ジェシー・プリンツ『はらわたが煮えくりかえる——情動の身体知覚説』第1章レジュメ

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源河亨訳。読書会用のメモです。

第1章 導入――情念(passion)の切り分け

情動(emotion)が持つさまざまな要素[p. 1]

  • 情動エピソードは様々な構成要素を含む:ex. コンテストで賞を獲って高揚する
    • 思考:熱望していた賞を獲った
    • 身体変化:口が開く、顔が紅潮する、心臓がドキドキする
    • 注意などの心的処理の変化:周囲が輝いて見える、過去の良い記憶の想起、自画自賛
    • 意識的な感じ(feeling):天にも昇るような震え
  • 以上のエピソードの内のどれが「情動(emotion)」なのか?
    • 以上のどれが情動の本質なのか?という問題を「部分の問題」と呼ぶ

さまざまな情動理論[p. 2]

  • 素朴心理学・日常的な直観:情動とは感じである

    • 経験的調査によれば多くの人は情動の構成要素のうち「感じ」を最重視している
      • また(感じとしての)情動の結果として身体変化がやってくると考えられている
        • ex. 恥ずかしさ→顔の紅潮
    • 哲学者はバイアスがかかっており「思考」が重要と考えている
  • 身体感じ説(ジェームズ、ランゲ):情動とは身体変化の感じである

    • 鼓動が速まる(身体変化)のを感じずに高揚感(感じ)を得ることはできないので、身体システムの変化は感じに先立つ
    • また身体感じ説(somatic feeling theory)は素朴な感じ説を包含している
      • 情動が感じであり、それが身体変化によって経験されるのであれば、情動とは身体変化の感じである

     

  • ダマシオはジェームズと少し異なる身体感じ説を唱える:情動とは身体状態への神経反応である

    • 違い①:現代における「身体的システム(somatic system)」とは呼吸器系・循環器系・消化器系・筋骨格系・内分泌系を含み、その変化は表情の変化・鼓動の速まり・ホルモンの分泌なども含む
      • ダマシオにおける身体変化は、内臓や表情だけでなく、ホルモンレベルの変化など脳における化学的変化も含む
    • 違い②:またダマシオは実際の身体変化を経由せず、身体変化に関わる脳部位の活動だけで情動は成立すると考える
      • 身体変化をスキップした情動経験を「あたかもループ(As-if loop)」と呼ぶ
      • 視覚イメージ(心像のこと?)を形成する際に視覚中枢が活動するように、身体変化をイメージする(imagine)ことで関連する脳領域が活動し、情動が生じ得る
    • 違い③:身体変化の感じは意識的な気づき(conscious awareness)を必要としない
      • 身体変化に対する非意識的な神経反応も情動に含める
      • よってダマシオの説は(意識的な)感じを必要としないため、情動の身体説と呼ぶべき
  • 身体変化と情動の結びつきのアイデアはダーウィンのものである

    • ダーウィンによれば恐怖を感じたとき毛が逆立つのは、有毛哺乳類が危険な状態に毛を逆立てて身体を大きく見せたためである(進化論的説明)
  • ダーウィンから、情動を神経反応ではなく身体変化によって傾向づけられる行動だという理論も取り出せる:行動説

    • ライル:情動用語が指すのは、内的感じではなく様々な(外的に看取可能な)行動を取る義務や傾向性である
      • パニックという情動(?)を経験する=体がこわばったり叫んだりしがちであること
    • スキナー:情動とは行動が生じる確率への影響(の一つ)である
      • 怒っている人は相手を殴る確率が高く、手助けする確率が低い
    • ワトソン:情動は報酬や罰に対する生得的な行動反応である
      • 赤ん坊はなでられると喜びを示し、身動きできないと泣く
    • ロールズ:行動説と内的状態の説明の折衷説
      • 情動は報酬や罰に対する反応かもしれないが、それは内的なものである
  • 情動を認知的操作への影響と見なす認知科学者たちの主張

    • カテゴリー分け・記憶・注意・推論などの認知的操作は情動と近しい関係を持つ
      • 過去の記憶はそのときと同じ情動を持つと思い出しやすい
      • ポジティブな情動はステレオタイプの利用を促進する
      • ポジティブな情動はクリエイティブな推論を手助けする
      • ネガティブな情動は注意の対象を狭めてしまう
      • ネガティブな情動は自己をより正確に認識するのを手助けする
    • 以上を踏まえ情動を注意・記憶・推論などの能力の変化と見なすのが処理モード説(processing mode theory)である
  • 情動の本質は、それに伴う認知(思考)である:認知説

    • 例えば「デートに誘われた」という状況には特定の信念や欲求が伴い、それによって情動が影響を受ける
      • 危ないストーカーから誘われた→恐怖
      • その誘いは冗談だった→怒り
      • 自分もデートしたい→喜び
    • 情動=思考と考える「純粋な認知説」は古くから哲学者に人気がある
      • →危険があるという信念やそれを避けたいという欲求が、情動そのものであるという考え
      • ストア派のクリュシッポス:情動は素早く形成される信念
      • ベッドフォード:情動は感じと違い、思考で改められる
      • ソロモン:情動は世界が特定の在り方をしているという判断である
    • ヌスバウム:情動とは、出来事を価値づける解釈(「価値付加的な見かけ(value-laden appearance)」)を承認する判断である
      • 家族を失う→重大な損失と価値づける
        • その上で情動が成立するには、その価値づけを正当化する別のメタ判断が必要ということ
    • 情動には判断(信念)だけではなく、欲求や願望などの認知的状態が必要とする人も居る(ゴードン、ウォルハイム)
      • ワーナー:Xがある行為Φを楽しむ ⇔①XがΦする②Φがある性質を持ち、かつΦすることでその性質が生じることを望む③Xはその欲求をそれ自体のために持つとき(①⋏②⋏③)
        • しかし~~情動に本当に判断を必要とするかは怪しいし、~~またΦが望ましい性質を持つかどうかは楽しんだ結果としてわかるのであり、逆ではないのではないか
    • 情動を持つとは解釈することであるとする論者たち
      • アーモン-ジョーンズ:対象に情動を持つ=対象が特定の性質を持つと想像する
        • 対象を恐れる=対象が危険であると想像(解釈)する
      • ロビンソン、ロバーツ:情動は主体の関心や欲求に基づく対象の解釈である
    • 欲求を認知的状態と見なすかどうかは意見が分かれるが、それでも広い意味での認知的状態とするのが一般的である

複合理論[p. 12]

  • 以上の理論はおおよそ、先に挙げられた情動の諸要素の一つと情動を同一視している

    • ただし身体感じ説だけは別:身体感じ説は〈身体的反応+意識の感じ〉の複合理論である
    • そのような複数の要素で情動を構成する複合理論は歴史的にも多く見られる
  • アリストテレス:情動は感じと欲求の両方が含まれる

    • 怒り⇔復讐したいという痛ましい(←感じ)欲求(←認知)
    • またアリストテレスは情動には質料(身体)と形相(認知)の双方を必要とすると考えたので、情動の感じ・認知・身体を含めた複合理論を唱えたとも言える
  • デカルト:情動経験は身体が行為に備えることの経験である

    • 感じに身体が先立つ点でジェームズ-ランゲ説の先駆けだが、情動には認知も含まれると考えた点で異なる
  • ヒューム:情動とは意識的な感じに対する二階の感じ(印象)である

    • ヒュームの用語法によれば:「情動とは、別の印象(impression)ないし観念(idea)によって引き起こされる二階の印象である」

      • 例えば:イノシシに遭遇→イノシシの視覚的イメージとしての印象①を形成→印象①を原因に〈恐れ〉という印象②を形成
      • ここで重要なのは情動(印象②)はその原因(印象①)や他のいかなるものをも表象しないということ

      📌 この点は情動が対象(の価値)を表象すると考える現代的な理論と対立するということか

    • ただしヒュームは情動は、単なる意識的な感じであるだけでなく、行動を強いる力を持つと考えた

      • 例えば恐怖は逃げたいという欲求の感じを持つ
      • この点でヒュームの説は〈感じ+行動〉説である
    • しかもヒュームは情動(印象②)が他の思考を引き起こしたり、それらに引き起こされる必要があると考えた

      • 例えば〈誇り〉は「自己についての考えを引き起こす感じ」であり、そこでは自己に関する観念が必要になる
      • よってヒュームは感じや行動だけでなく、認知もまた情動に必要としていた
  • 以上の理論は「純粋でない認知説」とまとめることができる:情動の中心は認知だが、他の要素も関連しているという見解

    • スピノザ、グリーンスパン:情動は快や苦痛(=感じ)を伴った思考(=認知)である
    • ナッシュ:情動は価値判断と注意の集中が含まれる
      • 怒り←〈不当な扱いを受けた〉という価値判断と、腹立たしく思われる状況への注意
      • これは認知説と処理モード説の複合理論と言える
  • 心理学者たちは純粋でない認知説の一種の「認知的ラベルづけ説」を支持している

    • シャクター&シンガー:情動は身体変化とそれに対する認知的解釈の両方が含まれる
      • 身体変化(覚醒状態)→身体変化の解釈(ラベルづけ)→情動
        • 鼓動の速まり→高揚していると認知→高揚
        • 鼓動の速まり→恐れていると認知→恐怖
    • 認知的ラベルづけ説によれば、情動の原因は誤って帰属され得る
      • 実験:ビタミンと言ってアドレナリンの注射を打たれた被験者が二つの異なる条件に置かれる
        1. 不愉快な質問用紙に答え続ける状況
        2. 仕掛け人が紙飛行機を折ったり、テーブルの上に立ったり、フラフープで遊んでいる状況
      • 結果:1の被験者は怒ったりする負の情動反応、2の被験者は楽しんでいる情動反応を見せる
      • 考察:身体的状態は同様でもそれにどんなラベルを貼って認知的に解釈するかによって、異なる情動を経験するのではないか
        • ラベルづけの際には文脈や背景的知識が用いられている
  • 認知的ラベルづけ説は身体反応(自律神経系統の反応)は認知に先立つと考えているが、逆に思考が形成されることで身体反応が生じるという「認知原因説」を唱える心理学者や哲学者も居る

    • 代表的な認知原因説が多次元評価説である

多次元評価説[p. 18]

  • 評価(appraisal)はマグダ・アーノルドの用語で、「対象が自分に重要な影響を与えると見なすこと」である
    • 情動は常に(複数の次元の)評価を含み、それによって個別化される(異なる情動になる)
      1. 状況が有益が有害か
      2. 状況に関わる対象が存在するかどうか
      3. 対象を獲得・回避することが簡単か難しいか
    • 例えば「喜び」という情動は1に関して有益、2に関して存在する、3に関して獲得しやすいという評価を下すことで成り立つ
    • しかしアーノルドの三次元評価では十分に情動を個別化できないかもしれない(怒りと嫌悪は1,2,3に関して同一の評価を下している:有害、存在、回避困難)
  • ラザルスは六次元の評価のパラメーターで情動を記述しようとした
    • 一次評価:情動的な重要性を決める
      1. 目標との関連:対象(状況)との関わりが自分の目標に関連するかどうか
      2. 目標との一致:対象が自分の目標を促進するか(→正の情動)妨害するか(→負の情動)
      3. 自己との関与タイプ:対象とのかかわりが自分の何に関連するか
    • 二次評価:主体の対処方針を決める
      1. 非難か賞賛か:状況との関わりにおいて誰に責任があり、その人を非難・賞賛すべきか
      2. 対処能力の有無:関わりの結果として生じるものを扱いきれるか
      3. 将来の見込み:事の成り行きが自分の目標と一致しそうかどうか
    • 例:怒り
      1. 目標との関連:関連する
      2. 目標との一致:一致しない
      3. 自己との関与タイプ:自尊心、社会的信頼、アイデンティティ
      4. 非難・賞賛:誰かが非難されるべき
      5. 対処能力:攻撃できる
      6. 将来の見込み:攻撃によってより目標に近づく
    • 以上の六次元の評価を「分子評価」と呼び、さらにそれを要約したものを「モル評価」と呼ぶ。後者は「中心関係テーマ(core relational themes)」を表す。
      • 中心関係テーマ:怒りだったら「自分に対する侮辱的侵害」、恐怖だったら「身の危険」、悲しみだったら「取り返しのつかない喪失の経験」など
      • マーの心的システムの三つのレベルに則れば、モル評価は計算論的なレベル(心が遂行する課題)、分子評価はアルゴリズムレベル(課題を果たすための規則や表象)に当たる
  • 多次元評価説は支配的な理論である:情動がランダムな感じではなく、世界と私たちの関係を伝え、それに対する確信を示し、行為の原因となるという直観を反映しているから
    • (多次元)評価説がコミットしているのは、①評価が情動に先立ち②評価は認知的であり③評価は多次元であるということ
      • 筆者は以下でこれらすべてに反論する

部分から多数へ[p. 23]

多数の問題[p. 23]

  • 上の多次元評価説は認知的原因説の一種である:認知的評価によって情動が引き起こされると考えるため
    • しかし多次元評価説は〈評価=情動〉としているわけではない。あくまで評価は情動の必要条件でしかなく、評価に加えて他の要素も必要となると述べる
  • しかしそうすると問題は、情動に含まれる認知以外の要素は何であるかということになる
    • ラザルスは生理学的反応(身体反応)や行動傾向を含める
    • アーノルドは生理学的反応に加えて感じられる行動傾向を含める
  • さらに多くを情動に含める理論家もいる:包括説
    • フライダ、エクマン:行動傾向、思考、感じ、身体変化のすべてが必要
    • 包括説は情動に関するすべての側面を扱おうとするが、問題はそれではそれらの多数の要素を一つにまとめているものがわからず、情動とは何かがわかりにくい点
      • 言い換えれば、それらの多数の要素がなぜ情動となるのに本質的であるかの説明が必要になってしまう
      • →これを「多数の問題」(⇔部分の問題)と呼ぶ。
  • 多数の問題に答える三つの方向性
    • 多機能複合説:情動は単一の状態であるが、その状態は複数の要素に対応する
      • ex 身体感じ説:情動が身体変化と感じの複合した「身体反応の感じ」という一つの状態であるとする
    • 多要素複合説:情動は複数の状態から構成されたものである
      • ex. シャクター&シンガー:情動は身体状態と認知的ラベルという相互に独立した状態を組み合わせたものである
    • 必要条件複合説:特定の要素が情動のために必要だが、その要素は情動そのものではない
      • ex. 多次元評価説:認知的評価が情動のために必要だが、それは情動そのものではない
  • 多機能複合説は多数の問題に対して最も明確な答えを出している
    • 情動を形作る複数の要素と思われるものは、実は一つの状態の異なる側面に過ぎない
    • 一方で多要素複合説や必要条件複合説は、何が複数の要素を一つにまとめているかに対して、評価(ラザルス)や行動傾向(フライダ)など中心として要素をまとめる要素を定めている
      • しかしそのような方向性は再び部分の問題を提起する:どれが情動の複数の要素を中心となってまとめているのか?

