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『ぼくらのよあけ』における団地の意味

ぼくらのよあけ(2) (アフタヌーンKC)

ぼくらのよあけ(2) (アフタヌーンKC)

『ぼくらのよあけ』第2巻が発売されたよやったねエントリー。

すべての時間を貫通する存在として

レトロ・フューチャーという言葉がある。

「19世紀後期から20世紀中期までの人々が描いた未来像」への懐古趣味や、当時のそういった描写を好み熱中する(現実の未来と比較し、郷愁性を楽しむ)ことを指す。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%95%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC

『ぼくらのよあけ』は、レトロ・フューチャーの枠組みを用いつつ、登場するガジェットは、現代の科学(2011年)の延長線上になっている、そんな構図なのではないかなと思う。この漫画に出てくる未来的なガジェットは、第一巻の感想エントリで書いたように、非常にリアリティに満ちて描かれている。そのためガジェットそのものを取り出せばレトロ・フューチャーではない。ただ「宇宙に憧れる主人公」「技術によって人間の生活が便利になった世界」「高度な会話機能を持つアンドロイド」という大きな枠組みは、かつて描かれた進歩主義的な未来に近いものを感じる。

その時、「大きな枠組みとしての過去(〜1960年代くらい)」と「ガジェットの元ネタとしての現在(2011年)」と「漫画の舞台としての未来(2038年)」を貫通するのは、団地(阿佐ヶ谷住宅)である。団地のモデルとなっている阿佐ヶ谷住宅は、物語のモチーフとなっている過去と現在、そして舞台である未来いずれにも存在している。ただ一つ、この3つの時間に共通する要素である。

図にすると以下のようになる。

f:id:klov:20111122224707p:image

記憶が引き継がれる舞台として

もちろん、阿佐ヶ谷住宅は2038年まで残っている保証のある建物ではないし、たとえあったとしてもその先すぐになくなってしまうかもしれない。その程度には古い建物である。けれど例えこの団地が消えても、この団地で生まれた物語の記憶は残り続ける。『ぼくらのよあけ』は親子の物語でもあり、他者とともにいた記憶=思い出が引き継がれていく物語でもある。そうした記憶を引き継ぐ文字通り橋渡しの役割をこの団地は持っていた。過去-現代-未来とこの漫画で使われている時間のすべてに存在しうる「団地」という場所が、この橋渡しの場所として使われたのは、作者にそういう意図があったかどうかは別として非常に良くできていると思う。ここで引き継がれた記憶は、たとえ団地がなくなっても、さらにその先の未来に引き継がれていく。

良い漫画でした。