kanizaのブログ

コンピュータ、ソフトウェア、映画、音楽関連や家族のことなど、思いついたことを書きます。

プログラマになろうと思った小学生の決意

小学生のころ(1980年代)にMSXでプログラミングを始めて、将来プログラマになる夢を持った。当時、一般的にコンピュータやプログラミングには無機質で非人間的なイメージがあり、父からは「プログラマは30歳くらいで廃人になってしまうらしい」と心配された。

それでもコンピュータに魅力を感じていた僕は、廃人にならないように「人間のこともよくわかっているプログラマになろう」と決意した。それまでプログラミング系の本ばかり読んでいたのを見直して、小説など人文系の本も読むようにした。そこからコンピュータと人間について意識するようになった。

高校生の頃に自分用のコンピュータを入手するにあたり、当時主流だったMS-DOSやWindowsが動くPCではなく、Macを選んだ。当時、Macを使っている人はまず見かけなかったが、「人間のことをよくわかっている」のはMac(Apple)であり、それに触れたいと考えた。Macに付属していたHyperCardは手軽にツールを自作でき、夢中になった。今でいうAnkiのような大学受験勉強用のツールを作ったりと、大いに活用した。

同じく高校時代に、当時Appleから追放されてNeXTを創業していたスティーブ・ジョブズの半生を描いた本を読み、ジョブズの凄さを知った。オブジェクト指向を取り入れたNeXTの先進性を知って、使ってみたいと考えたものの、新潟県長岡市で暮らす高校生であった僕がNeXTに触れる機会を持つことはなかった。

当時はMacのようなグラフィカルユーザーインターフェース(GUI)こそ未来だと信じていたが、大学時代にUNIXに触れて、考え方が変わった。補完機能などで十分に使いやすいコマンドラインインターフェース(CLI)や圧倒的な安定性、プログラミング環境の充実ぶりに感銘を受けた。UNIXで主流だったテキストエディタEmacsに出会い、プログラミングや文書作成のみならずメールやネットニュース、ファイル操作などあらゆることにEmacsを使えることを知った。UNIXやEmacsのパワーを感じ、テキスト操作こそがコンピューティングの中核にあるという考えに至った。

大学でUNIXを使いながら、自宅ではMacを使い続けた。UNIXの素晴らしさはわかるものの、一般の個人が使うにはやはり優れたGUIを持つMacが良いと考えていた。しかし、Macの劣化コピーにしか見えないWindows 95の登場でPC業界が盛り上がりを見せる中、Appleは赤字が続き先行きが心配にな状況が続いた。それでもMacを使う僕は、高校でも大学でも変わり者扱いされていた。

そんな中で、AppleがNeXTを買収し、NeXTのOSをベースにした次世代OSを開発することが発表された。NeXTはUNIX系なので、自分が大好きなUNIXとMacの融合が果たされることになったわけだ。MacでEmacsやUNIXツールが使えるうえ、憧れのNeXT由来のオブジェクト指向な開発環境もついてくる。さらに、スティーブ・ジョブズがAppleに復帰する。これがわくわくせずにいられるだろうか。

その次世代OSはMac OS Xとして結実した。首を長くして待っていた僕は当然、正式リリース前のパブリックベータからインストールしていじり倒した。Mac OS Xに続いてiPod、iTunes Store、iPhone、iPadとAppleは革新を続け、自分がMacを使いはじめた頃からは想像もできないような、世界最大の企業に成長した。

その間、僕自身は人間社会にとって技術がいかにあるべきかを考えながらソフトウェアエンジニアリング関連の仕事をしてきた。過去40年のコンピューティングの進化を肌で感じながら、仕事はもちろん、映画、音楽、文学、歴史、哲学、そして人々との交流を通じて人間についての理解も深めてきた。流行りだけでなく、長く愛されてきた古典的作品に触れることを重視してきた。

振り返ると、小学生の頃に抱いた「人間のこともよくわかっているプログラマになろう」という決意は、後の人生に大きな影響を与えたと感じている。それはあの時の父の心配があったからこそでもある。

人生、何がきっかけで方向が変わるのか、わからないものだ。

論理と理論

みんなもそうだと思うけど、「議論」と「論議」のような文字が逆順になっている熟語の対が好きだ。

「便利」「利便」、「運命」「命運」などいろいろあるんだけど、今日は「論理」と「理論」を取り上げてみたい。

「論理」と「理論」は、英語ではlogicとtheoryで別モノ感が明確な一方で、日本語だと同じ文字を使う熟語なので比較したくなってしまう。

理には「ことわり」という訓読みがあり、物事の筋道やルールを意味する(そういえば「筋道」「道筋」も)。

だから論理というのは論の理(ことわり)、つまり、ある主張なり言明なり(論)の筋道のことを指している。

そして「理論」は、なんらかの理について論としてまとめたものを指している。

理論を構成するのが論理であり、論理は過程や構造だと言える。「論理は過程」というのは、言語過程説好きにはしっくりきた。

では理論はというと、理が支配するこの世界のある側面を表現した地図のようなものだと言える。世界そのものではないが、人間が理解・解釈を共有・利用できるようにまとめたもの。地図もまた、そのように作られ、使われている。

