Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

横田郷土資料館

 横田地域で最も古い市があったという、古市地区にある郷土資料館。

 資料館の開館は昭和61年(1986)で、まだ合併前の横田町という町名だった頃である。資料館は、近世から近代にかけての農家の生活様式や、農具、民具などの展示を目的としており、開館当初は有料で運営されていた。だが、入館者の低迷から管理者を置かずに無料開放することとなり、地域振興のために活用する案も出されているようだが、実現には至っていないようだ。

 資料館の敷地内には、時代の違う古民家が2棟と土蔵が1棟の計3棟建っており、古い方の古民家と土蔵の並びは、古き良き近世の農村といった感じの趣が抜群だった。古民家の内部には、農具や民具が展示されており、体験したこともないはずなのに、不思議と懐かしい感じがする物ばかりである。

 管理者がいない無料開放の資料館ということで、自分が訪れた時も誰もおらず、入っていいのかどうかも分からない感じだったが、外観の雰囲気に誘われるように敷地内を散歩し、恐る恐る古民家の中へ入ってみると、内部は民俗資料館らしさがあり、雑然と農具類が置かれていた。

 土間には家畜小屋もあるのだが、これは牛や馬などの家畜を屋内に造り入れた日本独特の農家の様式といい、家畜も含め、一家総出で農作業を行った当時の姿が想像できる。2階にも展示物があり、照明を点けてウロウロと見学して回ったが、間口に比べて奥行きの深さや高さのある構造に、古き良き日本家屋らしさを感じた。

 

最終訪問日:2011/10/23

 

 

個人的には、何より太い梁が剥き出しになった天井の姿が、なんとも言えず無作為の美のような感じで非常に良かったですね。

その武骨な形に、ただただ感嘆するばかりでした。

 

安来市立歴史資料館

 中世の山陰で大勢力を誇った戦国大名尼子氏の居城、月山富田城の麓にある資料館で、昭和57年(1982)の開館。訪れた時は広瀬町時代で、広瀬町立歴史民俗資料館という名前だったが、後に市町村合併によって安来市となったため、現在の安来市立歴史資料館という名前に改称された。

 展示内容は、当然といえば当然なのだが、尼子氏に関連した中世から戦国時代のものが多く、また、富田城の城下町として発展し、今は川底に沈んでいる富田川河床遺跡の、発掘調査の成果やその遺物も収められている。

 その他には、能義郡に出土した古代の遺物や、近世から近代にかけての生活用具など、民俗資料も600点以上収蔵されていたのだが、改称の際に民俗の文字が取られており、富田城やその城下町に関する展示に特化されたのだろう。

 資料館の活用の仕方としては、月山富田城の散策にあたって、富田城に関する展示を予習的に見学するか、自分の時のように、城の散策で得た風景や感覚を知識と結びつけるために訪れたりするのが良さそうだ。資料館自体の大きさもそれほど大きくないため、展示物をじっくり見て回ってもそれほど時間が掛からず、予習や復習の学習施設として、ちょうど良い規模である。

 資料館は、道の駅広瀬・富田城に隣接しており、場所としては非常に分かりやすい。資料館の外観は、白壁の土蔵のような建物となっているが、もしかしたらこれは富田城の櫓か蔵をイメージしたものだろうか。かつて隆盛した城の麓に馴染んだ資料館である。

 

最終訪問日:2001/10/26

 

 

調べると、どうも2019年に1/600スケールの精巧なジオラマが新たに展示されているようですね。

富田城を再訪した時に見学しておくべきでした。

なかなか行く機会が無いのに、もったいない!

