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「電王戦」5年間で人類は何を目撃した? 気鋭の文化人類学者と振り返るAIとの激闘史。そしてAI以降の“人間”とは?【一橋大学准教授・久保明教氏インタビュー】

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第三回電王戦:レギュレーション変更がもたらしたもの

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第三回の電王戦……2014年に開かれた将棋棋戦。第二回と同じく、5人の棋士と5つのソフトが対局する5番勝負で行われた。ソフト側はドワンゴが主催する「将棋電王トーナメント」のベスト5が参戦。棋士側は菅井竜也五段、佐藤紳哉六段、豊島将之七段、森下卓九段、屋敷伸之九段が参加した。結果はコンピュータ側の4勝1敗となった。
(画像は第3回 将棋電王戦 HUMAN VS COMPUTERより)

――そして、2014年3月に開催された第三回の電王戦になります。第二回でAIがほとんどの人間よりも強くなってしまったのが明確になったことで、まさに異種格闘技戦としてルール整備を行い始めたのが、ここからだと思います。

久保氏:
 第三回開始前に、レギュレーションの変更【※1】が行われました。クラスターが禁止になり、統一ハードになって、ソフトの事前貸出が任意から本番と同じ条件のものを渡すことが必須になった。バグ修正についても規定が出て、「やねうら王」【※2】と佐藤紳哉さんの対局時に大きな問題になっていますね。

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※1 レギュレーションの変更……記事内で触れられている「バグ修正」とそれによる炎上事件を受けて、第三回ではレギュレーションの一部が変更されました。詳細は編集部が要点をまとめたPDFをご覧ください。

※2 やねうら王
磯崎元洋(やねうらお)、岩本慎によって開発されたコンピュータ将棋プログラム。軽さ・速さを重視し、世界最速の指し手生成ルーチンを搭載、超軽量の評価関数を使用している。「第三回将棋電王戦」第二局にて佐藤紳哉と対局し、勝利を収める。

――「やねうら王」について、ちょっと補足します。ある局面においてフリーズする問題があって、開発者のやねうらおさんの要望で安定性についてのバグ修正をかけたところ、対局者の佐藤六段【※】から棋力が向上しているのではないかとクレームが入った。それに、やねうらおさんも「棋力に影響をもたらすバグを修正した」ことを認める内容の発言をしたことに加え、ドワンゴが出したPVも相まって、ネットで大炎上してしまいました。この辺りの経緯は、ねとらぼの記事にまとめられています。結局、ドワンゴの川上会長が謝罪する騒動に発展して、修正前のバージョンで試合をすることになりました。

佐藤紳哉
1977年生まれ、神奈川県出身の将棋棋士。1997年に20歳でプロ入り。「第三回将棋電王戦」第二局で「やねうら王」と対戦。中終盤の激しい攻防で押され、95手で敗退した。民放のバラエティー番組に出演するなど、サービス精神旺盛。棋界のお笑い担当と呼ばれることも。

久保氏:
 このエピソードは、AIの今後を考えたときに、大きな問題を孕んでいると思います。
 それは、ソフトウェアがどんどん複雑化・高度化していくと、だんだん開発者である人間も「バグ」と「バグでないもの」を識別できなくなっていくという問題です。バグを除去したら棋力が上がってしまったというのは、まさにそういうことでしょう。

――やねうらおさんは、公式なコメントで「思考部に手を入れずに解決することは、竹やぶに入らずにタケノコをとってくるようなもの」と仰ってる一方で、「そんなに簡単に強くならないだろうと甘く見ていた」という言い方をされていますね。

久保氏:
 そもそも、僕らがコンピュータを制御可能な存在だと思い込めているのは、バグとバグ以外を区別できるという前提があってこそです。でも、大作ゲームのバグ取りなんかでは、大規模な手仕事によって、バグとバグじゃないものを人間がより分けて、初めて区別が成立しているわけですよね。

――実際、先日ゼルダ新作の取材を任天堂でしてきたのですが、初めて物理エンジンで「オープンワールド」を開発するに当たって、「これまで修正してきたものを、もうバグと呼ぶのはやめてOKにする」という判断を下したと言うんですね。もうね、力業で山を登ったりして謎解きを解決できても、それは「バグじゃないんだ」と決めてしまえ、と。そこは「切りがない」というコスト面での要請も大きかったと思うんです。

久保氏:
 『Minecraft』(以下、『マイクラ』)【※】なんかにも、そういう発想が見えますね。バグだとされていたものを、開発者側がもう仕様だということでアップデートしたりして、複雑な回路がどんどん作れるようになっていきました。僕も散々やって、だいぶ時間を費やしましたけど(笑)。

