『マンガ日本の歴史 25  織田信長の天下布武』 by 石ノ森章太郎

マンガ日本の歴史 25 
織田信長の天下布武
石ノ森章太郎
中央公論社
1991年11月5日 初版印刷
1991年11月20日 初版発行

 

 『マンガ日本の歴史 24 自立する戦国大名』の続き。24巻では、 様々な 戦国の武士たちが登場してきたなか、織田信長が登場し、 桶狭間の戦いで 今川義元を破る。25巻では、織田信長の世界!!

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目次
序章  キリスト教の伝来
第一章  天下布武
第二章  一向一揆との戦い
第三章 「万国安寧」を目指して

 

時代は 16世紀。 ヨーロッパでは大航海時代の真っただ中。日本にも、イエズス会のキリスト教布教という形で南蛮文化が入り込む。そんな時代の織田信長の活躍について。

 

1560年、桶狭間の戦いで今川義元を倒した信長は、 正親町(おおぎまち)天皇の信頼をとりつけ、将軍足利義昭とともに、京に上がる。

 

義昭の近臣が、細川藤孝(のちの幽斎)で、ともに義昭をささえていたのが、明智光秀。このあたりは、明智光秀の話に詳しい。

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明智光秀や、細川藤孝に頼まれるかたちで義昭を京をあがらせることに成功した信長だが、信長にとって義昭は傀儡でしかなかった。それを是としない義昭とは後に対立。

 

1570年 信長は、 一乗谷の朝倉義景を打つ べく 兵を挙げる。しかし、近江の浅井長政が信長派から朝倉支援に寝返ったことから、一度は信長軍は敗走。その時しんがりを務めたのは 木下藤吉郎(秀吉)。浅井長政のところへ嫁入りしていたお市は、信長の妹。お市にとっては、夫が兄を裏切った、、、ということになる。

 

1571年、 信長は、朝倉に加担したとして 比叡山延暦寺を焼き討ち。

1572年、 家康が武田信玄に敗れる。が、その後、武田信玄は死亡。

1573年、 義昭が信長に対して挙兵するが、敗れる。 室町幕府 消滅。 この時信長は、元亀から天正へと改元する。天正は、信長の時代。天正遣欧使節がおくられた時代。

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1575年(天正3年)、 長篠の戦いで 信長と家康の軍は 武田軍を破る。この時、鉄砲が活躍。

1576年(天正4年)、 安土城普請に着手。天正7年に竣工。建築史上まれな個性的7階建ての構造。内部は各階とも和様・唐様の絵画で飾られた。

 

多くの国をおさめた信長にとって、敵は、関東の北条、中国の毛利、摂津・ 石山本願寺 を中心とした 一向宗となっていた。 一向宗や 法華宗に手をやいた信長は、 オルガンチに教会設立、ヴァリニャーノに進学校の設立を許す。また、楽市楽座、検地のしくみを整える。

 

1578年(天正6年)、 越後国 春日城にて 上杉謙信 病没。
安土宗論で、 浄土宗と法華宗をその教義について戦わせ、法華宗が敗北。

 

1581年 (天正9年)2月28日 「お馬揃え」京でデモンストレーション。自らの力を誇る。

1582年(天正10年)5月。 家康をもてなす宴の準備にケチをつけて、明智光秀に激怒。
同年 6月2日 毛利攻めに向かおうとしていた矢先、本能寺の変。明智光秀の謀叛で信長倒れる。一緒に、森蘭丸も死亡。


明智光秀が信長を裏切った本当の理由は、なんだったのだろうか、、、と、気になるところだが、、、。
そして、信長亡き後、秀吉の時代へ、、、。

 

安土城、今は跡しか残っていないのは、いかにも残念。私は、コロナ前に、安土城址の上まで登ったことがある。琵琶湖が見渡せ、振り返れば平地と遠くに連なる山々と、、、。7階建てともなれば、それよりもさらに高いところから信長は近江の一帯をみおろしていたのだろう。階段を上っていく途中には、「森蘭丸の部屋」とされている場所もあったと記憶している。主と共に炎に消えた美男子。どんな一生だったのかなぁ・・。

 

戦国時代って、やっぱり、ちょっと、、、特別な感じがする。

でも、私は、決して詳しくない・・・。

しょせん、殺し合いでしょ、、、とも思ってしまうのだ。

野蛮だったよなぁ・・・。

 

でもそれもまた、歴史の事実。

岡さんも、それはそれで、信長のやるべきことだったと言っているし。

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やっぱり、歴史を知っておくというのは、物事の理解に役立つ。