以降の予告[p. 27]

  • 筆者は部分の問題と多数の問題に対する新しい解決方法を提案する
    • その際に答える10個の問い(と簡単な答え及び扱う章)は以下のようなものである
      1. 情動は必ず認知を含むのか?
        • →持たない(第2章)
      2. 情動が何かを表象するなら、何を表象するのか?
        • 中心的関係テーマ(第3章)
      3. 情動は自然種なのか?
        • →自然種である(第4章)
      4. ある種の情動は普遍的なもので、生物学的な基盤を持つのか?
        • →生物学的に基本的な情動は核として存在する(第5章)
      5. 情動は文化的に決定され得るのか?
        • →情動は一方で社会構成主義的に構成される(第6章)
      6. 情動は他の感情的なものとどう関わるのか?
        • →気分は情動の下位分類である(第9章)
        • →動機づけは情動とは独立の心的状態だが情動は動機を与える(第7章)
      7. 正の情動と負の情動を分けるのはなにか?
        • 意識的な感じでは区別されない(第7章)
      8. 情動的意識の基礎は何か?
        • 情動的意識はその他の意識と統一的に説明できる(第9章)
      9. 情動は知覚の一種なのか?
        • 情動は知覚であり、正確に言えば単なる身体の知覚ではなく、私たちと世界の関係の知覚である(第10章)
      10. 情動は多くの要素的部分を持つのか?
        • 情動は部分の集まりではないという意味で単純だが、複雑な結果と情報処理の役割を持つ(おわりに)

M. Green「フィクションと認識的価値」(2022)論文紹介

Mitchell Green, Fiction and Epistemic Value: State of the Art, The British Journal of Aesthetics, Volume 62, Issue 2, April 2022, Pages 273-289, https://doi.org/10.1093/aesthj/ayac005

論文について

 本論文は2022年にBJAのフィクション特集号に掲載された分析美学におけるフィクションの認知主義に関する最新のサーヴェイ論文である。フィクションから知識は得られるのか、そして得られるとしたらそのような知識はどんな種類のものなのかという問題に関するフィクションの認知主義から、近年のフィクションから得られる認識をより広く「理解」とする新認知主義までを踏まえつつ、「語ること」と「見せること」などの区別を用いてこの分野の全体図を描き出している。

 筆者のミッチェル・グリーンはアメリカのコネチカット大学の哲学科教授。専門は言語哲学、心の哲学、美学。言語哲学や自己知、自己表現に関する著作がある。

アブストラクト(訳)

私たちは、フィクションがそれに対して十分かつ適切に参与する[engage]者に対する認識的価値の源泉となり得るかどうかの問題に関する、近年の目立った研究を批判的にサーヴェイする。そのような認識的価値は(「認知主義者[cognitivists]」にとっては)知識[knowledge]、あるいは(「新認知主義者[neo-cognitivists]」にとっては)理解[understanding]の形を取るかもしれない。どちらの陣営もフィクションの認識的価値を、語り[telling]の形での作者による参与の点から説明するか、あるいは何らかの物事の状況が生じるのを示すこと[showing]を通して説明する主張の間のさらなる区別によって分類されるだろう(後者の特殊な例が自己知の提供である)。語るよりも示すようなフィクション作品はしばしば思考実験を利用する。またある種のフィクション作品の認識的価値はそれらが共感[empathy]を可能にすることによって示され、共感それ自体は経験取得[experiencing-taking]の心理的過程を用いて明らかにされる。フィクション作品が認識的価値を提供するのが語ることによってか示すことによってかのどちらであれ、原則としてフィクション作品は提供するすものについてうまくやり遂げる[deliver on]ことに妨げは無く、そして認識的な注意深さ[vigilance]を持つフィクションの消費者は知識あるいはいくらかの程度の理解を、フィクション作品に参与することによって得られるだろう。

 

1.イントロダクション

 小説や映画、演劇、歌詞のある音楽などのフィクションに関して、その消費者や批評家たちはなんらかの認識的価値(例えばそれらの人々の人生や人間の条件に関する洞察)を持つ。例えばレマルクの小説『西部戦線異状なし』によって、戦争の語り得ない恐怖や、政治家や将校の人間の苦しみへの無関心を学ぶことができるように思えるのだ。またフィクションにおける登場人物と自分との類似性や、物語への自分の反応に着目することで、自分自身について学ぶことができると言う者も居る。またポール・ブルーム流にはフィクションは「現実について学ぶ痛みの無い方法」なのだ。

 しかしそのようなフィクションの認識的価値には疑義が呈されており、それには意味論的なものと語用論的なものがある。意味論的な異論とは、フィクション作品における文の多くが含んでいる名前(「帽子屋」「五月ウサギ」など)は現実世界のなにものも指示せず、よってそのような文は(フィクション作品においては真だが)現実においては真ではないというものである。語用論的な異論とは、作者は(一定の制限の下で)フィクションを作り上げるのであり、私たちはフィクションにおける物事を想像するが、だからといってそれを[現実世界の事実として]学ぶとは言えないというものである。その代わりに私たちはフィクションからその作品世界において何が真であるかや、あるいは作者の精神や制作時の社会状況を学ぶのだ。

 またフィクションの作者の制作に制限があり、それは想像的抵抗とジャンルによる制約の二つである。さらにフィクションの認識的価値に関して、作品世界を可能世界として捉えることで認識的価値を確保する論者も居るが、消費者は物語のテーマが真であるような可能世界が存在すると考えるのではなく、現実世界にそのテーマが通用すると考えているのだという点からそれを否定する。

2.認知主義、新認知主義、そして補助的概念

 まず以下の議論で用いる主要な概念について明らかにする。

フィクション:ノンフィクションが一連の主張[assertion]である一方で、フィクションとはその内容が受け手によって想像あるいはメイクビリーブ[make-believe]されるという目的を持った一連の発話である。フィクションは多くの場合物語を持つが、俳句のような非物語もフィクションになり得る。

ジャンル[1]:歴史小説は扱う時代の知られている事柄を守らなければならないし、小説がメタフィクションであるためには文学形式やストーリーテリング、自身の人工物としてのステータスなどに言及しなければならない。またもし読者が作品がハードSFであると知っているならば、それはその作品で生じる事柄が現実の物理法則と矛盾しないとする根拠になる。

力[force]とフィクション:日常言語において言葉はその叙法[moods]に応じた力を持つ。つまり直説法は主張、命令法は命令の発令、疑問法は疑問を呈するのに用いられる。同様にある種のフィクションは主張を行い、別の作品は命令を行うというように考えられる。教訓的[didactic]フィクションは主張を行い、『ピノキオ』のような警告的[cautionary]なお話しは命令、また他のある種の作品は疑問を提示する。

知ること[knowing]と理解すること[understanding]:フィクションから得られる知識は命題的[propositional]、実践的[practical]あるいは経験的[experiential]な形を取る。命題的知識をXに帰するとき「X knows that…」、実践的知識は「X knows how…[2]」といった形で表すことができる。一方で経験的知識は「X knows how grief feels / what it’s like to be ostracized」などの種の補部[complement]を用いて表される。それぞれ命題的知識は正当化された真なる信念、実践的知識はその人の能力によって達成が可能であること、経験的知識は鮮明かつ正確に(例えば)悲しみを感じるのを想像できることによって説明される。

そして知ることと理解することは認識論において様々な仕方で区別される。Grimmにおいては理解とは事象の原因を知ることであり[3]知識の一種であるが、Elginにおいては理解とは⑴全体論的(一つの命題というより理論全体に関わる)で⑵程度的である(深い理解や浅い理解がある)という特徴づけが為され、知識とは概念的に区別される[4](筆者はElginの定義を採用しているように読める)。

二つの図式的[schematic]テーゼ

 以上の前提を踏まえ、フィクションの認識的価値を擁護する立場について論じる。まず二つの立場について定式化する。

フィクションに関する認知主義(CF):フィクション作品は、それに十分かつ適切に参与する者に対して知識の源泉となり得る。

Cognitivism about Fiction (CF): works of fiction can be sources of knowledge for those who engage fully and appropriately with them.

フィクションに関する新認知主義(NCF):フィクション作品は、それに十分かつ適切に参与する者に対して理解の源泉となり得る。

Neo-Cognitivism about Fiction (NCF): works of fiction can be sources of understanding for those who engage fully and appropriately with them.

ここで両者は作品から得られるものが知識であるか理解であるかで対比されている。以下ではそのような認知主義がどのように擁護し得るかのケーススタディが行われる。

3.語ることと示すこと

 フィクションの認識的価値についてまず私たちが自然と考えるのは、作品が明示的、あるいは暗示的な方法(例えば語用論における前提[presupposition]や含み[implicature]などによって)で示す主張[assertion]やそれに類するものを作中で探す、というものである。明示的な場合には私たちは、作者に帰せられるような語り手や登場人物の主張を見出すことになる。

 しかしフィクションが認識的価値を提示するのは、主張のような発話内行為[illocutionary act]に限られない。つまり地図は何らかの発話内行為を行うわけではないが、目的地への道を知ることができるという意味で認識的価値を持つ。この点について筆者は以下のように語ることと示すことの区別を用いて述べる。

以上の事実に必要なものを提供するために、私たちは分析哲学の基礎を成す著作(Geach 1976[5])の重要点である区別を思い出すだろう。つまりそれは言うことと示すことの区別である。前者のみが発話内行為である[…]。対照的に、地図の例が明らかにしたように、示すことは行為者や人工物が、発話内行為である必要のない仕方で、事実を明らかにすることによって達成されるだろう。[…]私たちの関心に近いところでは、化学者は化学物質C1とC2を混ぜ合わせることによって、どうやって特定の反応Rが生じるのかを実演するかもしれない。そうするときに化学者はC1とC2が一緒にRを生じさせると主張したり他の仕方で発話内行為を遂行したりする必要は無い。よって同様にフィクション作品の作者も、人の持つナルシズムがその人をどのようにして困難に導くかを、作品の(居るとして)語り手や登場人物の発話が何であれこの[主張などの]主旨で発話内行為を遂行すること無しに、示すかもしれない。

To accommodate this fact, we may recall the distinction, a lynchpin in the foundational works of analytic philosophy (Geach, 1976), between saying and showing: only the former is an illocutionary act […]. By contrast, and as the map case establishes, showing may be achieved by virtue of an agent or artefact making a fact manifest in a way that need not be illocutionary. […] Closer to our concerns, a chemist might demonstrate how a certain reaction R works by mixing chemicals C1 and C2. In so doing, she need not assert or otherwise illocute that C1 and C2 jointly produce R. So, too, an author of a fictional work might show how a person’s narcissism leads him into difficulty without the narrator of the work (if there is one) or any characters’ utterances illocuting anything to this effect.

語ることと示すことという区別によって、発話内行為を遂行しない後者によっても何らかの認識を与えることができる。フィクションも同様に、何らかの主張を直接行うこと無しに、認識的価値を持つことができるのだ。

4.(新)認知主義の変種

 この節ではフィクションの認識的価値を擁護する7つの主張を検討する。最初の4つは上での「語ること」によって、残りの3つは「示すこと」によって与えられる認識的価値である。

証言[testimony]

 フィクションにおいて作者は作中においてのみ真であるだけでなく、真面目な主張として意図した言明を行うことがある。例えばE.M.フォースターの小説『ハワーズ・エンド』では「私たちが死を不誠実かつ不条理なものと思ったとき、私たちは既に旅立ちに折り合いをつけるのに成功しているのだ[6]」とあるが、これはフィクションにおける虚構的真理というよりは、(現実で真であることを意図した)主張だというのだ。また筆者は歴史小説によってその時代の習俗について知ったり、戦記物によって地雷の除去方法を学んだりすることを証言の例に挙げる。

 以上のようなフィクションにおける真面目な主張(に見えるもの)については近年議論が行われているという。Currieは主張として受け取られる発話は同時に想像されることはできないと主張し、フィクションが虚構文と主張的文のパッチワークであると主張した。一方でFriendやStockは一つの発話が同時に虚構的かつ主張的であることができると考え、またKripkeとAlwardは上のような文がフィクション作品の中に置かれるとき、それは主張的ではあり得ないと考えた。KripkeやAlwardのような立場においてはフィクションが知識や理解を与えることはできないということになるが、これに対してGarcía-Carpinteroはそのような文を間接的言語行為[indirect speech act]の枠組みで考えることを提案し[7]、Voltoliniは会話の含み[conversational implicature]によって説明できると主張した。以上のようにフィクションが(明示的であれそうでない場合であれ)真面目な現実世界に関する主張を行うかという点には議論があるものの、筆者はそれが可能であると考えているように見受けられる。

寓意[allegory]

