M. Green「フィクションと認識的価値」(2022)論文紹介

Mitchell Green, Fiction and Epistemic Value: State of the Art, The British Journal of Aesthetics, Volume 62, Issue 2, April 2022, Pages 273-289, https://doi.org/10.1093/aesthj/ayac005

論文について

 本論文は2022年にBJAのフィクション特集号に掲載された分析美学におけるフィクションの認知主義に関する最新のサーヴェイ論文である。フィクションから知識は得られるのか、そして得られるとしたらそのような知識はどんな種類のものなのかという問題に関するフィクションの認知主義から、近年のフィクションから得られる認識をより広く「理解」とする新認知主義までを踏まえつつ、「語ること」と「見せること」などの区別を用いてこの分野の全体図を描き出している。

 筆者のミッチェル・グリーンはアメリカのコネチカット大学の哲学科教授。専門は言語哲学、心の哲学、美学。言語哲学や自己知、自己表現に関する著作がある。

アブストラクト(訳)

私たちは、フィクションがそれに対して十分かつ適切に参与する[engage]者に対する認識的価値の源泉となり得るかどうかの問題に関する、近年の目立った研究を批判的にサーヴェイする。そのような認識的価値は(「認知主義者[cognitivists]」にとっては)知識[knowledge]、あるいは(「新認知主義者[neo-cognitivists]」にとっては)理解[understanding]の形を取るかもしれない。どちらの陣営もフィクションの認識的価値を、語り[telling]の形での作者による参与の点から説明するか、あるいは何らかの物事の状況が生じるのを示すこと[showing]を通して説明する主張の間のさらなる区別によって分類されるだろう(後者の特殊な例が自己知の提供である)。語るよりも示すようなフィクション作品はしばしば思考実験を利用する。またある種のフィクション作品の認識的価値はそれらが共感[empathy]を可能にすることによって示され、共感それ自体は経験取得[experiencing-taking]の心理的過程を用いて明らかにされる。フィクション作品が認識的価値を提供するのが語ることによってか示すことによってかのどちらであれ、原則としてフィクション作品は提供するすものについてうまくやり遂げる[deliver on]ことに妨げは無く、そして認識的な注意深さ[vigilance]を持つフィクションの消費者は知識あるいはいくらかの程度の理解を、フィクション作品に参与することによって得られるだろう。

 

1.イントロダクション

 小説や映画、演劇、歌詞のある音楽などのフィクションに関して、その消費者や批評家たちはなんらかの認識的価値(例えばそれらの人々の人生や人間の条件に関する洞察)を持つ。例えばレマルクの小説『西部戦線異状なし』によって、戦争の語り得ない恐怖や、政治家や将校の人間の苦しみへの無関心を学ぶことができるように思えるのだ。またフィクションにおける登場人物と自分との類似性や、物語への自分の反応に着目することで、自分自身について学ぶことができると言う者も居る。またポール・ブルーム流にはフィクションは「現実について学ぶ痛みの無い方法」なのだ。

 しかしそのようなフィクションの認識的価値には疑義が呈されており、それには意味論的なものと語用論的なものがある。意味論的な異論とは、フィクション作品における文の多くが含んでいる名前(「帽子屋」「五月ウサギ」など)は現実世界のなにものも指示せず、よってそのような文は(フィクション作品においては真だが)現実においては真ではないというものである。語用論的な異論とは、作者は(一定の制限の下で)フィクションを作り上げるのであり、私たちはフィクションにおける物事を想像するが、だからといってそれを[現実世界の事実として]学ぶとは言えないというものである。その代わりに私たちはフィクションからその作品世界において何が真であるかや、あるいは作者の精神や制作時の社会状況を学ぶのだ。

 またフィクションの作者の制作に制限があり、それは想像的抵抗とジャンルによる制約の二つである。さらにフィクションの認識的価値に関して、作品世界を可能世界として捉えることで認識的価値を確保する論者も居るが、消費者は物語のテーマが真であるような可能世界が存在すると考えるのではなく、現実世界にそのテーマが通用すると考えているのだという点からそれを否定する。

2.認知主義、新認知主義、そして補助的概念

 まず以下の議論で用いる主要な概念について明らかにする。

フィクション:ノンフィクションが一連の主張[assertion]である一方で、フィクションとはその内容が受け手によって想像あるいはメイクビリーブ[make-believe]されるという目的を持った一連の発話である。フィクションは多くの場合物語を持つが、俳句のような非物語もフィクションになり得る。

