静岡 - 家康の遺産

 静岡県と言えば富士山。県庁所在地の静岡の街からももちろん美しい姿を望むことができる。

静岡市街(徳願寺から)
後方に富士山と日本平(右端)。手前は安倍川

県庁展望ロビー(21階)から富士山方面

日本平から富士山と清水港

静岡県庁

県庁展望ロビーから市街中心部
後方左側は日本平。右側は駿河湾

 静岡の街は、明治維新以前は駿府と呼ばれる城下町かつ東海道の宿場だった。駿府城は、豊臣秀吉の天下の頃、浜松城から移った家康が築いたものだ。築城後まもなく家康は江戸に移封され、天下取りの後に江戸幕府を開く。時が経って将軍職を息子に譲った後の家康の隠居先は駿府城だった。隠居にあたり、大城郭へと改築している。現在、天守台の遺構の発掘調査が続いているが、推測される天守閣の大きさは従来の想像を超えるものらしい。家康が駿府を隠居の地に選んだ理由はひとつではないだろうが、富士山の眺望は必ずそのひとつだったと思う。なお、最後の将軍・慶喜も駿府に隠居している。

駿府城趾

駿府城趾公園の家康像

家康の手植えと伝わる蜜柑の樹(駿府城趾公園)

天守台発掘調査現場(駿府城趾公園)

旧東海道

慶喜屋敷跡(市街中心部)

県庁展望ロビーから駿府城趾公園。
後方一番手前の山が賤機山。麓に浅間神社が見える。

 明治維新の際に街は「静岡」に改名したが、その名の由来となった山が賤機山(しずはたやま)である。その賤機山の麓に静岡浅間神社がある。古来から鎮座した神社を、賤機山を巡る戦いで家康が焼き払ってしまい、その後家康自ら再建したものだという。以来、徳川将軍家代々の厚い庇護を受けたそうだ。今は市民の信奉厚い。七五三詣りで賑わっていた。

浅間神社・拝殿(修復中)

浅間神社・楼門

 家康は駿府で亡くなり、現静岡市内の久能山に葬られた。(一年後に日光に移葬)そこには、後の将軍二代により、東照宮が造営されている。久能山及びこれと一体の日本平は、北側は緩やかな斜面で車でも登ることができる。一方、太平洋(国際標準ではフィリピン海)に面する南側は断崖になっている。久能山東照宮の表参道入口は断崖の下にあり、ここから1100段以上のつづら折りの石段が山上まで続く。この石段、3m程の幅があり、石造りの欄干もあって立派なものだ。家康の墓所でなければ、建設困難な断崖に、こんな立派な参道は造られなかっただろう。

家康廟

久能山東照宮・拝殿

久能山東照宮・唐門

久能山東照宮・楼門

崖下から続くつづら折りの石段の表参道

崖下の表参道入口

 

大阪大学のキャンパス - 豊中・吹田

 大阪大学の発祥の地・中之島キャンパスについては以前に触れた。今回は現行の二つのキャンパスを取り上げる。

豊中キャンパス

通称:阪大坂
構内に入っても校舎群まで坂を登る。

阪急石橋阪大前駅

 都心・梅田から電車で30分足らずの大阪郊外、主に文系学部と理学部、基礎工学部などのキャンパスとなっている豊中キャンパスは、元は大阪医大附属病院分院そして旧制浪速高等学校があったが、その開設以前は待兼山(まちかねやま)という丘陵地で山林だった。今も残る旧制浪速高等学校の校舎が「大阪大学会館」として象徴的な校舎となっている他、病院分院の建物は「総合学術博物館」になり、記念庭園の「浪高庭園」もあって、キャンパスの歴史が大切にされている。

大阪大学会館

総合学術博物館

浪高庭園

 豊中市から北隣の池田市にかけての一帯は、東側に待兼山のような丘陵が連なり、西側は猪名川沿いの低地になっている。低地を見下ろす丘陵の裾には、古墳がいくつも並んでいる。豊中キャンパス内にも古墳が4つもある他、工事の度に古代の遺物が出土している。発掘された出土品は総合学術博物館で見ることができる。

待兼山5号墳
発掘地は駐輪場になっている。

 旧制浪速高等学校の校地だけでは足りないから、待兼山を開削して豊中キャンパスはどんどん拡張された。1964年、校舎建設工事中に古代ワニの化石が発見され、このワニの新種はマチカネワニと命名された。発見された化石の実物は同じく総合学術博物館に展示されている。大学や豊中市のマスコットがワニなのも、この発見化石に由来する。

