木走日記

場末の時事評論

太陽系の記事からの一愚考〜61年前は1.2光年のはるか彼方の出来事

kibashiri2006-08-17




●水金地火セレス木土天海冥カロン2003UB313って暗記するんでしょうか(苦笑)

 今日(17日)の産経新聞記事から・・・

太陽系12惑星へ 新定義「自己重力で球形」提案

≪国際天文学連合総会 候補さらに12個≫
 太陽系の惑星が、これまでの9個から12個に増える可能性がでてきた。チェコのプラハで開催中の国際天文学連合(IAU)総会で16日、新たな惑星の定義の原案が示された。原案のまま承認されれば、冥王星の発見(1930年)以来、76年ぶりに太陽系の全体像が大きく書き換えられることになる。IAUは、24日に新定義を承認するかどうかを投票で決める予定だ。

 国立天文台によると新しい惑星の定義の柱は、「恒星を周回する天体で、自己の重力でほぼ球形になるもの」としており、直径800キロ以上が目安になる。この定義だと、火星と木星の間に位置する最大の小惑星「セレス」、冥王星の衛星とみなされてきた「カロン」、昨年夏に米航空宇宙局(NASA)が「第10惑星」と発表した「2003UB313」が、新たに惑星の仲間入りをする。

 しかし、近年は観測技術の進歩で太陽系の外縁部で次々に新たな天体が発見されており、3個の新惑星候補のほかにも、12個の天体が惑星に昇格する可能性があるという。

 惑星の定義をめぐる議論は、昨年7月に米国の研究チームとNASAが、冥王星より大きいことを理由に「2003UB313」を第10惑星と発表したことが直接のきっかけ。それ以前にも、直径が月の7割しかなく、公転軌道も他の惑星に比べて特異な冥王星を惑星とすることの妥当性が議論されてきた。

 こうした経緯を踏まえて、原案では、(1)水星から海王星までの8個の惑星を「古典的惑星」とする(2)冥王星とカロン、「2003UB313」の3個は「プルートン(冥王星族)」と呼ぶ(3)セレスについては「矮(わい)惑星」と呼ぶ−ことを提案している。

 また、小惑星や彗星(すいせい)などと呼ばれている惑星より小さい天体についても「太陽系小天体」と総称することを提案した。

 これまで、科学的に明確な惑星の定義がなかったことが議論の根底にある。原案では明確さはあるが、惑星の中に「古典的」な8個とそれ以外の区別ができることになる。また、今後は新たな惑星候補が次々と見つかり、惑星の総数が収拾がつかないほど増える可能性も否定できない。

 24日の議決で、原案への反対意見や慎重論が多い場合には、3年後の次回総会に決着が持ち越される可能性もあるという。

(08/17 01:19)
http://www.sankei.co.jp/news/060817/sha011.htm

 うーむ、なんか太陽系の惑星が9つから12個に増えることが決定しそうでありますが、水金地火木土天海冥(あれ、冥海だったかな?)と太陽に近い順に9つ覚えていたのですが、12個に増えるとなると、水金地火セレス木土天海冥カロン2003UB313って暗記するんでしょうか(苦笑)

 2003UB313もなんか気の利いた名前付けてくれないとね、教科書も生徒達も困っちゃうでしょう。

 なんだか人間の定義によって太陽系の惑星数が増減するってのもなんだかなあなのですが、気になるのは「3個の新惑星候補のほかにも、12個の天体が惑星に昇格する可能性がある」ってことですから、今後も景気よく惑星数は増えていくのでしょうねえ。

 しかし新惑星を命名するときには今までのように国際的に幅広く認められる(たとえば多くの国の人が受け入れることができたギリシャ神話とかに由来する)名前にしてほしいですねえ、くれぐれも日本海海底地形の「独島将軍」のような偏狭な特定の国のナショナリズムに影響されないで欲しいです(苦笑)。

 当ブログでは何度もエントリーしてきたことですが、中国や韓国の偏狭なナショナリズムには辟易している私なのですが、領土問題ではプチナショナリストに変貌(?)する自分を棚に上げてお話ししてしまえば、排外的な偏狭なナショナリストは国籍問わず好ましくは思っておりません。

 こういうスケールの大きい宇宙の記事を目にすれば、たかだかちっぽけな太陽系第三惑星のそのまた小さな一地域にひしめく人間達など、本当宇宙全体から見ればカビみたいな存在なのですよね。

 私も含めて地上のナショナリストなど小さい、小さい。

 よくリベラルな人が「地球市民」とか口にしますが、本日はでっかく「宇宙市民」的発想のエントリーでまいりましょう。(←なんのこっちゃ(爆))



