この手紙は2014年、55歳になった僕から、1987年、まだ28歳の僕に向けて書いたものだ。
当時の僕は深い悩みの真っ最中にいた。もし、あの時の僕に手紙が書けたらな、というのが前提である。この内容をはっきりと言い切れるのは、その後の僕がどうなったかを知っているからだ。
この手紙は誰のためでもなく、当時の僕のために書かれているので、これを読んでくれるあなたの参考になるかどうかは、まったくわからない。
読者の多くは、僕のように馬鹿ではなくもっと大人だろうし、すでに夢との折り合いもつけ、目の前の仕事に懸命に取り組んでいるだろう。あるいは、すでに夢に手をかけているかもしれない。
もし、夢と現実の間で揺れ動きながら悩んでいる方がいたら、ひとつの、あくまで、ひとつの解決の道として、心に留めておいていただけると、嬉しく思う。
長女が無事生まれたばかりだね。おめでとう。
まだ泣いてばかりで、おしめや夜泣きで大変だけど、今では彼女も大きくなって、この前は孫を連れて家に帰ってきてくれたよ。
今は君も嫁さんも大変だけど、長女も、この後に生まれる次女も、人生の大きな喜びを、長い時間にわたってもたらしてくれる。
でも、大変だ大変だと思っている間に、すぐに大きくなっちゃうから、そのちっちゃな顔を、笑顔を、しっかり脳裏に焼きつけておけよ。
ところで、なかなか上司が仕事から帰してくれないし、家に帰ったら帰ったで育児の手伝いもあるし、ちょっとイライラしてるんだろ?
「小説家になる」なんて嫁や友達に宣言してしまってるし、百貨店に入ったのも仕事が楽で早く帰れそうだからだったね。別に小売にも百貨店にも興味があったわけでもないのに、どうせ辞めるかもしれないからって、一番に内定をくれた会社に入ったんだよね。
でも、思うように書けてない。本を読んだり、書くための時間も十分に取れないから、焦ってるんだろ?
ねえ、僕は最近になって、エマソン*1のこんな素敵な言葉を知ったよ。
「君の馬車を星につなげ」って意味だ。
有名な言葉なんだけど、君がこの言葉に出会うのは27年後なんだ。
僕がもうちょっと早くこの言葉に出会えていたら、僕がもうちょっと早くこの言葉を胸に沁み込ませることができたら、55歳の僕は、もう少し先まで行っていたかもしれないね。
だから、僕はこの言葉を君に送るよ。
君の馬車を星につなげ
今の君は、君の馬車を「馬」につないでいる。
いいかい、早く、君の馬車を「星」につなぎ変えるんだ。
ショックかもしれないけど、ちゃんと聞いてくれよ。
君は、少なくとも55歳までは、「小説家」にはなれていない。
今の君には、小説を書くのに必要な才能も、人間に対する洞察力もない。君の大好きなエド・マクベインは、軽妙な話と簡単なトリックで『87分署シリーズ』をすらすらと書いているように見えるかもしれないけど、深い洞察力と技巧に支えられている。
今の君には『87分署シリーズ』は書けっこない。
そもそも、君はなぜ、小説家になりたいんだい?
君が君らしくあるため?
文章を書くことや、本を読むのが大好きだから?
そして、それで何者かになって、自信を得るため?
君は、今そのままの君が、何か特別な、ほかの人たちより優れた何かだと思ってはいないかい?
だから、ほかの人たちが感心して褒めちぎるような文章を書けるかもしれないと思っているんだろう?