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※マインクラフト……ブロックを地面や空中に配置し、自由な形の建造物等を作っていくサンドボックスゲーム。β1.7.3以前は、バグにより異常な形状の地形が生成され、最終的にプレイが不可能となる場所があり、その世界は“伝説の世界”として「ファーランド」と呼ばれた(β1.8で修正済み)。ゲーム内で登場するレッドストーン鉱石から手に入る粉状の「レッドストーン」を使えば、様々な装置を作ることができる。画像は「レッドストーン」を使って作ったTNT発射マシーン。
(画像は50 Redstone Projects You Can Build in Minecraft!より)

 ともかく、こういう状況において、開発者側も、バグやアンチコンピュータ戦略に対して完璧な対処はできなくなってきていた部分はあると思います。

――実はプログラマの側もAIを充分には制御できなくなりだしている……と。

久保氏:
 電王戦に話を戻しますと、第三回を通じて問われていたのは、「ソフトと戦うことに意味はあるのか?」、「あるとすればそれは何か?」ということだったと思います。第三回では、豊島将之さん【※1】しか勝ってないですよね。そして、敗れた菅井竜也さん【※2】・佐藤紳哉さんとの対比はかなり明確でした。
 菅井さんと佐藤さんは、「対ソフトの準備はしていたけれども、自分の将棋を指すことが大事だとも考えていた」ということを後に話しています。それに対して、豊島さんは今回のレギュレーション変更を踏まえて、徹底的にソフトを事前研究して対策を練っていました。少なくとも観戦する側からは、そう見えました。

※1 豊島将之
1990年生まれ、愛知県出身の将棋棋士。2007年16歳でプロ入り。史上初の平成生まれのプロ棋士。「第三回将棋電王戦」第三局にて「YSS」と対戦。序盤から中終盤まで圧倒し、勝利を収めた。棋風は、序盤、中盤、終盤と隙のない典型的なオールラウンドプレーヤー。

※2 菅井竜也
1992年生まれ、岡山県出身の将棋棋士。2010年に17歳でプロ入り。「第三回将棋電王戦」第一局にて「習甦」と対戦するも敗北。同年の「電王戦リベンジマッチ」にて再度対戦するも、中盤の長考が影響し、敗北。棋風は、振り飛車、居飛車を操るオールラウンダー。新たな戦法を編み出す研究家でもある。

――まさに「アンチコンピュータ戦略」の登場ですね。

久保氏:
 そうですね。そしてこの辺りから、アンチコンピュータ戦略がはまるとプロの研究披露にすぎなくなるではないか……という反応も出てきました。豊島さんの勝利は、彼の強さの証明と単純に言ってしまっていいのか、と。いや、もちろん豊島さんは強いのですが、ただ確率論的に高い精度の事前研究によって優位に立っただけではないか、という見方もできてしまうわけです。

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(画像は第3回 将棋電王戦 第3局 豊島将之七段 vs YSSより)

――実際、まさに羽生さんなんかもそうですが、「コンピュータとの対局は将棋であって将棋じゃない」という言い方をする人は結構いますよね。

久保氏:
 でも、通常のプロ同士の対局でも、単に自分自身の将棋を指すという感じでは、なかなか勝てないですよね。しっかりと事前に相手の研究をして、自分が有利になるように指すのは普通のことです。ところが、それをコンピュータ相手にやると勝利の価値が減ってしまう、というのが難しいところです。

――確かに、そう言われると、だいぶ理不尽ですね。

久保氏:
 プロ同士の戦いでも、相手が最新の研究動向を知らなかったために、研究披露みたいになることは稀にあります。でも、それは相手の不備であり、勝った方が批難されることじゃない。ところが、ソフトに対してそれを行うと、途端に「アルゴリズムを利用しているだけじゃないか」という印象になってしまう。
 この時期から、電王戦での棋士側の勝利を、観客が手放しで称賛できない雰囲気が出てきたように思います。

――要はコンピュータ将棋との対局というのは、もはや通常の意味での「強さ」に相当する能力を駆使することとは、だいぶ違った発想で勝負すべきものだということが、ついにファンにも周知されだしたという感じだったのですね。

ハメ手とアンチコンピュータ戦略

――ちなみに、ここでもう少し「アンチコンピュータ戦略」について、深掘りしてもいいでしょうか。

久保氏:
 「ハメ手」との対比で説明するのが、わかりやすいと思います。
 後の話になりますが、電王戦FINALの最終局で、元奨励会員の巨瀬亮一さん【※1】が開発したAWAKE【※2】というソフトが、阿久津八段の「アンチコンピュータ戦略」によって敗北します。対局の後、巨瀬さんは「事前に同じ形でアマチュア相手にハメられた形でしたので、そういう将棋をプロの方がされるのは残念です」と言っていますが、これは非常に重い意味をもつ発言だったと思います。