 またフィクションの作者は作品から読者がアナロジーによって、作品外世界に関する結論を引き出すように意図することがある。筆者は例としてプラトンの『国家』における洞窟の挿話や『蠅の王』『動物農場』『天路歴程』などを挙げる。しかしこの場合、読者は作者の暗黙の言明に対して、そのアナロジーが本当に適切なものなのかを判断する必要がある。例えば『蠅の王』におけるような出来事(孤島での子どもたちの殺し合い)は起こり得るかもしれないが、それが適切に現実世界における集団心理のダイナミクスの典型となっている[typify]のかを、読者は疑うかもしれないというのだ。よって筆者はこのような寓意はむしろ、現実世界に関する結論を引き出すために、作者の現実世界に対する洞察に頼る必要のあるような証言と見なすべきだと述べる。つまり筆者は寓意によるような認識的価値は、作者が現実世界における物事を適切に認識し、アナロジーを成り立たせる能力があることを必要とすると考えるのだ。

例解的実演[illustrative demonstration]

 ある種のフィクション作品は「Xであるというのはこのようなものである(This is what X is like)」というように要約できたり、そのような要素を含んだりすると筆者は言う。ここでXに入るのはオピオイド中毒で子どもを亡くすことであったり、DVの被害に遭うことであったり、自分の限界を受け入れることであったりする。そのような作品から得られるのは以上のような経験をするのがどのようなことであるのかに関する「理解」であり、その理解がたとえ浅いものであっても、作中の登場人物が様々な状況においてどのように振舞うかや、あるいは現実世界において私たちがその人たちとどう接するかを答えられる限りにおいて認識的達成である。

 しかし一方でGibsonのように、フィクショナルキャラクターにとって「何かを経験するとはどのようなものなのか」ということは厳密には存在しないため、結果としてフィクション作品による例解的実演は認識的価値を持たないという論者も居る。その上で筆者はマーク・ハッドンの『真夜中に犬に起こった奇妙な事件』を例にGibsonに反論する。この小説はクリストファーという自閉症の男の子の視点から語られていることを踏まえて筆者は以下のように述べる。

いくつかの部分では、読者はクリストファーの行動を理解できないと感じるかもしれない。例えば慌てたとき彼はコインをラディエーターに何時間も擦りつけるなどの反復的活動によって自身を落ち着かせる。作者はこの活動がどのようにして主人公を落ち着かせるのかに関する洞察を提供する。そうすることによって作者は、読者にそのような役に立たない行動がクリストファーだけでなく、同じような心理的履歴を持つどんな子どもをも落ち着かせてくれるのかを正しく理解するのを助けてくれるのだ。コインの擦りつけや同様の短い場面は一緒になって、作者が自閉症の子供一般の理解を容易にするのを助けてくれるのであり、クリストファーが虚構的であることはこのプロジェクトの妨げにはならない。

In some passages, readers may find Christopher’s behaviour puzzling. For instance, when upset he will calm himself with a repetitive activity like scraping a coin against a radiator for hours. The author provides insight into how this activity soothes the protagonist. In so doing, he helps us to appreciate how apparently impractical behaviours can be soothing—not just for Christopher but for any child with a similar psychological profile. The coin-scraping and similar vignettes work together to help the author illuminate autistic children generally, and Christopher’s being fictional does not threaten this project. (p. 280)

小説において作者は自閉症児の行動を描写し、それが子ども自身にとってどのような意味を持つのかの洞察[insight]を与えることによって、読者に理解を提供することができる。ただしその上でそのような認識的価値は、作者が自閉症の子どもに関する信頼できる情報源であるかどうかに左右されるとする(実際作者は自閉症の子どもたちと接触している)。結局のところ例解的実演による認識的価値もまた証言に依存しているのだ。

共感的知識/理解

 次にフィクションから他者への共感[empathy]に必要な知識あるいは理解を得られる可能性がある。ここでの共感とは「他人の情動的あるいは経験的状態を鮮明に想像すること[8]」である。例えばJ. ハミルトンの『マップ・オブ・ザ・ワールド』は作品において小さい田舎のコミュニティで排斥される主人公に対して、読者自身はそのような排斥を経験していなくても、排斥される主人公の感覚に共感することを可能にする。そして読者はそこで発揮した技術[skill]を、現実の人間に対して適用することができる。ただし筆者はここでもまた、作品が共感を可能にするような情報を提供し得るかどうかは、作者がそのような情報の提供元として信頼できるかどうかに依存すると述べ、再び証言的モデルの重要性を強調する。

思考実験

 またフィクションが数学や科学、哲学と同様に、私たちの直観に関する示唆を与える思考実験としての側面を持つ。思考実験はそのシナリオからその外の現実世界に関する示唆を生むという点で認識的価値を持つ[9]。その点から言えばフィクション作品も「設定[premise]」を元に作り上げられた一種の思考実験として認識的価値を持つ。また思考実験としてのフィクションが成立するためには、大まかに作品展開が私たちの常識的な民間心理学[folk-psychology](常識心理学)と一致している必要がある。その上でフィクションは非フィクション的な、典型的には条件命題を提示することができるのだ[10]。

 一方でフィクション作品における思考実験による認識的価値は、科学や哲学におけるそれとは異なる独自のものである。つまりフィクションは人間関係を扱い、また語り[narration]における感覚的ディテールや内的独白などによって、登場人物への転移[transportation]や視点の取得[perspective-taking]を通じて、他の分野における思考実験では得られない鮮烈な経験を得ることができる。ここで筆者は転移と視点の取得について以下のように自著を引用する。

転移において、フィクションの消費者は自分の周りの実際の環境において起こっていることのいくらかを無視する程度にまで、自分の活動に没入するのであり、その自動的な情報処理メカニズムの多くはフィクションにおける出来事を現実のものであるかのように扱う[…][11]。視点の取得において主体は「自然と登場人物のアイデンティティを身に付け、その登場人物の思考や感情をシミュレーションする想像的プロセス」を遂行する[…]。

In transportation, consumers of fiction become absorbed in their activity to the point of neglecting some of what is occurring in their actual environment, and many of their automatic information-processing mechanisms treat events in the fiction as if they are real […]. In perspective taking, subjects undergo ‘the imaginative process of spontaneously assuming the identity of a character and simulating that character’s thoughts and emotions’ […]. (pp. 282-3)

以上のような作品鑑賞における転移や視点の取得などの特殊なプロセスによって、読者は現実の人々への共苦[compassion]を経験する。その結果として読者は、トロッコ問題で犠牲になる側の人々に共苦を感じることで自身の帰結主義的なコミットメントを考え直したり、自分とは異なる政治的・倫理的感受性を持つ人々の視点を真剣に考えるようになったりするのであり、それは哲学的な思考実験では困難なものである。

概念的革新[conceptual innovation]

 フィクションは「何が可能であるか」を教えてくれるものだとする研究を筆者は三つ挙げる。まずLewisはフィクションが、例えば「貧乏[poverty]」と「気高さ[dignity]」などの二つの(通常は共存しない)性質が、ある一人の個人において共存し得ることをフィクションから学べると言う。これに対して筆者は、確かにその二つの性質は共存可能だが、Lewisはフィクションがどうやってそれを示すのかを全く明らかにしていないと批判する。

 またJohnはグレース・ペイリーの小説を例に「幸福な人生を送れたらと望むが、そのような人生は自分には不可能だと考える主人公」を描写することによって、そのような望みが可能であるかについて、あるいは行為に関係する欲望の意味に関して読者に問いを投げかける。筆者はこの議論を説得的としつつも、フィクションはそこで知識の源泉というよりも探求の契機に過ぎないと述べる。

 また筆者は自著を引用しつつ、ベルンハルト・シュリンクの『愛を読む人』などにおいて、作品は「おぞましい行為の犯人でありながら誰かに愛されるに値する人[12]」"といった人物が可能であることを示していると述べる。

自己知識/理解

 自己知に関しては既に思考実験の箇所において論じていると筆者は述べる。つまり思考実験としてのフィクションは、私たちの物理学や人間心理に関するコミットメントから示唆を引き出すのであって、そのときフィクションは私たちのコミットメントやさらには自分自身について知ることになる。

 また作品に対する自分の反応に気づくことが、自己に関する知識や理解を与えてくれる事例が存在する。例えばある作品で自分が洗練された人物よりも謙虚で直截な登場人物を好むことに気づくとき、自分がそのような性質を重視していることに気づくかもしれない。また読者がある登場人物がある仕方で振舞うことを期待しているときに、作品内でそうならなかった場合などには、その際に感じる驚きなどによって自らの持つ期待だけでなく偏見などを知ることができるのだ。

 一方でGibsonはフィクションが自己知を提供することを否定する。彼はフィクションの提供する認識的価値は作品それ自体に中に見出されなければならないと述べ、フィクションが私=読者についてのものでない以上、そこから自己知は得られないと主張する。これに対して筆者は、フィクションがある個人としての読者に関連することはほとんど無いが、一方で「作品の消費者」としての読者に関しては、作者は常にそのような読者に作品の反応から自己知を得ることを意図していると筆者は述べる。

 以上のように筆者は証言[testimony]、ひいては語ること[telling]に依拠した認識的価値(証言、寓意、例解的実演、共感的知識/理解)及び示すこと[showing]に依拠したもの(思考実験、概念的革新、自己知/理解)の7つの種類の認識的価値について述べた。フィクション作品では大抵の場合、それらの一つが単独で提示されるよりは、複数が組み合わされている。

5.(新)認知主義への異議

 最後の節で筆者は以上で述べたようなフィクションの認識論的価値への異議を紹介する。筆者によればそのような主張は以下の二つの疑問に分けられる。

⑴フィクションの作者はストーリーの主題に関する権威[authority]をもって語っているのか?

(i) do authors of fiction speak with authority about the topics of their stories [?]

⑵もしそうだとしても、その受け手はどの虚構的表象が事実的に正しいことを意図されていて、どれがそうでないかを見分けることができるのか?

(ii) even if they do, are their audiences able to tell which fictional representations are intended to be factually correct and which are not? (p. 285)

ここで筆者はかつてのスパイやジャーナリスト、医療従事者などがフィクションに従事した十分に証拠のある[well documented]ケースを参考に、⑴については不問とし、⑵に焦点を絞る。

 実のところフィクションの読者は作品から誤った知識を得がちであることはいくつかの実験によって統計的に明らかにされている。ストーリーを読んでもらってから一般常識のテストを解いてもらう実験に関する論文によれば、そこでは被験者たちがストーリーから正しい情報と同じ程度間違った情報を得てしまっている[13]。

 筆者は以上の問題に対して二つの点から反論を試みる。一つ目は「フィクションの消費者の中には他よりも、正確な表象として意図された記述や出来事をそうでないものから区別することに熟達した者が存在する[14]」というものである。これは注4の徳認識論の議論の応用と言える。この点に関連してジャンルに精通する経験からフィクションの認識的価値を擁護するFriend (2014)の議論を筆者は以下のように紹介する。

その[ジャンルに精通するという]経験は、多くの場合フィクション作品の前景と後景を区別する能力をもたらすと彼女は記す。前者はプロットやサブプロット、登場人物の展開などを含み、後者はその中でストーリーが進行する世界の設定として機能する傾向があり、こちらがより証言の源泉となりやすい。そのような熟練した読者が居るかどうかは経験的な問題であり、実験の対象である。

That experience, she notes, typically carries with it an ability to distinguish between foreground and background aspects of a fiction; it is the former that will include plot, any subplots, and character development, while the latter tends to function as the worldly setting in which the story unfolds and is the more likely source of testimony. Whether there are such adept readers is an empirical question subject to experiment. (p. 285)

作品が分類されるジャンルに精通していることで、そのジャンルの作品を鑑賞する際に読者は作品の「前景」と「後景」を区別できるようになるとフレンドは述べる。それによってその作品が証言としての役割を果たしている「後景」が作品の中のどの部分なのかを読者は理解できると言うのだ。

 筆者が二つ目に挙げるのは、現代ではフィクション内の情報の真偽をオンラインの情報を用いて比較的容易に判断可能であるという事実である。これによって読者はフィクションから正確な情報を得られるようになっていることを実証した実験[15]があるだけでなく、筆者はそのような読者を念頭に置いた作者がより作中の事実について気に掛けるようになるとすら述べる。

 最後に筆者は思考実験としてのフィクションの認識論的価値に関する楽観主義をたしなめるCurrie (2020)の主張を検討する。まず彼は認識論的価値を持つとされる科学的・哲学的思考実験は短く単純なものであり、それこそが読者の反応を収束[convergent]させるが、(新)認知主義者たちの持ち出すフィクションは極めて長大で複雑であり認識的価値に関して同一視はできないと主張する。これに対して筆者は思考実験の側面を持つフィクションの中には禅の公案のように極めて短くかつ力強いものがあり、また短編などはありふれていると述べる。また長編について言えば、それらは確かに短編とは認識的価値に関して異なるが、それは長編が転移や経験取得などの方法を用いるために全体論的な性格を持っており、(短編が知識を与えるのに対して)理解を与えるという点で異なるのだとして、認識的価値を擁護する。

 一方でカリーは科学や哲学の思考実験の認識論的価値を保証しているのは査読による出版の制度的実践や学術会議などであり、同様の構造はフィクションには見出せないと主張する。これに対して筆者はフィクションにおける思考実験は私たちの常識心理学(あるいは常識物理学)によって支えられており、その点でそのような制度的構造は不要であると主張する。またフィクションに関するレビューや批評の文化もまた、受け手がフィクションに対して適切な反応をする助けになると筆者は述べるのだ。

コメント

 筆者の主張で注目すべきは、フィクションの認知主義において作者の明示的・暗示的な現実世界に関する主張としての「証言」を重視する点である。筆者によれば証言はいくつかあり得るフィクションの認識論的価値の一つであるだけでなく、他のあり得るモデルを基礎づける役割を持っているのであり、現在の新認知主義などでは軽視されがちな証言の役割を強調する意義がある。しかしそのような証言の重視が、フィクションの認識論的価値を一見トリヴィアルなもののように見せてしまっているのではないか。実際のところフィクションから筆者の主張を通して命題的知識を学ぶことはそうないだろうし、それに関しては歴史や科学の教科書、あるいは哲学の論文の方が適しているだろう。この論文ではフィクションから認識論的価値を引き出すことに躍起になりすぎて、フィクションだからこそ与えられる知識や理解、あるいはそれを可能にするフィクションの特性への目配りが足りないように感じる。私としてはフィクションならではの認識論的価値とは、他者に対する何らかの理解(能力)の向上にあると考える。その点では本文では紙幅の割かれなかった「共感的知識/理解」の方向性に望みがあるだろう。

 

[1] ここで筆者が述べているのは、大まかに言えば虚構的真理(何がその作品において成り立っているか)をジャンルが決定するということであり、また受け手はジャンルを根拠に作中の虚構的真理を類推しても良いということである。ジャンルと虚構的真理の関係はCatharine Abell (2020) Fiction: A Philosophical Analysis. Oxford UP.やLiao, Shen-yi (2016). Imaginative Resistance, Narrative Engagement, Genre. Res Philosophica 93 (2):461-482.に詳しい。

[2] 例えばShe knows how to console someone who has lost a life partner.