ねえ、君は、君の馬車を「馬」につないでるんだよ。
「馬」は君の命令に従って、重い馬車を曳く。
君は「馬」に鞭を入れる、
お金のために。食べるために。見栄のために。何者かの君になるために。自己実現のために。
「馬」は、会社の同僚のおばさんたちだったり、取引先の販売員だったり、友達だったり、嫁さんのときもあるし、君の周囲のさまざまな人だったりする。
今の君は、小売りの仕事なんてつまらないと思っている。
「これください」「1000円です」「ありがとうございます」で終わり。自分のような特別な人間でなくても、ほかの誰でもができる仕事だ。そんな仕事で自分の時間を一刻も無駄にしたくないと。
君は2つの点で間違っているよ。
第1に、君は特別な人間じゃない。
27年後の僕がそう言うのだから、君には受け入れ難いことかもしれないけど、間違いない。
君は特別な才能に恵まれた何者かではなく、ひとりのごく平凡な人間だ。
第2に、単純な仕事に思える小売りの現場にも、洞察力を磨くチャンスに溢れているし、今君に与えられているのは、工夫したことがすぐ結果になって返ってくる、とても面白い仕事なんだよ。
ねえ、君。
今すぐに、平凡な自分を受け入れて、自分の全存在をかけて、目の前の平凡な仕事に取り組むんだ。
自分の全存在をかけて、ありきたりの仕事に取り組んだら、君の視野に映るものは激変する。
平凡な仕事は湧き出るアイディアを注いでみる対象となり、特別な輝きを放つようになるだろう。
その輝きを受けて、初めて君自身も輝きはじめるだろう。
これはつまらない説教でも、子供だましの嘘でもない。
僕は、君がやがてそうなることを知っている。
ただし、この手紙が届かなければ、君はそのことを知るまで今からさらに7,8年、人生の大切な時間を無駄にすることになるだろう。
僕は、その大切な時間を、できれば無駄にしてほしくないだけだ。
「書く」ことが好きなら、それをやめる必要だってない。
ただし、小説家になるため、賞を取るために書くのはやめたまえ。それが無駄になることを、僕は知っているから。そうではなくて、毎日必ず、一定の時間、1時間とか1時間半、自分の考えや人間について書きたまえ。夜にではなく、毎朝1時間半早く起きて日課にすれば、嫁にも君の本気が伝わって、許してくれるだろう。
そして、それで君は小説家にはなれないが、いつか誰かの役に立つ日が来るだろう。
ねえ、君。
エマソンの言う「君の馬車を星につなげ」とは、こういう意味なんだよ。
有名になってポルシェを買い、きれいな女の子を隣に乗せるために書くんじゃない。
ちょっとでも効率的に、よい給与をもらうために、百貨店の仕事をするんじゃない。
平凡でありきたりな君が、ほかの平凡な誰かのために、君の周囲の誰かを幸せにするために、ほんの少しでも誰かの気を楽にするために、僕らは働くんだよ。
それこそが、君の馬車を「馬」にではなく、「星」につなぐっていうことなんだ。
「馬」につないだ馬車も、「星」につないだ馬車も、行く道は地上の道に変わりはない。
隘路もあれば、急な坂道もあり、激しい雷雨に会うこともあるだろう。
平凡な君の行く道は、「馬」につながれた馬車の軌跡なのか、「星」につながれた馬車の軌跡なのか、見分けすらつかないかもしれない。
しかし、人はちゃんと見ていて、必要なときに手を貸してくれるだろう。
そして、星につながれた馬車は、馬につながれた馬車より、より遠くまで到達することができるだろう。
ねえ、君。
君の馬車を星につなぐんだ。
Hitch your wagon to a star!
著者:Ichiro Wada (id:yumejitsugen1)
1959年、大阪府生まれ。京都大学農学部卒業。大手百貨店に19年勤務したのち、独立。まだ一般的でなかった海外向けのECを2001年より始め、軌道に乗せる。現在、サイトでのビジネスのほか、日本のアンティークテキスタイルの画像を保存する活動を計画中。ブログ ICHIROYAのブログ
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*1:ラルフ・ウォルドー・エマソン(Ralph Waldo Emerson、1803-1882)、米国の思想家、作家。『自然』などの著作で知られ、後のアメリカ思想に大きな影響を与えた。