足首を暖めろ

1月も終盤になって春が近付いてきたが、まだまだ寒い。そんな寒い冬に、昨年から欠かせなくなったのがレッグウォーマーだ。

前から家族にすすめられつつも、スパッツを着用して靴下も履いている僕は「たかが足首」と思っていたのだが、ためしに着けてみたらあら不思議、寒さというか冷たさがぐっと減って快適になった。スパッツよりも効果を感じた。

今はレッグウォーマーを着けていないと「足首が寒い(レッグウォーマーを着けなきゃ)」と感じるようになった。

重要なのは足首だ。

高校の英語の先生

高校生の頃、英語教師として海外から来ている先生がいた(A先生と呼ぶ)。A先生はいわゆる白人で、青い目をした人だった。

A先生は僕が在学中に学校を去ることになり、全校集会でのあいさつがあった。

いろいろな生徒さんから「A先生、なぜおとなしいんですか?なぜ物静かなんですか?」と聞かれました。私のような外国人は、明るく元気いっぱいなイメージがあるのかもしれません。でも、性格は人それぞれなんです。そのことをわかってほしいと思います。

正確ではないが、こんな主旨の話をしてくれた。

そういう場面でのあいさつでは、感謝だったり成長を願う的な話を聞くことが多かったように思うが、A先生は僕たちが持つ偏見に苦言を呈したわけ。まずそのことに驚いたし、僕も外国人のステレオタイプはゴリゴリに持っていたから、A先生の話を聞いて「そうか、そうだよな」と納得したし、A先生がそのことで困っていたことを知って、申し訳ない気持ちになった。

僕はA先生と直接の接点はなかったけど、とても大切なことを教えてくれたと、いまも思っている。

年が明けた

2024年から2025年の年末年始は、いろいろあって長岡に帰省せずに大阪の自宅で過ごしていた。たしか2020年の年末にコロナ禍で帰省しなかった時以来。

元日に近所をふらつくのは久しぶりだった。さすがに人通りは少ない。営業している店も少なくて、頼りにしている関西スーパーは元日と2日は休業。しかしコンビニやファストフードのチェーン店は元日から営業していてありがたい。

昨年は元日に地震があったりと大変だったな。

2024年は、ここのブログをたくさん書いた感があった。47本。素数だ。日本の都道府県の数でもある。記録によると2009年の67本に次ぐ本(67も素数)。2009年はマイケル・ジャクソンが亡くなったりWWDCに参加したりした年か。なつかしい。

ところで2025年は45の二乗だったりとかいろいろと面白い数らしい。

そんな感じです。

今年もよろしくお願いします。

読書メモ「ふしぎなキリスト教」


これも2024年に読んだ中で印象的だった一冊。

僕自身は、浄土真宗の家に生まれて、茶の間に仏壇があって毎日お供えするような環境で育った。仏壇の上には神棚があって、正月には榊を飾ったりもしていた。特段、信心深いという自覚はないど、お盆にお墓参りにいったりと、それなりに宗教的な活動もしてきた。

キリスト教については、興味もあるし知識としてはいくらか知っているけれども、キリスト教徒のみなさんがどのような形で神を信仰しているのか。聖書に書いてあるようなことをどのように信じているのか、また信じていないのか、正直わからないところがある。現代科学からすると説明のつかないこともたくさんあるわけだし。

そういう疑問に、二人の対談形式でじっくり答えてくれようとしている本。

意外だったのは、宗教と科学というのは相反するようなものだと考えていたのに、キリスト教があってこその科学だという観点。神が作ったこの世界の仕組みを解き明かし、理解しようという意志が、科学を発展させてきた側面があるのだそうだ。たしかに、この本にあるような、個人が神とどのような関係を結ぶのかを踏まえると、わかるような気がする。さらに、人権という概念もキリスト教における「神の下の平等」という考え方があってこそ生まれてきたという話もあり、現代文明とキリスト教というのは深い深いつながりがあると感じる。

日本人の多くは、あまり明確な信仰心というものを持っていないと言われる。高い同質性からくる無自覚もあるのだろうし、実際、八百万(やおよろず)の神のような考え方も一般的だから、特定の存在への強い信仰心がないというのもあるだろう。

そういう日本で、人権のようなキリスト教的価値観から生まれた概念がどのように受け入れられているのか。どうなんでしょうね。

なんたって、世界の根本の捉え方が違うわけだからな。

この本を読んだからって、キリスト教の信仰をじゅうぶん理解できたわけではないけど、だいぶ深めることはできた。

コテンラジオでも近い問題意識からキリスト教を理解しようとする回があって、こちらも参考になる。

www.youtube.com

読書メモ「断片的なものの社会学」

ことしの春ごろに読んだ本。とても良かった。

日常の些細な出来事や、さまざまな人の話の中から、人や社会の深くて見えにくいところに光をあてるエッセイ集。

どれも素晴らしい中で、「手のひらのスイッチ」と「普通であることへの意志」は、僕の個人的な問題意識と重なる部分が大きかったでせいか特に気に入った。

世の中の大きな動きではなく、一人ひとりの日々の営み。それが社会を作っているわけだよね。人間重要。