になっています。
 ――中国の政治家や官僚は、一般的な世界史を理解しながらも、国民には政府の公式見解を教えているわけですね。
 その文脈で注目したいのが、1990年代後半にアメリカのハーバード大学のマーク・エリオットが提唱した「新清史」です。「新清史」とは、清朝を中国史の枠組みではなく、満洲語やモンゴル語、チベット語、チュルク語などの一次資料を読み直し、「清朝=ユーラシアの帝国」として再評価すべきだとする概念です。
■「正しい歴史」を消すために弾圧を強める
 当初、漢人の研究者にも「新清史」は歓迎されました。なかには、満洲語やモンゴル語を学ぼうとした研究者もいました。しかし2000年代に入り、中国国内で猛烈な「新清史」批判キャンペーンが起こりました。我々を滅ぼそうとするアメリカ帝国主義の学者による野心的な歴史観だ、と。
 ただ、批判にたずさわった漢人の研究者は今も内心では「新清史」こそが、真実の歴史だと思っているはずです。
 「新清史」の原形となったのが、日本人学者による研究です。東洋史学者の岡田英弘さんの『世界史の誕生』では世界史のはじまりをモンゴル帝国によるヨーロッパや中国との接触に求めています。また、歴史学者でモンゴル帝国史を研究した杉山正明さんの一連の著作も大きく影響を与えています。
 最近失脚しつつありますが、王(おう)岐山(きざん)という習近平の盟友がいます。2015年、当時は事実上のナンバー2だった彼は岡田さんの『世界史の誕生』や杉山さんの著作を読んだと語っています。
 その話を聞いた岡田さんの関係者は純粋に喜んでいましたが、私はマズいな、と感じました。
 というのも、中国の公式見解や大漢民族主義とはそぐわない「新清史」のような歴史観を打ち消すために、少数民族政策に落とし込まれる危険性を孕んでいるからです。
■決して日本もひとごとではない
 案の定、2015年頃からウイグルへの弾圧が激しさを増しました。母国語を奪って、ウイグル人女性と漢人を結婚させて、言葉や身体的な特徴を消し、漢族と同化させようとしています。その5年後には、先述したモンゴル人への母語教育や歴史教育が禁止されました。
 中国政府の中枢にとって、「新清史」は少数民族たちのアイデンティティを確立させ国社会を根底から崩す概念だと危機感を抱いた証左です。
 いまも中国政府は歴史の書き換えに躍起になっています。その成果のひとつが、チンギス・ハンの中華民族化であり、香港やウイグルでの弾圧です。
 中国でモンゴル人として生まれ、日本で暮らすからこそ、私はこうした中国の歴史の書き換えや他民族への弾圧は、日本にとっても決してひとごとではないと感じるのです。実際、日本にじわじわとチャイナリスクが浸透してきています。これについては後編でお話しします。(後編へ続く)

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 楊 海英(よう・かいえい)
 静岡大学教授/文化人類学者
 1964年、南モンゴル(中国・内モンゴル自治区)出身。北京第二外国語学院大学日本語学科卒業。1989年に来日。国立民族学博物館、総合研究大学院大学で文学博士。2000年に帰化し、2006年から現職。司馬遼太郎賞や正論新風賞などを受賞。著書に『逆転の大中国史』『独裁の中国現代史』など。

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 山川 徹(やまかわ・とおる)
 ノンフィクションライター
 1977年、山形県生まれ。東北学院大学法学部法律学科卒業後、國學院大学二部文学部史学科に編入。大学在学中からフリーライターとして活動。著書に『カルピスをつくった男 三島海雲』(小学館)、『それでも彼女は生きていく 3・11をきっかけにAV女優となった7人の女の子』(双葉社)などがある。『国境を越えたスクラム ラグビー日本代表になった外国人選手たち』(中央公論新社)で第30回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。最新刊に商業捕鯨再起への軌跡を辿った『鯨鯢の鰓にかく』(小学館)。Twitter:@toru52521

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🔯42」─1・②─女系相続が原因のイギリスとフランスとの100年戦争は誰も得しない戦争だった。~No.148 

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   ・   ・   {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本の皇室は、世界の王室の常識に反して、皇統断絶の危機をもたらす女系母系相続を認めず、民族神話のみを正統とする男系父系相続にこだわり千年以上の歴史・伝統・文化そして宗教を護ってきた。
 現代日本は、皇室を開かれた王家にする為に憲法と法律が承認する正当女系母系天皇家に賛成し、導入しようとしている。
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 2025年3月1日 YAHOO!JAPANニュース ダイヤモンド・オンライン「「イギリスとフランスは100年戦い続けた」誰も得しない戦争ワースト1とは?
 出典:『地図で学ぶ 世界史「再入門」』
 「イギリスとフランスは100年戦い続けた」誰も得しない戦争ワースト1とは?
「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました。しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です。地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります。
本連載は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです。地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます。著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏。黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い。近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある。
 【この記事の画像を見る】
● 100年間戦い続けて、何が起こったのか?
 イギリスとフランスは、17世紀より海外市場をめぐって激しく争いました。イギリスとフランスの両国は、北アメリカとインドにそれぞれ拠点を設置して進出しており、双方の市場独占をめぐる対立が深刻になったのです。
 この両国の植民地抗争は、ヨーロッパでの大戦争とも連動しており、イギリスとフランスは百年戦争を戦います。「百年戦争」といえば、中世に英仏両国が争ったものが有名ですが(1337〜1453)、今回はそれに続く二度目の戦争ということで、「第2次英仏百年戦争」とも呼ばれます。
 第2次英仏百年戦争の契機となったのが、大同盟戦争(ファルツ継承戦争/1688〜1697)でした。この時期はフランスがルイ14世の治世(在位1643〜1715)のもとで常備軍を増強し、ヨーロッパ最強水準の圧倒的な軍事大国と化していました。
 その軍事力を背景に、ルイ14世は活発な侵略戦争を繰り返し、これを阻止しようと他の列強諸国が同盟する、という構図が形成されます。この大同盟戦争では、北米でも英仏両国が衝突しており、こちらはウィリアム王戦争と呼ばれます。大同盟戦争・ウィリアム王戦争ともに決着はつきませんでしたが、この戦争を機に、英仏両国の長い因縁が始まるのです。
 大同盟戦争―ウィリアム王戦争を皮切りに、その後も英仏両国はヨーロッパや北米、さらにはインドなどの各地で、激しく干戈(かんか)を交えることになります。第2次英仏百年戦争で明確な決着がついた戦闘は二度あり、一つはスペイン継承戦争(アン女王戦争)で、イギリスは講和条約であるユトレヒト条約により、ハドソン湾地方、ニューファンドランド島、アカディアといった北米植民地をフランスより奪います。下図(図70)を見てください。
 アカディアのフランス系住民は、後にイギリス政府により移住を強制され、その果てにたどり着いたのがミシシッピ川流域のルイジアナでした。この地に移住したフランス系住民は、故地アカディアの名から「ケイジャン」と呼ばれ、今日もジャンバラヤに代表されるケイジャン料理や、ケイジャン音楽のように、アメリカ合衆国文化を支える因子として息づいています。
 そうした戦争のなかでも、戦況を決定づけたのが七年戦争でした(1756〜1763)。この七年戦争は、ヨーロッパではプロイセンがイギリスの財政援助を受けながら孤軍奮闘し、フランス・オーストリア・ロシアと渡り合いましたが、一方のイギリスとフランスは北米とインドでも激戦を繰り広げました。結果は北米もインドもイギリスの圧勝に終わり、フランスは双方の海外植民地から撤退することになります。下図(図71)を見てください。
● 100年間戦い続け、勝者と敗者はどうなったのか?
