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日本の風土と文化を愛し、皇室を尊ぶ愛国系まとめブログです。本当の意味で日本を愛することの大切さを発信していきます

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    2019年04月

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    20周年記念大会(HP素材)-2

    1 :
    番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2019/04/30(火) 12:09:24.33 ID:pcwj/sC0a.net
    両陛下が確立した平成の皇室像に紆余曲折…乗り越えた右派の批判〈AERA〉 

    天皇や皇后がひざまつき、被災者に話しかけるスタイルが確立された平成の皇室。 
    全国各地で国民一人ひとりと直接つながることで、おのずと「国体」が強化されていった。 
    一方で、これまでとは違う天皇像に右派から批判があったのも事実だ。放送大学教授の原武史さんがリポートする。 

    *  *  * 
     1962年5月の宮崎、鹿児島、熊本行啓からは、主に地元の青年男女を集めて懇談会が開かれるのが恒例となる。 
    懇談会というのは、皇太子夫妻が泊まった施設や公共施設で、5~10人程度の人々とテーブルを囲み、 
    1~2時間かけて各地方で起こっているさまざまな問題につき、直接質問したり意見を聞いたりする会合のことだ。 

     昭和天皇は、東宮御学問所で帝王は言葉を慎むべきだとする儒教式の教育を受けたため、人々との会話に慣れていなかった。この点は香淳皇后も同様であった。 
    一方、皇太子夫妻は長時間にわたり、人々と話し合える言葉の力をもっていた。 
    一見、皇太子が司会の役割を演じながら、座が和んでくると美智子妃が主導したという。 

     美智子妃は63年に第二子を流産するが、引きこもらず、皇太子とともに山口県を訪れ、懇談会に臨んだ。 
    地元の保健婦や農村青年と話した時間は、合わせて2時間半に及んだ。言葉の力によって危機を乗り越えるのだ。 

     懇談会は、タウンミーティングとしての意味をもっていた。 
    地元議会に女性がほぼいなかったことを考えれば、美智子妃が若い女性の声をすくい上げ、その声が地方紙などに大きく掲載されることの意味は小さくなかった。 

     だが右派にとって、天皇と皇后は決して対等であってはならなかった。彼らは昭和天皇のような神格化した権威を、次代の天皇にも求めようとしていたからである。 

    「日本を守る国民会議」(現・日本会議)を中心とする右派が80年代から復活させたのが、提灯奉迎である。 
    提灯奉迎というのは、ただ提灯行列を行うだけでなく、天皇や皇后に向かって人々が提灯を振り上げ、万歳を叫ぶ奉迎のことだ。 

    つづく 
    https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190425-00000051-sasahi-soci&p=1
    4 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2019/04/30(火) 12:10:37.30 ID:pcwj/sC0a.net
    昭和天皇の在位60年に当たる86年11月には、皇居前広場で提灯奉迎が復活した。 
    88年には、昭和天皇の名代として皇太子夫妻が全国植樹祭に出席するため訪れた高松市のホテルでも、提灯奉迎が行われた。 

     右派にとっては、人々から仰ぎ見られ、高みから提灯を振る天皇こそ理想の天皇であった。 
    だが彼らの期待に反して、こうした天皇像が平成に定着することはなく、それとは正反対の天皇像が定着してゆくのだ。 

     その姿が初めてあらわになるきっかけとなったのが、1991(平成3)年6月に長崎県の雲仙・普賢岳で起こった大火砕流である。 

     天皇と皇后は、7月に被災地を日帰りで訪れた。災害の直後に被災地を二人で訪れたのは、これが初めてであった。 
    テレビのニュースには、被災者が収容された島原市の体育館で、天皇と皇后が二手に分かれてひざまずき、 
    同じ目の高さで一人ひとりに語りかける映像が繰り返し流れた。 

     これは60年代から福祉施設で美智子妃が率先して行い、皇太子がならったスタイルにほかならなかった。 
    昭和期には天皇と皇后の陰に隠れて見えなかった「平成」が、初めてあらわになったのだ。 

