いつものANA007便、サンフランシスコ-東京便で一時帰国中。結構しょっちゅう帰っているし、帰ってくるといつも仕事の日程はタイトだし内容的には緊張することも多いのですが、それでも日本はやっぱり、血管が緩む感じというかリラックスします。足を伸ばして入れるお風呂とどこで何を食べてもおいしいニホン。
しかし、これほど便利な時代になって、「世界は平ら」なはずで、電話やEmailで多くの仕事が片付くはずで、それでも、常にほぼ日本人ビジネスマンで満席になるANA007便を見ているといつも、これだけのトラフィックが日本とベイエリアにはあるのだなあと、なんだか感慨深くなってしまいます。
今回行きの飛行機で読んでいたある本をご紹介したかったんですが、その前ふりとして、今年の話題作「
フラット化する世界」に関して。
ちょうど前回仕事で帰国する直前に読んでいて、日ごろ多国籍で合理的なアメリカの会計事務所で過ごしていると「ああなるほど」と理解がおちてきた「フラット化する世界」と、日本の「でこぼこなまんまに放置されているニッポンドメスティックな仕事現場」との温度差を感じ、特殊でいられる日本はある意味幸せであり、一方それが決壊することがあったときの怖さ、みたいなものを感じ、そのときはうまくまとめられなかったのですが、一言で言うと、「この本を読んで少しあせろう」と私は思ったりしたわけであります。
「フラット化する世界」、当たり前のことを書いているだけじゃないかとか極論に過ぎるだとかいろいろ批判もあったようですが、私は面白く読みました。この本を読んで、「アメリカでインド人と中国人が仕事を取り合っていようが私には関係のないことだ」と思うか、自分の仕事に引きなおして考えると、「じゃあ自分のコモディティ化しない部分って何?」と考えるヒントにするか。
「フラット化する世界」の冒頭で、アメリカの個人の税務申告の80%は実はインドでプロセスされているという話があります。
この話は私も渡米したばかりのころに自分の事務所のパートナーに世間話として聞いたのですが、ちょっとした衝撃を受けたものでした。そして、アメリカの会計士って大変な商売だとつくづく思ったわけです。
コモディティ化されてしまう部分ではインドとはコストでは争えない以上、突き詰めると「ほんとうのプロフェッショナル」しか必要とされない。お客さんとのリレーションシップだとか、ハイレベルな税金対策の知識とか、そういう部分で自分のリテラシーを上げられないひと、単純作業しかできないレベルの人間はあっという間に駆逐されてしまう。
ちなみにこの話を知人にしたら、Business weekの中で、デュポンが特許関連の法律事務をすべてフィリピンにアウトソースしたという記事が出ていたと教えてくれました。パラリーガル受難の時代ってことですね、アメリカにおいて。
こういう流れはとっくの昔にIT業界では顕著でありいまさら何のことって話なんでしょうが、ドメスティックが原則だった法務税務の世界までそういう流れができてきたのはアメリカの「プロフェッショナルのはしくれ、もしくはそれ以下」の人間にとってはものすごい恐怖にちがいないです。
想像してみれば、華の商社OL28歳営業経理担当が、中規模の税務事務所職員33歳税理士試験科目合格済み、が、ある日その仕事は全部中国で一括アウトソースすることになるから君の仕事はもうないって言われるような世界です。恐ろしい。
翻って日本は、日本語という参入障壁によって、日本の税務申告が海外でアウトソースされて中小の税務事務所が危機にさらされるという心配は、一見ないかのように思われます。大体日本語をたくみに繰るインド人というのはそうそういないだろうし。
しかし、胡坐をかくのは早い。単純作業部分はきっと簡単にコモディティ化する。
実際「フラット化する世界」の後編では、大前研一事務所の中国への事務作業のアウトソースが取り上げられていました。あと、外国じゃなくても自国内でも「有資格者のお山」というのは結構あるところまでは簡単に切り崩されてフラットになりえると思うし、それも情報産業の発展が助長させた、国内「フラット化」ですよね。