 七年戦争は世界規模で繰り広げられた大戦争であり、さながら世界大戦の様相を呈した最初の戦争と言えるでしょう。それだけの規模の大戦争であったため、その影響は甚大でした。何といっても、勝者・敗者の双方に深刻な財政難をきたしたのです。
 勝者であるイギリスは、財政難の打開のため北米13植民地に様々な課税や財政政策を強行します。これに反発した入植者らは、ついに本国に対し革命・戦争を起こします。これが、アメリカ独立革命です(1775〜1783)。
 一方、敗者のフランスでは、ルイ14世以来の財政難がより一層深刻となり、もはや財政破綻が目前となります。さらに、アメリカ独立革命で植民地(合衆国)と同盟して参戦したことで、ついにその限界を超えるのです。当時の国王ルイ16世は財政改革に臨もうとするものの成果は得られず、ついにフランス革命が勃発するのです(1789〜1799)。
 (本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の一部抜粋・編集したものです)
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🗽22」─3─250年前のハワイで行われていた”人身御供”や”奴隷の入れ墨”。~No.87 

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 2025年3月6日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「250年前のハワイで行われていた”人身御供”や”奴隷の入れ墨”…近代文明への移行に伴う「不平等」「政治的階層」の出現は必然なのか?
 人種差別、経済格差、ジェンダーの不平等、不適切な発言への社会的制裁…。
 世界ではいま、モラルに関する論争が過熱している。「遠い国のかわいそうな人たち」には限りなく優しいのに、ちょっと目立つ身近な他者は徹底的に叩き、モラルに反する著名人を厳しく罰する私たち。
 【漫画】「しすぎたらバカになるぞ…」母の再婚相手から性的虐待を受けた女性が絶句
 この分断が進む世界で、私たちはどのように「正しさ」と向き合うべきか?
 オランダ・ユトレヒト大学准教授であるハンノ・ザウアーが、歴史、進化生物学、統計学などのエビデンスを交えながら「善と悪」の本質をあぶりだす話題作『MORAL 善悪と道徳の人類史』(長谷川圭訳)が、日本でも刊行される。同書より、内容を一部抜粋・再編集してお届けする。
 『MORAL 善悪と道徳の人類史』 連載第82回
 『「成長」した結果「衰退」してしまう…“帝国主義的な体制”がことごとく崩壊してきた意外な理由』より続く
 最高指導者カラニオプウ
 ハワイ王国の頂点に立つカラニオプウは神として崇められていた。当時の絵画に描かれた威厳ある表情はまなざしが鋭く、黒い髪は額部分に波模様をあしらった羽毛の王冠で覆われている。赤と黄色の菱形模様のマントは、彼に防寒だけでなく精神的な保護も授けているようだ。
 1778年にレゾリューション号でサンドイッチ諸島(ジェームズ・クック自らがサンドイッチ伯爵にちなんでそう名付けた)に到着したとき、クックとその部下でさえ、その土地を支配する不平等に驚愕した。18世紀のイギリス人はすでに社会格差の存在に慣れ親しんでいた。しかし、階級意識の強い彼らでさえ、ハワイの人々が最高指導者カラニオプウに差し出す献身的な服従には驚かされた。一般島民は支配者層に、とりわけ王に身も心も捧げなければならなかった。残酷なまで頻繁に人身御供が行われ、一見無意味な規則に対する違反にさえ死刑が宣告された。国土は首長たちと王家のもの。奴隷の多くの顔には、無価値な追放者としての入れ墨が彫られていた。
 先史時代の小集団から前近代の大文明への移行は、ほぼ例外なく平等な共同体から不平等で専制的な社会への移行でもあった。現代の私たちが、富、権力、ステータスの点で極度に不平等な社会に生きているのは、社会が大きく複雑に進化するために支払わなければならない代償だったように感じられる。しかし、本当にそうなのだろうか?更新世の人類は小さな集団を形成しながら散在して暮らしていたとするあまりにも単純な主張には、最近疑問が高まりつつある。最新の調査によると、すでに当時から、現在一般に考えられているよりも定住が進み、大きくて、政治的にも不平等な社会が存在していたと考えられる。
 単純な進化史
 人類学者のデヴィッド・グレーバーと考古学者のデヴィッド・ウェングロウは、物事を単純に考えすぎてはいけないと警告する。平等な部族社会から不平等な大社会への移行という考え方が浸透すると、私たちはこの移行を、そしてそれに付随する社会の不均衡や政治的支配も、代わりも避けようもないものとして受け入れてしまう恐れがあるからだ。つまりこの説は、一見したところ客観的な歴史描写に思えても、じつは人々の政治に関する想像力を奪うことを目的とした、イデオロギーに満ちた言説だとみなせる。
 実際には、人類はあらゆる条件下で暮らし、気候や集団の大きさにかかわりなく、ありとあらゆる社会政治的形態を経験してきたと、グレーバーとウェングロウは主張する。彼らの主張によると、私たち人間はこれまでずっと自発的に政治生活を送ってきた。「進化という拘束衣」に縛られていたわけではない。小さな集団の多くはすでに厳格な階級や独裁者による搾取を経験していた。その一方では、北アメリカの、ときには何万ものメンバーで構成される大きな共同体に属する先住民族は、新世界にやって来たばかりのフランス人やイギリス人たちが上官の前でまさに靴に口づけせんとばかりにひれ伏すのを眺めては、連中には自尊心が欠けていると言って笑っていた。リーダーや首長が召し使いのように大衆に奉仕する社会もあったし、季節ごとにまったく違う政治形態を行ったり来たりする社会もあった。そこでは、人々は豊かな夏には自立し、乏しい冬には必要から一時的に政治指導者に服従する。
 社会の進化の過程でさまざまな種類の社会形成が行われたことは驚きに値しない。ここで重要なのは、なぜ現代の私たちは、今の状況で“行き詰まってしまった”のか、という問いだ。言い換えれば、私たちが物質的不平等と政治的階層を絶対的で変えようのないものとみなしているのはなぜだろう?グレーバーとウェングロウが正しく指摘するように、今とは違う政治形態について考えることには、つねに価値がある。「自由・民主・資本の妥協案が歴史の終わりであり、政治システムの競争で唯一今もレースから脱落していない体制だ」というフランシス・フクヤマの意見に同意したら、私たちは多くを見逃してしまうだろう。
 だが、こうも言える。グレーバーとウェングロウは、「小集団=平等・大集団=不平等」という単純な進化史に一石を投じ、人類の歴史はつねに高度な政治的可塑性と社会変動の歴史であって、私たち人間は自発的に共存生活を形づくってきた、と主張することに成功したのではあるが、現代の社会が不平等と支配階層がなくても成立するのかという疑問については、何の考察もしていない。しかし、まさにこの点こそが、今の私たちが行き詰まりを感じる理由なのだ。私たちは本当に前に進めなくなった。ロマンと過酷さが共存する極めて単純な共存生活へ回帰することができない今、社会政治的な階層のない先進社会を実現することは不可能だと考えてしまう。なぜそうなってしまったのだろうか?