[3] 例えば私たちは「コレラが危険である」ことを知っているかもしれないが、それを理解していると言えるのは、コレラが危険である原因(つまりそれが深刻な脱水症状を起こすこと)を知っているときに限る。

[4] この「知ることと理解すること」の項に関しては、他にも徳認識論のbarn façadeの議論を背景にしたフィクションから得られる知識の主体相対性(つまり主体に何らかの認識論的徳[epistemic virtue]がある場合にのみフィクションから知識が得られる)についても言及があるが、省略した。Barn façadeの議論についてはhttps://plato.stanford.edu/entries/knowledge-analysis/#FakeBarnCaseを参照。徳認識論については植原亮による日本語のサーヴェイ(https://updatingphilosophyofai.net/resources/virtue_epistemology/)などがある。

[5] Geach, P. (1976). ‘Saying and showing in Frege and Wittgenstein’, in Hintikka, J. (ed.), Essays on Wittgenstein in Honor of G.H. von Wright. Acta Philosophica Fennica, 28, pp. 54–70.

[6] ‘When we think the dead both treacherous and absurd, we have gone far towards reconciling ourselves to their departure’ (p.279)

[7] この説明として本文では以下のような文がある: “such as occurs when one speaker, remarking that another person is standing in her way, thereby asks that person to move” (p.279)日本語でよりわかりやすい例を考えるなら、窓を開けてもらうために「この部屋暑いですね」と言うことなどが挙げられるだろう。

[8] “vividly imagining another’s affective or experiential state” (p. 281)

[9] 例えば認識論におけるゲティエの知識概念の分析や、ガリレオが物体の落下速度は大きさによって定まらないことを示したことを筆者は念頭に置いている。

[10] 例えばE.M.フォースターの『インドへの道』においては「もし人間の動機と行動に関する私たちの想定が正確ならば、植民者は被植民者と真の友情を結ぶことはできない」といった命題を真にすると筆者は述べる。

[11] ここで筆者はそのような転移のプロセスが、実のところフィクション作品に限られずノンフィクションの(物語)作品においても同程度に生じることが経験科学による研究で明らかになっていることに触れる。

[12] “a person can be both a perpetrator of heinous acts and merit someone’s love” (p. 283)

[13] Butler, A., Dennis, M. and Marsh, E. (2012). ‘Inferring facts from fiction: reading correct and incorrect information affects memory for related information’. Memory, 20, pp. 487–498.及びRapp, D. N. (2016). ‘The consequences of reading inaccurate information’. Current Directions in Psychological Science, 25, pp. 281–285.

[14] “[S]ome consumers of fiction are more adept than others at distinguishing those descriptions or doings intended to be accurate representations from other” (p. 285)

[15] Donovan, A. and Rapp, D. (2020).  ‘Look it up: online search reduces the problematic effect of exposure to inaccuracies’. Memory and Cognition, 48, pp. 1128–1145.

G.ドウォーキンのパターナリズム概念とその教育における応用

必要があって教育におけるパターナリズムについて少し勉強したので、具体的な架空の事例を用いて自分の理解をまとめてみた。

 

 

1. はじめに

 この記事では進路指導における生徒の選択への干渉について、ある生徒の進路指導を巡る二人の教師の架空の対話を例に検討する。あとで述べるように、そのような対象の意に反した行為への干渉は一般に「パターナリズム」と呼ばれる。ただし私はここで教育における生徒への干渉はどのようなものがどこまで許されるのかという問題に答えを出すことは試みない。本記事はそのような問題を考える哲学的な基礎づけについてのものであり、その目的は教育における生徒のための干渉とは何であるかを明確化し、それに関する議論を行う際の理論的土台を提供することである[1]。そしてその際にはアメリカの哲学者ジェラルド・ドウォーキン(Gerald Dworkin, 1937~)の議論を参照する。しかしまずはパターナリズムとは何かに関して述べる必要がある。

 現代において個人の自由や自律が重要であることは、あまりにも当然すぎて意識されないほど受け入れられた社会的前提である。私が昼食にラーメンではなくカレーを食べようとしたときに、誰であれ私に「あなたはラーメンを食べなさい」と命令することは不当であり、もしそうでないと言うならば正当化や根拠の提示が必要となる。それは私が自由で自律した個人だからである。しかし一方で、そのような個人の行為への干渉が正当化されるような場合ももちろん存在する。例えば赤ちゃんが熱い石油ストーブに触れようとするとき、親が赤ちゃんを危険から守るためにそれを止めることは正しいこととされるだろう。そのような対象の利益のための行為への干渉は、哲学や法学や社会学、あるいは教育学などの広い分野で一般的にパターナリズム(父権主義、paternalism)と呼ばれる[2]。言い換えればパターナリズムとは、対象のためを思って、その人の行為に干渉し、あることをさせたりさせなかったりすることである。

 以上のような定義から推察される通り、教育とは本質的にパターナリスティックな側面を持つとされる[3]。というのも教育においては子どものために、子どもの行為に介入することがしばしば必要とされるからである。例えば学校において算数を勉強したくないという子どもに対して「じゃあやらなくて良いよ」と言ってしまうのは問題があり、あの手この手でその子どもに算数を勉強してもらうことが必要とされる。しかし一方で他の領域においてと同様、そのような行為への干渉が許される条件や度合いは確かに存在するように思われる。例えば子どもが勉強に集中するために(それが効果的であるにしても)その子どもを椅子に縛り付けるのは行き過ぎているとされるだろう。

 以下で示すように、そのような議論はむしろ教師間の話し合いにおいて役立つかもしれない。ある教師がある生徒指導の事案においてある種のパターナリズムに基づいて反対し、別の教師が別の種類のパターナリズムに基づいて賛成するとき、両者の議論はすれ違っている。そこでの真っ当な話し合いのためには、哲学的な立場のすり合わせが必要不可欠である。以下では二人の教師の架空の対話を題材に、進路指導におけるパターナリズムについて検討する。

 

2.  対話篇

 ある高校の進路指導担当の二人の教師、岡本先生と田中先生は、高校3年生のある生徒、山本君の提出した進路希望調査書を前にして頭を抱えていた。

 

岡本「YouTuber、ですか…」

田中「実は数年前から活動を始めていて、登録者数もそれなりに多いらしいですよ」

岡本「どんな動画をアップロードしているんでしょうか?」

田中「他の生徒にチャンネルを教えてもらいましたよ、これです」

――岡本先生と田中先生、山本君が音楽に合わせてかわいい踊りを踊る動画を鑑賞する

田中「大学に進学せず、こういう動画をみんなに見てもらって生きていきたいそうです」

岡本「うーんなるほど…」

田中「いやはやまったく…」

岡本「お気持ちはわかります。そんな馬鹿げたこと、進路指導担当としては許せませんよね」

田中「え!いや実はそれも結構面白いんじゃないかと考えていたのですが…」

岡本「えぇ!嘘でしょう!絶対やめさせるべきですよ!炎上したらどうするんですか。そもそも山本君は動画サイトからの収入のみで生活できている配信者がどれだけ少ないかを知らないんじゃないでしょうか。だからYouTuberになろうなんて言うんですよ」

田中「いや、彼なりに考えているみたいなんですよ。実はさっき山本に廊下で少し話を聞いたんです。彼はYouTuberの報酬の内実や課税制度まで調べ尽くしていて、少なくとも向こう数年の収入の予測まで立ててるんですよ。将来はとりあえず大企業とか言ってる子よりも、ずっと未来のことを考えていると思いませんか?」

岡本「なるほど…。いやいやいや、いくら山本がYouTuber事情に詳しいからって、進路としてYouTuberはあり得ませんよ。そもそも志望理由にはなんて書いてあるんですか?有名になりたいから、とかでしょう?」

田中「面白いことをしてみんなを笑顔にしたいから、だそうです。本人は、自分は勉強もスポーツもできなくて、でも面白い動画を作る才能はあるのでこれしかないと思っている、と言っていますね」

岡本「……」

田中「立派じゃないですか。もちろん彼の目的を実現する手段が他にあるなら別ですよ?お笑い芸人とか…。でも今からゼロからお笑い芸人を目指すのと、すでにある程度基盤のある動画配信でやっていくのなら、YouTuberの方が見込みがありませんか?」

岡本「いやあ、どうでしょうかね。そもそも面白いことをしてみんなを笑顔にしたい、というのは少なくとも進路選択の理由としてはあんまり良くないんじゃないですか?もちろんお笑い芸人の身さんは立派で尊敬もしてますがね…。人を笑わせる以外にも山本がやるべきことは色々ありますよ」

田中「しかし本人がそれをやりたいって言ってるんですよ」

岡本「田中先生は本人がやりたいと言ったらなんでも許すんですか?ヤクザの舎弟になりたいって生徒が居たらどうするんですか」

田中「うーん…。本人の目標達成を最大限手助けするのが教師の役割だと思いませんか?もしそれが間違ったものであっても、ある程度までは許容して、そこでの失敗を受け入れるのが教師ってもんじゃないですかね」

岡本「どうでしょうか。教師の役割は生徒がより良い人格を得る手助けすることではありませんか?」

田中「そうですか。なんだか話がかみ合っていない気がしています。岡本先生は結局、なぜ山本がYouTuberになるのに反対なんですかね」

岡本「うーん根本的に考えてみれば、YouTuberという職業はモラルに反している気がしませんか?再生数を稼ぐために過激なことをして、注目を集めて、あぶく銭を稼ぐ。良くないと思います」

田中「それは岡本先生の価値基準ですよね。私たち教師が口を出すべきなのは、あくまで山本君の幸福に資するかどうかじゃないですか?YouTuberになれば彼は自己実現できて、お金も稼げる。今ではYouTuberも一つのキャリアとして認められつつありますから、そこから就職などにつながるかもしれない」

岡本「どうでしょうね。そうは言っても田中先生にも価値観はあるわけでしょう」

田中「もちろんありますが、それは生徒の選択に介入する理由にはならないと思っています」

岡本「それは、ちょっと強い言い方になりますが、無責任ではないですか?自分の信じていない価値観に従って生徒を指導するんですか?」

田中「それとこれは話が別であって…。ちょっと話が逸れてきましたね。これ以上二人で話し合っても結論が出ない気がしてきました。今度の職員会議で話し合うのはどうでしょうか」

岡本「そうですね。すみませんちょっと熱くなってしまって。私も山本君のためを思って色々考えているんです」

田中「私もです。では今日はこのくらいにしておきましょう」

 

3. パターナリズム概念の分類

 以上の岡本先生と田中先生の対話は山本君の選択(YouTuberになりたい!)に対する干渉を巡るものであり、パターナリズムの是非に関するものになっている。しかし両者が互いへの尊敬と善意、そして山本君への思いやりを共有しているにもかかわらず、対話は有意義なものにはなっておらず、二人とも相手を説得することも、説得されることにも失敗している。それは両者がお互いの主張の哲学的前提を共有していないからである。その点を明らかにするために、以下ではスタンフォード哲学事典におけるG. ドウォーキンのパターナリズム概念の分析[4]を紹介する。

 

3.1. ハードなパターナリズムとソフトなパターナリズム

 ドウォーキンはまず、パターナリズムをハードなものとソフトなものに分けている。

 

  • ソフトなパターナリズム:本人の知識の不足を根拠としてのみ、その人の行為への干渉を許す。
  • ハードなパターナリズム:本人が十分な知識を持っていても、その人の行為への干渉を正当化する。

 

両者の区別をドウォーキンは壊れた橋の例で説明している。つまり壊れた橋を渡ろうとする人がいた場合、ソフトなパターナリストは本人が「橋が壊れている」という事実を知らない場合に限ってその人を止める。しかし当人がそれを知りつつ河に飛び込もうとしている場合、止めることはない。一方でハードなパターナリストは橋が壊れていることを当人が把握していても、当人の危険な行為を止めることを正当化する。例えば覚醒剤の使用などにおいては、通常ハードなパターナリズムが採用される。当人がいくらその害について知悉していたとしても、その使用は許されないだろう。

 

3.2.弱いパターナリズムと強いパターナリズム

 またドウォーキンはパターナリズムを弱いものと強いものに分けている。

 

  • 弱いパターナリズム:本人の目的に合致する限りで、その手段の選択への干渉が許される
  • 強いパターナリズム:誤った・非合理な目的を持つことは十分あるので、目的そのものに干渉することが許される

 

両者の区別をドウォーキンはオートバイのドライバーに対するヘルメット着用の義務付けの例で説明している。ドライバーが頭で風を感じる快適さよりも安全性を望む限りにおいて、ヘルメットの着用を義務付けられるというのが弱いパターナリズムの立場である。一方でドライバーが快適さを望むにせよ、ヘルメットの着用を義務付けるべきとするならば、その人は強いパターナリストである。