私は税務担当ではなく、監査担当の会計士として生きてきて、監査の業務の海外アウトソーシングまでは今のところ行われていないですが(客先にいって帳簿をひっくり返したりする作業が今でも必要とされているので)、クライアントのほぼすべての帳票はいまや電子帳票で入手し、フィールドワークスタート前に大半の調書の形態を整えて「出陣」し、客先に行かなくては行けない日数は確実に減ってきている感があります。
もちろん、クライアントとのマネジメントとのFace to faceのコミュニケーションは大事です(だから私も結構ちょくちょく、出張に行ったりするわけです)が、「付加価値の高いサービス」部分以外にかかる時間は減っていく一方になってきていると思います。実際、パートナーたちは一日のほとんどの時間を「クライアントからの相談事」に費やしてまして、電話に出ずっぱりか会議に出ずっぱりで話しっぱなし。要は、そこの部分のみが監査人の「コモディティ化しないキャリア資産」なのですね。
isologの磯崎さんのブログのちょっと昔のエントリーで、非常に面白い「
オープンな法体系」というエントリーがあって、「2030年監査法人はすべて巨大なデータ処理産業となり・・・」というくだりがあるのですが、究極に監査がコモディティ化すると、そういうことになりますね。内部統制監査が究極化すると、結局会計データの入力からプロセスまでのすべてのフローを監査人がレビューして以上項目がないかを査閲するという方向に監査が変わっていくのではないかというのがポイントで、そうなった場合、中国あたりでやっていただいてもぜんぜんかまわなくなる気がする。そして、下っ端作業には実は会計監査に関する高いリテラシー必要ではなくなり、マニュアルだけで完結する作業が増える。下っ端部隊を束ねるマネジャーと、パートナー、それだけが専門家という世界になったら、今ほどの数の監査人はもしかしたら要らないかもしれない。
ちなみに、アメリカにおける監査は、既に、「コモディティ化部分」を大きくしてどんどん下投げして、下っ端ちゃんができる仕事を増やしている、と感じます。日本のように数が少ない「会計士試験合格者」(昔で言う会計士補)ばかりを採用するわけではなく、会計に対しては知識がまだあいまいな大学卒業したてのアソシエイトをごそっと採用してがんがん単純作業にこき使うの図なのであります。無論単価も安いが(といっても日本よりアメリカの監査報酬のベースが高いから、日本の会計士補一年目とアメリカのBrand new staffのお給料ってベースはおなじ)、エントリーレベルの人間で実行可能な単純作業は実は山ほどある。で、最初の3年で半分以上がやめていく仕事なので、ピラミッドとしては割りと綺麗で監査ができる人だけ残っていくというのがアメリカの監査法人のシステムです。
きちんとしたインストラクション、オーガナイズされたツールがあれば入社3年目とかで会計・監査の知識が???なレベルの人間でも、監査現場を仕切って問題点を上に相談しながらインチャージとして業務をきりもちすることが可能なわけです。ここまでDelegateが可能なのね、と思って最初うなって、ちょっとへこんだのも事実(笑)。だって、自分より会計知識的にも年次的にも下としか思えない人間に最初あれこれ指図されたわけですからね。
一方、私が日本で最初担当したクライアント、当時は監査手続書がなくって(今はそんなことがないと思いますけれど)、補修所の教材を持っていって一生懸命見ていたし、効率性よりも「時間使っていいからよく勉強しなさい」という、おおらかにしてのどかな世界。そこで、お客様には「○○子先生~」など持ち上げられつつ、地方出張でおじさんたちのカラオケにつき合わされていた間に(もちろんその日々は貴重な人生経験だったと思っているし、学んだことは多いですが)、同じ期間ファームにいても、アメリカではさっさと上のレベルまで昇進して業務をハンドルしている人たちがいた、ことがなんとなくショックだったのでした。フラット化されていると無駄が少ないのですね。
Job Securityということを考えるとフラット化に危機を抱かなくてはいけないのはPublic Accountingでもドメスティックである税務畑ではなく監査サイドの人間であります。マーケットが世界共通であるし、そこはどんどん今後「フラット」になっていくと思われ、「世界標準」「自国標準」プラス「自分の専門領域」くらいをきちんとカバーできないと今後厳しくなっていくのではないでしょうか。
