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時折マンガの話をします。

『がっこうぐらし!』6巻の演出の話とか

先日、『がっこうぐらし!』の最新刊6巻が発売されました。



今期放映されているアニメでは、恐らく屈指の話題作であるかと思います。第1話から随所に射し込まれる、視聴者に揺さぶりをかけるような不穏な演出が見事だと思います。
原作の単行本と比較してみると、アニメでは構成をけっこう変更していたりするのが判ったりするのも面白いですね。私見では、アニメ版のほうが、不穏さ・疑念を少しずつ積み重ねていくかたちになっているかな、と。


それはそれとして、最新刊6巻を読んだ訳ですが、この巻で用いられた演出がなかなか興味深く感じられたので、ちょっとそれらについて書き連ねてみようかと思います。



【注意】ここから先はネタバレ多数です。アニメ版の話も絡めつつ、かなり内容に言及するので、読み進める際はご注意願います。


マンガのほうを読んでいる方も、アニメを観ている方も、『がっこうぐらし!』という作品において「めぐねえ」が重要な位置を占めているという点に異議を唱える人はあまりいないかと思います。


その前に『がっこうぐらし!』の舞台設定を簡単に説明しておきますと、ある日突然、原因も判然としないまま、ゾンビが発生してしまった世界が作品舞台となります。ゾンビは人を襲い、噛まれてしまうと感染してしまうが、嘗ての生活習慣を模倣する傾向があり、夜は比較的動かない習性があります。
舞台となる高校でも生徒・教師共に次々とゾンビへと変貌していく訳ですが、屋上にいたことでそれを逃れることができたのが、生徒のゆき・くるみ・りーさんの3人と、国語教師のめぐねえになります。そしてこの4人は、紆余曲折を経て、「学園生活部」という部活動という名目で、学校内で生活を始める訳ですね。


そしてこれが重要なのですが、この作品が始まった時点において、めぐねえは既に生きてはいない。にも関わらず、そこに普通に存在するかのようが描写が為されます。
これはゆきの視点です。ゆきはこの未曾有の惨事が、最初から存在していないかのように振舞っています。学園生活は普通に続いていて、学園生活部の活動を楽しんでいるかのように。そしてめぐねえとも会話をしている。その「ゆきが見ている世界」の光景が、「ゾンビが徘徊している実際の世界」の光景と溶け込むように描かれている。それが作品全体に、ぎこちなさと不穏さを漂わせています。


アニメ版では、第2話でその点が顕著に現れていました。

  • 部室でめぐねえがいるものの、実はゆきとしか会話をしていない
  • ゆき達がバリケードを越える場面ではいなかったのに廊下で突然現れた
  • 図書室でゆきがめぐねえにお礼を言った際、りーさんが続いてお礼を言う際に一瞬の間があった(ゆきの言動から、そこにめぐねえが「いる」ことを察したと思われる)

といった演出ですね。見事だったと思います。


この演出、小説で言えば叙述トリックに近い手法だと思う訳ですが、この演出、実はマンガでは1巻の第5話「まぼろし」までしか使われていません。第6話以降、めぐねえは回想・或いはめぐねえ視点で綴られる物語でしか登場しないんですね。
2巻では、もう1人の仲間・みーくんのエピソードになります。ゾンビものの華といえるショッピングモールを舞台にした、ゆき達とみーくんの出逢いと学校への帰還です。
そしてみーくんの視点が加わることにより、「ゆきが見ている世界」と「実際の世界」との齟齬は決定的なものとなります。



(原作 海法紀光・作画 千葉サドル『がっこうぐらし!』3巻8ページ。)


ゆきはめぐねえと会話をしているものの、実際には存在しないめぐねえと会話している奇妙な姿を前にして、みーくんは戸惑いを隠せずにいます。
「ゆきが見ている世界」の光景と「ゾンビが徘徊している実際の世界」の光景が溶け込むように描かれるには、周囲の人間全員が「そういうお約束だ」ということを理解している必要がある、と言うこともできるかと。それを知らないみーくんの視点が現れたとき、虚構の世界は崩れ去ってしまう。



ずいぶん前振りが長くなってしまいましたが、6巻ではこの叙述トリック的な演出が再登場します。そしてそれは、最も落ち着いていて、それまで長く彼女たちのまとめ役を務めてきた、りーさんが「見ている世界」なのですね。


そこに至るまでを説明するのには、5巻のあたりを中心に説明していく必要があります。
りーさんは皆のまとめ役として、努めて落ち着いて冷静に行動します。しかしそれは、実に危うい均衡の上に成り立っていることが、原作を読み進めていくと少しずつ判ってくるのですね。学園生活部の活動を1日1日と着実に積み重ね、学校内で平穏に生活を続ける。りーさんはそれを自らに課すことで、精神のバランスを保っているということが浮き彫りになってきます。
それ故に、平穏を脅かすものに過敏に反応します。くるみが「噛まれてしまい」感染してしまった際の振る舞いもそうですね。そして決定的なのが、捜索・救助のために飛んでいた自衛隊のヘリが校庭に墜落してしまうエピソード(5å·»35〜60ページ、第26話「そらからの」)です。