 『「神」の概念は人間の「発明」か…?高度文明の発生に「信仰」が深く関わっているといえるワケ』へ続く
 長谷川 圭、ハンノ・ザウアー
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 3月5日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「神」の概念は人間の「発明」か…?高度文明の発生に「信仰」が深く関わっているといえるワケ
 ハンノ・ザウアー
 オランダ・ユトレヒト大学哲学・宗教学部准教授
 長谷川 圭
 翻訳家
 人種差別、経済格差、ジェンダーの不平等、不適切な発言への社会的制裁…。
 世界ではいま、モラルに関する論争が過熱している。「遠い国のかわいそうな人たち」には限りなく優しいのに、ちょっと目立つ身近な他者は徹底的に叩き、モラルに反する著名人を厳しく罰する私たち。
 この分断が進む世界で、私たちはどのように「正しさ」と向き合うべきか?
 オランダ・ユトレヒト大学准教授であるハンノ・ザウアーが、歴史、進化生物学、統計学などのエビデンスを交えながら「善と悪」の本質をあぶりだす話題作『MORAL 善悪と道徳の人類史』(長谷川圭訳)が、日本でも刊行される。同書より、内容を一部抜粋・再編集してお届けする。
 『MORAL 善悪と道徳の人類史』 連載第83回
 『250年前のハワイで行われていた“人身御供”や“奴隷の入れ墨”…近代文明への移行に伴う「不平等」「政治的階層」の出現は必然なのか?』より続く
 初期の高度文明の発生を促す主要な力
 初期の帝国社会が共存に必要なルールを文書として記録しはじめた。最も有名なのはバビロニアのハンムラビ法典(紀元前18世紀ごろ)だろう。現在はルーヴル美術館に収蔵されている黒い石碑が、赤石に刻み込まれたウル・ナンム法典(紀元前21世紀ごろ)と同様に、殺人、窃盗、契約違反、そのほか文化や状況に特有の犯罪に対する罰則を規定している。
 男が女性の奴隷とのあいだにつくった子は、父親が死んだあとも法的に子として認められるのか?市民を殺害した者をどう罰する?宮廷の高官を殺害した者は?シュメールのリピト・イシュタル法典(紀元前19世紀ごろ)にも同じような規則が記されている。
 たとえば、他人の庭の木を切り倒した者は相手に1ミナ分の銀貨を支払わなければならず、ウシの鼻輪部分の肉を傷つけた者は、そのウシ1頭分の代金の3分の1をもって償う。
 これら法典は、ほとんどの場合で支配者(あるいは支配王朝)の神性をよりどころとしている。つまり、法的な迷路に足を踏み入れる前に、法が適用されるのは強者がそれを望むからではなく、神の祝福によるものであるということをはっきりさせておく必要があった。
 これは偶然ではない。規則の遵守を監視する神々、言い換えれば、道徳化の神々の権威に対する信仰こそが、初期の高度文明の発生を促す主要な力となったからだ。小規模な部族社会で信仰された超自然的な存在は、たいていの場合でさまざまな自然の力を滑稽かつ非道徳的に体現したものであって、個人的な意図や目的をもち、供え物で懐柔したり、脅しでおとなしくさせたりすることができた。
 「大いなる神」へと舵を切る初期の文明
 一方、初期の文明はどこも一様に「大いなる神」へと舵を切った。神学的な登場人物がどんどん融合して数こそ少なくなった代わりに、ますます抽象的・彼岸的に想像されるようになった、超越的な懲罰を与える力をもつ巨大な神、すべてを統べ、あらゆる罪を罰する、この世の世界から完全に切り離された永遠かつ全知全能の神という一神教的な考え方へと方向転換をした。
 集団の規模が大きくなり、物質的な不平等が極端になるにつれて、互恵性や家族の絆、あるいは単純な制裁で社会の協調を安定させることが難しくなっていった。懲罰という制度の力で協調性を高めることはできるが、それだけで問題が完全に解消されるわけではない。
 たとえば犯人のわからない罪には懲罰制度は役に立たないし、犯罪が罰せられずに終わることもある。したがって、文明と呼べるほどに成長した社会は、罪のすべてを見逃さない全知全能の懲罰的神性という考えを発展させるほうが楽なのだ。
 この発展により、不死の魂という考え方も必要になった。罪を犯した者には必ず正当な罰が与えられるという考え方は、称賛に値する行動とこの世での成功とのあいだに直接の関係はないという実際の経験と矛盾する。それどころか多くの場合で、善人は苦しい生活を強いられているのに、悪人のほうがはるかに豊かに暮らしているではないか。
 そのため、どんな場合も最終的には正義が果たされ、罪人は罰せられ、道徳と幸福のバランスが保たれるということを人々に理解させるための物語が必要だった。不滅の魂という考え方には、イギリスの哲学者ジョン・ロックが指摘したように、犯罪法的な由来がある。
 つまり、この世での悪行はあの世でも罰せられるということを形而上学的に示すための考え方だ。簡単に言えば、悪い行いに対して死後も罰せられると知れば、人々はこの世で規則を守ろうとするだろう、ということだ。
 神々の存在が人間の協調性を高める
 極端に協力的な生物として、私たちは高度な社会的認知能力を備えているので、周囲の人々の精神状態を高い精度で感じ取ることができる。この能力によって、私たちは自分のことをただの肉と骨の塊ではなくて、特別なもの、特別な容器も備えている存在と想像できるようになった。
 その容器には意図、願い、確信、欲求、意見などが詰まっている。この容器こそが精神あるいは魂だ。精神と物質的基盤、つまり個人の肉体は別物だとみなすようになったのだから、物質的基盤をもたない純粋に精神的な存在もいるはずと考えるようになったのは、当然の成り行きだと言える。この考え方をどんどん膨らませていった結果が、人知を超える偉大なる神という概念だ。
 偉大な神がいる社会が文明になることができたのだろうか。それとも、文明にまで成長した社会が偉大な神を発明したのだろうか?確かなのは、神々の存在が人間の協調性を高めるということだ。経済学の実験を通じて、知らず知らずのうちに神による監視を意識させられた人のほうが、多くの額を拠出することがわかった。
 いわゆる「独裁者ゲーム」では、参加者は特定の金額を自分ともう1人の参加者で分け合うのだが、その分配のしかたは自分で決めることができる。参加者は平均しておよそ4分の1の額を相手に渡すのだが、実験前に神の存在をほのめかすタスクを行った参加者はおよそ半分を分け与えるのだ。
 この無意識下の刺激(心理学では「プライム」と呼ばれる)は、信心深い人で特に強く作用するようだ。信心深い人に、ゲームの前に「神」や「霊性」などを含む一連の単語を並べ替えて文法的に正しい文にするように求めた場合(デザート・おいしかった・神々しい、など)、協力意欲が格段に高まったのだ。
 ただしここでもまた、なぜそうなるのか、詳しい仕組みは明らかではない。私たちが道徳に反する行為への衝動を抑えるのは、偉大な神々に罰せられ、地獄の業火で焼かれるのを恐れるからなのか。それとも、罰する神がいるという考えが道徳的規範の存在を思い出させるため、私たちは単純に正しい決断をしやすくなるだけなのだろうか。
 『現代の匿名社会が絶対に平等にならないのはワケがある…ゼロサム思考が形づくった、現代人の重篤な「不平等アレルギー」の正体とは』へ続く
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💠11」─1─「ポリコレ」はキリスト教国アメリカのメリークリスマスを死語に追い遣った。〜No.53No.54No.55 

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   ・   ・   {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2025年3月4日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「アメリカではもう「メリークリスマス」と言ってはいけない…「ポリコレ」発祥の地で起きている社会分断
 「八百屋」は×でも「八百屋さん」は○など、テレビでは多くの言葉を自主規制によって、言い換えもしくは禁止している。作家の下重暁子さんは「変えるべき言葉も確かにあるが、理解できない理由で規制を行っている例が散見される」という――。(第3回)
