雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

問題はゆとり教育ではなく

教育論というのは難しくて,これは大概のひとが教育者でないにも関わらず,自分も教育を受けたことがあるというだけの理由で教育について一家言を持っているからだ.blogの賑やかしになれど,教育と年金は選挙の論点には向かない.公約通りに物事が転んだ試しがないし議論そのものが混乱している.だから選挙で年金や教育についてしたり顔でラジカルなことをいう奴を僕は疑ってかかる.まあ自分自身,これからそういうことを書こうとしている訳だが.
にしても小学校で英語を教えるという話は筋が悪い.だいたい小学校の先生が英語を教えて意味があるのだろうか.耳が英語の発音に慣れるほど教える訳ではないようだし,普段から英語を使っている先生の割合はかなり低いだろう.苦手意識を持った先生が,戸惑いながら未成熟な教科書で英語を教えるようになれば,時間をかけて児童に英語への苦手意識を植え付けるだけに終わりかねない.
僕は実際,中学の時に英語への苦手意識を植え付けられたが,その時の先生は留学生に対して英語が通じていなかった.中学・高校・大学と英語の成績を理由に留年し,それとは別に大学受験で一浪しているが,仕事での海外取材は18歳の頃からだし,いまは外資系企業で日米を飛び回り,連日のように英語でメールをやりとりし電話会議もしている.学校英語をいくら頑張っても耳も発音も直らないし,タドタドしく用事をこなす分には社会人になって英語の勉強を始めたって充分に間に合う.発音は酷くても中身があれば丁寧に聞いてくれるし,こちらが聞き取れないと分かれば向こうも配慮して平易な表現を使ってくれるものである.会議とか講演で困ることはあるけどね,それだって場数を踏むかどうかの問題であって,小学校で英語を学べば解決する問題じゃあない.
巷には英語とコンピュータができるかで雇用可能性が大きく変わるという議論もあるが,これは需給が逼迫している今だからであって,学校で教えて学力が変わらなければ時間の無駄だし,底上げされれば需給が崩れて雇用可能性に響かなくなるだけだ.ゆとり教育もそうだが,教育というのは社会に影響を与える因果関係が判明するのはかなり後になってからなので,全国一律で何かを決めて横並びで実行するということのリスクは大きい.特に役所のような失敗を認めるまで長い時間のかかる体質の官僚組織では,失敗が明らかになっても引き返すことは難しく傷を広げてしまう.
そもそも通時的評価が難しいのであれば,共時的評価を短期的にできる仕掛けこそがフィードバックルールをつくる鍵となる.つまり授業時間やカリキュラムを縛る横並びはやめて,達成すべき学力水準などの出口で教育品質を担保し,同じタイミングで様々なアプローチを比較検討すべきだ.そして優れた結果を出した試みのみ横展開を進めればよい.データを基に議論すれば,教育にありがちな不毛な宗教論争を排除することもできる.
例えば学習指導要領を撤廃し,各学年の進級要件に全国共通進級試験を据える.飛び級も留年も積極的に認め,教室の多様性が増せば,いじめは減るのではないか.教科については引き続き専任の教師が担当するとして,学校経営や進路指導,学級担任には社会経験の豊富な人間も深く関わるようにして,内輪の理屈を壊す.年金支給年齢が上がったこともあり,引退後のいい仕事になる.
ゆとり教育という割に学校の先生の負荷は大きいようだ.それはここ数十年で地域コミュニティが崩壊して学校に期待される役割が大幅に増えたこと,年齢構成が歪であるために若手教員の業務量が増えすぎたこと,教育が政治的な槍玉に挙げられることが増えて意味のない調査で事務仕事が大幅に増え,総合学習の時間など詰まっていない施策が次々と下りてきたことがあるのではないか.
教育政策でやるべきことがあるとすれば,思いつきのような施策の乱発と微調整ではなく,分権を進めて新たな試みを促しつつ,その効果を横並びで測定してベストプラクティスを横展開する一方で,疲弊している先生を人的な面でサポートし,指導に専念できる環境を用意するところから始めるべきだ.官僚の作文や政治家の思い付きに現場が振り回される風景はもう見飽きた.