ジャンル[1]:歴史小説は扱う時代の知られている事柄を守らなければならないし、小説がメタフィクションであるためには文学形式やストーリーテリング、自身の人工物としてのステータスなどに言及しなければならない。またもし読者が作品がハードSFであると知っているならば、それはその作品で生じる事柄が現実の物理法則と矛盾しないとする根拠になる。

力[force]とフィクション:日常言語において言葉はその叙法[moods]に応じた力を持つ。つまり直説法は主張、命令法は命令の発令、疑問法は疑問を呈するのに用いられる。同様にある種のフィクションは主張を行い、別の作品は命令を行うというように考えられる。教訓的[didactic]フィクションは主張を行い、『ピノキオ』のような警告的[cautionary]なお話しは命令、また他のある種の作品は疑問を提示する。

知ること[knowing]と理解すること[understanding]:フィクションから得られる知識は命題的[propositional]、実践的[practical]あるいは経験的[experiential]な形を取る。命題的知識をXに帰するとき「X knows that…」、実践的知識は「X knows how…[2]」といった形で表すことができる。一方で経験的知識は「X knows how grief feels / what it’s like to be ostracized」などの種の補部[complement]を用いて表される。それぞれ命題的知識は正当化された真なる信念、実践的知識はその人の能力によって達成が可能であること、経験的知識は鮮明かつ正確に(例えば)悲しみを感じるのを想像できることによって説明される。

そして知ることと理解することは認識論において様々な仕方で区別される。Grimmにおいては理解とは事象の原因を知ることであり[3]知識の一種であるが、Elginにおいては理解とは⑴全体論的(一つの命題というより理論全体に関わる)で⑵程度的である(深い理解や浅い理解がある)という特徴づけが為され、知識とは概念的に区別される[4](筆者はElginの定義を採用しているように読める)。

二つの図式的[schematic]テーゼ

 以上の前提を踏まえ、フィクションの認識的価値を擁護する立場について論じる。まず二つの立場について定式化する。

フィクションに関する認知主義(CF):フィクション作品は、それに十分かつ適切に参与する者に対して知識の源泉となり得る。

Cognitivism about Fiction (CF): works of fiction can be sources of knowledge for those who engage fully and appropriately with them.

フィクションに関する新認知主義(NCF):フィクション作品は、それに十分かつ適切に参与する者に対して理解の源泉となり得る。

Neo-Cognitivism about Fiction (NCF): works of fiction can be sources of understanding for those who engage fully and appropriately with them.

ここで両者は作品から得られるものが知識であるか理解であるかで対比されている。以下ではそのような認知主義がどのように擁護し得るかのケーススタディが行われる。

3.語ることと示すこと

 フィクションの認識的価値についてまず私たちが自然と考えるのは、作品が明示的、あるいは暗示的な方法(例えば語用論における前提[presupposition]や含み[implicature]などによって)で示す主張[assertion]やそれに類するものを作中で探す、というものである。明示的な場合には私たちは、作者に帰せられるような語り手や登場人物の主張を見出すことになる。

 しかしフィクションが認識的価値を提示するのは、主張のような発話内行為[illocutionary act]に限られない。つまり地図は何らかの発話内行為を行うわけではないが、目的地への道を知ることができるという意味で認識的価値を持つ。この点について筆者は以下のように語ることと示すことの区別を用いて述べる。

以上の事実に必要なものを提供するために、私たちは分析哲学の基礎を成す著作(Geach 1976[5])の重要点である区別を思い出すだろう。つまりそれは言うことと示すことの区別である。前者のみが発話内行為である[…]。対照的に、地図の例が明らかにしたように、示すことは行為者や人工物が、発話内行為である必要のない仕方で、事実を明らかにすることによって達成されるだろう。[…]私たちの関心に近いところでは、化学者は化学物質C1とC2を混ぜ合わせることによって、どうやって特定の反応Rが生じるのかを実演するかもしれない。そうするときに化学者はC1とC2が一緒にRを生じさせると主張したり他の仕方で発話内行為を遂行したりする必要は無い。よって同様にフィクション作品の作者も、人の持つナルシズムがその人をどのようにして困難に導くかを、作品の(居るとして)語り手や登場人物の発話が何であれこの[主張などの]主旨で発話内行為を遂行すること無しに、示すかもしれない。

