『マンガ日本の歴史 24 自立する戦国大名』  by 石ノ森章太郎

マンガ日本の歴史 24
自立する戦国大名
石ノ森章太郎
中央公論社
1991年10月5日 初版印刷
1991年10月20日 初版発行


 『マンガ日本の歴史 23 弥陀の光明をかかげて』の続き。23巻では、応仁の乱の混乱に加えて、一向宗と法華宗の対立。ようやく両宗の対立が終息したころ、種子島には鉄砲伝来。24巻では、まさに戦国時代!!

 

目次
序章 戦国の群雄たち
第一章  国盗り物語
第二章  鉄砲伝来と戦国期の技術
第三章  戦国大名の争覇戦
第四章  信長の擡頭

 

1493年、細川政元(まさもと)によるクーデターで幽閉されていた足利幕府10代将軍義材(よしき、流れ公方と呼ばれた)が、暴風雨に乗じて脱出する。が、その将軍が京都にもどるまでには14年の月日をまつこととなる・・・。
その間、 全国各地で権力の地方分権化が顕在化。 いわゆる 戦国大名が登場。

 

代表的戦国大名。

・北条早雲(伊勢宗瑞): 牢人から身を興し、まず伊豆・相模の両国を納めた。連歌師・宗長はその人物像を「 針をも蔵に積むような細心の蓄財をし、 合戦には玉をも砕くような 大胆な使い方をする仁」と評した。

 

・ 上杉謙信 (長尾景虎): 川中島で信玄と5回にわたって 太刀を交え、 十数回の関東外征を重ねた武将中の武将。名分を重んじ、潔癖で一生女性を近づけず、酒と合戦をこよなく愛した。

 

・ 武田信玄(晴信): 「人は城、人は石垣、 人は堀、情は味方、あだは敵なり」という歌を詠み、 武将としてだけではなく政治家としても一流であった。

 

・ 毛利元就:国人から伸し上り、 強力な権力を築いた。「 計略こそが 戦国大名 への唯一の道である」 という信念で、 次男、三男をそれぞれ吉川、 小早川家へ養子として出し、他家を乗っ取って毛利・両川体制を確立する。

 

そして、 織田信長が 桶狭間で 今川義元の大群を打ち破る直前の戦国大名の版図。

 

そして、それぞれの地域で戦国大名が争い合う。

 

立派に民政をおこなう武将もいれば、私利私欲なダメな人、などなど、、、。細川政元は奇行も多く、最後は家臣に裏切られて切られる。が、その家臣も別の家臣の反撃であっけなく戦死。

 

各地で立派な民政をおこない、活躍した戦国武士は以下の通り。
・武田晴信:甲斐
・長尾景虎:越後
・毛利元就:安芸
・今川義元:駿河
・織田信長:尾張
・三好長慶:畿内 (一向 vs 法華をしずめた、千熊丸)
・北条早雲:関東
・伊達穂宗:奥羽
・尼子経久:山陰
・長宗我部元親:四国
・龍造寺隆信:九州

 

一方で、だめ武将といわれたのは、土岐頼藝(美濃)、細川晴元(畿内)、大内義隆(周防)など、、、、。

 

本書では、とくに、ダメ将軍として細川、立派な将軍として北条早雲のことが詳しく紹介されている。

 

伊豆、相模を手に入れた早雲は、小田原城を取り、1512年には念願の鎌倉入りをはたす。早雲は、『早雲寺殿廿一箇条』なる自分の生活のルールを書き残している。それによれば、

早起き
便所・厩・庭・門の見回り、掃除
洗面

と、早起きを推奨し、礼儀の基本をとなえた。

 

「大切なのは善き友を求めることだ。
善い供とは手習いの学問の友。
悪友とは碁・将棋・笛・尺八などの友」

 

「暮れの六つには門を閉じ、台所から中居(奥の間)まで火の用心を見て回る」


「五つ(午後8時)前には、寝たほうがいい。なぜなら泥棒は子丑の頃に忍び込むから、寝入りばなに入られたら気づかぬことになる・・・・」

 

早雲は、こまごまと気を使う人だった。この細心さが、領国経営と戦闘という戦国大名の大仕事を可能にした・・・。

 

そして、鉄砲伝来。戦いの様子を変える。また、綿布が兵衣や帆布として普及する。大鋸(おが)は、木材の加工を容易にし、板の大量生産を可能とする。それは家屋に革命的な変化をもたらし、城下町の建設を促した。

城と城下町の発展には、技術の発展が土台となっていたのだ。

 

西国では毛利家、東国では北条早雲におくれて甲斐の武田、越後の景虎、、と各地で各戦国大名が権力をふるう。

 

戦国大名にとって大事なことは、領国経済の根源である 農業生産の安定と発展、 年貢の確実な収取だった。 そのために、治山、治水事業が積極的に行われた。特に、武田晴信の釜無川での治水は有名。

 

1553年、武田・上杉氏の宿命の対決「川中島合戦」が火ぶたを切る。戦いは、都合5回におよんだ。

 

春日山の景虎は、1560年、三国峠を越えて関東にはいり、翌年、ついには鎌倉八幡宮にて関東管領職を引き継ぐ。

将軍不在の京では、三好長慶が一向 vs 法華の戦いをしずめて以来、平穏を維持していた。がその家臣・松永久秀は後に長慶の子・義興を毒殺し、将軍義輝をも謀殺する。久秀に反撃した三好三人衆が立てこもるなら東大寺大仏殿にも火を放つ。機内は、不安定な時代へと後戻り。

 

そのころ擡頭しはじめたのが、今川義元、 斎藤道三(利政)、 織田信長。

・ 今川義元: 足利市の一門として南北朝以来、駿河守護を務めてきた名家。父・氏親の代に 戦国大名 への脱皮を遂げた。 駿河、遠江、三河 3カ国の大領主。京風な文化人。

 

・ 斎藤道三(利政):京・明覚寺の僧を父にもち、土岐氏の重臣の立場で美濃守護・土岐頼武を追放、土岐頼藝(よりなり)を擁立して実験を握るが、1552年その頼藝を追放し、名実ともに美濃の支配者となる。

 

・ 織田信長: 織田家庶流の信秀より 家督を継いだ 信長は、 その奇行から「うつけ者」と評された世評を一変させ、宗家の守護代・織田信友(広信)を一蹴し、清州に居城を構える。

 

今川義元のもとで人質であり、客人でもあったのが竹千代= 松平元康= 徳川家康。

1560年、桶狭間の戦い。わずか2000の信長軍は、今川義元を破る。

そして、激動の戦国末期へ・・・。

 

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