木走日記

場末の時事評論

韓国がノーベル賞をほしいならば、まず慰安婦少女像を撤去せよ


 さて韓国であります。

 もはやこの季節を迎えると“年中行事化”している感が否めないのですが、今年もノーベル賞発表ウィークになり、お隣の国韓国メディアがまたもやアツク盛り上がっているのでございます。

 初日のノーベル医学・生理学賞が、いきなり日本人、東京工業大の大隅良典栄誉教授に授与されるや、韓国では5日付の主要紙すべてが社説でこの日本人のノーベル賞受賞を取り上げるのあります。

 ご存知のとおり、韓国では自国の自然科学系ノーベル賞受賞者がゼロであることもあり、近年の日本人の受賞ラッシュに過激に反応しているようなのですが、各紙報道はこんな感じです。

「世界が賛辞を贈る日本の科学技術の底力を前に、韓国の現実はみすぼらしい」(東亜日報)

「日本の受賞歴がまぶしい」(ハンギョレ紙)

「韓国はノーベル賞シーズンになると萎縮する。受賞どころか候補リストにも挙がっていない。いつまで隣の祭りを羨(うらや)ましがっているだけか」(中央日報)

 うーん、世界広しといえど、自国ではなく関係の無い他国のノーベル賞受賞を受けてメディア全体がセンセーショナルに熱く取り上げることなどおそらく韓国だけの現象でありましょう(苦笑)、その熱意はしかし、これがアメリカ人や英国人など受賞常連国に対してはほぼ無反応であることから、ほかならぬ「日本人」がノーベル賞受賞していることが発火点になっていることは明らかです。

 で、ここから論理の展開のパターンがお決まりなのが、日本がまた受賞したことに、羨みや焦燥感、自虐感を込めつつひとしきり称賛した上でですが、ではなぜ我が韓国はノーベル賞受賞者が出ないのか、誰がいけないのか、と「犯人」探しが始まるわけです。

 各社説は、韓国の研究開発費が国内総生産(GDP)の4・15%を占め世界のトップ水準である点を指摘、にもかかわらず、自然科学分野で受賞がないことをまず問題視します。

 研究開発費に金は十分掛けているはずだ、ではなぜ結果がでないのか、お金の投資の仕方が問題なのではないか、というわけです。

「韓国科学界の風土に問題がある。短期的な成果を重視し、政府の支援金は2〜3年内に目に見える成果が期待できる分野を選び分散投資。成果を立証する研究だけが量産されている」(朝鮮日報)

「日本のように長期間の集中投資をし、研究者が自らテーマを決めるようにする風土が必要だ」(中央日報)

 うむ、韓国は短期的な成果を重視しずぎであり、日本のように長期間の集中投資をすべきである、というわけですね、今までの成果を立証する研究だけに集中するお金のかけ方が間違っていたのではという、ある意味ごもっともな指摘ではあります。

 ・・・

 さて、このお隣の国のメディアの”狂騒”から見えてくるもの、それは当ブログに言わせていただければ、「投資」とか金銭的な処方策の優劣だけではなく(それも重要な要素ではありましょうが)、そうではなく、もっと根源的な問題、つまり「真実とは何か」という科学者の持つ知的探究心への国家としての敬意・尊重心の軽重にあるような気がしてなりません。

 問題は科学に掛ける「お金」の絶対額、掛け方ではまったくないと思います。

 当ブログは長年工学系教育機関で学生の指導をさせていただいてきたわけですが、科学研究においてその長期にわたる地味な研究を続けるメンタルな面でのモチベーションの原動力は、あくまでも「真実・事実を解明したい」、「本当のことを知りたい」という知的探究心にこそあると思うのであります。

 科学実験は、極めて地味な失敗の連続から構成されています、多くの場合実験が「成功」という果実を得るまでには、長い年月を費やすことになります。

 科学者たちも人間です、もちろん「成功して特許を取ってお金持ちになりたい」とか「成功して学内で出世して生活を安定させたい」とか、あるいは「成功してあわよくばノーベル賞を獲得し名声を得たい」とか、俗物的な欲望が全くないとはいえないでしょう。

 しかし長期にわたる地味な研究活動を維持するためには、そのような俗物的欲望のみでは絶対に実現できません、そもそも研究の成果が「成功」する保証もないし、「成功」したところで実は多くの研究は科学会で評価されることなく埋もれていきます。

 実験が「成功」してたまたまその「果実」が人類社会に貢献する貴重な科学的成果と評価されることは稀なことですし、さらに結果としてノーベル賞受賞にまでの結果を得ることなど、極めて極めて稀なことです、多くの実験は「成功」したとしても社会的評価はともなわないことが普通なのです。

 科学者が長期的研究をする原動力はもっと心の内側にあると考えます。

 科学者は自分の実験をノーベル賞を取るために続けてはいません、そうではなく「真実・事実を解明したい」、「本当のことを知りたい」という知的探究心に正直であるがためにだけで、研究に没頭しているのです。

 研究を成功させるために真摯に試行錯誤を繰り返しますが、それは「真実・事実を解明したい」という知的探究心がそうさせるのであります。

 真実に対してあくまで謙虚な姿勢、この地味な「知的誠実さ」を尊重する社会風土こそが、極めて大切なことです。

 韓国社会に欠落しているのは、この真実に対する「知的誠実さ」です、これこそが韓国がいまだノーベル賞を受賞できない、根源的な問題であると思うのです。

 ・・・

 韓国は、感情的情緒的にアツク激情するのではなく、地味に「真実・事実を解明する」、その尊い姿勢を社会全体で訓練するべきです。

 まず、日本大使館前の根拠無き慰安婦少女像を撤去してください。

 そして、当時本当は何が起こっていたのか、何が真実だったのか、極めて地味な作業になりますが、これまでの感情に流されることなく、冷静にそして「真実に対して謙虚」に検証作業を続けるべきです。

 その作業の上で、それでも「20万以上の少女を含めた従軍慰安婦が日本軍関係者により強制連行された」事実が明らかになったとすれば、当ブログはその可能性は限りなくゼロに近いと判断していますがそれはともかく、事実と検証されたならばそのときこそ世界に堂々とこの「惨劇」を韓国は発信すればよろしいでしょう。

 韓国がノーベル賞をほしいならば、まず慰安婦少女像を撤去しなさい。

 話はそこからです。



(木走まさみず)