 

史実と伝説の美保関資料館

 美保関に関する資料を集めた資料館。一般には美保関資料館と呼ばれることが多いが、正式には、史実と伝説の美保関資料館という。美保神社の二ノ鳥居から仏谷寺まで続く青石畳通りにある。入場料は無料。

 正確な開館時期については分からなかったが、美保関町時代の美保関町商工会の資料によると、平成12年(2000)頃の青石畳通りの整備に伴って開設されたようだ。

 資料館の建物は、貞享3年(1686)にこの美保関で酒造業を創業した中浦食品株式会社の倉庫跡を活用し、美保関の庄屋を務めていた鷦鷯(ササキ)家に伝わる品々や、美保関の伝統行事、生活文化に関する展示をしている。

 鷦鷯家の鷦鷯という字は、現代ではミソサザイと読む。字を見ると解るように、鳥の名前であり、日本に生息する鳥の中でも最少の鳥のひとつである。この小鳥は、人間とは関わりが深く、記紀神話にも登場する鳥であり、古くはササキと呼ばれていた。鷦鷯を古名のササキと読むところに、神話の国である出雲と美保関の歴史の深さが感じられるだろうか。

 資料館は、美保神社と仏谷寺のほぼ中間にあり、美保関や青石畳通りのガイダンス施設としてちょうど良い。資料館に入ると、殷賑を極めた頃の美保関の様子や、当時の商業、生活、文化がどのようなものであったかが展示され、解りやすかった。やや変わったところでは、二千両箱なるものも展示されており、当時の商家としての鷦鷯家の勢いが知れる。

 

最終訪問日:2022/5/22

 

 

鷦鷯家の所蔵品が中心ということで、館には鷦鷯の表札が掲げられていたんですが、入るまでは館の名前なのかな程度に思っていました。

旅館の○○の間みたいな、特に意味の無い良き名前程度のものかと。

しかも初見では読めず笑

中の展示を見るまでは、まさか名字とは思いませんでしたね。

 

石見銀山資料館 (いも代官ミュージアム)

石見銀山資料館の正門となっている門長屋

 大正12年(1923)に閉坑となった石見銀山に関する資料館で、昭和51年(1976)8月1日に開館した。訪れた時は石見銀山資料館という名前だったが、平成19年(2007)3月にリニューアルし、現在は、いも代官ミュージアムという愛称が付けられている。ちみなに、いも代官とは、サツマイモの栽培を奨励して領民を飢饉から救った、第19代石見代官井戸平左衛門正明のことを指す。 

 石見銀山資料館の建物は、民間の資料館として創立されたという、珍しい資料館である。

 資料館の建物は、明治35年(1902)に邇摩郡役所として建てられ、後に学校や保育園として使われていた建物を、地元有志による大森観光開発協会が譲り受けて資料館としたもので、建物自体にも、大森地区を象徴するような歴史が刻まれているようだ。現在の資料館の運営は、新たに設立されたNPO法人によって行われているが、設立の経緯を知ると、地元の方の銀山への想いというのがよく解るだろうか。

 資料館の外観は、役所の建物をそのまま活用しつつ、江戸時代の支配拠点だった大森代官所の復元となっている。また、代官所当時の建物としては、江戸時代後期に建てられた門長屋が現存しており、これも資料館の正門として組み込まれていた。ちなみに代官所跡は、門長屋を含めて国指定の史跡でもある。

 展示資料は、主に江戸時代の抗夫や代官所の様子、採掘に使用された道具類などが多く、それらを描いた絵巻物や古文書などの文献資料も多い。そのほか、銀山支配の歴史に関する展示や、一段下のちょっと奥へと入った場所には、鉱物標本も公開されていた。

 訪れた日が土曜日で、朝が早かった割に観光客の姿が多かったが、資料館内にはボランティアの案内員の方もおり、思ったよりも資料館として充実した施設である。資料館があるのは、古い町並の残る大森地区の入口でもあり、石見銀山と大森地区にとってのビジターセンターの役割も担っているのだろう。

 

最終訪問日:2001/10/27

 

 

丁銀が展示されていましたが、最盛期の江戸時代初頭には、大量の丁銀が運び出されていたんでしょうね。

まさにゴールドラッシュならぬシルバーラッシュ。

当時の熱気が想像できます。

個人的には、鉱物の結晶は長い間見ていても不思議と飽きないので、もう少し鉱物標本の展示があれば嬉しかったですね。

石見銀山と関係ない展示になってしまいますけども笑

 

日御碕

 島根半島の西端の岬といわれることもあるが、正確には西端北側の岬である。

 島根半島は、約2千万年前に日本列島が大陸と分離した後、海底のプレート活動の圧力により、約1千5百万年前から1千万年前頃に掛けて、東西に広がりながら隆起した山地という。海底だった頃に火山活動が盛んだった痕跡があり、隆起後も、陸上で火山活動が続いた。