To accommodate this fact, we may recall the distinction, a lynchpin in the foundational works of analytic philosophy (Geach, 1976), between saying and showing: only the former is an illocutionary act […]. By contrast, and as the map case establishes, showing may be achieved by virtue of an agent or artefact making a fact manifest in a way that need not be illocutionary. […] Closer to our concerns, a chemist might demonstrate how a certain reaction R works by mixing chemicals C1 and C2. In so doing, she need not assert or otherwise illocute that C1 and C2 jointly produce R. So, too, an author of a fictional work might show how a person’s narcissism leads him into difficulty without the narrator of the work (if there is one) or any characters’ utterances illocuting anything to this effect.

語ることと示すことという区別によって、発話内行為を遂行しない後者によっても何らかの認識を与えることができる。フィクションも同様に、何らかの主張を直接行うこと無しに、認識的価値を持つことができるのだ。

4.(新)認知主義の変種

 この節ではフィクションの認識的価値を擁護する7つの主張を検討する。最初の4つは上での「語ること」によって、残りの3つは「示すこと」によって与えられる認識的価値である。

証言[testimony]

 フィクションにおいて作者は作中においてのみ真であるだけでなく、真面目な主張として意図した言明を行うことがある。例えばE.M.フォースターの小説『ハワーズ・エンド』では「私たちが死を不誠実かつ不条理なものと思ったとき、私たちは既に旅立ちに折り合いをつけるのに成功しているのだ[6]」とあるが、これはフィクションにおける虚構的真理というよりは、(現実で真であることを意図した)主張だというのだ。また筆者は歴史小説によってその時代の習俗について知ったり、戦記物によって地雷の除去方法を学んだりすることを証言の例に挙げる。

 以上のようなフィクションにおける真面目な主張(に見えるもの)については近年議論が行われているという。Currieは主張として受け取られる発話は同時に想像されることはできないと主張し、フィクションが虚構文と主張的文のパッチワークであると主張した。一方でFriendやStockは一つの発話が同時に虚構的かつ主張的であることができると考え、またKripkeとAlwardは上のような文がフィクション作品の中に置かれるとき、それは主張的ではあり得ないと考えた。KripkeやAlwardのような立場においてはフィクションが知識や理解を与えることはできないということになるが、これに対してGarcía-Carpinteroはそのような文を間接的言語行為[indirect speech act]の枠組みで考えることを提案し[7]、Voltoliniは会話の含み[conversational implicature]によって説明できると主張した。以上のようにフィクションが(明示的であれそうでない場合であれ)真面目な現実世界に関する主張を行うかという点には議論があるものの、筆者はそれが可能であると考えているように見受けられる。

寓意[allegory]

 またフィクションの作者は作品から読者がアナロジーによって、作品外世界に関する結論を引き出すように意図することがある。筆者は例としてプラトンの『国家』における洞窟の挿話や『蠅の王』『動物農場』『天路歴程』などを挙げる。しかしこの場合、読者は作者の暗黙の言明に対して、そのアナロジーが本当に適切なものなのかを判断する必要がある。例えば『蠅の王』におけるような出来事(孤島での子どもたちの殺し合い)は起こり得るかもしれないが、それが適切に現実世界における集団心理のダイナミクスの典型となっている[typify]のかを、読者は疑うかもしれないというのだ。よって筆者はこのような寓意はむしろ、現実世界に関する結論を引き出すために、作者の現実世界に対する洞察に頼る必要のあるような証言と見なすべきだと述べる。つまり筆者は寓意によるような認識的価値は、作者が現実世界における物事を適切に認識し、アナロジーを成り立たせる能力があることを必要とすると考えるのだ。

例解的実演[illustrative demonstration]

 ある種のフィクション作品は「Xであるというのはこのようなものである(This is what X is like)」というように要約できたり、そのような要素を含んだりすると筆者は言う。ここでXに入るのはオピオイド中毒で子どもを亡くすことであったり、DVの被害に遭うことであったり、自分の限界を受け入れることであったりする。そのような作品から得られるのは以上のような経験をするのがどのようなことであるのかに関する「理解」であり、その理解がたとえ浅いものであっても、作中の登場人物が様々な状況においてどのように振舞うかや、あるいは現実世界において私たちがその人たちとどう接するかを答えられる限りにおいて認識的達成である。

