花の名前がわからない
短歌をふたたびささやかに楽しむようになって、日常の草木に目を向けることが多くなった。
その機会と比例してたびたび痛感することがある。それは、自分は「花や鳥、山野草、日常的に触れる自然の名前をほとんど知らない」ということ。
この劣等感は以前にも感じたことがあった。
就活で東京を訪れた折、ヲリちゃん(仮名)と井の頭公園でいっしょにあひるボートを漕いだときだ。
ヲリちゃんは高校の同級生で、ほとんど授業には出ず、その後美大に進学しようと東京に出るも「審査するその年の教授の好みに沿うような画を描かなければいけない」という美大入試の不文律に我慢ならず立川で数年間モラトリアムかつロックンロールに生きていた友人である。
また「ああ、普通の人には絶対に手がとどかない圧倒的な才能がたしかに存在するのだ」というのを私に初めて体感させてくれた油彩画の描き手でもある。
ヲリちゃんとあひるボートを漕いでいるとき、遠く池の向こう岸に白く細長い鳥が停まっているような枝木が見えた。
「なんだろう?」と私がいうと彼女はアサヒ350mlビール缶から唇を放し、「あれはこぶしの花だよ」と微笑んだ。
ヲリちゃんは化学式も数式も知らないけど(授業ほとんど出てないから)、こぶしと木蓮のちがいはわかるし、「ちょっと散歩してきた」といって手に粒山椒やら食える野草やらを摘んでくる。いっしょに遊ぶと「食べたくなったから」と浜まで磯蟹を獲りに行く、そして磯蟹蠢く桶を見て「可哀想になった」と翌日海に放しに行く、そんな子だった。
学校で覚えたことは無駄ではないと思っているけれど、それにしても授業で与えられる知識以外について私は関心がなかったのだな、と改めて振り返る。
そんでもって知らない花の名を誰かに訊ねるたびに、思い出フィルターもかかってより一層に美しく、水面の反射光を浴びながらこぶしの花を指さすヲリちゃんのほろ酔い姿が「生物として正しく」きらめいてよみがえるのだ。