 日御碕一帯は、この頃の火山活動によって形作られた溶岩ドームを母体とし、その後の海面の変化や沈降と隆起によって、海に浸食された海蝕台となった場所で、流れ出た溶岩が急速に固まってできた流紋岩が見られ、その冷却収縮によってできた柱状節理がよく発達している。

日御碕と出雲日御碕灯台

 この日御碕に建つ出雲日御碕灯台は、北緯35度26分02秒、東経132度37分45秒に位置し、明治36年(1903)4月1日に初点灯した大型の石造洋式灯台で、建設当初から日本一の高さを誇っており、43.65mの高さは、今でも石造灯台としては日本一という。

 また、日本から5つが選定されている、世界各国の歴史的に特に重要な灯台100選のひとつでもあり、石を積み重ねた凹凸が見られるレトロな外観と、スマートに高く伸びた塔、そしてモダンな頂上部が、目の覚めるような白色の灯台として融合しており、非常に秀麗である。また、参観灯台にもなっており、上まで登ることが可能だ。

出雲日御碕灯台を下から

 日御碕灯台付近は、駐車場も整備された観光地となっており、ビジターセンターや土産物、宿泊施設があるほか、灯台や展望台までの遊歩道も整備され、夕刻というのもあって観光客も多かった。

 日御碕という名前でも解るように、古代には陽が沈む聖地として尊崇されたともいわれており、夕日や夕景の名勝としても知られているが、現地で水平線を目の前にすると、この何も無い水平線に落ちる太陽を見たならば、神々しさを感じたというのも頷ける。柱状節理もそうだが、学問的な知識の無い古代の人達には、岬一帯は人知を超えた何かを感じる場所であったのだろう。

日御碕東側に広がる出雲松島の眺望

 

最終訪問日:2022/5/22

 

 

駐車場では、西日本各地のナンバーが見られましたが、意外と島根県下のナンバーが多かったですね。

バイクで来てた若者グループも島根ナンバーでした。

島根県の人達には、軽くドライブしたり軽くツーリングしたりする場所になっているのかも知れないですね。

 

宍道湖

松江城からの宍道湖の眺め

 宍道湖は、人工水路である佐陀川や、中海を経由して境水道という非常に狭い海峡を通じて日本海と繋がっているため、海水の1/10程度の塩分濃度があるという汽水湖であり、ラムサール条約にも登録されている。周囲約47km、面積79.25km2で、国内第7位という大きさを持っているが、最大水深は6.4m、平均水深は5m以下と、かなり浅い。ただし、法律的には、斐伊川の一部として扱われている。

 宍道湖一帯は、約2万年前の氷河期の頃には陸地であり、西流する古宍道川水系が流れる流路であった。その後、約7千年前の縄文期には、温暖化による海水面の上昇によって海水が奥まで入り込み、神西湖の辺りまでを含んだ、広大な古宍道湾を形成するようになる。

 そして、約5千年前から4千年前頃に掛けての頃には、斐伊川や神戸川が運んだ土砂の堆積作用と、三瓶山からの大量の噴出物によって、湾が西側で二分され、海から分断された湾奥部は、古宍道湖という海跡湖となった。これにより、流れ込む河川の水は、それまでと反対側の古中海湾へと流れるようになり、東の古中海湾と繋がる宍道湖の原型ができたのである。

 だが、この頃は斐伊川がまだ西流しており、古宍道湖には流れ込んでいなかった。時代が下ると、たたら製鉄の発達などによって、斐伊川の運ぶ土砂による堆積作用が続いたことで河床が高くなり、江戸時代の寛永12年(1635)の洪水によって斐伊川の東流が始まる。そして、同16年(1639)の堤防決壊によって東流が固定化し、淡水湖としての宍道湖になった。

 ただし、淡水化が急速に進んだのは、湖底の堆積物の調査から、一説に13世紀のことであったともいう。その説に従えば、斐伊川の本格的な東流もその頃と推測されるが、実際はどうだったのだろうか。