 しかし一方でGibsonのように、フィクショナルキャラクターにとって「何かを経験するとはどのようなものなのか」ということは厳密には存在しないため、結果としてフィクション作品による例解的実演は認識的価値を持たないという論者も居る。その上で筆者はマーク・ハッドンの『真夜中に犬に起こった奇妙な事件』を例にGibsonに反論する。この小説はクリストファーという自閉症の男の子の視点から語られていることを踏まえて筆者は以下のように述べる。

いくつかの部分では、読者はクリストファーの行動を理解できないと感じるかもしれない。例えば慌てたとき彼はコインをラディエーターに何時間も擦りつけるなどの反復的活動によって自身を落ち着かせる。作者はこの活動がどのようにして主人公を落ち着かせるのかに関する洞察を提供する。そうすることによって作者は、読者にそのような役に立たない行動がクリストファーだけでなく、同じような心理的履歴を持つどんな子どもをも落ち着かせてくれるのかを正しく理解するのを助けてくれるのだ。コインの擦りつけや同様の短い場面は一緒になって、作者が自閉症の子供一般の理解を容易にするのを助けてくれるのであり、クリストファーが虚構的であることはこのプロジェクトの妨げにはならない。

In some passages, readers may find Christopher’s behaviour puzzling. For instance, when upset he will calm himself with a repetitive activity like scraping a coin against a radiator for hours. The author provides insight into how this activity soothes the protagonist. In so doing, he helps us to appreciate how apparently impractical behaviours can be soothing—not just for Christopher but for any child with a similar psychological profile. The coin-scraping and similar vignettes work together to help the author illuminate autistic children generally, and Christopher’s being fictional does not threaten this project. (p. 280)

小説において作者は自閉症児の行動を描写し、それが子ども自身にとってどのような意味を持つのかの洞察[insight]を与えることによって、読者に理解を提供することができる。ただしその上でそのような認識的価値は、作者が自閉症の子どもに関する信頼できる情報源であるかどうかに左右されるとする(実際作者は自閉症の子どもたちと接触している)。結局のところ例解的実演による認識的価値もまた証言に依存しているのだ。

共感的知識/理解

 次にフィクションから他者への共感[empathy]に必要な知識あるいは理解を得られる可能性がある。ここでの共感とは「他人の情動的あるいは経験的状態を鮮明に想像すること[8]」である。例えばJ. ハミルトンの『マップ・オブ・ザ・ワールド』は作品において小さい田舎のコミュニティで排斥される主人公に対して、読者自身はそのような排斥を経験していなくても、排斥される主人公の感覚に共感することを可能にする。そして読者はそこで発揮した技術[skill]を、現実の人間に対して適用することができる。ただし筆者はここでもまた、作品が共感を可能にするような情報を提供し得るかどうかは、作者がそのような情報の提供元として信頼できるかどうかに依存すると述べ、再び証言的モデルの重要性を強調する。

思考実験

 またフィクションが数学や科学、哲学と同様に、私たちの直観に関する示唆を与える思考実験としての側面を持つ。思考実験はそのシナリオからその外の現実世界に関する示唆を生むという点で認識的価値を持つ[9]。その点から言えばフィクション作品も「設定[premise]」を元に作り上げられた一種の思考実験として認識的価値を持つ。また思考実験としてのフィクションが成立するためには、大まかに作品展開が私たちの常識的な民間心理学[folk-psychology](常識心理学)と一致している必要がある。その上でフィクションは非フィクション的な、典型的には条件命題を提示することができるのだ[10]。

 一方でフィクション作品における思考実験による認識的価値は、科学や哲学におけるそれとは異なる独自のものである。つまりフィクションは人間関係を扱い、また語り[narration]における感覚的ディテールや内的独白などによって、登場人物への転移[transportation]や視点の取得[perspective-taking]を通じて、他の分野における思考実験では得られない鮮烈な経験を得ることができる。ここで筆者は転移と視点の取得について以下のように自著を引用する。