マチカネワニ化石レプリカ
(総合学術博物館展示。実物は撮影禁止だった。)

豊中市のマンホール蓋
(総合学術博物館展示)

 吹田市の千里丘陵にあるのが吹田キャンパスだ。1968年の工学部の移転を皮切りに、次々と学部や機関が移転して来て、1980年には大学本部も中之島から移転している。1993年の医学部と同附属病院の移転でひとまず落ち着いたが、約100万㎡の広大な敷地は、まだ空地があって、将来の増設が可能だ。(東大本郷56㎡、京大吉田75㎡)

吹田キャンパス正門

大学本部事務棟

医学部

医学部附属病院

 吹田キャンパス開設当初の千里丘陵は、ようやく一部で住宅団地の開発が始まった頃だった。1970年にキャンパスの隣接地(現万博記念公園)で大阪万博が開かれたのを契機に、急速に開発が進展。都心への鉄道も整備された大住宅団地になった。しかしながら吹田キャンパスには至近に鉄道がなく、長らく交通不便だったが、1998年に大阪モノレールの支線が開業してかなり改善している。

大阪モノレール阪大病院前駅

 帝大としては後発ながら、東大・京大に次ぐ水準の学術的成果を誇る大阪大学。郊外の広大なキャンパスに新しい施設を次々と建設することができた環境が、大学の発展に寄与したことは間違いないだろう。

(なお、大阪大学にはもう一つ箕面キャンパスがあるが、これは2007年に法人合併で統合した旧大阪外国語大学の流れを汲む外国語学部のキャンパスである。今回は触れない。)

浜松(静岡県) ー 日本最大のベンチャー都市

 静岡県の浜松市。人口約80万、県庁所在地の静岡市を上回る県最大都市だ。近代以降の日本で、県庁所在地でなくて都市が大きく発達するケースには、何らかの大きな産業が絡んでいる。浜松の場合もこの例外ではない。と言うか、その代表格といえよう。

浜松市役所

 非県庁所在地で最大の都市は北九州市だ(首都圏、関西圏の衛星都市は除く)。明治期に設立された官営製鉄所が核となって大工業地帯に発展したもので、国策によるところが大きい。これに次ぐ人口規模の浜松は、対照的に、多数の民間の起業から発展したメーカーが集積する産業都市で、日本最大のベンチャー都市と言ってよいだろう。

浜松のランドマーク・アクトタワー

アクトタワー展望回廊(45階)から望む市街中心部

 浜松は、戦国時代に徳川家康が入城して大増築した浜松城の城下町、かつ東海道の宿場町だった。浜松を中心とする遠州(静岡県西部)は「やらまいか」(「やろうじゃないか」の遠州方言)の気風に満ちた風土といわれる。この気概溢れる浜松で、明治以降、後に世界的大企業に成長するメーカーが次々と発祥している。

浜松城

家康が入城した当初の古城跡に建つ東照宮

旧東海道

 まず、ヤマハ。楽器メーカーと聞いて、誰もがまず思い浮かぶのがこの名だろう。ピアノを見かけてヤマハ製でない方が稀だ。ピアノのシェアは世界一。小学校で使ったリコーダーはヤマハ製という記憶の人がほとんどのはず。その他各種の楽器全般から音響機器まで手掛け、その性能は海外でも評価が高い。医療器具店の修理工だった山葉虎楠が、1897年にオルガン製造業を創業したのが始まりだった。現在、浜松の街の中心部のほど近く、広大な敷地に、工場、研究施設などと共に本社を構えている。

以上、ヤマハ本社

浜松市楽器博物館
浜松市は「楽都」と自称する。

 そのヤマハが太平洋戦争後に始めた自動二輪車製造部門が1955年に分離独立したのが、ヤマハ発動機。言わずと知れた、自動二輪車国内二位、小型船舶国内首位の大手メーカーだ。現在の浜松市浜名区の工場が原初である。(その後、本社は隣の磐田市に移っている。)

ヤマハ発動機発祥地・浜北工場

ヤマハ発動機本社(磐田市)