●古代人にとり、太陽は不動・不変・不可侵の絶対神だった

 太陽は古今東西、いろいろな宗教で神・太陽神として信仰の対象とみなされ神格化されてきました。

 古代エジプト王朝の太陽神アメンをはじめ、ギリシア神話のアポロン、インカ神話のインティ、その中には日本神話の天照大神も含まれます。

太陽神の一覧
インカ神話 - インティ
エジプト神話 - アテン、アトゥム、アメン、ケプリ、プター、ホルス、ラー
ギリシア神話 - アポロン、ヒュペリオン、ヘリオス
ケルト神話 - ルー、ベレノス
中国神話 - 羲和、蜀陰、火鳥
日本神話 - 天照大神、摩利支天?
ペルシア神話 - ミスラ
北欧神話(ゲルマン神話) - バルドル、フレイ
メソポタミア神話 - シャマシュ
ヒンドゥー - アグニ、アンサ、インドラ、ヴァルナ、スーリヤ、ミトラ、ヤマ
ローマ神話 - アポロ、ソル、ヘリオガバルス
インド神話 - ヴィシュヌ、スーリヤ、サヴィトリ、プーシャン
オセアニア神話 - ランギ、カネ・ヘキリ、タマ・ヌイ=テ=ラ
スラブ神話 - ダージボグ、ベロボーグ
フェニキア神話 - シャプシュ
メキシコ神話 - ケツァルコアトル、インティ、トナティウフ
モンゴル神話 - ナラン

太陽神
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E7%A5%9E

 8月15日終戦記念日の小泉首相靖国参拝問題でマスメディアは大騒ぎしておりますが、日本の国家神道も天皇制もその昔の神話の時代にまでさかのぼると、神道も原始太陽神信仰を融合・発展させた信仰と分類することもできるそうです。

 日本神話に登場する太陽神・天照大神(あまてらすおおみかみ)こそ国を治める天皇自体の神格化だとみなす考え方もあるようです。

解釈
神話中では自分より先に生まれた天津神(高皇産霊尊)に行動の是非を伺ったり、その指示に従っている場面も見られることから、アマテラスは神に祭祀(まつりごと)を行って国を治める天皇自体の神格化だとみなす考え方もある。

また、古代の巫女の神格化であるという見方もある。別名の「ヒルメ」は「日の女」で、太陽神に仕える巫女のことである。太陽神は本来男神であるが、それに仕える巫女が太陽神と同一視され、女神になったとする説がある。また、女神であるのはこの神が成立したのが女帝である持統天皇の頃であるからという説や、現在では卑弥呼がアマテラスのモデルであったとする説もある。

天照大神
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E7%A5%9E

 考えてみれば、古代人にとって太陽とは、地上の全ての恵みをもたらし、天空に顔を出せば朝となりやがて沈み夜のとばりをうむ、日々の生活に於いて絶対的存在であったわけです。

 それだけではなく、やがて古代人達は農耕に必要な暦(こよみ)をこの太陽の動きを観察することで知るようになります。

 今も残るいくつかの古代文明の巨石遺跡は、夏至や冬至、春分・秋分の太陽の位置を見事に計測できるように配置されており、毎日の太陽の日の出日の入りをくり返すことで春夏秋冬・季節が巡り、365回くり返すと元の季節に戻る、つまり1年が365日である事実はかなり昔から人類は認識していたわけです。

 現在では、地球が太陽という恒星の周りを回っている惑星のひとつに過ぎず、たまたま地球の公転周期(1年)が、地球の自転周期(1日)の365倍で近似できるという事実で説明できるわけですが、このような科学的な事実を知る由もない古代の人々にしてみれば太陽の動きは、まさに神聖かつ大切な不変であってほしい信仰対象となったのでありましょう。

 古代人にとり、太陽は不動・不変・不可侵の絶対神だったわけです。



●太陽は螺旋運動する幾多の恒星のひとつに過ぎない

 今日の科学が私たちに教えてくれるのは、宇宙空間における太陽は、古代人が考える不動・不変・不可侵の絶対神的存在ではなく、寿命も有限であり、不動ではなく宇宙空間を耐えず運動している幾多の恒星のひとつに過ぎない事実であります。

 まず太陽系を基準に考えてみれば、確かに私たちの地球は不動の太陽の周りを公転しています。

 地球は楕円を描いて太陽を回っていますが、ほぼ円に近いとして、その公転する直径は、1「天文単位」と表記され、149576960kmであります。

 この直径で示される公転軌道を地球は1年(365日)で回っているわけですから、実は地球は太陽の周りを時速約10万7千kmという高速で運動していることになります。

 秒速約29.8kmです。

 おもったより無茶苦茶に早いですね。

 もし太陽が宇宙空間に静止していれば、地球は太陽の周りを秒速約29.8kmという速さで半永久的にぐるぐる円運動をしていることになります。

 しかし、我が太陽は、巨大な渦巻き銀河・銀河系の中の一本の腕の中の数千億もある恒星のひとつに過ぎません。

 直径約8万〜10万光年のディスク(円盤)の中の、オリオン腕の内側の縁近く、銀河中心からはかなり離れた辺境の一本のうずの腕の中に太陽系は位置しています。

 ご存知の通り銀河系のうずもゆっくり回転しており、太陽系が銀河系内の軌道を一周するには約2億2500万〜2億5000万年かかり、太陽系が誕生してから現在までに約20〜25周していると考えられています。