転移において、フィクションの消費者は自分の周りの実際の環境において起こっていることのいくらかを無視する程度にまで、自分の活動に没入するのであり、その自動的な情報処理メカニズムの多くはフィクションにおける出来事を現実のものであるかのように扱う[…][11]。視点の取得において主体は「自然と登場人物のアイデンティティを身に付け、その登場人物の思考や感情をシミュレーションする想像的プロセス」を遂行する[…]。

In transportation, consumers of fiction become absorbed in their activity to the point of neglecting some of what is occurring in their actual environment, and many of their automatic information-processing mechanisms treat events in the fiction as if they are real […]. In perspective taking, subjects undergo ‘the imaginative process of spontaneously assuming the identity of a character and simulating that character’s thoughts and emotions’ […]. (pp. 282-3)

以上のような作品鑑賞における転移や視点の取得などの特殊なプロセスによって、読者は現実の人々への共苦[compassion]を経験する。その結果として読者は、トロッコ問題で犠牲になる側の人々に共苦を感じることで自身の帰結主義的なコミットメントを考え直したり、自分とは異なる政治的・倫理的感受性を持つ人々の視点を真剣に考えるようになったりするのであり、それは哲学的な思考実験では困難なものである。

概念的革新[conceptual innovation]

 フィクションは「何が可能であるか」を教えてくれるものだとする研究を筆者は三つ挙げる。まずLewisはフィクションが、例えば「貧乏[poverty]」と「気高さ[dignity]」などの二つの(通常は共存しない)性質が、ある一人の個人において共存し得ることをフィクションから学べると言う。これに対して筆者は、確かにその二つの性質は共存可能だが、Lewisはフィクションがどうやってそれを示すのかを全く明らかにしていないと批判する。

 またJohnはグレース・ペイリーの小説を例に「幸福な人生を送れたらと望むが、そのような人生は自分には不可能だと考える主人公」を描写することによって、そのような望みが可能であるかについて、あるいは行為に関係する欲望の意味に関して読者に問いを投げかける。筆者はこの議論を説得的としつつも、フィクションはそこで知識の源泉というよりも探求の契機に過ぎないと述べる。

 また筆者は自著を引用しつつ、ベルンハルト・シュリンクの『愛を読む人』などにおいて、作品は「おぞましい行為の犯人でありながら誰かに愛されるに値する人[12]」"といった人物が可能であることを示していると述べる。

自己知識/理解

 自己知に関しては既に思考実験の箇所において論じていると筆者は述べる。つまり思考実験としてのフィクションは、私たちの物理学や人間心理に関するコミットメントから示唆を引き出すのであって、そのときフィクションは私たちのコミットメントやさらには自分自身について知ることになる。

 また作品に対する自分の反応に気づくことが、自己に関する知識や理解を与えてくれる事例が存在する。例えばある作品で自分が洗練された人物よりも謙虚で直截な登場人物を好むことに気づくとき、自分がそのような性質を重視していることに気づくかもしれない。また読者がある登場人物がある仕方で振舞うことを期待しているときに、作品内でそうならなかった場合などには、その際に感じる驚きなどによって自らの持つ期待だけでなく偏見などを知ることができるのだ。

 一方でGibsonはフィクションが自己知を提供することを否定する。彼はフィクションの提供する認識的価値は作品それ自体に中に見出されなければならないと述べ、フィクションが私=読者についてのものでない以上、そこから自己知は得られないと主張する。これに対して筆者は、フィクションがある個人としての読者に関連することはほとんど無いが、一方で「作品の消費者」としての読者に関しては、作者は常にそのような読者に作品の反応から自己知を得ることを意図していると筆者は述べる。

 以上のように筆者は証言[testimony]、ひいては語ること[telling]に依拠した認識的価値(証言、寓意、例解的実演、共感的知識/理解)及び示すこと[showing]に依拠したもの(思考実験、概念的革新、自己知/理解)の7つの種類の認識的価値について述べた。フィクション作品では大抵の場合、それらの一つが単独で提示されるよりは、複数が組み合わされている。

5.(新)認知主義への異議

 最後の節で筆者は以上で述べたようなフィクションの認識論的価値への異議を紹介する。筆者によればそのような主張は以下の二つの疑問に分けられる。

⑴フィクションの作者はストーリーの主題に関する権威[authority]をもって語っているのか?

