ホテル・ルワンダDVD化、そして2005年秋にルワンダ・キガリの街を訪ねて。

昨日、電器屋に行ったら「ホテル・ルワンダ」のDVDが置いてありました。あっ、もう発売されていたんですね。これは3月に大阪で見ました。上映機関が終了する直前にもかかわらず、一日2回しか上映はなく、それ故に満員に近い状態になっていました。


いやあ、実は、全く偶然なんですが、この映画の半年前、つまり昨年2005年の10月、ウガンダから陸路で国境を越えてルワンダに入り、舞台となった首都のキガリと2003年にできた虐殺記念館。そして、大量虐殺でミイラ化した遺体が万単位で眠っていたというギコンゴロの学校跡(いまでも300体ほどありました)。そこらも回っていたのです。緑の多い素敵な国でした。ケニアあたりとは違い、黒人の連中もそんなに油ギッシュ、エネルギッシュじゃない。穏やかな国のようにも見えました。

でも、やはり空気が違うのですよね。

以下のキーワードは、「2005年のルワンダの状況」、「ブラウン管の向こうで『観客』として見ていた人々、そして国連軍司令官」、「映画と観客」という三題です。



ルワンダ問題を勉強していた家庭教師先の11歳の小学生

ルワンダでの虐殺が本格的になった1994年と言えば、マスコミも世界も、どちらかというとユーゴスラビア問題の方に関心が向いていました。ぼくもその都市の夏、ドイツとクロアチア国境の近くを旅していました。新聞の外報面短報としてルワンダの混乱を伝える物の、断片的なニュースで全体像はなかなか理解できませんでした。でも、自分ら「外野の観客」が知らないうちにユーゴとは比べ物にならない人たちがあそこで亡くなっていたわけですね。そこらの「外野たち」の距離を置いた態度に対して、監督は作中でかなりアイロニカルな仕掛けをしています。そして、現実の世界も、いつしかフツだかツチだか、何の違いがあるのか当事者たちも分からない民族の出来事を知ることになるのです。

それから2年後の1997年、私は11歳の女の子の家庭教師をしていました。中学受験対策のためです。その娘が休憩時間に学校での話をよくしてくれた。友達とのたわいない話、学校の先生の悪口とかまあそんなことだったのですが、ルワンダ支援の活動についても事細かに話してくれました。校内で勉強会をしたり、物を送ったり、募金をしたり、といろいろ活動をしている……と。京都のミッション系私立だったからなんでしょうが、私の生徒も、何千キロも離れた国の子供のことを真剣に考えているようでした。

「センセー、アフリカ行ったことあるの?」
「ない。暑くてなんだかやだなあ。」
「ぜひ、行って話を聞かせてよ」
「君が受かってくれないと時間はないよ。とりあえずは試験。じゃあ、始めようか」
「まだ休憩したいよ……」

でも、そんなメガネっ娘の真摯な言葉を聞いても、「アフリカ支援の活動を飽食の日本でやるのって何だかなあ……」と斜に構えていたことも事実です。僕はそこまで擦り切れていたのかもしれません。

ルワンダ・キガリの博物館に出会った23歳の女の子

2005年9月にナイロビに到着。ケニアと隣国ウガンダの各地にある国立動物公園に立ち寄り、ライオンやゾウ、トラなどのサファリーを楽しみました。一番良かったのはナクル湖を埋め尽くす数万羽のフラミンゴが一斉に飛び立つところだったかな。ラム島などのビーチに行くと、アフリカとは思えない白砂で、なんか別天地のようでした。

ウガンダ南端にある要所カバレ(ゴリラトレッキングで有名)で一泊し、9月27日の朝、ルワンダ国境に出発します。

国境行き乗り合いタクシーが集まるのは、泊まっていたホテルの目の前。日本製の三十年以上前の中古車が使われており、本来5人乗りのはずの車内に12人ほど詰め込まれながら悪路を進んでいく。どこでもそうですが、途上国ってのは国境の街というのは闇物資が集まるところで、そのおこぼれを狙う役人や住人たちで必要以上にごった返ししている。なのに、ここはやたらと整然としている。どーゆーことなのか。

入管手続きをしてルワンダ側に入ったら分かりました。まず、道路が異常なほどきれいに舗装されている。日本の田舎の県道とは比べ物にならないような素敵な道を、ボロボロの乗り合いバスがガタガタ進むのです。これまた三十年前の日本製ハイエース。10人乗りのところ、20人ぐらい乗り込んでいました。天井には誰も乗っていないから、アフリカの乗り合いバスとしてはまだマシな方です。そして、途中、あちこちにいるポリスの姿。確認しただけでも40キロの道のりで25箇所以上はあったと思います。