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 ※本稿は、下重暁子『怖い日本語』(ワニブックス【PLUS】新書)の一部を再編集したものです。
■メディアが過剰な「言葉狩り」を行うワケ
 メディアの言葉が最近無神経すぎる、ということを書いたのですが、昔からある分野についてはたいへん神経質です。
 まず、差別的な用語、そしてスポンサーの意向。差別的な用語の「言い換え」については、とにかく不用意に使用すると抗議活動が非常に激しいものになることもあって、「言葉狩り」と言われるほど過剰になることがあります。
 「床屋」も「八百屋」も「肉屋」もメディアでは使いません。「屋」というのは侮蔑的な用語とされ、理容店、青果店、精肉店と言い換えなくてはならないことになっています。ただ「八百屋さん」といった言葉なら許される。
 私生児は婚外子、孤児院は児童養護施設、裏日本は日本海側、ぎっちょは左利き、低開発国は発展途上国など、こうした「言い換え」は広い範囲で行われています。
 納得できるものも中にはあるのですが、「片手落ち」という言い方は、手に障害がある人に失礼だということで「不公平」や「不用意」などに言い換えたり、「盲蛇におじず」ということわざを使わない、など必要性に疑問を感じるものもたくさんある。
 もちろんこれは法律で決められているものではなく、ほとんどの場合がメディア側の「自主規制」です。メディアは多くの言葉を自主規制によって、言い換えたり、禁止してきたわけです。
 不当な差別はあってはならないことですが、差別的とされた用語を言い換えたり、使用を禁止することばかりが差別意識をなくすことにつながるとは思いません。むしろ、本質から目を背けてしまう結果になることもあります。
 私はつい最近までラジオ日本の番組審議委員をやっていましたが、最近は一時よりは少し余裕が出てきて、苛烈な言葉狩りのようなものは減りつつあるようです。
■「スチュワーデス」の差別的な語源
 ただ「差別的」と判断して言い換えた言葉以外にも、「メディアの自主規制」は、どんどん増えています。それがいわゆる「ポリコレ」、ポリティカルコレクトネスに(政治的に正しいこと、政治的妥当性)にもとづく「言い換え」です。
 これはアメリカが「発祥」で、「性、民族、宗教などによる差別や偏見、それにもとづく社会制度は是正すべき」とする考え方です。
 日本でも「看護婦」「保母」を「看護師」「保育士」と言い換えましたが、理由はどちらも女性に限った職業でないからということで、このへんはあるていど納得できます。
 ちなみに、「スチュワーデス」は男性名詞の「スチュワード」を女性形にしたものでしたが、それを「キャビンアテンダント」「フライトアテンダンド」などに言い換えたのは、性差をなくすことに加え、もともとの「スチュワード」の語源に、差別的な意味合いがあったためだそうです。(※語源はstigweardで「豚小屋の番人」を指していたとされる)
 この言い換えはアメリカでももはや歯止めが効かないくらいになっているようで、挨拶冒頭の「ladies and gentleman」という呼びかけも、性の多様性に配慮して「Hello everyone」が多いそうです。
■アメリカでは「メリークリスマス」はタブー
 アメリカではクリスマスに「メリークリスマス」と言う人も減ってきているといいます。
 ではなんと言って祝うのか、クリスマスカードはどうするのかいうと、「ハッピーホリデーズ」が「正しい」のだそうです。「クリスマス」は「キリストのミサ」という意味ですから「メリークリスマス」はキリストの誕生を祝う言葉です。つまりキリスト教徒の挨拶だから、これを使うと、イスラム教徒、ユダヤ教徒、仏教徒は不快に感じるだろう、というわけです。
 日本人は神社で七五三、学校はカトリック系、結婚式はプロテスタント系の教会、葬式は仏教と、まことに「おおらか」な宗教観なので、クリスマスだろうがハロウィンだろうが、なんの抵抗もなく「イベント」として受け入れてしまいます。
 しかし、アメリカではもはや「メリークリスマス」すらタブーのひとつになってきているのだそうです。
 ただ、アメリカの場合は、「異教徒への配慮」と言いながら、実のところは左翼勢力による「アメリカ社会のキリスト教色一掃」が主な目的の、「キャンペーン」のようなものです。
 実際、アメリカに住むイスラム教徒などへのインタビューでも、「別にメリークリスマスと言われて不愉快になることはまったくない」「自分では使わないけれどクリスマスはイベントだから気にしない」という声が多いそうです。
■一言でわかるオバマとトランプの違い
 民主党のオバマ元大統領夫妻はホワイトハウスのクリスマスデコレーションも宗教色を出さず、カードにも「ハッピーホリデーズ」を使ったそうですが、トランプ大統領は選挙戦の期間から「私はクリスマスが大好きだ。メリークリスマスの文字が見たい」と叫び、ツリーの点灯式では「アメリカ大統領として世界にメリークリスマスと言えてうれしい」と言った。
 トランプ支持者の多くは、キリスト教福音派(プロテスタントの一宗派)という非常に敬虔なキリスト教徒たち、または伝統的アメリカを愛する保守層です。だから彼らは「左翼」の抗議などものともせずに「メリークリスマス!」と叫ぶトランプを熱狂的に支持したのです。
 日本ではほとんどの国民が先ほど言ったとおり、宗教についてはおおらかすぎるくらいで、人種もアイヌ民族と琉球民族以外のほとんどが大和民族のため、アメリカ社会における「ポリコレ」の複雑さを感覚的に理解することはできません。
 私もこうしたことは最近になってから『ポリコレの正体』(福田ますみ/方丈社)という本で知りました。
■「注意書き」を入れるだけの思考停止
 さて日本のメディアの「自主規制」のほうを見てみると、アメリカとはまったく違う理由で、理解できないものが非常に多いと感じます。
 アメリカの真似をしてはじまった規制もあるのでしょうが、たとえば、「これから津波の映像が流れます」という注意書き。
 直後のことなら「配慮」も必要だったでしょう。なんとか情報を得ようとテレビを見ている被災者たちにとって、繰り返し流されるあまりにもショッキングな津波の映像を見るのはつらかったことでしょう。実際にそれによって体調が悪くなった人もいました。それは数年たっても同じことだったかもしれません。
 けれど、その「配慮」は、震災から13年たっても変わらない。むしろ、本当に必要だったときよりも、過剰に自主規制されているかもしれません。津波の映像をむやみに流すことはないと思いますが、むしろあまり規制していると、あの災害が伝わらなくなる恐れもあります。
 本当に必要があって流すのであれば、いつまでも「注意書き」を入れつづけなくてもいいのではないかと感じます。
 「フラッシュの点滅にご注意ください」というテロップも、97年にポケモンのゲーム中に、画面で光の点滅シーンを見ていた子どもが気分が悪くなったという「事件」がきっかけです。しかし記者会見などの中継の前にまで必ず入れつづけなければならないようなものでしょうか。要するに視聴者のクレーム対策というだけのことです。
■「諸説あります」は卑怯
 タレントが温泉につかるシーンでは「撮影のために特別にタオルを巻いております」、食べ残した食事には「残った食事はスタッフがおいしくいただきました」、店頭でレポーターが試食する場合は「特別に許可をいただいて店頭で試食しています」。そして歴史的にはっきりわからない話には「諸説あります」のテロップ。
 「諸説あります」は、別に学術的な番組に限らず、「郷土料理の元祖」などでもよく使われますが、諸説あるなかでなぜこれを取り上げたか、ということはろくに説明もせず、とりあえず逃げるのはひきょうだと思いませんか。
 「どこが『元祖』なのか、番組でも調べてみたけれどわかりませんでした」と言ったうえで、「この番組では現在地元で一番有名なこの店を取り上げた」とすればいいのでしょうが、それは全部省略して「※諸説あります」と書いておけばいいだろう、という姿勢は、バラエティであってもやはり無責任だと思います。