(i) do authors of fiction speak with authority about the topics of their stories [?]

⑵もしそうだとしても、その受け手はどの虚構的表象が事実的に正しいことを意図されていて、どれがそうでないかを見分けることができるのか?

(ii) even if they do, are their audiences able to tell which fictional representations are intended to be factually correct and which are not? (p. 285)

ここで筆者はかつてのスパイやジャーナリスト、医療従事者などがフィクションに従事した十分に証拠のある[well documented]ケースを参考に、⑴については不問とし、⑵に焦点を絞る。

 実のところフィクションの読者は作品から誤った知識を得がちであることはいくつかの実験によって統計的に明らかにされている。ストーリーを読んでもらってから一般常識のテストを解いてもらう実験に関する論文によれば、そこでは被験者たちがストーリーから正しい情報と同じ程度間違った情報を得てしまっている[13]。

 筆者は以上の問題に対して二つの点から反論を試みる。一つ目は「フィクションの消費者の中には他よりも、正確な表象として意図された記述や出来事をそうでないものから区別することに熟達した者が存在する[14]」というものである。これは注4の徳認識論の議論の応用と言える。この点に関連してジャンルに精通する経験からフィクションの認識的価値を擁護するFriend (2014)の議論を筆者は以下のように紹介する。

その[ジャンルに精通するという]経験は、多くの場合フィクション作品の前景と後景を区別する能力をもたらすと彼女は記す。前者はプロットやサブプロット、登場人物の展開などを含み、後者はその中でストーリーが進行する世界の設定として機能する傾向があり、こちらがより証言の源泉となりやすい。そのような熟練した読者が居るかどうかは経験的な問題であり、実験の対象である。

That experience, she notes, typically carries with it an ability to distinguish between foreground and background aspects of a fiction; it is the former that will include plot, any subplots, and character development, while the latter tends to function as the worldly setting in which the story unfolds and is the more likely source of testimony. Whether there are such adept readers is an empirical question subject to experiment. (p. 285)

作品が分類されるジャンルに精通していることで、そのジャンルの作品を鑑賞する際に読者は作品の「前景」と「後景」を区別できるようになるとフレンドは述べる。それによってその作品が証言としての役割を果たしている「後景」が作品の中のどの部分なのかを読者は理解できると言うのだ。

 筆者が二つ目に挙げるのは、現代ではフィクション内の情報の真偽をオンラインの情報を用いて比較的容易に判断可能であるという事実である。これによって読者はフィクションから正確な情報を得られるようになっていることを実証した実験[15]があるだけでなく、筆者はそのような読者を念頭に置いた作者がより作中の事実について気に掛けるようになるとすら述べる。

 最後に筆者は思考実験としてのフィクションの認識論的価値に関する楽観主義をたしなめるCurrie (2020)の主張を検討する。まず彼は認識論的価値を持つとされる科学的・哲学的思考実験は短く単純なものであり、それこそが読者の反応を収束[convergent]させるが、(新)認知主義者たちの持ち出すフィクションは極めて長大で複雑であり認識的価値に関して同一視はできないと主張する。これに対して筆者は思考実験の側面を持つフィクションの中には禅の公案のように極めて短くかつ力強いものがあり、また短編などはありふれていると述べる。また長編について言えば、それらは確かに短編とは認識的価値に関して異なるが、それは長編が転移や経験取得などの方法を用いるために全体論的な性格を持っており、(短編が知識を与えるのに対して)理解を与えるという点で異なるのだとして、認識的価値を擁護する。

 一方でカリーは科学や哲学の思考実験の認識論的価値を保証しているのは査読による出版の制度的実践や学術会議などであり、同様の構造はフィクションには見出せないと主張する。これに対して筆者はフィクションにおける思考実験は私たちの常識心理学(あるいは常識物理学)によって支えられており、その点でそのような制度的構造は不要であると主張する。またフィクションに関するレビューや批評の文化もまた、受け手がフィクションに対して適切な反応をする助けになると筆者は述べるのだ。