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話題となった対局後の会見で質問に答える。
(画像は将棋電王戦FINAL 第5局 阿久津主税八段 vs AWAKEより)

※1 巨瀬亮一
コンピュータ将棋ソフト「AWAKE」の開発者。奨励会に在籍していたことがある。

※2 AWAKE
コンピュータチェスエンジン「Stockfish」の探索部及びコンピューター将棋プログラムBonanzaを調整したプログラム。開発は、巨瀬亮一。「電王戦FAINAL」にて阿久津主税と対戦し、わずか21手破れる。

 ただ、糸谷さんにインタビューした際、彼は「ハメ手は指された側が正しく対処しないと形勢が悪くなる手である」のに対して、「アンチコンピュータ戦略は正しくソフトが対処したときに、必ずしも人間が良くなるわけではない」と説明しています。そう考えると、FINALでの阿久津さんの指し手は「ハメ手」ではない。アンチコンピュータ戦略というのは、事前の入念な解析に基づいて「こういう局面に誘い込めば、ソフトは高い確率で特定の手を指すから、それを利用して優勢に持ち込む」戦略だというわけです。

――ハメ手はある種の形式的な手で、アンチコンピュータ戦略はクセを見抜くような話に近いんでしょうか。

久保氏:
 ハメ手は、指された側が正しい知識を持ってさえすれば、対応できます。しかも、そのときには大概、ハメ手を使った側が劣勢になります。有名なものだと、「鬼殺し」【※】とかがありますね。

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※鬼殺し
いわゆる「ハメ手」(相手が対応を知らない初心者なら容易に勝てるが、対応を知ってさえいれば簡単に防げる奇襲戦法)の代表的なもの。素人同士が気軽に指す将棋(いわゆる「縁台将棋」)でよく見られる。

 「ハメ手」はなかなか面白いですから、アマ初級者から中級者にかけては、本やネットで調べて自分でもやったり、やられたりすることが多いと思います。例えば、僕が昔から利用している将棋サイトだと、初心者と中級者の間ぐらいに優秀な「鬼殺し使い」の方がいて、それはもう『HUNTER×HUNTER』のハンター試験のトンパ【※】みたいに、しょっちゅう新人をボコボコにしていましたね。

※『HUNTER×HUNTER』のハンター試験のトンパ
トンパは、10歳の時から長年ハンター試験を受け続けるも、いつしか試験に合格することより“脱落者を鑑賞して楽しむ”ことが目的になってしまう。そのため、ルーキーに対して親切にアドバイスするふりをして近づき、「下剤入りジュース」などを使って足を引っ張ろうとする。トンパの通称は「新人つぶし」。

――新人の参加者に、気づかれないように下剤を渡してくるノリで「ハメ手」を……みたいな感じですか(笑)。

久保氏:
 そのひとに初めて勝ったときは、やっと自分が初段に近づいたというか、ハンター試験に合格した気分になりました(笑)。単に対策を知れば勝てるわけでもなくて、対策されてからのごまかし方も上手いひとでしたから。

――ははは(笑)。

FINAL:角不成にみた棋士の恐ろしさ

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電王戦FINAL……2015年に開かれた将棋棋戦。今回をもって「棋士5人vsソフト5組」という形式による電王戦は終了、との意味から「電王戦FINAL」と銘打たれた。参加者は第一局から斎藤慎太郎五段、永瀬拓矢六段、稲葉陽七段、村山慈明七段、阿久津主税八段。最も物議を醸したのはのは2勝2敗で迎えた第五局。阿久津八段はコンピュータ将棋の弱点を突くように駒組みを進め、後手のソフト「AWAKE」が20手目に△2八角という疑問手を指す。開発者・巨勢亮一氏はこれを見て「ここから有利になることはない」と、わずか21手で投了した。これによりコンピュータ側の2勝3敗となり、電王戦で初めてプロ側が勝ち越す結果となった。
(画像は将棋電王戦FINALより)

――そして、そろそろFINALの話をしたいと思うんです。第二回で人工知能と人間の邂逅があり、第三回でそれを異種格闘技戦としてルール整備を始めた、と。先ほどAWAKEの話が既に出てしまいましたが、この四回目のFINALではどういう流れになったのでしょうか。

久保氏:
 全体としてFINALは、アンチコンピュータ戦略を前提にした上で再び勝負の面白さが浮かびあがった回だったように思います。
 第二回の電王戦が、情動が爆発した回だったとすれば、第三回は「アンチコンピュータ戦略」が表面化したことで、かえって知性の問題にまた戻ってきたところがあった。ただ、それでも棋士が勝てなかったことが影響したせいかわかりませんが、FINALでもう一回、情動の部分が前面化した印象はあります。