 少なくとも日本においては、ヘルメットの着用については強いパターナリズムが認められている。しかし飲酒や喫煙に関しては弱いパターナリズムが認められている。例えば依存症患者が禁酒したいという本人の目的に合致する限りで、入院などの措置によってアルコールから距離を置くことを強制することが認められる。

 

3.3. 道徳的パターナリズムと福祉的パターナリズム

 さらにドウォーキンはパターナリズムを道徳的なものと福祉的なものに分けている。

 

  • 道徳的パターナリズム:干渉の目的が対象の道徳的性格を守ることにある
    • さらに道徳的性格と幸福の向上を根拠にする立場と、その人をより良い人(≠幸福な人)にすることを根拠にする立場に分かれる
  • 福祉的パターナリズム:干渉の目的が、対象の(身体的・心理的)幸福の増進にある

 

 ドウォーキンは両者の区別を売春の法規制を例に説明している。売春が安全であり十分な報酬が得られる限りにおいて、福祉的パターナリストはそれを許容する。一方で道徳的パターナリストは同じ条件でも売春が当事者の道徳的堕落につながるとして規制を求める。

 

3.4.物別れの原因

 ここまでで私たちはパターナリズムに関する記述的な分析を見てきた。これらの分類によって、田中先生と岡本先生がパターナリズムに関して対照的な立場を採っていることが明らかになった。

 まずソフト/ハードの区別に関しては、田中先生はソフトなパターナリズム、岡本先生はハードなパターナリズムの立場を採っていると言える。つまり田中先生は山本君がYouTuber稼業に関する十分な知識を持っていることを根拠に干渉しないことを主張し、岡本先生は山本君の知識に関係なく干渉するよう主張するのだ。次に弱い/強いの区別に関しては、先の対話で田中先生は弱いパターナリストであり、岡本先生は強いパターナリストである。田中先生は山本君の(YouTuberになりたい、あるいはより一般的に面白いことをして人を笑顔にしたいという)目的と合致する限りでの手段に対する干渉を認めるのに対して、岡本先生は山本君の目的それ自体への干渉を正当化するためである。最後に道徳的/福祉的の区別に関しては、先の対話において田中先生は福祉的パターナリストであり、岡本先生は道徳的パターナリストである。岡本先生が山本君の道徳的性格の向上を目指すのに対して、田中先生はあくまで山本君の身体的・心理的幸福及び利益を増進させることを目指しているからだ[5]。

 これによって二人の対話が物別れに終わってしまった理由も今や明らかになった。両者はパターナリズムに関する前提を共有しないまま議論を進めており、しかもその前提が食い違ってしまっているのだ。二人がするべきだったのは、山本君に対してどうするべきかについて話し合う前に、進路指導において教師はどの立場のパターナリズムを取るべきかの確認であっただろう。

 

4.おわりに

 以上の記述的分析から直接的に規範的主張を導くことはできない。またパターナリズムのそれぞれの立場(ソフト/ハード、弱い/強い、道徳的/福祉的)のどちらが正しい(あるいはどちらも間違っている)ということを一律に決定することもできない。結局のところどのパターナリズムが良いのかは、文脈に依存するからである。

 しかし以上の分析を経ることで、少なくとも今回の文脈において山本君の進路指導をどうするべきかの見通しを得られることも確かである。つまり教育における進路指導という文脈から、いずれのパターナリズムがより適当であるかは言えるのではないか。経験に乏しい子どもであるところの山本君に対しては、まずはソフトなパターナリズムに基づいた干渉が適当だろう。山本君は確かにYouTuber稼業に関しては十分知識を持っているかもしれないが、「面白いことをして人を笑わせる」ことを仕事にするその他の職業について十分知識を持っているとは言い難い。メディア産業やあるいは趣味としての落語やお笑いなどの道を示すことも十分考えられる。次に強い/弱いパターナリズムに関しては、山本君の目的がそもそも何であるかをより深く掘り下げることが可能である。確かに彼は高校生にしては明確な目的意識を持っているが、その背後により深い彼の欲求や願望が隠れているかもしれない。理想としてはそれを対話によって引き出すことが教師の役割である。最後に山本君への干渉の目的が、道徳的なものなのか福祉的なものなのかを教師が自覚することは重要である。進路指導の場面では、教師が自らのバイアスに自覚的になり、できるだけフラットな目線で生徒の選択を見守るべきだろう[6]。しかし一方で生徒指導において教師が自らの道徳的価値観を丸ごと捨て去ってしまって良いというわけではない。ある場面においては市民としての自己の道徳判断と、教師としての自己が葛藤を起こすかもしれない。しかしそれは必要な葛藤なのだ。

 最後に付け加えておけば、教育におけるパターナリズムという論点に関しては、山梨(2014)の述べるように、子どもがJ. S. ミルの言うところの「最後の判断を下す者」として発達することを目指すという観点も必要である(170)。通常のパターナリズムは十分な理性的判断力を持った成人を念頭に置くが、子どもに対するパターナリズムは、それによってむしろ子どもが最終の判断を最良の形で行うことが将来的にできるような干渉であるべきだ。そのような本人の目的の形成を含めた発達を助けるようなパターナリズムこそ、真に「生徒のためを考えた」パターナリズムである。

 

文献一覧

Dworkin, Gerald, "Paternalism", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Fall 2020 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = <https://plato.stanford.edu/archives/fall2020/entries/paternalism/>.

山梨八重子(2014)「教育におけるパターナリズム正当化の根拠の一考察」『先端倫理研究』第8号、153-173頁。

 

[1] そのような議論は無味乾燥でつまらないものかもしれない。多くの場合は論じられている事柄が当たり前すぎて、議論の必要性は感じられないのだ。しかし一方で哲学的な議論が必要なときには、すでにその人は概念的混乱のただ中にあり、それにどうやって対処すれば良いのかはもちろん、問題がどこにあるのかすらわからなくなっている。

[2] 後で紹介するG. ドウォーキン(2020)はパターナリズムを以下のように定義する:「パターナリズムとは、国家や個人が他人の意思に反して干渉することであり、干渉された人がより良い生活を送れるようになる、あるいは危害から守られるという主張によって擁護されたり、動機づけられたりするものである」。

[3] 山梨(2014)は「一般的な認識」として教育がパターナリスティックな側面を持つと述べる一方で、それが近代教育の拠って立つ「個人の自律・自由」を尊重するリベラルな価値観と対立し得ると述べ、だからこそ教育におけるパターナリズムには正当化が必要だと述べる(153)。

[4] https://plato.stanford.edu/entries/paternalism/

[5] 今回の例では岡本先生の側につく人は少ないかもしれない。しかし山本君がその極右的な信念から国内からの外国人の排斥を目指す場合はどうだろうか。いくらそれが彼の幸福につながるからと言って、それを許す人は少ないのではないか。その場合そのようなパターナリズムは道徳的なものである。

[6] 悪しきゼロトレランスに全力投球してしまう教師は、特に道徳的パターナリズムに偏ってしまっている。そこに欠けているのは生徒の福利を尊重する態度である。

Richard Moran 「想像における感情(feeling)の表現」(1994) レジュメ

Moran, Richard. “The Expression of Feeling in Imagination.” The Philosophical Review 103, no. 1 (1994): 75–106. https://doi.org/10.2307/2185873. https://www.jstor.org/stable/2185873

 

ウォルトンのごっこ遊び理論を想像力概念の観点から批判する論文。Blackwellの美学アンソロジー*1にも収録されているので重要論文と言えそう。また「想像的抵抗imaginative resistance」という言葉を用いた初めての論文でもあります。レジュメを作ったのが4年くらい前で今見ると意味不明なところが多いですが、ひとまず公開してあとで直します。

1.

 

  • フィクションにおける情動の理論は、ウォルトンの「ごっこ遊び理論」が中心的である
    • フィクションにおいては、小道具を用いた「ごっこ遊び」の中で、種々の命題(「マクベスがダンカンを殺した」など)が虚構的真理として想像されるという理論
    • ただ問題はウォルトンが、「自分が今恐怖を感じている」などの想像者の情動に関する命題も、ごっこ遊びの中の虚構的真理であるとしたことであり、それが現実に存在する対象に対する、現実の情動と区別されるとしたこと

 

  • しかしその区別は本当に有効だろうか
    • 現実の情動においても、「起きたかもしれないが起きなかったこと」「状況が違えばやったかもしれないこと」などに対する情動は、現実の対象に対する情動なのだろうか
    • 映画において感じる恐怖と、何年も昔の出来事に対して感じる恐怖は、恐怖の対象が現前しているわけではないという意味で同じ
    • 実際のところ、情動はほとんど今・ここに関わるものではないのだ

 

  • 情動の現実性actualityと虚構性fictionalityは、違いを生まない
    • むしろ情動そのものが、様々な差異を持つと考えた方が良い

 

  • またウォルトンの例では、映画のモンスターが観者の方に向かってくる
    • では映画のモンスターが登場人物の方に向かって行く場合はどうだろうか。むしろそちらの方が一般的ではないか
    • この場合、比較されるべきは、現実においてモンスターが他人を襲う場合である。
    • その場合に感じる情動は、フィクションの場合と同じではないか

             

 

2.

 

  • そもそも情動も、より{判断に結びついている/対象を必要とする/社会的に構築されている/恣意的に涵養されている/受動的に伝染する}など多様であるので、それが自然種であり「虚構における情動」という一般問題があるのかすら疑わしい
    • また多様であるだけでなく、情動同士の境界の曖昧さという事実も、問題の一般性を疑わせる
    • 例えば問題の外側に置かれる「驚き」と、典型的なパラドックスの例である「あわれみ」「おそれ」などは連続している

 

  • 作品の利用する情動は、読者における源泉や方向付けの種類、情動を喚起するものとの結びつきにおいても異なる
    • 非具象的でごっこ遊びによって真にすべきシナリオを持たない作品(絵画や音楽)に対しても、私たちは情動的に反応出来るのだから、情動的に参与出来る作品とそうでない作品の違いは、ごっこ遊びや虚構的真理の生成の適切性aptnessの問題ではなく、もっと他の特徴に起因する

 

  • フィクションにまつわるパラドックスは、情動の源泉や側面を、模倣的mimetic特徴に関係するそれから切り離すことで作られる
    • すなわち問題は、虚構性(に気づくこと)が、いかに純粋な情動的態度と両立し得るか、という点にあるとされる
      • …つまり「虚構であるにも関わらず、どうやって情動的に反応可能なのか」という形で問われる
    • これは言い換えれば、(現実の情動では存在しない)人工性artificialityは情動的参与を妨げるという考えにつながっている(ゴッホの《星月夜》の筆触が参与を妨げるとウォルトンは主張)

 

  • しかし、実際にはそのような虚構世界のリアルな提示から注意を逸らすそのような特徴(人工性)こそが、情動的参与を妨げず強化するように思われる
    • もしゴッホが《星月夜》の筆触を除去したとして、作品がより参与しやすくなるengagingことはないだろう。同様に、『マクベス』における台詞まわしが「人工的で、修辞的で、自己言及的」であることは、作品に心を掴まれることに干渉しない
    • 虚構世界を破壊disruptする表現的性質こそが、作品に対する心理的参加psychological participationの中心にあるのではないか
      • しかしそれを虚構的真理の想像や虚構世界や、それに対する鑑賞者の関係から説明することは出来ない

 

  • 試しに、同じ虚構世界(虚構的真理)を異なる仕方で提示することを考えてみる。
    • 例えば、それらが全て恐ろしいことの表象だとして、それでも実際に恐怖を引き起こすのはそれらの内の一部でしかないだろう(単なる要約や医学的・軍事的記述は情動を引き起こさない)
    • 同じ虚構世界を提示しているが、情動を引き起こす表象と、引き起こさない表象の違いを生み出すのは何だろうか?
      • 今まではそれを、受け手の「自分が見ているものが現実にそこにある」と感じるリアリズム的感覚の問題としてきた(特に映画において)

 

  • 作品への情動的参与に関係するのは、ほのめかし、リズム、繰り返し、調和、不協和allusion, rhythm, repetition, assonance, and dissonanceなどの、「私たちが読んだり聞いたりするものを、私たちが現実であるとごっこ遊びし得る何か、あるいは何であれ真の記録から、遠ざけるmake … less likeすべての要素」である
    • それらのレトリックは、それ自体が虚構世界において真であるという信念も、ごっこ遊びも必要としない

 

  • そのような作品の表現的性質は、虚構的真理の生成に貢献せず、むしろ虚構世界の一部として想像することが不可能な要素を導入する
    • たとえばマクベスの劇的なせりふ回しは、人が本当にそのように話すことを想像させるわけではない
    • もしマクベスが普通の言葉遣いをしたなら、作品世界と現実世界の距離は近く、マクベスや彼の心的状態と私たちの距離は遠くなるだろう

 

  • 結局、フィクションにおける情動を、虚構的真理によって理解しようとするのは誤り
    • 言い換えれば、情動的に参与させる表象と、そうでない表象の違いは、虚構的真理の観点からは説明できない
    • 作品の表現的性質の人工性は、虚構的真理を想像することの側から穴埋めされるcompensated for必要はない

 

 

3.