     93年になると、昭和天皇と香淳皇后が住んでいた吹上御所に代わる新御所の建設を機に、「皇室バッシング」というべき現象が生まれた。 
    宮内庁職員を自称する「大内糺(ただす)」という人物は、こう述べている。 

    「本来、ご皇室にとって皇后陛下は、あまり意味のある存在ではない。ご公務はもちろん、大抵の儀式も天皇陛下がおいでになれば事足りる。(中略) 
    それなのに、最近では国際親善の場面にとどまらず、あらゆるところにご夫妻として参加されるようになってきているのである」 
    (「皇室の危機」、「宝島30」93年8月号所収) 

     ここには右派の本音が透けて見えている。彼らにとって、常に天皇に寄り添う皇后の姿は、目ざわり以外の何物でもなかったのだ。 

     皇后は、この年の10月20日の誕生日に際して、「事実でない報道には、大きな悲しみと戸惑いを覚えます」 
    「事実に基づかない批判が、繰り返し許される社会であって欲しくはありません」などと反論する文書を公表した。 
    言葉に対しては言葉で反論するという姿勢を見せたわけだ。 
    8 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2019/04/30(火) 12:13:56.09 ID:pcwj/sC0a.net
    しかし精神的な苦痛からか、誕生日に倒れ、失声症になっている。だがこのときも、皇居に引きこもることはなかった。 
    11月6日には、天皇とともに松山市の愛媛県身体障害者福祉センターを訪れている。 

    「出迎えた県聴覚障害者協会長西原治見さん(中略)に、皇后さまが手話で『お会いできてとてもうれしいです』と話しかけられた。 
    西原さんが、皇后さまの体を気遣って『がんばって下さい』と答えると、にっこりほほ笑まれたという」 
    (「愛媛新聞」93年11月7日) 

     皇后は、声を失っても手話で人々と会話を続けることで、危機を乗り越えたのだ。またしても言葉の力が発揮されたのである。 

     95年1月に起こった阪神・淡路大震災でも、天皇と皇后の現地での振る舞いが右派から批判を浴びた。 
    「日本を守る国民会議」の代表委員を務めていた江藤淳は、「何もひざまずく必要はない。被災者と同じ目線である必要もない。 
    現行憲法上も特別な地位に立っておられる方々であってみれば、立ったままで構わない」
    などと述べている 
    (「皇室にあえて問う」、「文藝春秋」95年3月号所収)。 

     しかし天皇と皇后は、昭和期に美智子妃が主導する形で確立され、平成になってあらわになったスタイルを変えようとはしなかった。 
    宿泊を伴う定例の行幸啓では右派による提灯奉迎にこたえつつも、天皇の隣には常に皇后がいた。 
    二人は全国各地の福祉施設で、そして被災地で時としてひざまずき、「市井の人々」に同じ目線で語りかけたのである。 

     その人数を累積すれば、おびただしい数にのぼる。 
    行幸啓を重ねれば重ねるほど、政府や議会を介在せず、天皇や皇后と一人ひとりの国民が直接つながる関係が強まったのだ。 
    天皇と万単位の人々がひとつになる昭和の「君民一体」とはちがい、今度は一対一の関係で、天皇と「市井の人々」がひとつになる。 
    これをミクロ化した「国体」の強化と言い換えてもよいだろう。(文中敬称略)(放送大学教授・原武史) 
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    1: マンセー名無しさん 2018/12/09(日) 11:01:02.81 ID:IeS/KfRf
    まず文句言って止めさせるべきやろ
    それが一番手っ取り早いやろが
    国士さんよ
    c537c135

    続きを読む

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    o1080056314379812313

    1 :番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2019/04/29(月) 18:53:19.46 ID:y6WZpLQ50NIKU●.net
    八王子市の若林、豊島区のくつざわ、杉並区の佐々木 

    3名が除名 

    原因が党首である立花孝志が勝てもしない参院選に出馬するために5000万円が必要なため、党員から130万円払えと命令。 
    「払えないなら辞めろ」「辞めたら徹底的に叩く、潰す」と圧力をかける。 
    先週の選挙で当選したばかりの議員はお金が無いためもちろん払うことが出来ない。 

    立花孝志「良い消費者金融を紹介するから借りろ」とヤクザのようなやり方で130万円を要求。 
    自分が5000万円借りたらいいだけでは? 