――特に印象的な対局はありますか。

久保氏:
 第二局の永瀬【※1】-Selene【※2】戦です。
 終盤に永瀬さんが“あえて指した”角不成の王手に対して、不成を適切に認識できないプログラムになっていたSeleneが王手放置の反則で負けになったのですが、私が電王戦を通じて一番感動した瞬間は、このときだったように思います。

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※2 Selene……西海枝昌彦が開発したコンピュータ将棋のプログラム。「将棋電脳戦FINAL」にて永瀬拓矢に角の不成りを放たれたが、対応するプログラミングが存在しなかったため、反則の一手を選んでしまい、敗北。
(画像は将棋電王戦FINAL 第2局 永瀬拓矢六段 vs Seleneより)

※1 永瀬拓矢
1992年生まれ、神奈川県出身の将棋棋士。2009年に17歳でプロ入り。「将棋電王戦FINAL」第二局で「Selene」と対局。Seleneが王手を放置したため、反則負けとなるという衝撃的な勝利を収めた。千日手の名人。

 要するに永瀬さんが、相手のロジックの内側に入り込んで首を捻じ曲げて殺した、という風に見えたわけです。ブルっときましたね。
 棋士の論理からすれば、普通にやっても勝てるだろう局面でした。永瀬さんはSelenaが角不成に対応できない可能性を知っていたので、相手の待ち時間がなくなる効果も考慮して指したと言われてますが、そのまま指していれば相手のバグを利用して勝ったのではなく正々堂々と自分の将棋で勝ったと誇れたはずです。将棋の内容としては電王戦の中でも屈指の好局でしたしね。そういう可能性を捨てて、バグも含めてソフトをひとりの相手として認めたうえで、抱きしめながら落としたわけですよね。棋士って怖いなぁ、と思いました(苦笑)。

――まさに勝負師の凄みが突出してきた瞬間であった、と。

久保氏:
 永瀬さんは将棋ファンに「軍曹」って呼ばれてますけど、あの人の下で兵隊やりたくねぇなぁって思いました(笑)。

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 ただ、Selene開発者の西海枝昌彦さんは、本番でバグが発生するまで分かっていなかった、と後でコメントしていますが、気付いていたら簡単に除去できたかどうかもはっきりしないですよね。

――第1局のApery【※】開発者の平岡拓也さんはTwitterで「うちはチームだったから良いけれど、西海枝さんはチームとかじゃないからなぁ」と発言されていました。もはやバグ取りに人力でいかに手間を割けるかという問題なんだな……と感じます。

※Apery
平岡拓也氏により開発されたコンピュータ将棋のプログラム。オープンソースとして公開されている。「将棋電王戦FINAL」において斎藤慎太郎五段と対局を行い、115手で敗れた。

久保氏:
 一般に将棋ソフトはチェス用のプログラムなどオープンソースのコードを導入することも多くて、ほとんどのソフトは開発者が一から全て作っているわけではないし、もう開発者自身がソフトの挙動を完全に理解することが難しくなっているんだと思います。ソフトは人間が作ったプログラムに従って動くものだから作った人が全てを理解しているはずという常識的な感覚が、なかなか通用しない状況になっているわけですね。

――ちなみに、FINAL後も叡王戦につながっていく流れも電王戦にはあるのですが、そこはどう見ていますか

久保氏:
 基本的には、もう電王戦を中心に考えなくても、将棋界全体のなかでソフトとの付き合いが問題になるフェイズに入っていると考えています。

 むしろ面白いのは、人間同士の将棋にソフトの視点が挟まれるようになったことでしょう。最近のタイトル戦では、ソフトの形勢判断に基づいた格闘ゲームのような形勢バーが表示されたり、ソフトの読み筋が出てくるのをよく見かけます。電王戦を通じて、視聴者が自宅のソフトで検討して評価値や推奨手をコメントするというのも定着しましたね。棋士の方も、ソフトの推奨手を見て「人類には無理ですね」とか自戦譜に対して「人間の感覚でいう悪手は指してないと思う」などと言うことが増えました。

――そういうところも、棋士たちって凄いなと思います(笑)。

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プロ棋士とコンピュータ将棋との対局は、それまでのような「五番勝負」、あるいは電王戦タッグマッチではなく、プロ棋士から挑戦者を選出し、人類代表としてコンピュータソフトの代表との2番勝負に臨む、という新棋戦「叡王戦」(2015年~)に引き継がれていく。
(画像は第1期 電王戦の公式サイト第2期 電王戦の公式サイトより)

電王戦は何を変えたのか?

――とすれば、ここからは電王戦が将棋界に与えてしまった影響を考えていきたいですね。端的に言うと、それはどういう部分にあると思われますか?