 災害時の「安全な場所から中継しています」も、言わずもがなです。たしかに、とんでもないところにクレームをつける人というのは昔も今もいるもので、対応する人はたいへんだと思います。
 最近のほうがネットがあるぶん神経質にならざるを得ないことも、まあわかりますし、実際「うちが元祖だ!」と大々的に抗議活動をはじめる人もいる「かも」しれませんが。
 それがめんどうくさいのなら、そもそも取り上げなければいい。「テロップさえ入れておけばやりたい放題」とさえ感じられます。

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 下重 暁子(しもじゅう・あきこ)
 作家
 1959年、早稲田大学教育学部国語国文科卒業。同年NHKに入局。アナウンサーとして活躍後、1968年にフリーとなる。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。公益財団法人JKA(旧:日本自転車振興会)会長、日本ペンクラブ副会長などを歴任。現在、日本旅行作家協会会長。『家族という病』、『極上の孤独』(ともに幻冬舎新書)、『鋼の女 最後の瞽女・小林ハル』(集英社文庫)、『人間の品性』(新潮社)、『孤独を抱きしめて 下重暁子の言葉』(宝島社)、『ひとりになったら、ひとりにふさわしく 私の清少納言考』(草思社)など著書多数。

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2022-07-03
💠7」─1─マルクス主義者のマイノリティ・ファシズムは民族・歴史・文化・宗教を破壊する。〜No.41No.42No.43 
2022-07-03
💠7」─1─左翼・左派によるマイノリティ・ファシズム。ポリコレ、アイデンティティ・ポリティクス。〜No.41No.42No.43 
2022-02-22
🔔17」─1・A─スウェーデンは約200万人の移民・難民を受け入れた為に社会は右傾化した。〜No.50 
2023-11-22
🔔17」─1・B─スウェーデンは難民・移民受け入れから強制退去要件導入へ方針転換。〜No.51 
2023-11-22
🔔17」─1・C・①─スウェーデンは難民・移民受け入れから強制退去要件導入へ方針転換。〜No.51 
2024-11-24
🔔17」─1・C・②─「安全な国」スウェーデンが一転、犯罪大国に堕ちた理由。〜No.51 
2023-11-23
🔔17」─2─オランダ総選挙、反移民・反EUの極右政党が第1党へ。〜No.52 
2024-05-14
🔔17」─3─多文化共生がいばらの道である事を、理解する欧米と理解できない日本。〜No.53No.54 
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2022-04-02
🔔18」─1─極左フランクフルト学派が世界に仕掛けたポリコレ過剰社会。〜No.55 
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 日本国内に外国人移民(主に中国人移民)が増える事で、日本にもアメリカ・リベラルのポリコレ旋風が起き日本社会で少数派と多数派の分断が起き、分断の亀裂が拡大していく。
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 文化共生多様性社会は、マイノリティーへの配慮からマジョリティーの文化・宗教・風習を制限する。
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 マイノリティ・ファシズム、エコ・テロリスト、ヒューマニズム原理主義、環境過激派、リベラル・ファシズム(エセ・リベラル)は、文化マルクス主義の反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人達である。
 そして彼らは、イデオロギー的不寛容な差別主義者である。
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 現代日本には、本当の意味でのリベラルは存在しない、もし居るとしてもほんのわずかで多くはエセ・リベラルであった。
 エセ・リベラルはリベラル左派で、国家を否定し安倍元総理暗殺テロを肯定する隠れサヨク過激派で、日本国と日本民族の事など考えてもいなければ心配もしていない、彼らの本心は、日本国の分断であり、日本民族の消滅である。
 民族国民(在来種日本人)は、リベラル市民(エセ・リベラル)の底の浅さを感じ、総選挙でエセ・リベラルを支持しなかった。
 岩田温「……『今まで何ら一矢報いることができなかったリベラル市民として言えば、暗殺が成功してよかった』
 ……
 『あの死者(安倍元総理)はもともと「凶相」であった。他方、襲ったの青年にはいささかの同情を禁じえない。風景の奥行は、見かけよりかなり深い。……』
 ……
 リベラルファシズム
 安倍元総理は『多様性には二種類ある』と言っていたとか。第一に主張を認めさせるときに利用する多様性。第二に、異なる意見を排除するときに利用する多様性。安倍元総理はこれを『リベラルファシズム』と呼んでいました。
 ……
 リベラルは本来、寛容さを持ち合わせているはず。ところが、いつの間にか単なるイデオロギー集団と化してしまった。イギリス人ジャーナリストのダグラス・マレーが『大衆の狂気』で、リベラルの異常性を紹介しています。……
 ……
 国家は否定すべき存在だとする考えは、アカデミズムにも蔓延している。私の友人が学会で日本を『わが国』と呼んだら、会場がザワついたそうです。『わが国』はNG,『この国』ならOKだとか。
 ……
 これが〝わが国〟の現状です。アカデミズムにおいては、保守派こそ圧倒的マイノリティ。……」
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 2025年2月2日 産経新聞「米国発のポリコレ是正、日本のメディアは背景にある「民意のいらだち」の深掘り分析を 
 新聞に喝! 経済ジャーナリスト・石井孝明
 1月20日、支持者らの前で大統領令に署名したトランプ米大統領=ワシントン(AP=共同)
 ドナルド・トランプ氏が1月20日に再び米国大統領に就任した。「米国第一」「アメリカの黄金時代再び」などのフレーズをちりばめた就任演説に、支持者が熱狂した。そして就任1週間で約350の大統領令に署名した。連邦政府のDEI(多様性、公平性、包括性)プログラムの廃止などが含まれる。トランプ政権は、バイデン政権下で過度に進んだ人種や性、信条など多様性を巡る「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」と呼ばれる政治的取り組みの修正を政策の柱にしている。
 昨年11月の大統領選挙直後から、ポリコレ是正で民意に敏感な米国企業で動きがあった。米マクドナルドやメタ(旧フェイスブック)では少数者に配慮した採用、昇進の方法を見直した。朝日新聞は「多様性、後ずさる米企業」(令和7年1月21日)などと懸念を伝え、その他の記事でもリベラルな見解を持つ日本人有識者がそろってトランプ政権への不安を述べた。読売新聞も「米企業『多様性』見直し 差別是正の目標 廃止縮小」(同17日)で、米国に進出した一部の日本企業が多様性への対応を縮小する方針を示したことを記した。
 各紙の報道の多くは「トランプ政権が変だ」「アメリカがおかしくなった」という単純な見方だけでこの動きを分析している。だが、それは表面的に思える。
 「異常な『トランプ異質論』のレッテル貼り 就任初日の『大統領令』こそ〝民主主義の手本〟」(夕刊フジzakzak、25日)で、ジャーナリストで青山学院大学客員教授の峯村健司氏がトランプ大統領の手法を分析している。彼は支持者の意見をまとめ、公約を作り、それを実行する民主主義の原則に忠実な政治家で、それが人気と権力の源泉だという。彼の政策や民間の反応はポリコレにうんざりした米国民の多数派の意思を反映した動きなのだ。
 日本では米国ほどポリコレによる社会対立が深刻になっていない。しかし、その兆しが出て、うんざりする声が静かに広がっているようだ。それがリベラル色の強い今の石破茂首相、そしてその政権への不満なのだろう。