墜落し、爆発炎上するヘリ。
これはゆきとりーさんにとって、象徴的な意味を持ちます。
「がっこうぐらし」という世界に強引に介入してきた外部の存在。
「がっこうぐらし」の終わり。

楽しい日々はもうおしまい
名残惜しいけど仕方がない
思い出を力に変えて
気持ちを入れ替えて頑張ろう
今日から始まるのはー


(前掲書5å·»58〜60ページ。)

予習復習はやるほうだ
すぐには見えなくても積み重ねが大事
そうでしょ?
一度に少しずつ
それが大きなものになる
そう思ったから頑張れた
学園生活部をみんなと一緒に積み上げた
なのに......


(前掲書5å·»61〜62ページ。)


ヘリの爆発を目の当たりにした際の独白です。
上がゆき、下がりーさん。
ゆきは「終わり」を見て覚悟を決め、りーさんは絶望している。
鮮やかな、且つ残酷な対比となっています。
そしてこの回以降、少しずつゆきとりーさんの立ち位置が変わっていきます。


そして5巻の最後で、ゆき・くるみ・りーさん・みーくんの4人は学校を「卒業」し、別の場所へと旅立ちます。



このあたり(6巻)になると、ゆきはめぐねえと会話をしません。ゆきは「卒業」したのですね。しかしりーさんはまだ学校に囚われている。めぐねえの存在を意識しはじめ、学校へ戻ることを無意識に考えてしまう。
更には妹の幻影もちらつき始める。


そして旅の途中、彼女たちはメッセージを発見します。
小学校に子供たちが残っている、助けて欲しいという内容。そしてそこは、(恐らく)りーさんの妹が通っていた小学校でもあります。明らかに動揺し、危うい精神状況になっているりーさん。
妹がいるかもしれない、誰か残っているかもしれない、そんな思いに囚われたりーさんは、小学校へと向かいます。しかしそこは、既にゾンビの巣窟となっていました。
くるみやゆきに連れ戻されるりーさん。しかし生存者がいることを疑わないりーさんは、皆が寝ている間に単身小学校へ入っていきます。
そして再び戻ってきたりーさんを描いたコマがこちらです。



(前掲書6巻136ページ。)


あどけない表情を浮かべた少女を連れて、戻ってきたりーさん。
そう、これが「りーさんが見ている世界」、りーさん主観で描かれた光景です。
この少女は存在しない。
しかしりーさん以外の全員、ゆき・くるみ・みーくんの3人は、りーさんがどのように自らの世界を見ているかを理解しています。故に、この少女は存在するものとして描かれている訳です。


実際には存在しないことを仄めかす描写も、随所に描かれています。



(同書137ページ。)


戻ってきたりーさんを見た直後のくるみ・みーくん。
りーさんが連れている「少女」に対し、「それ」という表現を用いています。それは、人ではない何かを指して使っていると推測できます。



(同書149ページ。)


りーさんがゆきを交えて、少女と談笑している場面が遠景に描かれています。
ほんらい少女がいる筈の場所は、窓枠によって巧妙に隠されています。巧い演出ですね。



(同書153ページ。)


食事シーン。コマの右側に少女が描かれていますが、少女の前に置かれている皿には、何も食べ物が入れられていない点に注目です。


  • 「擬人化」の深化


さて、この少女は実在しないと先程書きましたが、かと言って完全な幻影という訳でもありません。では何なのかと言いますと、



(同書119ページ。)

ゆきが持ち歩いていたクマのぬいぐるみ「グーマちゃん」。
りーさんはこのグーマちゃんを、少女だと思い込んでいるのです。
先程上げた、136ページの少女の姿と比較してみてください。



ぬいぐるみの耳と、髪飾りの形状が同じです。
口髭とリボンの形が同じです。
ぬいぐるみ自体の縫い目と、服の縫い目の場所も同じです。


言うならば、この少女はクマのぬいぐるみを擬人化した姿です。
しかし、擬人化という手法を、このように巧みに物語に組み込んだ例は非常に少ないのではないか(自分が知らないだけかもしれませんが)。


擬人化って、最初期だと『びんちょうタン』とかになるんでしょうか。
類似作品が少しずつ増え、ジャンルとして少しずつ定着し、『ヘタリア』あたりで広く普及して、という流れだと思います。
そして擬人化する対象の特徴を類型的且つ誇張して描いたり、それらのやりとりを描くことで笑いを生み出すというのが「擬人化」というジャンルの主流だと思う訳ですね。
そのいっぽうで、擬人化を必然に近いかたちで、非擬人化作品において描くという演出も存在する。
擬人化という手法に幅・深みが出てきたのかな、と考えたりもします。



演出も興味深く、物語的にも大きな転機を迎えている『がっこうぐらし!』
次巻以降にも大きな期待を寄せています。
といったところで、本日はこのあたりにて。