ここで、自分がコモディティ化しない「何」を資産に今後のプロフェッショナルとしてのキャリアを構築していくと言う話ですが、二次試験に合格したて・大学でたての頃の、「早く三次通って、海外で英語使ってばりばり仕事してみたぁい」なんていう淡い夢がかなった今でも(ばりばりかどうかは微妙ですが)、現実を知れば知るほど自分の先は長いという現実がありまして、
・語学-アメリカにおいて日本語ができる、日本において英語ができる、とかいうのは、中途半端なレベルでは実はあんまり意味がなくて(どっちの言語でも突っ込んだ議論ができないと結局差別化ができないので)ビジネスレベルで両方が完璧に話せてはじめて武器になる。中途半端な語学力は専門職にとってはある意味諸刃の剣。
そして、できたからと言って、アメリカで「日本カード」日本で「英語カード」を使って入り込む仕事が「面白いか」どうかは、又別。
・資格・学歴-入り口にはいるためのパスがいる、スタートラインを後ろの地点にちょっと持っていけるというところでは役に立つんですが、経験とリンクしていない資格など何の意味もない。
・経験・知識-専門家としてテクニカルに「できる」ことはもちろん大事だけれどテクニカルで極めるのは「超会計オタク」になるくらいの覚悟がないと無理(アメリカのSEC担当パートナーの勉強ぶりと博識ぶりは今まで知っていた誰よりもすごく、そこまで会計を愛せない私にはちょっと無理だと思ってしまった)だとか、アメリカで働いた経験だとか、USGAAPも知ってますだとかいうのも、中途半端にひけらかす程度では、人を煙に巻くくらいのことはできても実際役には立たない、だとか、特定の業界に詳しい(金融・テクノロジー)とかいうのも、2・3年ちょっとかじったとかではなかなか得意分野とはいえないだとか、
かように真の「差別化された」専門家への道は長く険しいのでありました。。。
差別化云々は個人レベルの話ですが、そういう意識があるかないかは、「この国の、この業界」全体にかかわると感じます。
私はいろいろな国の会計士と仕事をしてまいりましたが、エントリーレベルの人間から「しっかりとした知識があり」「まじめに仕事をする」日本の公認会計士のレベルは非常に高いと信じてます。ただ、それが、チームとして監査をすることになったとき、チームをコントロールするだとか、監査資源をどのようにオーガナイズするかだとか、どのようにクライアントとやりあうか、から「うまくワークしていない感じ」をずっと感じてきました。
私が日本にいた当時は、海外に出す監査報告書のレターにはすべてレジェンドー日本の会計基準は世界標準とは違うので、そのつもりで読むとミスリードされる危険がある-というのをつけていた時代で、それはかなり自分にとって悔しいことでした。会計ビッグバンを経て、今でこそそれがなくなっても、一連の会計不正と監査法人業界の大混乱が報じられた2006年、「日本の監査のレベルって低そう」とアメリカの同僚たちにいわれてしまうのもまた悔しいことです。
もっともっと、あせったほうがいいと思うんです。鉈を入れる余地はたくさんあって、鉈を入れられてきられる側になりたくなければ本当に、あせったほうがいい。
今一時的な人手不足で、猫の手でも借りたい、そういう業界で、「あせるも何も」「忙しくって」と現実味がないかもしれません。でも、忙しい、忙しいにまぎれて自分のスキルセットのメンテナンスや意識の変革を怠っていたりしたら、10年後、切られる側にまわっている可能性は大いにあって、それってとても怖くて悲しいことだとおもいます。あんな時間のかかる試験を受けて、合格して、散々働いて、それでそこに自分のキャリア上の限界にたどりついてしまったら?
かくいう自分も、忙しい自分、に満足してそこで止まらないように。
もちろん、誰もがものすごく仕事ができなきゃいけないわけじゃないし、ほどほどの満足感で仕事をこなしていくと言うのもひとつの選択であります。人生の満足は仕事にしかないわけじゃないですからね。
けれど、せっかくやるならまだまだがっつり取り組みたいと、今のところわたくしは思っているわけで、なんてことを時差ぼけで早く目が覚めちゃって濃いコーヒーのみながらテンションあがってきてむやみに熱くなり、Lat37nはまだまだ走らなくてはいけない!などと思うのでありました。
これから、山手線で冬の東京へ出陣。
ほどほどに肩の力抜きつつ、がんばりマース。