 ヤマハの従業員だった河合小市が1927年に独立して創業したのが、河合楽器。国内第二位のピアノメーカー。ヤマハと切磋琢磨して成長した。浜松駅の近くに本社があり、本社前の通りの名は「河合楽器通り」だ。

河合楽器本社

 続いてスズキ。軽自動車国内首位、他に自動二輪車や小型船舶でも有数のメーカー。1909年、大工だった鈴木道雄が、当時、遠州で盛んだった綿織物のための織機メーカーを創業したのが発祥だ。1950年代からは自動二輪車、軽自動車の製造に乗り出し、この部門の世界的メーカーに発展した。浜松市街周辺部の広い敷地に本社や工場が並んでいる。

スズキ本社

本社工場全景写真(スズキ歴史館展示)

鈴木道雄像(スズキ歴史館展示)

スズキ初期の織機(スズキ歴史館展示)

 そして、世界的自動車メーカーのホンダ。その創業者の本田宗一郎は現浜松市天竜区の出身。1948年、浜松で本田技研工業を設立。原付自転車からスタートして、自動二輪車、自動車へと進展、世界に羽ばたいた。本社は早々に東京へ移転したが、工場は今も浜松市内にある。出身地には旧町役場を利用した伝承館がある。

ホンダ本社は浜松駅前にあった。

初期のホンダ原付自転車
(本田宗一郎ものづくり伝承館展示)

 このようにベンチャーが続々と出てきたのは、「やらまいか精神」によるところが大きいといわれるが、学術・技術面でバックボーンとなったのが、1922年設立の浜松高等工業学校、そして後身の静岡大学工学部である。本田宗一郎の他、ホンダやスズキの何人かの歴代社長もここで学んだ。

静岡大学工学部

 浜松にはJR東海の浜松工場がある。とてつもなく広い敷地で新幹線車輌の検修などを行っている。前身は、1912年開設の鉄道院浜松工場で、鉄道車輌の製造もしていた。ここで腕を磨いた工員が浜松製造業の技術人材源になったといわれる。

以上、JR東海浜松工場

 ビッグネームのメーカーをはじめ、製造業の工場が多数集積する浜松。1990年代からこれらの工場で働くブラジルなど外国人労働者が増え、彼らのコミュニティが成立している。今や彼ら無しでは浜松の製造業は成り立たないだろう。

 

大阪大学のキャンパス - 中之島

 大阪大学の前身は大阪帝国大学だ。7帝大のうち6番目に設立された後発の帝国大学だった。それまで大阪は、東京に並ぶ大都市ながら、当時の最高学府の帝国大学がなく、学術面では京都にも後れを取っていたといえよう。1931年になってようやく、中之島に既にあった大阪医科大学を基にして、医・理2学部のみの大阪帝大設立。2年後に現在の都島区にあった大阪工業大学を工学部として編入。文系学部はなかったが、既に日中関係がきな臭くなった御時世のことだから、これでもよしとする他なかった。

江戸時代の中之島には諸藩の蔵屋敷が並んでいた。大阪帝大のあった場所(対岸に見える三つの建物の一帯)には蛸足のような枝振りで有名な松があったという。

医学部附属病院跡にあるパネル

 太平洋戦争後、いくつかの府内の高等教育機関を吸収、1949年に新制の大阪大学に移行。中之島に医・理学部を、都島に工学部を維持しつつ、教養部として吸収した豊中の旧制浪速高等学校の校地に文系学部が開設され、念願の文理総合大学となった。後の各県での国立大学設立に見られる、複数の既存の高等教育機関を、それぞれ校地はそのままに、一つの大学とする、いわゆる「タコ足大学」の先駆けになった。複数のキャンパスの中で、旧帝大の伝統がある中之島キャンパスは、その後長らく、大学本部も所在する中心的キャンパスであり続けた。

中之島キャンパス跡地の現況
左側の茶色のビルが大阪大学中之島センター

堂島川を挟んだ対岸の医学部附属病院跡地の現況

中之島キャンパス跡地のすぐ東側には都心的景観が広がる。

 大阪大学発祥の地・中之島。大阪の都心で、市役所や公会堂、日銀などがあり、明治期から今に至るまで近代大阪の象徴的な地区だ。東大・本郷キャンパスも京大・吉田キャンパスもここまで都心に至近ではない。その点では素晴らしいキャンパスだったのだが、残念なことに、1993年に最後まで残っていた医学部と同附属病院が郊外へ移転して、中之島キャンパスはなくなってしまった。(サテライト施設・中之島センターが2004年に開設されてはいるが。)跡地は再開発され、現在、美術館や科学館、商業施設、オフィスビル、高層マンションなどが建っている。大阪の中心市街地に国立総合大学がなくなったことは、その後の大阪の発展に影響がなかったとは言えないだろう。