 その後、佐陀川の開削や大橋川の浚渫によって再び海水が入るようになり、塩分濃度の低い現在の汽水湖の姿となっている。

 宍道湖では、シジミを始めとして、ウナギ、ワカサギ、シラウオ、コイ、スズキ、エビといった、宍道湖七珍と呼ばれる水産物を産出することからわかるように、多様で独特な生態系を持っているが、中海と併せたこの水域は、農地確保のための干拓と淡水化工事により、その環境が激変する恐れがあった。

 実際、昭和43年(1968)に工事が始まると、全国の湖沼のなかでも第1位の漁獲量であったシジミが減るなど、環境への影響が如実に表れて来るようになる。このような事情を背景として、次第に反対運動が高まり、平成14年(2002)に淡水化工事の中止が決定した。

 湖岸に立つと、宍道湖を取り巻いていたそれらの人間の騒動とは無関係に、湖はとても静かに佇んでいる。位置的には、日本海に非常に近いのだが、その荒波のイメージとは180度違い、湖面が近く、穏やかで雄大なイメージを受ける湖だった。また、東西に長い形から、夕日が美しい湖として知られている。

 

最終訪問日:2022/5/23

 

 

湖岸でふと思ったんですが、南岸にはJRが通り、北岸には一畑電鉄が走っているので、バイクではなく鉄道で一周するのも、情緒があっていいかもしれないですね。

だらだらと、夕日を眺めながら何をするでもない時間を過ごしてみたい湖です。

 

地蔵崎

地蔵崎に建つ美保関灯台の近景

 島根半島の東端の岬。

 地蔵崎は、記紀神話では美保ヶ崎の名で登場し、国譲りの神話では、大国主が天照大神から派遣された建御雷神に国譲りを問われた際、子神の事代主に聞くように言ったのだが、事代主は鳥や魚を獲りに出掛けており、漁をしていた場所がこの岬であるという。そのため、地蔵崎の南西にある美保関の美保神社は、全国の事代主を祀る全国の神社の総本宮を称している。

 中世に入ると、北山山地によって北からの風浪を遮られる島根半島東側の南面は湊として栄え、国内の日本海側の各湊との交易のみならず、やがて海外とも交易する湊となった。

美保関灯台解説板

 船乗りにとっては、地蔵崎が見えると湊が近いという、安堵の対象だったかと思われ、それが沖の御前と地蔵崎への信仰に結び付いたのだろう。地蔵崎の名は、そのような出入りする船乗りから、地蔵が多く奉納されていたことに由来している。

 地蔵崎には、航行の安全を図るべく、崖上に灯台が設置されているのだが、この灯台は、明治31年(1898)11月8日に初点灯した山陰最古の灯台という。当初は地蔵埼灯台という名であったが、全国に地蔵崎という名が多いため、昭和10年(1935)に美保関灯台へ改称されたといい、北緯35度34分02秒、東経133度19分32秒に位置している。

 フランス人技師の指導によって石造りで建てられた灯台は、非常にレトロな姿をしており、平成19年(2007)に、灯台としては初の登録有形文化財に登録され、翌々年には近代化産業遺産にも認定された。

地蔵崎と美保関灯台の遠景

 また、日本から5つの灯台が選ばれた、世界各国の歴史的に特に重要な灯台100選のひとつであり、さらには日本の灯台50選に選ばれているほか、当然のようにAランクの保存灯台である。これらの登録や認定の多さに、灯台の歴史が凝縮されているようだ。

 県道の終点の駐車場から、灯台へと坂を上ってみると、海を一望できる展望台があるほか、職員が駐在していた当時の官舎を改装したビュッフェがあり、眺望が抜群なのはもちろんだが、すっきりとした小洒落た空間となっていた。特に展望台は、ほかの灯台よりも遥かに広く大きく、ゆったりと過ごす事ができる空間となっており、本を持ち込んで小一時間過ごしたくなるほどである。

 

最終訪問日:2022/5/22

 

 

訪れた日は、雲ひとつ無い快晴で、どこまでも続く青い空と青い海が尋常じゃなく爽快でした。

これぞ灯台訪問日和。

ラッキーでしたね。

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