「クルマ旅専門家」・稲垣朝則が、10年以上かけてめぐってきた全国の温泉地を、「車中泊旅行者の目線」から再評価。車中泊事情や温泉情緒、さらに観光・グルメにいたる「各温泉地の魅力」を、主観を交えてご紹介します。
「湯田中渋温泉郷」で渋温泉と双璧をなす温泉地
湯田中温泉の概要【目次】
1.湯田中渋温泉郷
湯田中温泉の話をする前に、まず「湯田中渋温泉郷」について簡単に説明をしておこう。
一般的に「湯田中渋温泉郷」というのは、山ノ内町の横湯川と夜間瀬川流域に点在する9つの温泉地の総称と云われている。
ただ、ここではマップの赤で囲った5つの温泉地だけで、「湯田中温泉(グループ)」を形成しており、その他の渋温泉・角間温泉・上林温泉・地獄谷温泉の4つの温泉地とは関わりのレベルが違っている。
つまり温泉郷の中に、もうひとつ規模の小さな温泉郷があるようなイメージだ。
そして「湯田中温泉(グループ)では、そのグループだけで使える「湯めぐり手形」を販売している。
2.湯田中温泉
グループの中核を成す湯田中温泉には、「湯めぐり手形」とは別に無料の共同浴場(外湯)がある。
湯田中温泉の共同浴場は、大湯・綿の湯・わしの湯・千代の湯・滝の湯・白樺の湯・弥勒の湯・平和の湯・脚気の湯の9軒で、かつては一般開放されていたが、マナーの悪さから、現在は地元民および旅館宿泊客専用になってしまった。
2-1.湯田中温泉の由緒
実は毎月26日の「風呂の日」は、特別に湯田中温泉のランドマークとも呼べる「大湯」に、一般客も入浴が許されている。
湯田中温泉の文献に残る開湯は、7世紀の天智天皇(626年-672年)の時代。僧智由が発見し、「養遐齢(ようかれい)」と名づけたという。
これが事実なら、有馬温泉や城崎温泉らと同じ時期に当たるわけだが、よくよく調べて見ると、古泉と呼ばれる温泉地の多くは、どれもが「開湯1300年」と謳っている。
理由は簡単。奈良時代のこの頃に、古事記と日本書紀、さらに各地の風土記が編纂されており、どれもそこに記載されているからだ。それより古い歴史は伝承であって信ぴょう性がなく、あってないようなものでしかない。
「湯田中温泉」ではっきりしているのは、江戸時代に草津街道の宿場として、また湯治場として賑わっていたこと。
松代藩の真田氏は湯田中の湯を愛し、お城にも温泉を届けさせていたという。
また、小林一茶の門弟でもあった湯田中湯本は、旅籠登録制度が施行された時の最初の宿である。
2-2.小林一茶と湯田中温泉
俳人として名をあげた小林一茶が、長い修行の旅から故郷の信州柏原に帰住したのは、1813年(文化10)年、齢50 歳の時で、門弟で有力な後援者でもあった湯本希杖・其秋父子が営む温泉宿・湯田中湯本をその翌年に初めて訪ね、以降、亡くなるまでの15年間、毎年のようにこの宿を訪れている。
合計滞在日数は152日にも及ぶというから、よほど居心地が良かったのだろう。
「一茶の散歩道」と呼ばれる遊歩道には、一茶の没後130年<1956年(昭和31年)>を機に建てられた「一茶堂」と銅像がある。
なお「一茶の散歩道」は、湯田中駅前の駐車場にクルマを停めて歩くと2時間ほどかかるが、小林一茶フリークでなければ、「ぜひ!」というほどではないと感じた。ここは温泉宿に泊まる人が、湯冷ましに散歩するところだろう。