 簡単な計算で求めると、我が太陽系の銀河系における軌道速度は秒速217kmとなります。

 ・・・

 つまり、私たち地球は太陽の周りを秒速約29.8kmで回転運動しているわけですが、その円運動の基準となる太陽自身が実は、銀河中心に対し秒速217kmという高速で移動しているわけです。

 銀河中心を基準に考えると、つまり地球は太陽の周りを周りながら、銀河中心に対しては螺旋(らせん)運動しながら、約2億2500万〜2億5000万年という途方もない時間を掛けながら周回していることになります。

 ・・・

 さらに話を大きくしますと私たちの銀河系自体も宇宙空間に於いては絶対的不動な存在ではありません。

 実は私たちの銀河系はアンドロメダ銀河、大マゼラン雲、小マゼラン雲などの約35個の銀河が集まっている局部銀河群に属しています。

 で私たちの銀河系が属する局部銀河群は、おとめ座超銀河団重心に向かって宇宙空間を運動していると考えられています。

 最近の推定ではこの値は秒速200kmから1000kmぐらいまでばらつきがあるのですが、仮にあいだを取っても、我が銀河系は秒速600kmという跳んでもない高速で、おとめ座超銀河団重心に向かって宇宙空間を運動しているわけです。

 ・・・

 ふう。

 ご理解いただけましたでしょうか。



●ましてや地球などもうダッチロール状態の軌跡をたどっている(苦笑)

 整理します。

 我が太陽は不動・不変どころか、秒速217kmという速さで銀河中心を回りながら、その銀河自体が秒速600kmという高速でおとめ座超銀河団重心に向かって運動しているのです。

 つまり太陽自体螺旋(らせん)を描きながら宇宙空間を移動しているわけですね。

 太陽ですら螺旋(らせん)を描きながら運動しているわけで、その太陽を周回している地球の運動の軌跡となるともうダッチロール状態(苦笑)なわけです。

 つまりこうです。

 秒速600kmでおとめ座超銀河団重心に向かって宇宙空間を運動している銀河の、その周りを秒速217kmという速さで周回運動している太陽の、その周りを秒速約29.8kmで周回運動している、私たちの地球。

 宇宙空間にはいわゆる絶対座標と呼ばれるものはありません。

 一般的な意味では、アインシュタインの特殊相対性理論によれば宇宙空間における物体の絶対速度という考え方には意味がないのです。特殊相対論では、宇宙には銀河系の運動の基準となるような特別な慣性系は存在しないのであり、物体の運動は常に他の物体に対する運動として特定しなければならないのです。

 私たちの地球もそして母なる神的存在である太陽も、この広大な宇宙の時空間を果てもなく彷徨(さまよ)う「流離人(さすらいびと)」なのであります。

 ・・・

 61年前の8月15日終戦記念日を基準として今年の8月15日までの61年間で、地球が宇宙空間を螺旋の螺旋を描きながらどのくらい膨大な距離を移動したか、想像してみましょう。

 秒速600kmの直線移動だけで近似計算してみても、一年間に189億2160km、61年間では1兆1542億km、なんと1.2光年もの移動距離なのであります。

 61年前の8月15日の地球の位置は、現在の地球の位置から1.2光年も離れた遙か彼方にあったのであります。

 ドラマや映画の中でタイムマシンが登場しますが、科学的には如何に突飛なあり得ない乗り物か解ろうかというものです。

 実際はタイムマシンが正確に過去にさかのぼることが仮に可能だとしても、空間的にも正確に元のポジションに戻らなければ当時の地球上には行けないわけです。

 宇宙時空間を時間を逆流すると言うことは単に時間を戻すだけでなく、この複雑な地球の螺旋の螺旋を描きながら高速で移動してきた軌跡を正確に辿らなければならないわけです。

 ・・・

 「宇宙市民」的スケールで話を進めてみましたが、いかがでしたでしょうか。

 え? で、何が言いたいのかって?

 ・・・(汗

 地上の人類の国同士のいざこざなんて小さい、小さい、ってことです(苦笑

 私たちの地球もそして母なる神的存在である太陽も、そしてその地球に生息している私たち人類も、この太陽系に属する全てはみんな、この広大な宇宙の時空間を果てもなく彷徨(さまよ)う、最後まで運命共同体の「流離人(さすらいびと)」仲間なのでありますから。



(木走まさみず)