久保氏:
 最初に言っておくと、各々の棋士の態度は結構バラバラで、僕はその中でも態度を明確にしている人を中心に検討しています。ソフトを活用している棋士ほど強くなっているとも一概には言えませんし、ソフトの指し手が公式戦前の研究段階で検討されているために、影響が見えにくいこともあります。

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 ただ具体的な変化の潮流はいくつかあります。
 まず糸谷哲郎さん【※】のような棋士が強調しているのは、時間の使い方の変化ですね。一言で言うと、序盤にあまり時間を使わないようになってきた。ここは面白いところで、むしろ羽生世代の「読みの革命」は序盤の部分が非常に大きくて、彼らは序盤に徹底的に時間をかけることで未知の「棋理」に近づいていったわけです。

※糸谷哲郎
1988年生まれ、広島県出身の将棋棋士。2006年に17歳でプロ入り。タイトル戦登場3回、獲得1期(竜王)。関西所属の有力若手棋士とされる。居飛車党で角換わりを得意とする。棋界屈指の早指しが有名。2010年度のNHK杯準決勝の丸山忠久戦では、本戦の最短手数記録・39手で勝利する。

 ところが、糸谷さんは、ソフトと比べて人間はどうせ間違えるんだから、終盤に時間を残した方がいいとサラリと言ってしまうんですね。時間の使い方というのは、脳内のリソースをいかに配分するかという問題で、棋士の「身体技法」とも言える部分ですね。糸谷さんは、序盤でエネルギーを使い切らずに、終盤に備えて温存しておこうと言うわけです。

――それは非常にわかりやすく、電王戦の影響ですね(笑)。まさに阿部光瑠さんの言う「疲れない」人工知能を見た結果、人間の側が自分たちの身体の限界を認識してしまったという感じでしょうか。

久保氏:
 そうですね。限界を認識して、さらに限界を拡張しよう、ということだと思います。でも、それは決して簡単なことではありません。終盤まで時間を残しながら、形勢が悪くならないように序中盤を乗り切らなきゃいけないわけです。酸素ボンベを使わずに深海に潜って延々と複雑な作業をし続けるようなものですから、思考だけでなく身体的にも大変な負担だと思いますね。

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『NHK 将棋講座 2017年 4月号』(NHK出版 日本放送協会・2017)
(画像はAmazonより)

 こういう話も含めて言えるのは、将棋というゲームにおける人間の位置づけが変わったということだと思います。例えば、千田さんが『NHKテレビテキスト将棋講座』(2015年11月号)に書かれた自戦記のなかで、自分の理想として過去の大名人などではなく、将棋ソフト(NineDayFever【※】)の名前を挙げたこと――これは非常に大きなことだと思っています。もはや「強さ」は必ずしも人間を中心に考えるものではない、ということですね。

※NineDayFever
金澤裕治が作成したコンピュータ将棋プログラム。当初の「PuppetMaster」だったが、のちに変更された。

――そういう意味では、冒頭でも話したように、久保さんは将棋ソフトを徹底的に練習に取り入れた棋士として、千田さんにロングインタビューをされていますよね。

久保氏:
 冒頭に名前を挙げた哲学者の近藤和敬さんに誘われて「エウレカプロジェクト」という、「内部観測」という発想をキーワードにしている分野横断型のプロジェクトに以前から参加しているのですが、そこで作っている無料ウェブマガジン「E!」8号に掲載されている記事、「機械と人間、その第三の道を行く」ですね。

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千田翔太氏と久保明教氏の対談が収録されている『E!』8号(Eureka Project・2016)。
公式サイトよりDL可能)

 千田さんのやっていることは、ある意味で「数」を「言語」に翻訳することだと言えると思います。コンピュータが弾きだす形勢判断の値を、人間に理解できる言葉に訳しているわけです。もちろん、その翻訳が正確なのかという問題はありますが、翻訳とは本来的に誤解を含むものだとも言えますしね。

――英語のニュアンスを、日本語に完全に移しきるのは難しいでしょうからね。コンピュータ将棋の評価値の翻訳もおそらくそうであろう、と。

久保氏:
 別の言い方をすると、人間の棋士がそれまで使ってきた言語と、ソフトが出す数値的な判断の間に、千田さんなりに自分の言葉や感覚を置いていくようなイメージですね。両方に接触しているけれども、どちらにも還元できないような表現が生まれてくる、という印象です。

“現代サッカー”化する現代将棋!?