 日本、米国、そして欧州で、見えないものの、社会の奥底で動いている民意の本当の姿について踏み込んだ分析を新聞にしてもらいたい。どの政治的立場の読者も、そうだろう。それなのに気にいらない政治家や社会現象への嘆きが新聞で目立ってしまうのは残念だ。
 石井孝明(いしい・たかあき)
昭和46年、東京都生まれ。慶応義塾大学経済学部卒、時事通信記者などを経てフリーに。経済・環境情報サイト「with ENERGY」を主宰。著書に『埼玉クルド人問題』など。
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 ウィキペディア
 ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC、ポリコレ)とは、社会の特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えないように意図された政策(または対策)などを表す言葉の総称であり、人種、信条、性別、体型などの違いによる偏見や差別を含まない中立的な表現や用語を使用することを指す。「政治的正しさ」「政治的妥当性」などと訳される。なお、特に性別の差異を回避する表現をジェンダー・ニュートラル言語(英語版)と言う。またハリウッドなどでキャストやスタッフの多様性を確保するよう求める条項は包摂条項と言う。
 具体例として、看護婦・看護士という呼称を性別を問わない「看護師」に統合したことや、母子健康手帳という名称を父親の育児参加を踏まえて「親子手帳」に変更したことなどが挙げられる(後述)。
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 2024年9月21日 note「資料室: ポリコレは、いかに「歴史学と反差別」を弱体化させたか
 一昨日の辻田真佐憲さん・安田峰俊さんとの配信は、議論が「歴史を語る際のポリコレの流行は、ある意味で欧米の中国化では?」という地点まで深まって面白かった。無料部分のYouTubeもこちらにあるので、よろしければ。
 【ゲスト回】安田峰俊×與那覇潤×辻田真佐憲「実は役立つ中国史を再発見せよ 『中国ぎらいのための中国史』刊行記念」 辻田真佐憲の国威発揚ウォッチ | シラス
現代の日本人は、中国に対して親しみを感じることがほとんどなくなっている。2023年の内閣府の世論調査によれば、中国に「親し
  shirasu.io
 実は、たまたま再読中の森本あんり『反知性主義』に、こんな記述を見つけたところだった。2015年2月の本で、翌年のトランプ当選を予見したとも呼ばれる、アメリカ史の名著である。
 {「リバー・ランズ・スルー・イット」に、とても面白いシーンがある。幼いノーマンが「メソジストって何?」と尋ねると、父は「読み書きのできるバプテストさ」(Baptists who can read)と答えるのである。
 つまり、バプテストは読み書きもできないが、メソジストはもうちょっと上で、読み書きぐらいはできる、ということである。もちろんこれは、長老派というインテリ牧師から見た話で、バプテストもメソジストも同じくらいバカにした言い方である。
 実は、これは映画館で見るバージョンにしか出てこない。このシーンを確認したくてDVD版を何度も見直したのだが、確認することができなかった。しかし、わたしは映画の中のこのシーンをよく覚えている。
 というのも、わたしはこれを日本の映画館で見たのだが、ここで大笑いしてしまい、しかも笑ったのは自分だけだったので、ちょっと恥ずかしい思いをしたからである。
 アメリカの映画館なら、大喝采を受けるところである。アメリカ人は、こういうジョークが大好きである。自分がバカにされたそのバプテストやメソジストだと、いっそう喜んで大笑いする。
 そういうところで「ポリティカル・コレクトネス」を持ち出すのは野暮である。
 新潮選書、149頁
 強調を附し、段落を改変 }
 初読の際に読み落とした理由は、2017年、うつからのリハビリの中で読んだこともあるけど、当時はまだ、日本に「第2次ポリコレ・ブーム」が来ていなかったのが大きい(第1次は平成初頭)。
 『リバー・ランズ・スルー・イット』は、ブラッド・ピットの出世作として知られる1992年の映画で、今も人気がある(監督は昔「アメリカン・ニューシネマのブラピ」みたいな俳優だった、ロバート・レッドフォード)。
 戦前とかならともかく、そんなごく最近(歴史家の感覚では)の作品でも、DVDを出す際に「はい、このシーン、いまはもうNGなんでカットで」と切り刻まれちゃうのは、結構ショックな話だ。
 森本氏も「もちろんこれは、長老派というインテリ牧師から見た話」と補っているとおり、別に製作者が、メソジストやバプテストを差別しているわけではない。むしろ、かつては敬虔なクリスチャンの間でも、新興の宗派への差別があたりまえに行われる時代があった。
 そうした時代の負の遺産を忘れないために「このお父さん、いいオヤジだったけど、いまから見るとやっぱ古いとこあったよ」という趣旨で、当時は自明視されていた偏見を、作中に書き込む。それがわかっているから、観客も見て笑う。歴史を踏まえた大人の鑑賞とは、そういうものだ。
 ところが、今という時代の価値尺度を絶対視し、「これ差別発言じゃないスか! 差別するセリフが映画の中にあっていいんスか?」と騒ぐお子様な鑑賞者が増えると、それが通じなくなる。
 結果として、かつて差別があったという史実はかき消され、痕跡が残らなくなってしまう。つまり検閲・削除型のポリコレは、その本質として歴史学の敵なのだが、頭が悪くてそれを理解できない「歴史学者」は多い。
 もっと大事なのは、森本氏も書いているように、こうしたジョークは本来、セリフの中でネタにされている「かつての被差別者」の末裔にこそ、大きくウケる。「自分たちは迫害されてきた」という過去の受難の歴史が、きちんと社会に存在を認められ、承認されることに価値があるからだ。
 しかしここでも、「うおおおおお差別の表現はカット!」みたいなお子様(たまに博士号を持っていたりする)が湧いてくると、そうした記憶の継承が難しくなる。もっとも、世の中には「製作者自身が差別してるんじゃないの?」と見られても仕方のない演出を、ナチュラルにやっちゃう例もあって、両者が悪魔合体すると最悪だ。
 判断に迷ったら、もし自分が差別された人たちの子孫だったときに、周りからどんな風に接してもらいたいかを、考えてみるとよいと思う。
 たとえば、①「昔はひどい差別があったこと、知っていますよ」という人にケアされて、先人たちがそれを乗り越えて、自分はいまこの社会で生きているんだ、と感じたいだろうか。そうした歴史を踏まえたアイデンティティの持ち方を、今後とも尊重してもらいたいだろうか。
 それとも、②「差別ってホントよくないですよね、だからそんな記憶や痕跡はぜんぶ消しておきました、私たちは初めから正しくてゴージャスで最高でキラキラした世界に居たんですうおおおおおDiversity!」な人に囲まれて、一切悩みのない世界のポスターとかに載ってみたいだろうか。
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 「負の記憶のない多様性」って、なぜかみんな似たイメージになりますよね。
 マルクス史観があるだけマシかな?
 まぁ、どうしても②がいいっていう人を、止められるかというと難しいんだけど、しかし彼ら彼女らが勝手にフィルムを削除してしまうようでは、①の人まで困っちゃいますよね。つまり、それは正当化しえない。
 なにより「負の痕跡は全削除でOK! 私たちはゴージャス!!」な自意識って、対立しているはずの「俺たちアメリカは常にグレイトだったぜうおおおおお!」とも似てるっていうか、同じなんですな(苦笑)。
 2015年の『反知性主義』の時点では、まだ見えにくかったそうした構図が、誰の目にもはっきりしたのが、トランプが返り咲きを争う2024年かなと。そんな風に現在を捉えることは、いま結構大事だと思う。
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 姉妹編の『不寛容論』も名著です。
 私の書評はこちらから
 P.S.