    「130万円は選挙に受かったら返す」と言ってるが落ちたら返すとは言ってない。 

    除名処分の発表・八王子市若林・豊島区くつざわ・杉並区佐々木の3名を除名します 
    http://y2u.be/BtcY1bX2XO8 
    くつざわ亮治blog
    http://bouzup.blog.jp/archives/1074592473.html

    2019年04月29日17:18
    NHKから国民を守る党から離党しました20190429
    突然ですが離党の意思を代表立花孝志にお伝えし、NHKから国民を守る党から離党しました。

    離党の理由
    ・本来供託金とは政治家になりたい強い意志を持つ者が自腹で用意すべきものなのに、候補者には負担させず現職議員のみに負担を強要
    ・参院選に10名の立候補者を出すことに対して、党全体の総意を確認することなく、費用を負担させようとしている
    ・参院選候補者を独断で選定
    ・軍資金を確保してない状態にも関わらず、参院選立候補の記者会見をしてしまう無謀さ計画性の無さ
    ・前々彼女と現彼女がその中に含まれる非常に私的なもので、男女関係に潔癖でない自分もドン引き
    ・4月27日総会のやりとりで、130万円を供出しなければ除名すると脅迫
    ・4月29日「130万円出さない議員は除名します」というタイトルの脅迫動画を上げた
    ・それぞれの議員の経済状態を把握していない情報収集能力の無さと、各人への関心の薄さ薄情さ
    ・党費の金額を任意・ゼロ円・10万円・12万5千円など各人にバラバラな額を提示する金銭に対する不正確さ曖昧さいい加減さ
    ・1度資金を提供してしまうと、今後度々の提供を求められるのでは無いかという恐れ
    ・「借金してでも金を出せ」と言い放った人間性
    以上のことから、私は立花代表のリーダーとしての資質に疑問を持ち、これ以上は党代表として尊敬し支えることができないと判断し離党しました
    ・政治家の端くれとして自身の進退は自分だけで決めました。党に投票してくださった方、お詫び申し上げます

    豊島区議会議員として今後もNHKと闘ってまいります 

    くにば雄大(品川区議会議員)@NHKから国民を守る党@yuta_kuniba

    【速報】参院選立候補費用の130万円を払わずにNHKから国民を守る党を除名となる4名が立花代表により発表。
    豊島区:沓澤亮治(離党届提出済み)
    八王子市:若林修 
    杉並区:佐々木千夏
    西東京市:冨永雄二(連絡取れず)

    17:24 - 2019年4月29日

    杉並区議会議員・佐々木千夏@sasaki20181209
    今回の件に関しまして、当選議員が増えただけの状態の中、ねずみ講のような強制的な資金の集め方、
    練馬支部など地区部長ではなく、何故第一、第二などナンバー制度にしたのか、NHK問題の本質は、内部に朝鮮人が増えたことが原因です。

    それを明らかにし追求しない限り、もし参院選で議席を得ても、日本人になりすました二重国籍の国会議員が250名もいれば、
    NHKの朝鮮人と結託し、数の力で法案も党も潰されることは目に見えていると感じます。そうなれば資金を出した議員はどうなるのでしょうか。

    政権与党の自民、公明党には、二重国籍の国会議員がいるからこそ、蓮舫の二重国籍問題を追及しない、
    国会でNHKの外国人数についても返答しないのです」と申し上げたら、いきなり除名されました。

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