 

  • 虚構的情動において、「想像力imagination」が関与しているのは間違いない。その点で筆者はウォルトンや他の論者に同意する
    • 問題はその「想像力」が、様々な事例において統一的で説明的な意味を持っているのかということ
      • 今まで挙げてきた虚構的情動に関する例における想像力は、何かがそうであると単に想像することや、何かをしたり感じたりすることを想像することにあまり関係がない
    • むしろ私たちが普通考えるところの「想像性imaginativeness」と関わる
      • 様々なもの同士を関係づける能力や、作品のムードや情動的トーンを作り上げる連想のネットワークに気づいたり反応する能力
      • 例えば『マクベス』における無垢と死の連関や、頻出する家事のイメージに気づいたり、修辞的比較における対象や非類似性を鑑賞する能力のこと

 

  • ウォルトンは、想像されることの一部は、想像者自身に向けられる(自己言及的)内容を持つと主張した
    • つまりマクベスの恐怖を想像するのに加え、自分自身が何らかの対応した情動的状態にあると想像している
    • しかしそのような想像者の反応は、上で述べたように、単なる虚構的に真である命題の想像以上のものを必要としていることは明らか
    • そこで(ウォルトン以前の?)哲学者たちは、しばしば「鮮やかさvividness」という概念を、単に何かを虚構的真として受け入れることと、物語に夢中になることの違いを説明するために用いる
      • しかし「鮮やかさ」が虚構的情動とは異なる概念で、それを説明出来るものなのかは明らかでない(循環しているのではないかという疑念?)
      • さらに「鮮やかさ」概念自体がどのようなものかも明らかでない:「鮮やかな記憶」というのは、その人の情動が付与された記憶というよりは、その人の視覚的記憶を指すように思われる
      • しかも視覚的記憶の場合でも、その「鮮やかさ」はイメージの輪郭の明瞭さや色彩の明るさを指すものではない…つまりイメージの現象学的な特徴とは関係が無い

 

  • ウォルトンは情動的参与を、イメージの現象学的内容(vividness)ではなく、命題的内容によって説明しようとした
    • たとえば「私は今恐怖を体験している」という命題が虚構的に真であることによって、情動的参与を説明する
    • これは「鮮やかさ」を「自己言及的命題」によって置換する試みと言えるが、筆者はそれを、「鮮やかさ」以上には想像における情動的参与を説明出来ないとする

 

  • そもそも「鮮やかさ」概念は、情動的参与を伴う想像とそうでない想像の、因果的な違いを説明するためのものだった
    •  ウォルトンは現象的性質ではなく、命題的内容で情動を喚起するか否かを区別しようとした
      • 鮮やかさが何らかの役割を果たすとして、ウォルトンの図式だとそれは因果的に追加の虚構的真理を想像させることになる

      • しかし「月がチーズで出来ている」とか「誰かが怖がっている」という命題の想像にはそれ以上の因果的条件が必要ないのに、「私が感情を感じている」という命題の想像は因果的条件を要求するのはおかしい

      • ウォルトンは、「鮮やかさ」は単に(自己言及的命題の)虚構的真理を追加するだけと考えるが、モランはそもそもそれが何故可能なのかと問う

 

  • 表象が「鮮やか」であるとは、心に、関連付けや対照、考えの呼び込みなどの様々な活動を引き起こさせるということであり、想像者に追加の虚構的真を想像させることではない
    • つまり「鮮やかさ」や情動的参与は、想像される「内容content」の一部というよりかは、想像の「仕方manner」の側面である
    • もし情動的参与を虚構的真理(想像される内容)によって説明しようとすると、「『私は恐怖を抱いている』と非‐情動的にdispassionately想像する」と「私はそれをフィクションに『夢中になるswept up』ことの一部として想像する」ことの違いを説明できない(?)

 

  • 何かが真であると想像しながらも、自分がそれを信じていないように想像することは可能
    • 逆に、何かが虚構世界において偽であると理解しながらも、それが真であると想像することは可能
    • このように、物事の状態と、それに対する信念とは、区別される独立した想像の中身・内容

 

  • そもそも情動的想像力においては、何が作品世界において真であるかと、想像者が想像的に参加する心的状態の違いを認識することが、本質的に必要とされる
    • 例えば悲劇のアイロニー:主人公の真実を知らない心的状態への参加と、主人公の認識と真実のずれ(という虚構的真)を鑑賞することへの参加の両方を必要とする

 

  • ここで「虚構的真理」の概念と、「特定の想像の様態modeへの参与」の概念を区別する必要がある
    • たとえば視覚的想像の場合、「視覚的visual」というのは想像の特定の方法であって、想像者の純粋な(つまり現実世界における)心理的事実である。これは想像されることや虚構的真理には入ることがない

 

  • 同様に、想像の情動的側面は、想像の「方法manner」にまつわるものであり、想像されること(内容)ではない。
    • 言い換えれば、何らかの感情と共に想像することは、その感情を感じているhaving that feelingのを想像することとは異なる
    • そしてそのような想像の「様態」に関する事実は、想像される世界ではなく、現実の世界に存する

 

  • また以上より、フィクションに対する様々な反応は、私たちが実際に持つ純粋な態度の表現とみなされ、それに従って称賛されたり拒絶されたりするべきである。それらは虚構世界を構成するものではないのだから。

 

 

4.

 

  • 「想像者が想像するもの」と「想像者の現実の態度」の関係を、フィクションに対する抵抗現象によって分析する

 

  • 『マクベス』の別バージョン:「ダンカンがマクベスによって殺されたのではない」と、「マクベスがダンカンを殺したのは、マクベスの眠りを妨げたという理由のみによって不幸である」
    • 前者は、戯曲がそう言うなら受け入れられるが、後者は受け入れがたい
    • つまり後者は「純粋なgenuine(つまり現実の)情動的態度」と摩擦を起こす
    • 何故自分とは異なる信念を信じるように要請されているわけでもないのに、間違った意見を拒絶するかように、何かを想像することそれ自体を拒絶しなければならないと感じるのか?

 

  • フィクションにおけるある種の事柄について、「私たちが感じるように命じられるenjoined to feelこと」と「私たちが感じたいこと」に距離がある(感傷的sentimentalとか仰々しいpretentiousとかの批評における表現は、その抵抗を示しているのではないか)
    • これはヒュームの「趣味の基準について」における、「純粋な態度」と「何をどうやって想像するか」との関係の問題
      • 「推論上の誤りspeculative errors」と「私たちとは異なる道徳や良識ideas of morality and decency different from ours」;ただし二つは常に異なる反応を導くわけではないし、人によっても異なる。それでもこの非対称性が起こった場合の、その抵抗の意味を検討することは出来る
      • 前者は単にそれを虚構的真として受け入れられるが、後者はそうではない
      • 言い換えれば、後者においては私たちの「純粋な態度」が作品から距離を取れず、干渉してしまう
    • たとえば「幽霊が存在する」と「殺人は善」
      • 私たちは後者を(作品世界の)虚構的真理として受け入れるよりは、むしろ作者(や聴き手)(のバイアスみたいなもの?)に帰してしまう

 

  • これは道徳的に異なる登場人物を想像するというよりは、道徳的現実が異なる世界に想像的に参与することの難しさ

 

  • この抵抗は道徳的コンテクストに限定されるものではなく、実のところ作品の情動的教唆emotional solicitation(笑いや憐れみ、恐れであれ)と、私たちが実際に与える反応の違いによるもの
    • また「感受性の要求の交渉の問題the problem of negotiating the demands of receptivity」と「作品の主張を真面目に受け取ることに参与することthe engagement involved in taking the claim of the work seriously」の両側面が抵抗現象には存在する

 

  • ヒュームは生半可な説明:鑑賞者が自分の道徳的判断に自信があるから、道徳的な命題に抵抗を覚えるのだろう
    • しかし、むしろ自信があるのなら、それを想像することに抵抗を覚えないのではないかとか、何故自身がある事柄に抵抗を覚えるなら、何故信念と異なる事実的命題(幽霊が存在するとか)に抵抗を覚えないのか、などの批判に答えられない

 

  • 私たちは虚構的真理を決定する際に、何が批難や称賛に値するかに関する自分たちの感覚の果たす役割を認めている
    • そして感傷的だとか道徳的である作品における、そのような感覚による拒絶こそが、抵抗を引き起こす
    • そしてそのような場合私たちは、〈虚構世界の要素として構成的であるとして想像するべきもの〉だけでなく、それらの要素から帰結するもの、つまり〈どんな「純粋な態度」を採用するadoptべきか〉も同様に、伝えられているbeing toldかのように感じるのだ

 

  • 読者はフィクションにおいて、何が称賛すべきで何が馬鹿馬鹿しいかを決める権利を持つ
    • それは現実世界においてそうであるのと同様であり、読者はそれがフィクションを含むすべての可能世界においてそうであるとする

 

  • このヒュームの問題には「必然性」の概念が関与しているのではないか

 

  • 付随性supervenienceの問題:ヒュームは非道徳的事実から、道徳規則を推論することは出来ないと考えた(道徳はreasonではなくsentimentから出てくる。理解するのではなく感じることが出来るだけ)
    • つまり、私たちが非道徳的事実を虚構的真として受け入れたとしたなら、それらが(必然的に)虚構世界について何が道徳的に正しいのかを(非命題的に)教えてくれるということ(その虚構世界に、何らかの道徳的命題が付け加えられる必要がないということ)
    • 言い換えればヒュームは、非道徳的事実と道徳的事実の間には、付随性としての(概念的)必然性があると考えた。前者が与えられれば、後者も一意に決まると考えた
    • しかしその立場には問題があり、少なくとも私たちは自分とは異なる道徳的判断を、認識することは出来る
    • この主張はヒュームのものと矛盾するように見えるが、実は両立可能
      • つまりヒュームの論においては、二種類の想像力が混同されている

 

  • 日常的な道徳的不一致において、私たちが自分とは異なる道徳的観点の認識可能性intelligibilityを理解出来る・しているとすれば、それはヒュームの見解に反するのではないか?
    • いや、そもそもヒュームの「感情に入り込むentering into sentiments」と「意見に入り込むenter into all the opinions which then prevailed」のenter into は違うのではないか
    • つまり “I cannot, nor is it proper I should, enter into such sentiments”と言うときには、それは劇的試演dramatic rehearsalや共感的な同化のことを言っているのではないか。しかしそのような行為は、信念に関わる仮定的推論においては全く出番がない
    • むしろ劇的試演dramatic rehearsalや共感的同化は、私たちがそれを実行するのを簡単に感じたり難しく感じたりする想像力の成果なのであり、それはそれらが命題を心に抱くentertain能力以上のことあるいはそれより別のことを要求するためである
      • 想像そのものではなく、想像力の成果

 

  • またヒュームの議論はそもそも、対称性が成り立っていない
    • 「推論上の誤りspeculative errors」の場合は、仮説的想定をするために私たちが「少し考えを変えるa certain turn of thought」必要があるとしている
    • しかし一方で自分とは異なる「感情に入り込むentering into sentiments」場合は、仮説的想定ではなく、「実際に」自分の判断を変えることについて言っている
    • つまり、異なる意見に仮説的に入り込むことと、良識の判断を実際に変えることを対比してしまっている
    • もし対称性を成り立たせるなら、「異なる意見に入り込むことentering into different ipinions」を、単なる仮説的想定ではなく、実際に自分の意見を変えることとして取らなければならないだろう
    • しかしそうする際に必要なことは「少し考えを変える」どころではないだろうし、結局それは自分と異なる感情に入り込むことと同じくらい難しくなってしまうだろう

 

  • むしろ、仮言的hypothetical想像力と、劇的dramatic想像力という二つの異なる想像的活動を想定した方が良い
      • →そしてそれに応じて異なる抵抗が生じると考える
    • 両方とも現実に自分の判断を変えるものではないが、後者では仮定と結論、虚構と実際の行動の違いを見失うことがある
    • 結局ヒュームの考える抵抗が必要とするのは、単に命題が真であることを想像する(仮言的想像力)ことでも、実際に自分の判断を変える(劇的想像力)ことでもない。ヒュームの記述は二つを行ったり来たりしてしまっている
    • もし仮にヒュームの例における抵抗が命題的であったら、抵抗されるものは命題の真を完全に信じること(「自分の判断を変える」)か、命題の真理を仮定して考えてみること(仮説的想像力)のどちらかでしかない
      • …それはおかしい
    • しかし実際には、そのような抵抗が起きるのは、「部分的にしか命題的でないような態度」の表現expression of attitudeである
    • 私たちが抵抗するのは、命題に対する信念というよりは、表現される視点point of viewに入り込むことである

 

  • 視点の想像的な導入adoptation⇔反事実的推論における想像
    • 後者においては信念のふりfeigningや、信念という事実からの帰結を決定することを含まない。特定の命題の真を含む
      • →想像において、信念の主体や心理学的主体としての自己への参照をする必要がない
    • 前者(情動的態度に関する想像)においては、dramatic rehearsal, the right mood, the right experience, a sympathetic natureなどが必要となる。視点、状況への全体的なパースペクティブを含む
    • まとめれば、後者よりも前者において、主体が問題となる

 

  • 劇的想像力はgenuine rehearsalを含み、視点を「試してみるtrying on」ことや、それがどんな感じなのかを判断することを含む
    • そしてそれは、「気が乗らないmy heart is not in it」と、することが出来ない類のものである(反事実的推論は反対にトピックやムードから独立している)

 

  • ただし以上の二つの区別を認めた上で、抵抗現象それ自体は両者を含むものである

 

  • 以上抵抗現象を巡る議論は、想像力を命題の集合によって定義された虚構世界の観点から分析することの限界を示すものである

 

  • また私たちは、想像から知識を得ることが出来るという考えにコミットしているように見えるが、それは想像される虚構世界への参与が、現実世界において問題となることから完全に切り離されてはいないと私たちが考えていることを示しているだろう
    • 想像とは、虚構世界を垣間見ることというよりは、(虚構世界を)この世界に関連付ける方法である imagination is not so much a peering into some other world, as a way of relating to this one

 

  • 現実の感情が、フィクションにおいては「compartment」されているのではないか

アリストテレース『詩学』における筋の類型論

1.『詩学』における筋の四類型について

 

 アリストテレース『詩学』の第14章では登場人物が「自分が何をするか知っているかどうか」、そして「その行為を実行するかどうか」によって筋を四つに分類している。それらは以下のように分類できる。

 

 

知

行為

記述の順

優劣

作品例

â‘ 

〇

〇

1

3

『メーデイア』(エウリーピデース)

 

â‘¡

〇

×

(4)

ï¼”

『アンティゴネー』(ソポクレース)

â‘¢

×

〇

ï¼’

ï¼’