 近年の代表的な「ポリコレ批評」の書籍と、その批判。なかなか読ませますね。こちらもそのうち書評しようかな。
 フォロー
 與那覇潤です。2023年11月に『危機のいま古典をよむ』と『ボードゲームで社会が変わる』(共著)を出すのに合わせて、始めることにしました。基本は、掲載・出演情報を「おまけ」を添えて上げていくつもりです。
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 2024年10月23日 GQ JAPANのメールマガジン
 LIFESTYLE AND CULTURE
 最近、“ポリコレ”に配慮しすぎ?「政治的な正しさ」を考える──連載:松岡宗嗣の時事コラム
 社会的な不均衡を調整するための「ポリティカル・コレクトネス」が、冷笑や揶揄の道具になってしまっている。政治的な正しさとは何か? ライターの松岡宗嗣が考える。
 最近、“ポリコレ”に配慮しすぎ?「政治的な正しさ」を考える──連載:松岡宗嗣の時
 ドラマ『SHOGUN 将軍』が米エミー賞史上最多18冠を受賞した際、SNSでは「日本人が監修しただけあって出来が良かった。ポリコレに配慮していないところが最高だった」という投稿が注目を集めた。というより、この投稿に対して「むしろ監修が入ることこそがポリコレだ」という多くのツッコミに注目が集まっていた。
 これまでハリウッド作品が描く日本は、西洋視点でステレオタイプに描かれることが多かったが、本作は主演の真田広之氏がプロデューサーも務め、日本の時代劇専門スタッフが参加して作られたという。西洋的なまなざしのみに陥らず、アメリカ社会においてマイノリティである日本側の視点を重視し制作したことは、SNSでの指摘のように「ポリティカル・コレクトネス」の反映と言えるのかもしれない。
 妻夫木聡「本人」がSNSのコメントに返信 | Actually Me | GQ JAPAN
 一方で、『SHOGUN』は単に歴史に対して忠実に表現したという意味でポリティカル・コレクトネスではなく、むしろ「史実を捻じ曲げてまで人種や性的マイノリティを登場させることなど、多様性を無理やり入れ込むことがポリコレでは」という趣旨の投稿もあった。
 「政治的な正しさ」と訳される「ポリティカル・コレクトネス」だが、その意味や定義は曖昧なまま使われている。「ポリコレ」と略され、揶揄の言葉として用いられていることがほとんどだろう。
 実際ポリティカル・コレクトネスの意味や射程を定義することは難しい。歴史的には、左派の間でも自嘲や皮肉の言葉として用いられていたこともあったという。日本でこの言葉がアメリカから輸入されるようになったのは、1990年代と言われているが、広く使われるようになったのは2010年代以降だろう。アメリカの状況と同じく、「言葉狩りだ」「表現規制だ」といった揶揄の言葉として広がっていった。(アメリカでは現在、ポリティカル・コレクトネスよりも「ウォーク」(目覚めたの意味で、差別などの問題に対し意識を持つこと)という言葉が同様の文脈で使われることが多いだろう)
 「ポリコレだ」と言われる場面
 どんな場面で「ポリコレ配慮だ」という揶揄が起きやすいか。特に社会的マイノリティをめぐって「これまで使われてきた言葉の言い換え」や「映像作品の多様性に関する表現」などの場面が多いのではないかと思う。
 「言葉の言い換え」の観点では、例えば色鉛筆の「肌色」は、人種によって異なることから現在は「うすだいだい」に変わっている。または「ビジネスマン」という言葉は、企業で働く人は男性だけではないことから「ビジネスパーソン」と言うことが増えている。
 「メリークリスマス」という言葉は、必ずしも相手がキリスト教徒とは限らないことから「ハッピーホリデー」に言い換えられることもある(当然だがメリークリスマスと言ってはいけないということではない)。近年は交通機関のアナウンスなどで「レディース・アンド・ジェントルマン」という呼びかけを、「オール・パッセンジャーズ」や「エブリワン」といった性別を特定しない言い方に変える動きもある。ノンバイナリーなど男女二元論にあてはまらない人もいることが背景にある。
 こうした言い換えには、必ず「言葉狩りだ」と批判の声があがる。「レディース」「ジェントルマン」という言葉を一切言ってはいけないのか、という反応もしばしば目にするが、当然そうではない。あくまで不特定多数に対して呼びかける際は、男女二元論にあてはまらない人が現実に存在しているのだから、間口を広げ言葉を工夫し、よりインクルーシブな環境を目指すことは必要な取り組みだろう。
 人々のイメージは「言葉」によっても形作られる。例えば「看護婦」という言葉のように、ケアを女性のみに結びつけるイメージは根強い。だが、実際に病院などで看護に従事しているのは女性だけではないことを多くの人が実感している。そのため、「看護師」と言い換えることについて「ポリコレ」と揶揄されることはないだろう。
 言葉の言い換えの背景にある社会状況をリアルに実感したり、身近に感じているかどうかも「ポリコレ」と揶揄されるかどうかの線引きの一つなのかもしれない。
 ポリコレという反発が示すもの
 「映像作品における表現」の観点ではどうだろう。むしろこちらの方が「ポリコレ」という言葉が持ち出される場面が多いのではないかと思う。
 実写版の映画『リトルマーメイド』の主人公をアフリカ系アメリカ人の俳優が演じたことをはじめ、これまで男性や白人が中心だった主人公の配役を、女性や人種的マイノリティにすること、LGBTQ+のキャラクターが登場することも「ポリコレ配慮」だと言われることが多い。日本においても、NHKの朝ドラ『虎に翼』で、同性カップルやトランスジェンダー女性が登場したが、SNSでは同様の投稿が散見された。
 言葉の言い換えも、多様性に関する表現も、それぞれに理由がある。しかし、「ポリコレ」だと揶揄される場合、多くはその背景にある社会構造の認識が共有されていないことが多い。
 「ポリコレだ」と言われるとき、そこでは具体的にどんな反発が起きているのだろうか。
 「自分とは関係のないマイノリティに過剰に気を使っていて、自分がおろそかにされているように感じて嫌だ」というものや、「正しさを押し付けられているようで、これまで楽しんできたものを否定されているように感じて不快だ」というものもあるだろう。他には「マイノリティを登場させる必然性がわからず、物語のノイズのように感じる」といったような声もしばしば耳にする。
 「自分とは関係ない」という点は、前述の「看護師」という言い換えには批判が起きないように、身近さを実感できているかがポイントになるのだろう。この点については、性的マイノリティは、実際には1割程度存在しているにもかかわらず、社会の差別や偏見によって多くが周囲にカミングアウトできないため、いないことにされているという社会の現状を押さえる必要がある。
 「自分がおろそかにされているように感じる」「これまで楽しんできたものが否定されてきたように感じる」という点は、社会のメインストリームで語られる言葉や作られる作品が、マジョリティの人々を前提としたものばかりであることに目を向けてほしいと思う。
 マイノリティにとっては、自分の存在を投影できる作品が少ない。むしろステレオタイプに描かれることで偏見が再生産され、いじめやハラスメントにつながるなど実生活でも悪影響を受けてきた。そうした少数派の人々が脚光を浴びた際、マジョリティ側が「自分のための物語ではない」と、自分が優先されていないことに思わず反発してしまうことに対しては、これまで意識せずとも自分の存在を作品に投影でき、恩恵を受けていたことを振り返ってみてほしいと思う。