久保氏:
 そこがハッキリと出たのが、インタビュー中に出てきた「囲い」に関する表現でした。
 あ、ちょっと駒を並べますね。

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 これは順位戦の千田翔太-金井恒太戦、二十五手目です。先手の金井さんが▲3八金と指したところですが、千田さんは、この局面での自陣に対して「これでほとんど囲いが完成している」と言うわけです。

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――えっと……あんまり囲っているように見えないですね。

久保氏:
 矢倉や美濃【※】のような意味での通常の「囲い」には全く見えませんよね。こういう局面になることは決して珍しくありませんが、これを「囲いが完成している」と認識することは、プロ棋士でもないと思います。千田さん自身も「囲ってないですけども、守りの効率が良いので」と言っています。

※美濃
振り飛車で使われる代表的な囲い。横からの攻めに強く、高美濃や銀冠といった縦からの攻めに強い囲いに変えるのも容易で、さまざまな変化に対応しやすい。矢倉と並んで初心者が最初に覚える囲いのひとつ。

 この局面では、まず先手側は主に盤面右上部を攻めようとしているわけですが、後手の千田さん側の王将が盤面左側に逃げられるようになっている。で、大事なのは△5二金と指していないことです。△5二金と上がっていないので、後手の飛車が守りに効いている。そう考えると、確かに守備陣形として安全になっているようにも見えてくるわけです。

――なるほど。実は「囲い」的な機能はしっかり果たしているわけですね。

久保氏:
 千田さんはこの感覚は、Ponanzaからの影響だと言っていました。既存の将棋用語だと「玉の広さを主張する」という表現を千田さんも使っていて、確かにそういう風に捉えられないこともないですけど、「囲いが完成している」と言われるとやはりよくわからない(笑)。「囲ってないけど囲いは完成している」という、既存の将棋用語からすれば非常に奇妙な言い方になっていると思います。この「囲ってない囲い」というのが、千田さんがソフトの評価値と人間的な語彙の間に生みだした表現だろう、ということです。

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 もう一つ重要なのが、この銀の位置です。三十八手目に△6四銀と上がるんですね。このときに中央を守っているのがわかりますか?

――確かに。

久保氏:
 おそらく千田さんは、この感覚を重視しているんだと思います。四十六手目の△4四銀まで進むと、後手玉の上部が安全になっていますが、王は囲われていないですね。

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 『E!』の記事では、この局面について千田さんに詳しく聞いています。例えば、本当にこの陣形の良さを「玉の広さ」という言葉で表せるのかと。千田さんは本局だと△6三銀より△6四銀の方が良いと言うのですが、どちらでも王の可動範囲は変わらない以上、広さの問題とは言えないわけですよ。それに対して、千田さんは「駒の連結の問題だ」というわけですね。実際、「6四銀」の方が中央に利いているわけです。
 ただ、こうなってしまうと、やはりこの「囲っていない囲い」は既存の将棋観とある程度は連続しているけど、かなり違うものになっているように思いますね。

――ううむ、なるほど……。とすれば、ここで千田さんの中で起きている、既存の将棋用語とは違う、コンピュータ将棋との境界線上に生まれてきた感覚とは、どんなものなのでしょうか。

久保氏:
 僕がそこで思いだしたのが、90年代にゾーンプレス【※】が広まって以降のサッカーの戦術史です。

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※ゾーンプレス……球技における守備戦術の一つ。各プレイヤーが担当のエリアを守る「ゾーンディフェンス」と、守備選手が積極的に相手選手に寄っていきボールを奪う「プレスディフェンス」の両方を同時に行う行為。
(Photo by Getty Images)

 80年代までのサッカーは、守備陣形がまだハッキリと決まっていて、ストッパーが二人で少し後ろにスイーパーやリベロがいる……みたいな固定した陣形で捉えることができたんです。それが90年代以降、攻撃と守備の区別がどんどんなくなっていって、攻守が切り変わるときに各プレイヤーがどういうポジションを取れるかによって形勢が大きく変わるようになってきました。

――前衛と後衛の役割分担がハッキリと分かれていなくて、特にディフェンダーの動きがもはや柔軟にその場その場で切り替わるものになっているわけですね。

久保氏:
 固定された攻守の役割がなくなって、いわば「みんながリベロっぽくなってしまった」という感じですね。グアルディオラ監督時代のバイエルン・ミュンヘンでダビド・アラバが担っていた役割などは、まさにそういう攻守の切り替え時のDFのポジション取りの重要性を示すものだと思います。

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 千田さんの言う「囲っていない囲い」も、そういう発想に近いものだと思います。本譜での後手右銀の動きはまさにアラバのような現代の超一流ディフェンダーの動きを彷彿とさせるものではないか、と。「ゴール(王様)ではなくゾーンを守っている」という意味では、まず守備を固めるという発想を取っていない。しかも、攻撃にも守備にも同時に利くというのが、この陣形を採用する利点としてあるということですね。