『オイディプース王』(ソポクレース)『アルクメオーン』(アステュダマース)『傷ついたオデュッセウス』(伝ソポクレース)

â‘£

×

×

3

1

『クレスポンテース』(エウリーピデース)『タウリケーのイーピゲネイア』(エウリーピデース)『ヘレー』(不明)

 

例えば③の場合であれば、登場人物は自分が何をするのかを知らず、かつその行為を実行する(そしてその後に自分が何を行ったかを「認知」する)。それは『詩学』では2番目に記述され、アリストテレースによれば3番目に優れた筋であり、作例は『メーデイア』ということになる。

 知・無知に関しては、「無知」は正確に言えば人物が何をしようとしているのかを知らずに行為しようとし、行為するまえに「認知(アナグノーリシス)」が起こる(④)か、行為した後に「認知」が起こる(③)ということである。アリストテレースは他の章でも述べている通り、そのような「認知」と「変転(メタボレー)」が悲劇の重要な要素と考えており、それらが起こり得る筋としての「無知」の筋を「知」の筋よりも高く評価しているのだ。

 

2.『タウリケーのイーピゲネイア』について

 

 エウリーピデース作。前410年代の上演とされる。アガメムノーン王の長女であるイーピゲネイアは、父によって生贄に捧げられそうになったところを、女神アルテミスによってタウロイ人の国(タウリケー)に移住させられたという過去を持つ。作品は母殺しによって狂気に取りつかれたアガメムノーン王の息子でありイーピゲネイアの弟であるオレステースが、狂気からの回復のために女神アルテミスの木像を手に入れるためにタウリケーを訪れる所から始まる。タウロイ人の風習によって生贄にされそうになるオレステースと、弟とは知らず彼をアルテミスへの生贄に捧げようとするイーピゲネイアとの姉弟の再会が本作のメインテーマであると言ってよいだろう。

 

3.『詩学』の考察対象となった筋について

 

『イピゲネイア』は1.の分類における④「無知・非行為」の一例である。この作品は『詩学』においては「『タウリケーのイーピゲネイア』において姉が弟を生贄にそなえようとして、それが弟であると認知する」(p.58)筋が言及されている。以下で具体的な箇所を引用しつつ説明する。

『詩学』に引用されている箇所からわかるように、この作品においては姉弟がお互いにそれと知らずに出会うことになる。以下は生贄として連れて来られたオレステースとそれを屠る巫女としてのイーピゲネイアが出会う場面である。

 

(イーピゲネイア)いったいあなた方の産みの母はだれ、実の父はどなたです?/また、もしひょっとして姉がいるなら、その人の名は?/こんなに立派な若者二人を奪われては、/その人は兄弟のいない身になりますね。[…]ああ、気の毒な旅の方々、いったいどこから来られたのです?[…]

(オレステース)あなたが何者かは知らないが、女よ、なぜこのことで嘆き、さらには、ぼくたち二人の身にかかわる災いのことで、心を痛めているのか。[…](pp.52-53)

 

 

引用からわかるように、二人はお互いの本来の関係(姉弟)を知らないまま、その時与えられている役割において相対することになる。ここが1.の四分類における「無知」に当たる場面である。

 一方で姉のイーピゲネイアが故郷のアルゴスへ手紙を送ろうとする場面で、まずオレステースがイーピゲネイアを認知する。

 

(イーピゲネイア)アガメムノーンの子オレステースに伝えて下さい。/「この手紙を送るのはアウリスで生贄にされたイーピゲネイア、/そちらの人たちにすればとうに死んでいるのですが、私は生きています。」

(オレステース)その女の人はどこにいるのだ、死んでしまったのがまた生き返ってきたのか?

(イーピゲネイア)あなたの目の前にいるわたしのことです。話の腰を折らないで。[…]

(オレステース)ピュラデース、なんと言えばよいのだ、ぼくたちはどんな事態に直面しているんだ?(pp.77-78)

 

 

ただ生贄としてオレステースが屠られるのが避けられるためには、双方がお互いを認知する必要がある[1]。オレステースは自分が弟であることを示すために、オレステースでしか知り得ないことを次々に述べ、最後に姉の部屋にあったものに関して以下のように述べる。

 

(オレステース)ぼくが自分で見たことでは、これを証拠として挙げましょう。/父の館にあったペロプスの年代ものの槍、/ペロプスがそれを手にして振り回し、オイノマオスを殺して、/ピーサ生まれの乙女、ヒッポダイメアを獲得したという代物です。それが、あなたの暮らしていた乙女部屋にしまってあったのです。

(イーピゲネイア)おお、誰よりも愛しい弟、まちがいない、あなたは愛しい弟だから、/わたしが抱きしめているのはオレステース、あなたね、[故郷のアルゴスを離れてやってきた弟]、おお、愛しい弟!

(オレステース)ぼくの抱きしめているのは、死んだ姉さん、あなたなのですね。死んだと思われていたのに。(pp.82-83)

 

かくして二人の間で認知が為され、イーピゲネイアはオレステースを生贄として殺さずに済むように知恵を巡らせ、そのたくらみは成功するのだ。ここにおいて『イピゲネイア』は1.の分類における「非行為」の一例となっている。

 

4.文献

 

アリストテレース『詩学』・ホラーティウス『詩論』松本仁助・岡道男訳(岩波文庫、1997年)

エウリーピデース『タウリケーのイーピゲネイア』久保田忠利訳(岩波文庫、2004年)

 

[1] 『詩学』の第11章では、二つの認知が必要な例としてこの作品が挙げられている通り。

Nick Zangwill (2001) 「形式的な自然美」レジュメ

Zangwill, Nick (2001). Formal natural beauty. Proceedings of the Aristotelian Society 101 (2):209–224.

アブストラクト(訳)

私は自然の美学に関する穏健な形式主義を擁護する。私は反形式主義者たちが多くの自然美における不調和(incongruousness)を説明できないと論じる。このことは種に依存しない自然美が存在することを示す。それから私はいくつかの反形式主義的議論に対処する。それらはRonald HepburnやAllen CarlsonそしてMalcolm Buddなどの著作に見られるものである。

Ⅰ 様々な反形式主義と「としてテーゼQua Thesis」

  • カント以来の依存美と自由・形式美の対立
    • ある対象が何らかの機能を持っていて、その対象の美がその機能を表出したり分節したりするとき、それは依存美である
    • 対象の美が機能を表出せず、その対象がそれ自体で考慮される仕方に依拠しているとき、それは自由美・形式美である
  • 極端な形式主義は全ての美は形式美と言う
    • 反形式主義は全ての美は依存美だと言う
    • 穏健な美的形式主義は二つの美の両者が存在すると言う:筆者の立場
  • カールソンは極端な反形式主義
    • 自然の美的性質を鑑賞するためには、対象を常に正しい歴史的機能的カテゴリに位置づけなければならない
    • 強い主張:自然の正しい美的鑑賞は対象の科学的理解に依拠する
    • 弱い主張:自然の正しい美的鑑賞は、対象をそれの属する種の一員として鑑賞しなければならない
    • 筆者は両者を否定する
  • ここでの問題は、自然物は、それが属する自然種として qua the natural kinds they are members of美的性質を持つのか?ということ:「としてテーゼ Qua Thesis」
    • 強い「としてテーゼ」:私たちは正しい特定の科学的・常識的な自然カテゴリに対象を位置づけなければならない
    • 弱い「としてテーゼ」:自然物 natural thingを自然物として鑑賞すれば良い
      • 芸術の美的鑑賞は芸術を芸術として鑑賞することであるように、自然を自然として鑑賞することが自然の美的鑑賞(Budd)
  • 筆者は両者を否定するが、修正は微々たるものである
    • 多くの場合、私たちは対象をそれが属している特定の自然種に属するものとして鑑賞しなければならない
  • カールソンの議論はウォルトンの「芸術のカテゴリー」に依っている
    • ウォルトンは美的判断はカテゴリーの下で下されるべきと考えた
      • しかし彼は芸術に関して適用するのが正しい・正しくないカテゴリが存在するが、自然に関してそうではないことがあるとした。
        • 芸術と自然に関する美的判断は両者ともカテゴリー依存 category dependentだが、自然に関する美的判断だけがカテゴリー相対的 category relativeとした。
      • つまり自然物はC1に相対的に美しく、C2に相対的に美しくないことがある。このときC1とC2は同等の有効性validityを持っている。
    • カールソンはカテゴリ依存テーゼは受け入れるが、カテゴリー相対テーゼを拒絶する
      • つまり自然もその下で鑑賞するべき「正しい」カテゴリが存在する
    • 筆者はカテゴリ依存テーゼを芸術に関しても自然に関しても拒絶する。
  • 形式主義者たちは「もし美的判断がカテゴリ依存的でなかったならば、美的判断の客観性や正しさを主張し得なくなるだろう」と考えてウォルトンの主張を受け入れたが、それは誤り。
    • 非カテゴリ依存的な美的判断も客観性を主張し得る
    • 筆者の穏健な形式主義はカテゴリ独立的な美的判断があるとする

Ⅱ 方法論的反省

  • 反形式主義者たちを説得するための思考実験
    • ⑴とても緻密で香りづけまでされた造花がある。これは美的に生きた花と異ならない。確かに花から得られる快は対象が生きものであるということから生じるが、それは美的快ではない。
    • ⑵あるフィヨルドは人工的に作られたものである。それを見ていた人は最初自然物だと思っていたが、あるとき人工物と知らされる。これによってフィヨルドの経験は少し変わって阻害されるだろうが、しばらく経てば元通りになるのではないか?
    • ⑶有神論者にとって自然もまた神による芸術である。しかし有神論者による自然の鑑賞は、無神論者のそれと異ならないだろう。もしその人が信仰を失ったり、あるいは取り戻したりしても、自然の鑑賞経験は変わらないだろう。
  • 以上の思考実験は、形式主義にコミットしている人たちの直観を明晰にするが、異なる直観を持つ反形式主義者たちを説得しないだろう。
    • よってもっと良い例を探そう。

Ⅲ 「として」抜きの生物美biological beauty

  • 生物はその生物が属する種として美しいのか?
    • 極端な形式主義は種など関係ないとするし、反形式主義は種として美しいのでありそれ以外ではないとする
    • 穏健な形式主義としては、どちらも許容し得る
  • クジラの例
    • クジラの美しさは、クジラとしての美しさ、つまりそれが哺乳類であることが重要?
    • 例えば巨大サメの美しさとクジラの美しさは、それぞれが魚類と哺乳類であることから別の美しさか?
    • 筆者はそれを否定し、カールソンはそれを肯定する:直観の衝突
  • 泳ぐシロクマの例
    • このシロクマが美しいのは、それが美しい生きている物だからでも、美しい自然物だからでもなく、単に美しい物であり、並外れた現象だから。
    • 仮に人間がクマのスーツで踊っていたとしても、それはスペクタクルであり、自由で形式的な美を持っている。
  • 同様にタコの動きの美しさも、タコが魚や哺乳類、あるいは人工物にカテゴライズされようと変わることは無い。
  • よって筆者は「としてテーゼ」の弱いヴァージョンすら拒否する。
    • カールソンは自然において「多くの」美的性質が、その自然物を正しく理解することによってアクセスできると言った点で正しい
    • しかし実際には自然はカテゴリに依存する依存美だけでなく、独立した形式美も持っている。
  • シロクマの例
    • 泳ぐシロクマの美しさに関しては、それが驚きであることが重要である
    • つまり私たちはシロクマにその美しさを期待していないのであり、よってその美しさはシロクマ性の理解に依存していない
      • つまりシロクマは私たちがシロクマに期待していなかったような形式美を持つ
    • 筆者によればシロクマはシロクマとしての美=依存美を持たない(極端な形式主義)。一方でもし持っていたとしても、それは上で述べたような形式美のような驚きや衝撃をもたらさないだろう。
    • よってそれらの驚きを伴う、期待を裏切るincongruous美は、対象のカテゴリ・種に依存しない形式美であり、カテゴリと全く関係がない。

Ⅳ 非有機的自然美

  • 筆者にとって非有機的自然の美が形式美であることは明らかであるように思える。
    • 対象の(カテゴリではなく直接知覚可能な)狭い非美的な性質によって対象の美が決定されているように見える
  • しかし強大な論敵としてRonald Hepburnが挙げられる。
    • 彼は砂と泥の広がりを歩いて経験することを想定する。実はその広がりが潮泊渠tidal basinであり、潮が退いた状況であるとする。
    • 潮の退いた状態であるという知識を持たないとき、その状況の美的性質は「荒々しく満足した空虚wild, glad emptiness」だが、その知識を持つときやがて海に覆われる地帯を歩くときの美的性質は「不気味なほど奇妙disturbingly weird」になる。
    • ここではウォルトンにおけるゲルニカズのように、非知覚的な文脈が美的性質に影響を与えている。
      • つまり自然物の美的性質がその歴史や文脈に依存しているのであり、それを知らなければ美的判断はできない。これは対象の置かれた文脈に美が依存しているという意味で反形式主義を重み付けるように見える。
  • 筆者からの反論:鑑賞の対象それ自体と、時間的全体の一部としての対象を区別すべき
    • 経験するそのときの砂と泥の広がりをA、より広い時間的な広がりに位置づけられた同じ砂と泥の広がりをBとする。
    • 私たちはAのみの美的性質を考慮することもあれば、Bのみを考慮するときもあり、さらにはA+Bの美的性質を考慮することもある。
      • Aの美的性質が「荒々しく満足した空虚」であり、A+Bは「不気味なほど奇妙」である。
    • 筆者によれAとA+Bの美的性質が異なるのは当たり前。それはそれ自体は「陽気な」音楽が葬式で流されると「奇妙な」という美的性質を持ってしまうのと同じ。
    • これは形式主義への反論にならない。単に形式的な美的性質を持つ対象自体が異なるだけ。
      • その砂と泥の広がりは「荒々しく満足した空虚」であると同時に「不気味なほど奇妙」なのであって、どちらかが間違っているわけではない。
      • つまり美的性質は知識によって変化しているわけではないので形式主義への批判にならないどころか、形式主義によって分析できる。