首都キガリ到着は11:20着。街の中心部は丘の上にあるので、別の乗り合いバスに乗り換えていきます。急な坂をあえぎながら登っていくバスの車窓を眺めても、想像以上に近代化された街しか見えない。目抜き通りと広場を中心に再開発が進み、のっぽビルの建築ラッシュが続いている。あのニュースになった国とは思えなかった。

簡単に昼食を済ませて、バイタクで博物館に向かうことにする。フランス語じゃないと伝わりにくいのだが、なんとか値段をまけさせて、11km先の目的地まで400fr(80円)のところを300fr(60円)で行ってもらった。

目的の博物館は、キガリ虐殺ミュージアムという建物。イギリスのNGOの手で2003年に建てられたものである。洋館を模したなかなか立派な建物で、入口の館員は流ちょうな英語で私を迎えてくれた。入場料は無料。帰るときに寄付金を……というのはやはりキリスト教系の建物だからか。しかも、なかなか美人なお姉さんが私に付いてくれた。24歳。イギリス留学も経験したという。

で、肝心の中身ですが、当時を忍ばせる物品の展示はほとんどなく、参加国で書かれたパネル展示とビデオ上映が中心。でも、日本のそこらの博物館とは、内容面でもデザイン面でも段違いのレベルです。さすが大英帝国。植民地化からあの瞬間までの100年近い事象も事細かに記載してある。そして館員の女の子も詳細な説明を繰り返してくれる。

でもね。

1994年4月にルワンダの大統領が乗った飛行機が墜落した事件あたりからのはね。写真と文章だけなんですけどね。映像も現在の人たちが過去を語るだけなんですけどね。なんだかね。そのお、まあ、一年経った今でも書ききれない気分を察してください。

写真と文章だけなのにここの展示がよくできていたのは、誰か特定の人間に責任をなすりつけるようなことをしなかったこと。そして、フツもツチも決して"被害者"という特権的な地位にいたわけではないこと。歴史を客観的に記すとはこういうことなのね。もちろん、まだルワンダ政界にもいろいろあるし、大統領は「ホテル・ルワンダ」に不満があるらしいし(asahi.com 「ルワンダ大統領、映画「ホテル・ルワンダ」を事実誤認と批判2006年06月01日」http://www.asahi.com/culture/enews/RTR200606010059.html)、だからこそ、この博物館は、国営じゃなく、イギリスのNGO経営になっている。

1時間半ほど本館の展示を見回ると、別館の方に。フロアーにいる白人の女性たち、いや男たちもみんな涙を浮かべている。ここには子供たちの写真がパネルになって展示されていた。「名前」「好きなおもちゃ」「ともだちの名前」「好きな食べ物」……

そして、最後には必ずこう締め括られていた。「□歳、1994年○月△日、斧によって撲殺 」「……銃で頭を打たれる」「……不明」。わずか二十人ばかりの子供たち。彼ら彼女らの人生が一枚のパネルに押し込められていた。


傍らにいたガイドの女の子に聞いてみた。
「このとき、いくつだったの」
「14歳」

返す言葉もない。

別れ際に、「遠く離れた日本の小学生たちが、ルワンダであったことを勉強している」という旨を伝えると、嬉しそうに感謝していた。そーいや、あの聖母学院小学校の女の子も20歳ぐらいになっているのかな。

「ホテル・ルワンダ」、そして状況をブラウン管に押し込めていた「観客」の存在

あの「ホテル・ルワンダ」っていろいろな語り方ができるのだろうけど、やはり僕が気になるのは国連軍の司令官だ。
とりあえず混乱を防ぐためにアフリカへ派遣されたけど、何もできないカナダ軍の将校。当事者であり、その場で解決できる可能性がある唯一の存在である。なのに、状況を「観客」として見守るしかできない。

そのジレンマは、作中の司令官、そして現実のルワンダにいたロメオ・ダレール少将だけでなく、映画の観客にも投げかけられていたと思う。11年前のこの国での騒動をブラウン管の向こうに押し込めて、テレビニュースの「観客」になっていた自分たち。その姿勢自体が、物静かに問われていく。そういった意味で、「映画」と「観客」という関係性にも切り込んだメタ映画だったのかもしれない。


なんて半年前に見た映画の感想をまたほじくり出したのは、今年の夏の「朝日新聞」の記事を読んだから。8月17日の朝刊に、国連軍のルワンダ支援団で指揮官を務めたロメオ・ダレール少将、ご本人ののインタビュー記事が掲載されていました。彼は、現在、カナダで国会議員をしているようですが、80万人が死んだというルワンダ大虐殺を防げなかったという自責の念でPTSDに悩んでいたこともあったとか。

