Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

川之江城

 海際の鷲尾山にある城で、仏法寺の仏堂を取り込んで築かれたため、仏殿城ともいう。

 川之江城の築城は南北朝時代で、延元2年(1337)のことである。当時の伊予守護である河野通盛は、阿波や讃岐の細川氏に対する防衛拠点を欲しており、伊予の東口であるこの川之江が適地であった。

 通盛の命で実際に城を築いたのは家臣土肥義昌で、そのまま防衛の任に就いたが、興国3年(1342)の細川頼春の攻撃で落城し、頼春の他国への転戦の隙を衝いて通盛が奪回している。その後、頼春の子頼之が正平19年(1364)9月に奪い返し、通盛の子通朝を世田城で敗死に追い込むのだが、頼之の上京を機に通朝の子通堯(通直)が九州から戻って同24年(1369)に再び城を手中に収めるなど、争奪が繰り返された。

 康暦元年(1379)4月の康暦の政変で頼之が失脚すると、細川氏との対立から南朝に属していた河野氏が北朝に復し、宿敵細川氏の討伐を目論見んだ。しかし、逆に細川氏が機先を制して攻め、同年に頼之の弟頼元が川之江城を落とし、さらには11月に通堯を佐志久原で討死に追い込んでいる。

川之江城模擬天守

川之江城址碑

 この通堯の死の後、幼少だった通堯の子亀王丸(通能・通義)を不憫に思った将軍足利義満が仲介に乗り出し、永徳元年(1381)に亀王丸の家督相続を認める一方、通能の弟通之と頼之の養子縁組を取り持って通之に新居郡と宇摩郡を与え、両郡の領有を曖昧にして和睦を図った。

 だが、実質的に両郡は細川氏が支配権を持っていたようで、康応元年(1389)には細川氏から領国運営の文書が出されているほか、通之の子孫である河野予州家の地盤とはなっていない。従って、川之江城も継続して細川氏の属城だったと思われる。

 戦国時代中頃にも、両者による川之江城の争奪が見えるが、さらに時代が下った元亀元年(1570)、河野氏の運動で将軍足利義昭が新居郡と宇摩郡を返還する御内書を出し、名目上は細川氏からの返還が成った。ただ、この頃の細川氏はすでに三好氏の台頭で勢力を失っており、実質的に両郡は三好氏の影響下にあったと思われる。

 この返還劇は、三好氏の勢力を弱め、かつ地方への影響力を行使して幕府の威光を高めたい義昭と、失地奪回を宿願とする河野氏の思惑が一致した末のことなのだろう。

川之江城模擬天守の基部は往時の石垣か

川之江城の模擬の櫓門

 返還が成った翌年、河野家臣妻鳥友春(光家)が入城するが、早くもその翌年には西の石川通清と連合した三好氏に攻囲されている。この時は、友春の奮戦と河野軍による懸命な撃退戦によって三好軍は退却したが、通清は三好氏と姻戚関係があり、河野氏の飛び地的な位置のために友春は苦労したことだろう。恐らく、陸路の連絡は期待できず、村上水軍を介した海路が頼みの綱だったのではないだろうか。

 この地勢的な影響があったのか、友春は、天正7年(1579)頃に北進してきた長宗我部元親に通じた。石川氏やその重臣金子氏が元親に接近した頃でもあり、元親による東予切り崩しが盛んだったようだ。また、河野氏の衰退で以前のような援軍が期待できない中、三好軍侵攻時のような孤立化を恐れたというのもあると思われる。

 だが、これを知った河野家当主通直は怒り、河上安勝を差し向けて攻略させ、そのまま安勝を川之江城主とした。だが、安勝による治世は短く、天正10年(1582)に轟城主大西元武に攻略されたとも、同年か翌々年に長宗我部軍に攻略されたともいう。ほかにも、安勝の攻略が同3年(1575)頃という説や、元武の攻略が同4年(1576)という説もあるが、長宗我部氏の勢力伸張と合わせてみると年代的に合わず、これらはどうも信頼性が低そうだ。

川之江城の往時のものと思われる2段の石垣

川之江城には往時の石垣の痕跡が点在する

 長宗我部家の領有後、天正13年(1585)には四国征伐が始まり、親長宗我部勢力は天正の陣で壊滅し、この城も落城した。

 戦後、東予に小早川隆景が入り、同15年(1587)の九州征伐後に福島正則、文禄4年(1595)から池田景雄、慶長3年(1598)に小川祐忠と変わる中、いずれも支城として機能し、同5年(1600)の関ヶ原の合戦後に領した加藤嘉明の時に廃されたという。具体的な廃城時期は不明だが、嘉明が会津へ移る寛永4年(1627)までの話で、恐らく元和元年(1615)の一国一城令の時ではないだろうか。

 その後、西条藩主一柳直盛の次男直家が、寛永13年(1636)に川之江と播磨国小野など2万8千6百石を相続して川之江に陣屋を置いた。現地案内板には、直家が城の再築を図ったとあり、2万石以上が伊予国内分だったのも事実だが、実際には、翌年に小野へ陣屋を築いて移っており、再築の意思は不明である。また、その伊予国内の領地も、直家の跡を継いだ直次が末期養子であったことから没収され、以降は川之江藩が成立することはなかった。

川之江城縄張図

川之江城解説板

 川之江城のある鷲尾山は、海に面した山で、当時はもっと海に突き出した形だったと思われ、水軍を擁した河野氏らしい城地の選択である。また、陸地では、金生川などの南北を流れる川を天然の外堀とし、ある程度の防御力が期待できそうだが、争奪の歴史を見ると、それほど守るに易い城ではなかったのかもしれない。

 城の構造としては、山のやや南よりの最高部から北東へ、峰の稜線を利用して本丸、二ノ丸、三ノ丸が並ぶほか、本丸南側は古い石垣が段を成しており、当時は郭の機能があったようだ。また、駐車場部分に帯郭のようなものがあった可能性もあるが、どうだろうか。

 昭和61年(1986)から翌々年にかけて、川之江城跡は公園として整備され、模擬天守だけではなく、豪華にも模擬の多聞櫓門と涼櫓なる隅櫓が建てられていた。これ以外では、模擬天守の下段部分や南へ一段下がった場所、多聞櫓門のやや下など、明らかに古い時代の石垣が所々に残っており、これら当時の遺構をいろいろと探すのも楽しい城である。

 

最終訪問日:2008/10/22

 

 

訪れた時は、時間が遅くなってしまい、模擬天守へ入れませんでしたが、城から見る夕景は独特のものがあって、とても心地良かったですね。

ちょっと真新しく整えられ過ぎているきらいはありますが、散策が愉しいお城でした。

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