Ⅴ フレーム問題

  • 形式主義が説明できないとされてきた問題に対処していく。
  • フレーム問題とは美的鑑賞の対象の境界に関する問題である
    • 芸術作品は大抵どこからどこまでが作品なのかの境界を持ち、それは作者の意図に従っている。
    • しかし自然はどこからどこまでが鑑賞の対象なのかが明らかではない
      • 雑木林を鑑賞するとき、各々の木を別々に鑑賞しても良いし、林全体を見ても良い。しかしなぜ雑木林を一つの単位とするのか、また近くの湖を含めるのかなど、評価の単位が恣意的になっている。
      • そのため(恣意的であるということはカテゴリによって鑑賞対象を識別するわけだから)心的要素から独立な美的性質という形式主義は怪しくなってくる。
  • 自然美は変動的だとする主張がある
    • つまりフレームを修正すると、そのフレーミングされた全体の美が変動するということ
    • これは起こり得るが、経験を記述できていないと筆者は述べる。
      • 確かに雑木林に加えて駐車場をフレームすれば美は低下するが、それは駐車場が独立して醜いからであって、フレームを変えるだけで美が変動しているとは考えづらい。
  • 結局私たちは自然美の美的に複雑complexであることを認めることでsubstantiveな美的性質を説明できる
    • もし雑木林(C)の近くに湖(L)とスイセン(D)があるとする
    • C+L+Dについて考えうろ気、C+L、C+D、L+Dはそれぞれ異なるsubstantiveな美的性質を持ちうるのであり、さらにそれらの性質は有機的に結合してC+L+D全体のsubstantiveな性質を生成する。
    • 同様にC+L+Dを部分とする全体の美的性質も同様に考え得るのであり、結局フレーム無しの複雑性も説明できる。
  • 結局自然美はフレームを無限に持っているのであり、それぞれのフレームの持つ美的性質を全て持っている。
    • ただしフレーム依存であることは心依存mind-dependentであることを意味しない。
    • フレームは私たちの結合の認識とは独立に存在するのであり、それぞれのフレームによって決定される美的性質も存在する。

Ⅵ 倍率問題

  • 美的判断は感覚的知覚に依存しており、よって私たちの趣味は人間にとってのみ普遍妥当する。色・音・時空間的見た目が関係する。
    • 全ての合理的なratinal存在に適用可能な道徳とはこの点で異なる。
  • しかしそれは美が人間的スケールに限定されるという訳ではない
    • 巨大あるいは微小なものも、それが別の時空間的性質を持てば美しくなる
  • しかしここで問題が生じる:自然は私たちから独立に美的性質を持つのか?
    • 芸術の場合は作者の意図によって受容方法が定められるが、自然にはそのようなものはない
    • Buddの問題提起:砂山を鑑賞するとき、どの倍率において私たちがそれを観るべきかは恣意的か不確定である。同様にそれがどんな美的性質を持つかも恣意的か不確定である。
    • これは美的性質の実在論の問題を提起するが、筆者はBuddの取る相対主義的帰結には同意しない。
  • 全体的なtotal美的本性という概念を導入する。これは対象が持つ美的性質の総和のこと。
    • 私たちは様々なレベル(倍率)で物を見ることができるが、それぞれの倍率において美的性質があり、それらの総和を対象の持つ全体的な美的性質とする。
  • 反論:レベルNでは美しく、N+1では醜く、N+2では美しく…という場合、対象は美しいのか?醜いのか?
    • フレーム問題でそうしたように、私たちは自然美の複雑性を認めるべき。異なるレベルにおいて異なる美的性質があり、それは自然美が私たちと独立であるという主張を譲らずともそう言える。
    • 絵画のある箇所がエレガントで別の箇所がエレガントでない場合があるように、自然物はあるレベルでは特定の美的性質を持ち、別のレベルでは別の美的性質を持つことがある。
  • よって美的性質が私たちに相対的であるというのは言い過ぎ。
    • 単に見方を変えれば別の美的性質がアクセス可能になるというだけ。
    • それらは矛盾するかもしれないが、両立可能であり、美的実在論への反論にはならない。

Ⅶ 積極的鑑賞

  • またカールソンは形式主義への反論として、自然の鑑賞は純粋に観照的contemplativeではなくて、積極的activeに没入することが必要だと述べた。
    • 筆者はこれに同意するが、カールソンはこの議論で自らの指摘した間違い、つまり風景の鑑賞を、風景画の鑑賞と考えてしまう間違いを犯している
    • 三次元的な風景の鑑賞は、二次元的な風景画の鑑賞と異なる。その中で動き回り、三次元の形式的性質を積極的に没入して味わうことが風景の鑑賞である。
  • つまりカールソンは形式的性質を二次元的性質に限定してしまっているのが誤り。
    • 形式的性質には三次元的なものがあり、それは対象同士の空間的関係によって生み出される。それらは積極的に鑑賞される必要がある。
    • 自然の形式的性質はそのようなものである

佐金 武・高野保男・大畑浩志「ユーモアはなぜ愉快なのか」(2020)雑レジュメ

seibundo-pb.co.jp

の第4章より。ざっと読んだだけなので雑です。現代英語圏の笑いの哲学を押さえるのに有益でした。

1.はじめに

  • 主要なユーモア理論は三つある
    • 安堵説(relief theory):フロイト
      • ユーモアは緊張と緩和による安堵によって生み出される
    • 不一致説(incongruity theory):ショーペンハウアー
      • ユーモアには何かしらの「ズレ」が含まれる
      • そしてそのズレの発見は思考のバグを取り除くのに役立ち、愉快さはその報酬である
    • 優越説(superiority theory):ホッブズ
      • 愉快さとは優越感である
  • 本稿の構成は以下の通り
    • 以上の諸理論は競合するのではなく、ユーモアに関する異なる問いに対する異なる説明であることを論じる(第2節)
    • 近年有力な不一致説の問題点を指摘する(第3節)
    • ユーモアに特徴的な愉快さは感情であることを論じる(第4節)
    • そのような愉快さに対して優越説による説明を試みる(第5節)

2.ユーモア理論とその類型

  • ユーモアや笑いは様々に研究されてきたが、それらは三つの問いに分けることができる

    • ⑴ユーモアはどのようなときに生じるか(ユーモアの発生条件)

       ✏️ 笑いを引き起こすものは何か?

    • ⑵ユーモアはなぜ愉快なのか(ユーモアが引き起こす心的状態)

       ✏️ 笑いの愉快さとは何か?どんな心の状態か?

    • ⑶ユーモアはそもそも何のためにあるのか(社会的意義・機能)

      ✏️ 笑いの機能とは何か?笑いは人類や社会にどんな意義を持つ?

  • 不一致説は⑴に関するものと言える

    • ヒトがユーモアを感知するのは、ものや出来事に「常識や通常の理解との意外なズレ」を見出すとき
    • 言い換えれば期待に対する裏切りがユーモアを発生させる
      • とんちやボケ&ツッコミの面白さを上手く説明できる
  • 優越説は一方で、ユーモアは人が予期しない優越感を得たときに見出されるとする

    • 人のどじ(バナナで滑って転ぶとか)によってもたらされる笑いを説明できる
    • これは実のところ⑴ユーモアの発生条件というより、⑵のユーモアのもたらす心的状態を説明したものと言える
  • 安堵説も⑵に関するものと言えるかもしれない。

    • 例えば下ネタは安堵説で上手く説明できる
  • またベルクソンの懲罰理論(肉体や精神のこわばりは滑稽であり笑いはそれに対する懲罰である)は⑶に関するものと言える。

    • ユーモアの笑いは、凝り固まった社会的通念に対して笑いは罰を与え、その固定的な思考の枠組みを乗り越える契機としての社会的機能を持つ
  • アクィナスの遊戯説(ユーモアの愉快さは遊戯の愉快さである)は⑵の感情理論とも言えるし、ユーモアが娯楽であるとする点からは⑶の説明とも言える。

  • 以上のことから言えるのは、諸理論は必ずしも競合しないということ。

    • それぞれの理論に得意なユーモアの種類がある。
    • ここから包括的な笑いの理論を構築するためには、以上をパッチワークするのではなく、一つの立場から⑴⑵⑶すべてに一貫した答えを示す必要がある。
    • 先行研究ではHureleyの不一致理論があるが、本稿では優越説の観点から包括的理論を構築する。

3.ユーモアと愉快さの甘い関係

  • 不一致仮説:⑴ユーモアはヒトが思考のバグを発見したときに生じるのであり、⑵ユーモアの愉快さはそのようなデバッグ作業に伴う心的状態である。⑶さらにユーモアはデバッグに愉快さという報酬を与えることで、思考と現実が乖離せず、正しい世界像を描くデータの整合性を保つ動機づけをする。
  • 筆者は⑵が説得的でなく、⑶も可能性の一つに過ぎないとする。

4.ユーモアの愉快さは感情か

  • ユーモアの愉快さが感情ではないとするMerreallに反論する。
  • また感情が非認知的な身体変化の知覚であるとする新ジェームズ主義に反論し、ユーモアの愉快さは認知的だが感情だとする。

5.ユーモアの感情理論としての優越説

  • 優越説とは、ユーモアの愉快さを突如得られる優越感とする理論である。
  • この理論はユーモアのダークサイドに言及し、人間の暗い本性を暴露するように思われる
    • しかし本稿では優越感とは必ずしも劣った者への見下しではなく、より優れたものへの称賛が伴うものであり得ると論じる。

5.1優越説の擁護

  • 優越説への批判1:優越感を感じているがユーモアの愉快さを感じない場合もある
    • 例えば動物が賢くない振る舞いをするときや、貧しい人々に対するとき
    • 再反論:それらは実は優越感ではない。
      • 劣ったものや弱者に対しては優越感だけでなく、不憫さ悲しみ慈しみ同情など様々な感情的態度が取られる。
    • また優越感にも悪意に満ちたものとそうでないものがあるが、前者があるからといって後者の存在は否定されない
  • 優越説への批判2:ユーモアの愉快さを感じているが優越感を感じていないように思える事例もある
    • 例えば大喜利。うまい解答に対する愉快さは優越感と何の関係も持たないように思える。
      • ダジャレも上手く説明できない。
  • 反論に応えるために、優越感を二つ区別する
    1. 対象の自分との下方比較に基づく優越感
    2. 自分や自分を取り巻く誰かの(比較ではなく)卓越性に基づく優越感
      • 数学の難問を解いたとき、険しい山の山頂にたどり着いたとき、すばらしい芸術作品を生み出したときに感じられる
      • これに蔑みや見下しなどの感情は含まれない。
    • またこの二つの区別は別の観点からも可能
      • つまり競争的なゼロサムゲームにおいては、他人の不幸が自分の幸運となるので、相対的な比較に基づいた優越感が生じやすい。これは共有不可能な優越感。
      • 一方で誰かの成功が全体の利益になるとき、他人の卓説性への称賛の気持ちは自分自身の優越感となる。こちらは共有可能な優越感。
      • また逆に優越感の共有のしやすさによって、それが悪意を持つか否かが判断されるとも言える。共有しにくい優越感に基づく行動は不道徳と見なされる。
  • 2の優越感によって批判2に応答可能
    • 大喜利やダジャレなどは不一致説の言うように何らかのズレを含んでいる
      • コメディアンの誇張された振る舞い、ドジ、お題への絶妙なボケなど
      • これらのズレの発見は優越感(2)を私たちにもたらし、それこそがユーモアの愉快さである
    • ただしこれはシャーデンフロイデとしての優越感(1)による笑いの存在を否定するものではない。

5.2優越説の優位性

  • またズレの発見に伴う優越感としての愉快さは、明らかに適応的。というのもズレの発見は一般に生存上有利に働くため。
    • これは不一致理論とほとんど同じ結論である。
  • しかし不一致理論の問題は、ユーモアの発生条件(1)と存在理由(3)に応えるだけでは、ユーモアに伴う心的状態に関する問い(2)に答えられないという点にあった。
    • つまりユーモアの果たす機能から遡及的に、それがなぜ愉快なのかを説明するのは困難
  • 優越説は不一致説と両立可能であり、両者を組み合わせることでユーモアを巡る三つの問いに整合的な回答を与えることができる
    • つまり:「ユーモアは何らかのズレ(思考のバグ)が発見されたときに生じ、ユーモアの愉快さはその発見に伴う優越感に他ならない。そして、ユーモアの存在理由は、この優越感を通じて我々の思考を絶えず最適化することにある」
  • キャロルは不一致説と安堵説を組み合わせたがそれはどうか
    • つまりユーモアの愉快さとはズレが無害であることを暴露され、安堵すること
    • たしかにズレの無害さは愉快さに必要だが、安堵がユーモアの愉快さであるようには思えない
      • 愉快さには一種の興奮が伴うから。
    • またズレの無害さに安堵することが、なぜ思考の最適化につながるのかも説明できない
  • 優越説は不道徳なユーモアを説明できる
    • ユーモアは時に攻撃的な嘲笑であり不道徳と非難されることがある
    • これはユーモアの愉快さが優越感、この場合には特に相対的比較(下方比較)に基づいている場合だと言える。
      • そしてその優越感を表現して対象を毀損したり、あるいはそのようなユーモアに対して公的な反応(笑い)を示すことが不道徳なのだ。

コメント

  • ユーモアの愉快さを優越感だけで特定できたのか?
    • 下方比較による優越感が笑いにつながらない場合に触れられていたが、卓越性への称賛としての優越感もまた笑いにつながらない場合も多くある。
    • いや筆者はそこで不一致説を組み合わせたのか。単なる優越感ではなく、ズレの発見に対する優越感が笑いの必要十分条件と主張
      • でもズレの発見に対する優越感を感じていても笑わないこともありそう
  • 下ネタの面白さは結局説明出来てない気がする。
    • 安堵説に任せるということ?