立つ所以(ゆえん)を患う。
知らるべきことを為すを求む。
実力がないことを悩め。
認められる力をつけることに
心を使いなさい。
評価してもらいたい。
認められれば、地位や肩書きができる。
そして、そこには「力」が生まれる。
しかし、その「力」には責任が伴わなくては意味がないと思いますね。
大切なことは、その肩書きや地位のない、フォロワーのいない、力を失ったときの自分となったときに「自分がいるか」どうかではないかと思います。
派手なパフォーマンスとは裏腹に、実は自分に自信がない。
他者の評価を気にするなんて止めた方がいい。
一人になっても「やってやる!」という「自分」を作り上げていくことです。
今日、ご紹介した孔子の論語には、他人の評価ではなく自分に「力をつけいくことに心を使うべき」だということが語られています。
何を主眼にして生きるかというのがとても大事なことではないでしょうか?
そして、再度、岡本太郎氏の言葉をご紹介したい。
意志を強くする方法なんてありはしない。
そんな余計なことは考えるな。
君はほんとうは激しく生きたいんだよ。
だから”死”が目の前に迫ってくる。
それはとても正常なことだ。
自分に能力がないなんて決めて、引っ込んでしまっては駄目だ。
なければなおいい、今まで世の中で能力とか才能なんて思われていたものを超えた、決意の凄みを見せてやるというつもりで、やればいいんだよ。
むしろ、能力がないほうが素晴らしいんだと平気で闘えば、逆に能力がひらいてくる。
ぼくは、特別力が強いわけでもない、金をそんなに持っているわけでもない。
頭脳だってそれほど優秀じゃないかもしれない。
つまり、さまざまのマイナスの面を背負っている。
でも、マイナスの面が大きければ大きいほど、逆にそれと反対の最高にふくれあがったものを自分に感じるわけだ。
弱い、なら、弱いままのありのままで進めばいいじゃないか。
他人が笑うまいが自分で自分の歌を歌えばいいんだよ。
歌に限らず他人の判断ばかりを気にしていては本当の人間としての責任がもてない。
もし自分がヘマだったら、”ああ、おれはヘマだなあ”と思えばいいじゃないか。
よく”一流好み”の人がいるが、それはつまりただ世間の、他人の評価をウノミにしてありがたがっていることだろう。
誰がなんといおうと、三流だろうが、五流だろうが、自分のいいと思うものはいい、という態度を貫かなければ”ほんもの”なんかわかりゃしないよ。
一流だから知りたい、好きになりたいなんていう、さもしい根性を持たずに、自分の本当に感動する人間を探し、つかまえるんだね。
その発見のポイントに世の中全体にその価値を認めさせるように、きみ自身、力を尽くせばいい。
そうすると世界が変わってくるよ。
自分自身を責めることで慰め、ごまかしている人が、意外に多いんだよ。
そういうのは甘えだ。
惨めな根性だと思うね。
何かすごい決定的なことをやらなきゃ、なんて思わないで、そんなに力まずに、チッポケなことでもいいから、心の動く方向にまっすぐに行くのだ。
失敗してもいいから。
1度失敗したなら、よしもう1度失敗してやるぞ、というぐらいの意気込みでやることが大切なんだ。
うじうじと考える必要はない。
すべてのマイナスをプラスの面でつらぬけば、マイナスだと思っているものがプラスになって転換してくる。
ほんとうの調和というのは、お互いに意見をぶっつけ、フェアにぶつかりあうこと。
誰もが、あえて出る釘になる決意をしなければ、時代はひらかれない。