 前述の映画『リトルマーメイド』の予告編が公開された際、アフリカ系アメリカ人の子どもたちが「私みたい!」と喜びに満ちている動画がいくつも拡散されていた。これまで想像もできなかった、自分と同じ肌の色の人がプリンセスとして登場する瞬間を目撃した際の表情に、物語におけるリプレゼンテーションの意義を痛感した。
 マイノリティの必然性とは
 「マイノリティを登場させる必然性がわからない」という観点は、例えば、同性愛者や性別を移行した女性が登場したNHKの『虎に翼』でも、「なぜ同性愛という設定にする必要があるのか」「時代背景を無視しているのでは」といった批判が起きていた。
 実際には存在していたが、社会からいないことにされてきたのであって、ドラマは専門家の時代考証を踏まえた上で描かれている。登場した同性カップルのひとりの「僕らだけいつも理由が求められる」というセリフが象徴的だが、マジョリティは「なぜシスジェンダーや異性愛者という設定にしたのか」と問われることも、「過剰な配慮だ」と言われることもない。
 社会を生きていると、例えば電車に乗った際、白杖を持ったひと、車椅子ユーザー、肌の色の違う人など、いろいろな人とすれ違うことがある。外見からわかりにくくても、聴覚障害のある人、性的マイノリティなどさまざまな人たちがそこには存在している。一方で、物語の電車のシーンではどうだろう。多くの場合、そうした社会の実態は反映されず、物語の方こそが偏っている状態だ。おそらく電車のシーンでマイノリティの存在が映り込むことは「ノイズ」と捉えられ、登場させることの「必然性」が問われるのではないかと思う。本来は「ノイズ」と感じ、「必然性」を考えてしまう側の認識こそが問われるべきだろう。
 物語の表象に偏りが生じるのは、作る側の人々の構成に不均衡があるからという点も大きく影響している。わかりやすいところだと、日本の映画監督は圧倒的に男性が多い現状があげられる。2022年に劇場公開された日本映画の監督のうち、9割が男性だった。ジェンダーに限らず、同質的な組織によって作品が作り続けられてきたことで、マイノリティの存在がいないことにされてきたり、マジョリティにとって都合の良いイメージで描かれ、ステレオタイプが強化されるといった影響が今でも続いている。
 マイノリティの存在や多様性の尊重に焦点を当てる映画やドラマは、確かに増えているだろう。そうすると「最近はポリコレ配慮ばかりだ」という声も出てくるが、実際はどうなのだろうか。
 アメリカの例だが、LGBTQ+に関するメディアモニタリングを行っている団体「GLAAD」の調査によると、米国における主要のテレビドラマに登場する性的マイノリティのキャラクターは、2006~2007年でたった1.3%だった。それが約20年経ち、2023~2024年では8.6%ほどにのぼっているという。ようやく現実社会に近しい状況になりつつあると言えるだろう。
 しかし、10.2%だった2019~2020年と比べるとここ数年で下がってきているという。1割程度が性的マイノリティのキャラクターだとすると、実際の人口にも近しく存在感としても可視化が進んできていると言えるだろう。しかし、それでも全体の登場人物のたった1割であることを考えると「ポリコレ配慮ばかり」という批判が妥当ではないことは明らかだ。
 エンタメ性と社会性のバランス
 「物語性よりも多様性の尊重という意図が前面に出過ぎていて違和感」という意見や「マイノリティの人にとっても、自分たちの物語だと思える作品が増えるのは良いと思う。でも、ビジネスなんだから売れなければ意味がなく、結局はマジョリティにウケの良い作品をつくらないといけないのでは」という声もある。
 「意図が前面に出過ぎていて面白くない」というのは、確かに描き方としての面白さに良し悪しはあるだろう。これは評論の範囲だと思うが、一方で「ポリティカル・コレクトネス」の問題に限らずどんなテーマや意図の作品にも言えることでもある。もし「面白くない」とする背景に、マイノリティの存在自体をノイズと捉えてしまっている面があれば、そこには前述のような社会構造の不均衡について認識の欠如や偏見もあるのではと思う。
 「ビジネスなんだから売れなければ意味がない」という点も一理あるが、一方で、売れれば何でも良いわけではなく、そこで差別や偏見、ステレオタイプが助長されることは問題視される。
 以前、トランスジェンダーを描いた作品の映画監督が「これは娯楽映画であって、社会問題は誰も観ない。インテリ気取りが唸り議論するだけ」とSNSで投稿したことがあったが、エンタメ産業が社会から無関係であるとは言えない。エンタメ性と社会性は二項対立ではなく両立する。もちろん難しい点も多々あるとは思うが、実際に両立している作品は世の中にたくさんある。
 「ポリコレによってつまらなくなった」「ポリコレ疲れ」という揶揄も耳にするが、NHK虎に翼のジェンダー・セクシュアリティ考証を担当した福島大学の前川直哉さんの言葉を紹介したい。
 「『ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス、政治的正しさ)を入れると、エンタメはつまらなくなる』と言う人がいますが、私はそうは思いません。外部から理論面をサポートすることで、よりリアルで、より色んな人に届く表現になり、作品の完成度は高まります。意図せず当事者を傷つける表現も避けられます」。
 ポリコレかどうかで回収しない
 社会の不均衡に目を向け、マイノリティの存在を前提にした言葉や表現を取り入れようとする際、なぜ反発が起きるのか。根本的には、人権に対する認識の問題もあるのではないかと思う。
 「マイノリティ」という言葉に続いて浮かんでくる言葉は何だろう。おそらく「配慮」や「思いやり」「理解」「寄り添い」「傷つけない」といったものではないかと思う。こうした言葉は耳障りは良いが、「相手を自分と同等の人間ではなく、一段下の人間として捉えていないだろうか」とも思う。マイノリティは理解してあげる、配慮してあげる、思いやってあげるものではなく、同じ社会に生きる人間であり、同じ権利を持っている。
 その権利が保障されず差別や偏見が残っていないからこそ、傷つけるか傷つけないかという視点ではなく、構造的な社会の不均衡を捉え、是正していくことが求められている。その社会の調整作業こそがポリティカル・コレクトネスという視点において重要ではないかと思う。
 あいまいなまま用いられている「ポリティカル・コレクトネス」という言葉だが、何をもって政治的に「正しい」のかは文脈によっても異なる。画一的で完璧な答えはなく、むしろ常に正しさを疑いながら、考え、言葉や表現を絶えず調整していくことが必要ではないだろうか。
 だからこそ、冒頭の『SHOGUN 将軍』の事例に立ち返ると、これはポリコレなのか/ポリコレではないのか、という議論に回収させるのではなく、一つのケースとして何が正しいのか、望ましいのかを、構造的な社会の不均衡を捉えつつ検討していくことが必要ではないかと思う。
 最近、“ポリコレ”に配慮しすぎ?「政治的な正しさ」を考える──連載:松岡宗嗣の時事コラム
 松岡宗嗣(まつおか そうし) 
 ライター、一般社団法人fair代表理事
 1994年、愛知県生まれ。政策や法制度を中心とした性的マイノリティに関する情報を発信する「一般社団法人fair」代表理事。ゲイであることをオープンにしながらライターとして活動。教育機関や企業、自治体等で多様な性のあり方に関する研修・講演なども行っている。単著『あいつゲイだって アウティングはなぜ問題なのか?』(柏書房)、共著『LGBTとハラスメント』(集英社新書)など。
 文・松岡宗嗣
 編集・神谷 晃(GQ)
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