(現行のキャンパスについては後の機会に触れたい。)

理学部跡地記念碑と跡地に建つ市立科学館

同じく跡地に建つ国立国際美術館

医学部跡地に建つ市立中之島美術館

 

日光東照宮

 10月に栃木県の日光東照宮に行った。行ったとも言えるが、行こうとしたと言うのが正確かもしれない。日光東照宮は、言わずと知れたことだが、徳川家康が自身の遺言によってここに葬られ、大権現という神格化された家康を祀る、世界遺産の超有名神宮である。

 日光へは、東北自動車道から分岐して日光宇都宮道路という自動車専用道が延びている。わざわざ日光に行く人たちのために造られたものだ。それだけ東照宮を訪れる人が多いということだ。死後400年ほど経ってなお、現代国家に税金を投入して参拝のための道路を造らせてしまう、家康の威光はすごい。

日光へ向かう日光宇都宮道路
(山体は日光三山の女峰山)

 この道路が渋滞で時間がかかりそうだったから日光の手前で降り、途中から電車で行くべく、東武鉄道の上今市駅に向かった。駅のそばの駐車場に車を停めると、ちょうどそこには、日光杉並木があった。東照宮への街道に風雨や暑さをしのぐために道の両側に杉木を植えたもので、江戸時代に徳川将軍家の家臣の寄進によって植えられて以来、連綿と手入れされてきた。400年経った今では高く伸びた杉木が壁や屋根のようになっている。驚くべきは並木道の長さで、総延長30km以上だそうだ。日光までの電車の車窓から延々と見えていた。こうなったのも元をたどれば家康だ。

日光杉並木

 日光へは、上今市駅から東武鉄道の電車で向かった。外国人も多く、結構混んでいた。日光へ向かう鉄道は、東武鉄道日光線(1929年開業)の他にもう一本、1890年開業のJR日光線(鉄道の開業としてはかなり早期)がある。それだけの参詣者の利用があるということだ。2本もの鉄道を呼び込んでしまう、さすが家康である。

東武日光線と女峰山

東武日光駅

JR日光駅

 日光駅に着いた。駅前から東照宮に向かって約2キロに渡って、土産物屋や飲食店が並ぶ鳥居前町が続いていて、賑わっている。旧・日光市の街である。この街が発達したのも結局、家康の影響だが、これに留まらない。旧・日光市は、2006年、隣の今市(いまいち)市などと合併して「日光市」となった。今市市の方が人口が多かったにもかかわらず、市名は日光市が採用された。「日光」の名が断然有名だからだ。家康の影響力はここまで及ぶ。

日光市に飲み込まれた旧・今市市のJR今市駅

 鳥居前町を抜けて、東照宮の一帯にたどり着いた。東照宮の周囲には、家光廟のある輪王寺や二荒山(ふたらさん)神社がある。東照宮とともに世界遺産に登録されていて、東照宮の参詣者がこちらにも周遊する。これらが世界遺産になったのも、これだけの人が訪れるのも、東照宮があったからだろう。二荒山神社は下野国一宮だが、宇都宮にも二荒山(ふたあらやま)神社があって、これも下野国一宮だ。山深い日光の二荒山神社が、県庁都市のど真ん中にある宇都宮の二荒山神社に勝るほどの人出があるのも、家康のお蔭だ。

境内へと通じる「神橋」

輪王寺

二荒山神社(日光)

二荒山神社(宇都宮)

 さて、いよいよ東照宮に詣でるべく、一ノ鳥居の方に向かった。そこにはなんと、拝観券を買うべく順番待ちする人の長蛇の列が鳥居の外まで続いていた。中に入るまで何時間かかるかわからないような長さだ。ディズニーランドのアトラクションのようにファストパスのチケットがあれば、間違いなく売れるだろう。並んだところで、閉門までに参拝できる見込みがないから、諦めた。行楽シーズンの3連休とは言え、神社でこの様な状況があるとは思ってもみなかった。家康、恐るべしである。