コメント

 筆者の主張で注目すべきは、フィクションの認知主義において作者の明示的・暗示的な現実世界に関する主張としての「証言」を重視する点である。筆者によれば証言はいくつかあり得るフィクションの認識論的価値の一つであるだけでなく、他のあり得るモデルを基礎づける役割を持っているのであり、現在の新認知主義などでは軽視されがちな証言の役割を強調する意義がある。しかしそのような証言の重視が、フィクションの認識論的価値を一見トリヴィアルなもののように見せてしまっているのではないか。実際のところフィクションから筆者の主張を通して命題的知識を学ぶことはそうないだろうし、それに関しては歴史や科学の教科書、あるいは哲学の論文の方が適しているだろう。この論文ではフィクションから認識論的価値を引き出すことに躍起になりすぎて、フィクションだからこそ与えられる知識や理解、あるいはそれを可能にするフィクションの特性への目配りが足りないように感じる。私としてはフィクションならではの認識論的価値とは、他者に対する何らかの理解(能力)の向上にあると考える。その点では本文では紙幅の割かれなかった「共感的知識/理解」の方向性に望みがあるだろう。

 

[1] ここで筆者が述べているのは、大まかに言えば虚構的真理(何がその作品において成り立っているか)をジャンルが決定するということであり、また受け手はジャンルを根拠に作中の虚構的真理を類推しても良いということである。ジャンルと虚構的真理の関係はCatharine Abell (2020) Fiction: A Philosophical Analysis. Oxford UP.やLiao, Shen-yi (2016). Imaginative Resistance, Narrative Engagement, Genre. Res Philosophica 93 (2):461-482.に詳しい。

[2] 例えばShe knows how to console someone who has lost a life partner.

[3] 例えば私たちは「コレラが危険である」ことを知っているかもしれないが、それを理解していると言えるのは、コレラが危険である原因(つまりそれが深刻な脱水症状を起こすこと)を知っているときに限る。

[4] この「知ることと理解すること」の項に関しては、他にも徳認識論のbarn façadeの議論を背景にしたフィクションから得られる知識の主体相対性(つまり主体に何らかの認識論的徳[epistemic virtue]がある場合にのみフィクションから知識が得られる)についても言及があるが、省略した。Barn façadeの議論についてはhttps://plato.stanford.edu/entries/knowledge-analysis/#FakeBarnCaseを参照。徳認識論については植原亮による日本語のサーヴェイ(https://updatingphilosophyofai.net/resources/virtue_epistemology/)などがある。

[5] Geach, P. (1976). ‘Saying and showing in Frege and Wittgenstein’, in Hintikka, J. (ed.), Essays on Wittgenstein in Honor of G.H. von Wright. Acta Philosophica Fennica, 28, pp. 54–70.

[6] ‘When we think the dead both treacherous and absurd, we have gone far towards reconciling ourselves to their departure’ (p.279)

[7] この説明として本文では以下のような文がある: “such as occurs when one speaker, remarking that another person is standing in her way, thereby asks that person to move” (p.279)日本語でよりわかりやすい例を考えるなら、窓を開けてもらうために「この部屋暑いですね」と言うことなどが挙げられるだろう。

[8] “vividly imagining another’s affective or experiential state” (p. 281)

[9] 例えば認識論におけるゲティエの知識概念の分析や、ガリレオが物体の落下速度は大きさによって定まらないことを示したことを筆者は念頭に置いている。

[10] 例えばE.M.フォースターの『インドへの道』においては「もし人間の動機と行動に関する私たちの想定が正確ならば、植民者は被植民者と真の友情を結ぶことはできない」といった命題を真にすると筆者は述べる。

[11] ここで筆者はそのような転移のプロセスが、実のところフィクション作品に限られずノンフィクションの(物語)作品においても同程度に生じることが経験科学による研究で明らかになっていることに触れる。

[12] “a person can be both a perpetrator of heinous acts and merit someone’s love” (p. 283)

[13] Butler, A., Dennis, M. and Marsh, E. (2012). ‘Inferring facts from fiction: reading correct and incorrect information affects memory for related information’. Memory, 20, pp. 487–498.及びRapp, D. N. (2016). ‘The consequences of reading inaccurate information’. Current Directions in Psychological Science, 25, pp. 281–285.

[14] “[S]ome consumers of fiction are more adept than others at distinguishing those descriptions or doings intended to be accurate representations from other” (p. 285)

[15] Donovan, A. and Rapp, D. (2020).  ‘Look it up: online search reduces the problematic effect of exposure to inaccuracies’. Memory and Cognition, 48, pp. 1128–1145.