――確かにそう言われると、「ゴールをとりあえず守りつつ攻めよう」という素朴な発想の前衛/後衛の概念を超えて、機動的な陣形を次々に生み出していく「現代サッカー」の感覚に、とても近いものがあるように思います。

久保氏:
 とはいえ、初級者が将棋を覚えるときに、攻撃と守備というのは今でもわかりやすい語り口です。チェスのように駒が縦横無尽に動き回って、ミサイルを撃ちあうようなゲームと違って、将棋はそれぞれの駒が動ける範囲も狭いですし、どこか「人間で城壁を作って守っていく」ような感覚があります。そうした感覚に基づいて王将を金銀で囲って守るかたちを「囲い」と呼んできただけのことで、それは将棋というゲームのとらえ方の一つに過ぎないのではないか、ということですね。

定跡という物語の先へ

――昔、戦史についての話を読んだときに、名将と呼ばれる将軍ほど防御の陣営を動的に変化させるものとして捉えていたということが書かれていたのを思いだしました。結局、ある程度ロジカルに分析が進んでいくと、「防御」という発想が人間はつい傾きがちな素朴な発想でしかなくなっていく……という可能性を示唆しているのかもしれない、と思いました。

久保氏:
 糸谷さんは、穴熊【※1】という囲いがこれだけ使われるのは「恐怖」の問題が大きいと言っていましたね。コンピュータは恐怖を感じないので、コンピュータに対して棋士が穴熊に組めても人間同士の対局ほどには有利にはならない、と。これは、第三回のやねうら王vs佐藤紳哉戦【※2】を一つの例として話していました。

※1 穴熊
囲うまでに手数はかかるが最も堅い囲いの一つ。居飛車穴熊、振り飛車穴熊の2通りがある。一度完成してしまえば容易に王手はかからず、崩すのは非常に難しく、特に終盤において精神的に有利に立てる。一方で多くの駒を守りに使うので攻めの駒が足りなくなったり、手数がかかるのでその間に攻め込まれたりと、諸刃の剣である。

「電王戦」5年間で人類は何を目撃した? 気鋭の文化人類学者と振り返るAIとの激闘史。そしてAI以降の“人間”とは?【一橋大学准教授・久保明教氏インタビュー】_050
※第三回のやねうら王vs佐藤紳哉戦……第三回将棋電王戦の第2局。この対局では先手・やねうら王の四間飛車に対し、後手の佐藤紳哉六段は居飛車穴熊を選択した。持久戦に持ちこんで勝ち切る居飛車穴熊は四間飛車に対する強力な対抗策であり、居飛車穴熊側が有利という共通認識がある。振り飛車党の間では居飛車穴熊に対する精神的な拒否反応も強い。しかし対局ではやねうら王がうまく穴熊崩しに成功し勝利した。
(画像は第3回 将棋電王戦 第2局 佐藤紳哉六段 vs やねうら王より)

――なるほど……。そういえば、羽生さんも将棋を指す際の「直感」や「大局観」の形勢の背後には、「恐怖」があると言ってます。基本的な形から外れる手に「不安」な違和感を覚えて、基本的な形に近しいものに「安心」した美しさを覚える。棋士が手を選ぶ行為は、そういう「美意識」を磨き込むことと同義である、と。ただ、そのときの発想に人間ならではの偏りが生じている可能性は、羽生さんも否定していませんでした。

久保氏:
 僕が電王戦をめぐる研究をしてきて考えるようになったのは、定跡という知的な構築物だとされてきたもの、そのかなりの部分が情動に依拠しているということです。千田さんは「人間は定跡というフォーマットに基づいて、ストーリーに沿って考える」という風に言っています。人間が恐怖に囚われず情動を制御できる範囲で指し手の流れが論理的に体系化されたものが定跡であるとすれば、定跡を定跡たらしめているのは実は情動的な判断の集積ではないか、ということですね。

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 でも、機械はストーリーに沿って考えてくれないので、そういう人間の思考のあり方からだんだん外れていく。そうなったときに、我々が知的な営為だとしてきた振る舞いの背後に隠されていた、情動の問題が噴出して、それを簡単には制御できなくなっていく、これが実は「ソフトの強さ」の大きな要因になっているわけです。

――機械の指す「点の思考」で揺さぶりをかけられた結果、だんだん人間が「定跡」によって蓋をしてきた、分析的知性の背後にある「恐怖心」のようなものが暴走を始めていく……。確かに、それは電王戦を通じて何度も噴出してきた光景だったように思います。将棋界の新しい世代が、人工知能に直面したことで、かえって自分たちが「人間」であることを痛切に意識させられているのは面白いですね。