ここから拝むしかなかった。

 

深草(京都市伏見区)

 京都と伏見の間の地域が深草だ。全面的に市街化された今ではわからないが、京都の旧市街(いわゆる碁盤の目地区)と伏見の旧市街(旧城下町地区)の間には田畑が広がっていた。江戸時代まで、伏見は、大坂と繋がる淀川舟運の川湊があって、いわば京都の外港だった。その伏見と京の都を結ぶいくつかの重要な交通路が通う所が深草の地だった。その一つが伏見街道(現在の本町通り)。京都・伏見間のメインの街道で、伏見稲荷大社の参詣道でもあり、沿道には家屋が並んでいたらしい。今も旧街道の面影が残る。西の方には平行して竹田街道(現国道24号)があった。

本町通り(旧伏見街道)

伏見稲荷大社は深草にある。なぜ深草稲荷ではないのだろうか。

 陸路だけでなく水運路も通っていた。高瀬川である。今も残るこの川は一見、自然の川のように見えるが、京と伏見を繋ぐ舟運のために江戸時代に開削された運河である。高瀬舟と呼ばれる、浅い川でも航行可能なように底が平たく造られた舟が、伏見の川湊に着いた荷を京の街まで運んだ。近代になると、新たに鴨川運河が開削され、それに役割を譲った。(その鴨川運河も今は水運路としては使われていない。)

高瀬川

鴨川運河

 鉄道の時代になっても、深草は交通路の地であり続けた。まず、1895年、竹田街道に京都から伏見まで繋ぐ路面電車が敷かれた。日本最初の路面電車だったらしい(1970年に廃止)。その後、1896年に京都から伏見を経て奈良方面へ伸びる奈良鉄道(現JR奈良線)、1910年に同じく伏見経由で大阪へ向かう京阪電鉄が開通している。

かつて路面電車が通った竹田街道(国道24号線)

JR奈良線

京阪電鉄

 名神高速道路も深草を通過している。これは、京都・伏見間の南北方向の交通路とは意味合いが異なる、東西方向の日本の大動脈だが、1950年代後半の建設当時、京都市街に隣接しながら、まだ高速道を通せるだけの空間が残っていたため、ここを通過したものだ。深草バス停が設けられていて高速バスを利用することができる。

名神高速 深草バス停

 以上のような交通路の他に、深草の市街形成史上、大きな足跡を残すものがある。旧帝国陸軍師団である。1905年、ここ深草に陸軍第16師団(通称:京都師団)の駐屯地が置かれた。田畑だった所に、兵舎や練兵場、兵器庫、軍用病院などが広大な敷地をもって建てられた。深草は、軍の様々な需要を満たす商工業者が流入して、一躍、軍都に発展した。京阪電車には「師団前」駅が、市電には「練兵場前」電停が設けられた。京都市街から駐屯地に通じる「師団街道」が整備され、この道路から駐屯地中枢部に繫がる3本の「軍道」とともに今も名前もそのままに現役の道路だ。深草村は1922年には町制施行して深草町となり、その後、1931年に伏見市とともに伏見区として京都市に編入されている。

京阪藤森駅(旧称:師団前駅)
高架は名神高速、水路は鴨川運河

師団街道

第二軍道の師団橋
(水路は鴨川運河)

第三軍道

駐車場の名前にも残る。

こんな名残も

 太平洋戦争敗戦で陸軍は消滅。師団の施設はアメリカ軍に接収された後、民間に払い下げられるなどして、新たな用途に転換していった。師団司令部の庁舎は今も残り、聖母学院の象徴的な校舎として使用されている。その他、龍谷大学、京都教育大学、京都府警察学校、国立京都医療センターや市立中学校など、深草に今ある多くの施設は旧軍用地に建つ。広い敷地が、これらの施設に好都合だったためだ。広大だった練兵場は区画整理されて住宅街になった。

旧師団司令部庁舎(現聖母学院)

龍谷大学(兵器廠跡)と第一軍道

京都教育大学(歩兵連隊跡)

教育大の側の記念碑

京都府警察学校(兵器廠跡)

京都医療センター(旧陸軍衛戍病院)

京都教育大附属高校(輜重兵部隊跡)

京都市青少年科学センター・エコロジーセンター(野砲兵連隊跡)

 さて、今世紀に入ってのことだが、深草には中国人留学生の姿が目立つ。龍谷大学に加えて、深草に立地した経緯は不明だが、複数の大手日本語学校があるためだ。そのため、中国人相手のサービスを提供する種々の店があちこちにある。飲食店は、昔ながらの中華料理屋ではなく、中国人による中国人のための、本国さながらの外観とメニューの中国食堂が幅を利かせている。中国人コミュニティが成立しているのが窺える。

 

フィリピン海 ~ 知ってますか?