朝日の記者は、"国連は、世界はなんとかできなかったのか"と詰め寄ります。

まあ、仕事柄仕方ないんでしょうけど、そこら辺はオブラートにしてあげなきゃ。マスコミみたいに無責任な「観客」ではいられなかったのだから、当事者としては辛い質問だよ。「私たちが見たものは、敵国の兵士同士が戦う古典的な戦争ではない」という状態で、先遣隊が基地の維持すらできないのに、大量の後続隊が来るなんてあり得ない。ソマリアやダルフールなんかも同様の状態になっているらしいけど、もう手のうち用がなくなっている。レバノンやイスラエルとは違う次元の事態が起きているんだから…… まあ、おいおいというインタビューでしたが、最後の方の「ルワンダで私が知ったことは、もっとも邪悪な殺人者でも彼らの家族の平穏を願ってやまない、ということだ。」という言葉に救われました。これが偽善的で無責任なセリフであると言うことを本人は了解している。でも、あうて信じなければ彼も、そしてこの国の住人も前へ歩けなかったと言うことなのでしょう。

キガリを出た後、ルワンダ国内には数日いましたが、この国の人たちにはやはり何も聞けなかった。そして、ブルンジやコンゴ(旧ザイール)、ダルフール、ウガンダ北部では、10年前のルワンダ虐殺の影響を受けた内戦状態がいまでも続いている。国連軍の「UN」と書かれた真っ白いヘリやジープを何回見たことか。休暇中の国連軍関係者にも何度か会った。あの直後、ウルグアイやらアメリカやらベルギーから駆けつけた人たちも。でも、彼らは「あれは最悪な風景だった」と笑っただけで、それ以上、聞けるような雰囲気ではなかった。記憶を忘れ去ることは容易ではないのだろう。

そういえば、あの映画、エンドマークってなかったよね。


なお、本文は「タンコのてくてく日記」(http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/11487298)と「 Charlie & Akira 」(http://www.doblog.com/weblog/myblog/71551/2619891#2619891)から発想を得て書き記しました。

ルワンダ2005年10月の状況

最後に簡単ですが、僕が旅した当時のメモを残しておきます。

ルワンダ
両替レート   1$=560fr(ただしATMなどは首都でも整備されていない)
ビザ代     60$(ゴリラの顔がついたホログラムがバックパッカーに人気)

昼食のビュフェ 1400fr(300円)
コーラー    300fr(60円)
中級ホテル   10000fr(2000円)
安宿      5000fr(1000円 停電断水頻発)
サンドイッチ  200fr(40円 フランス系植民地だからパンはうまい) 


☆キガリ(@ルワンダ)
・ウガンダ側国境のカバレVISITOURS HOTEL隣より
キガリ直通5000sh(2.5ドル)、国境まで2000sh(セダン相乗り)、0.5h
・国境〜キガリ(NYABUGOGO)ミニバス1200〜1500fr、1.5h
・NYABUGOGOターミナル〜市街地へはミニバス100fr
・キガリ虐殺ミュージアム バイタクで300〜400fr 寄付金制
イギリスのNGOが主催。写真と文字解説が中心、ガイドあり。

☆キブイェ
・キガリ〜キブイェ 1200fr 2.5h 2社が2時間毎
キガリ独立広場の北側にあるオカピバス事務所より(キブユビーチという看板あり)
同じ場所よりgisenry経由のザイール・ゴマ行きミニバスが15:00ころに発車
・Golf GH 10000fr(Hシャワー・バルコニー付)
 目の前にビーチ。風景はイイ感じ。

☆ブタレ
・キガリ〜ブタレ 1100fr 2.5h。各社頻発
・キブイェからはGitaramaで乗換(オカピバス1200fr+ローカル1000fr)
・Motel Gratia 5000fr、Hotel des Beauxarts 4000fr(共にシャワー付)
町のメインストリート南側にあるGS付近にGHが集中。ただし停電・断水頻発

☆ギゴンゴロ
・ブタレのバスターミナルからミニバス500sh。チャンググ行きのバスも経由400sh
(町の中心部から1kmほど北にバスターミナルあり)
・バス停から2.5km。自転車タクで200sh
・防腐加工された遺体が300体ほど。寄付金制。下記建物でカギを借りる。
・2005年12月オープンを目指して記念館を建設中。キガリのと同系列

☆ブジュンブラ(@ブルンジ)
・Yahoo!バスでブタレから2500fr ミニバスと中型バスが続行運転
キガリ7:00→ブタレ9:30→国境10:20→ブジュンブラ・マーケット近く14:40
ブタレからはキガリ発に途中乗車する形になる。オーバーブッキング気味
バス会社はブタレ中心部のスーパーマーケットの真向かいにある


この旅程は最後にヨハネスブルクに行くまでまだまだあるのだけど、それはまた別の話。