久保氏:
 その意味では、羽生世代の凄まじさというのは、序盤の研究に代表されるような「知性面での改革」を行っただけでなく、大山・中原名人時代の勝負師的な駆け引きのような「情動制御の技術」も継承している点にあるのだと思います。
 彼らはデジタル技術の発展の影響を大きく受けると同時に、おじいちゃんに育てられる昔ながらの将棋文化のあり方の中で、先行世代の感覚もしっかり習得してきた。だから、競技において圧倒的な結果を出すと同時に、将棋の文化的側面と結びついた情動の制御法も身につけられたのではないかと思います。

――今のお話だと、やっぱり羽生世代最強という話に落ち着いてしまいそうなのですが……(笑)、実際のところ下の世代の羽生世代に対する明確なメリットって、あるんでしょうか。将棋ソフトが前提となった下の世代の、明確な特徴などがあれば……。

久保氏:
 いや、僕も奨励会とかまで調べてるわけじゃないので、そこまではわからないです。本格的な影響が出てくるのは、10代以前の段階でソフトに学んだような棋士が登場してきてからだと思います。

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大川慎太郎『不屈の棋士』(講談社・2016)
(画像はAmazonより)

 ただ、現代将棋の特徴として、「読み」だけでなく「大局観」の部分にもデジタル化の影響が生じている、とは言えると思います。最初に言った、いま生じているのは「情報の探索」ではなく「情報の評価」における革新ではないか、という判断も、ここまでの話から納得していただけるのではないでしょうか。

 そういう中で、千田さんは、これまで見てきたように「局面ごとにソフトが弾きだす『評価値』をどうやって人間が理解できる言葉に翻訳するか」という試みに挑んでいるわけですね。千田さんや彼と同世代の大学生などを見ていると、そういうふうに全てをデジタル化して捉えた上で価値を生みだせるという設定を取っているのは、彼ら「ポケモン世代」の強みだと思います。

AIが「情報の評価」に進出してきた

――全てをデジタル化して捉えうるという前提が彼らにはあるのではないか、と。とはいえ、それが実際の強さに結びつくかは、まだ未知数なんですよね?

久保氏:
 もちろん、それはまだわかりません。ただ、少なくとも現在のAIブームで問題になっているテーマを考えると、彼らのそうした態度そのものが、興味深くはありますね。

 というのも、現在のAI技術のインパクトは、これまで主に情報の収集や編集の手段だったコンピュータが、人間が占有してきた「情報の評価」の領域にまで進出してきたことにあると考えられるからです。

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スマホでハイヤーを仕様できるサービス「Uber」でテストされた自動運転車。
(Photo by Getty Images)

 例えば、実用化間近の自動運転車では、緊急事態にあたって「右にハンドルを切ると崖から落ちる」という情報と「左にハンドルを切ると歩行者を三人轢いてしまう」という情報のどちらを高く評価して行為を決定するようにAIを構成すべきかといった、いわゆる「トロッコ問題」【※】が注目を集めていますね。複数の選択肢を評価して値の高いものを選ぶという意味では、将棋ソフトが指し手を選ぶのと同じですが、自動運転車になるとその帰結が私たちの生活に深刻な影響を与える可能性があります。

※トロッコ問題
倫理学の思考実験のひとつ。「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」を問うもので、制御不能になったトロッコの分岐器を操作できる状況にあるときに、そのままだと轢き殺されてしまう5人の人間と、分岐器を作動させると轢き殺されてしまう1人の人間のどちらを救うべきかを問う命題などで知られる。

 そう考えると、千田さんの「“評価値”をどうやって人間が理解可能な表現に翻訳するか」という試みは、「人命に関わる自動運転AIの行為決定メカニズムを、乗車する人間にいかに説明するか」という問題につながるものですね。

――確かに、そうですね。「評価値」って、つまりは棋士たちが言葉で表してきた「形勢判断」の領域を、AIが数値化してきた指標だったと思うんです。同様に他の分野のAIでも、千田さんがやったように、人間が「納得できる」言葉で説明する努力を求められる場面は、我々の生活の中で出てくる可能性があるわけですね。

久保氏:
 より一般的に言うと、人間が占有してきた「情報の評価」にコンピュータが加わるということは、これまで私たちが合理的に考えているようで「まぁこんな案配だよね」みたいに慣習によって曖昧に済ませてきた判断の妥当性が鋭く問われていく状況を生みだすと考えています。

 人間は運転するとき「トロッコ問題」のような厄介なケースをいちいち考えませんよね。でも、自動運転AIには、そうした曖昧にしてきた判断に関わるプログラムを実装できてしまうので、僕らが普段はスルーしている問題に直面せざるをえなくなるわけです。将棋の場合には、先に説明したように「スポーツ」と「文化」が混ざりあっているからこそ、ソフトの導入が、単なるマインドスポーツの技術革新に留まらない、より一般的な問題を喚起しているという特徴があると考えています。

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