 フィリピン海という名の海を御存知だろうか。フィリピン周辺の海かと言えば、それは正しくない。下図の如く、西側から右回りに言えば、フィリピン諸島、台湾、日本の南西諸島・九州・四国・本州・伊豆諸島・小笠原諸島、マリアナ諸島、ヤップ・パラオ諸島などに囲まれた広い海域のことである。地理用語で、大洋の周縁部で島や半島によって大洋から区切られた海域を「縁海」という。日本列島周辺の日本海、東シナ海、オホーツク海などもそうなのだが、フィリピン海も同じく太平洋の縁海である。

 国際水路機関という国際機構がある。国際航海の安全のために種々の国際的調整を行っている。国によって海の呼び方が異なっては、国際航海上具合が悪いから、世界の各海域の名称とその範囲をこの機関が定めている。「日本海」の名称もこの機関によって公式に定められたものだが、これに韓国が異議を申し立て、さらに日本が反論を申し立てるという経緯があったように、日本政府も加盟しその権威を認めている機関である。その機関によって「フィリピン海」は1952年にその名称と範囲が定められている。したがって、日本の静岡県、三重県、和歌山県、高知県、宮崎県などの南の沖合いの海は、フィリピン海と呼ばれるのが世界標準ということになる。(Googleマップは世界標準に従って表示しているようだ。)

 しかし、日本ではこの海も太平洋と呼ばれている。フィリピン海という名称は全く浸透していない。高知の海岸・桂浜に立つ坂本龍馬の像が見つめる海は太平洋であって、誰もフィリピン海などとは思っていない。気象予報でも日本海側に対してこの海の側を太平洋側と呼んで憚らない。そもそもフィリピン海という海があることすら知られていないだろう。

三重県・熊野の海
世界標準では「太平洋」ではなく「フィリピン海」だ。

静岡・久能山から望む海
こちらもフィリピン海

 まあ、学校で教えられないのだから無理もあるまい。学校で、日本の周囲の海として太平洋、日本海、東シナ海、オホーツク海は習ったが、フィリピン海も教えられたという記憶がある人は皆無のはずだ。高校の教科書となっている地図帳を確認してみる。まず、近畿地方の図版では、紀伊半島の南の海に太平洋と書かれている。フィリピン海という文字は見当たらない。四国、九州の図版でも同様だ。フィリピン海の文字があるのは、東南アジアを描いた図版で、フィリピン諸島のすぐ東側に小さく書かれている。あたかも、フィリピン諸島に沿った部分のみがフィリピン海だというような書き方だ。そして、本来のフィリピン海の存在を無視した形で太平洋と大きく書いてある。

二宮書店「詳解現代地図最新版2024-2025」118頁の一部を複製加筆

同上36頁の一部を複製加筆

 日本の公教育で、日本の周囲の海のうち、フィリピン海についてだけ世界標準を採用しないのは何故なのか。文科省に理由を聞いてみたい。またいつか尋ねてみよう。この海域を「フィリピン海」と呼んで他と区別するようになったのは、太平洋戦争の頃、アメリカ海軍内が始まりと言われている。教科書制度発足当時、日本海や東シナ海のように日本で以前から馴染みのあった名称ではなかったことが、採用されていない一因なのかもしれないが。

 日本列島に面する部分に限って言えば、フィリピン海は黒潮の流れる海だ。日本のフィリピン海沿岸地域にはこの強い暖流によって育まれた共通の風土があると感じる。寒流の親潮の影響を受ける、本来の太平洋岸の地域(北海道東南岸、東北地方の東岸、関東の東岸)とは気候や文化も異なる。したがって、日本でこの海をフィリピン海と呼んで太平洋と区別することには意義があると私は考える。「フィリピン」という一国に通じる名に抵抗があるなら、別の名称でも仕方ない。「黒潮海」とか「南海」とか。