みんなの笑顔が三重(みえ)てくる Jima-t’s diary

「地域性」に光をあて、「違い」を学び、リスペクトし、楽しむというスタンスで四日市や三重の魅力を伝えていきます

三重県のしめ縄「蘇民将来子孫家門」&「笑門」

Ep.235

伊勢神宮内宮おかげ横丁で毎年暮れに開催される「歳の市(としのいち)」は正月支度を整えるために多くの人が足を運ぶ。(2024年の場合は12/14〜12/28)

県内在住ということと季節の風物詩でもあるので、私たち家族は毎年訪れ正月飾りなどを入手している。

年末になるほど混雑するし欲しいものも無くなるので早い時期に行くのが良いというのも分かってきた。

 

 

歳の市で見る「しめ縄」は2種類ある。

「蘇民将来子孫家門」と「笑門」である。

 

「蘇民将来子孫家門」

「笑門」

 

私は三重に来るまで(所帯をもつまで)しめ縄というものを買ったこともなければ真面目に見たこともなかった。

なのでこのとき初めて知ったが、この二つ、特に前者の「蘇民〜」は伊勢地域に特徴的なもののようだ。

 

蘇民とは神話に出てくる人物のこと。

しめ縄と関連する理由は以下のものだという。

 

昔、伊勢の地を旅した須佐之男命(スサノオノミコト)が、蘇民将来(ソミンショウライ)、巨旦将来(コタンショウライ)という二人の兄弟のいる地に立ち寄り、一晩泊めてくれるよう頼んだ。

長旅で衣服がボロボロになったスサノオノミコトの姿を見て、弟の巨日は、自身が裕福な生活をしているにも関わらず断ったが、貧しい生活をしている兄の蘇民は親切に泊めてあげた。

 

スサノオノミコトは喜び、蘇民に

「これからどんな疫病が流行っても”蘇民将来子孫家門”と書いて門口に示しておけばその災いから逃れられるであろう」

と言い残した。

以来、蘇民の家は代々栄えて、いつの頃か伊勢地方で、新年のしめ縄に魔除けとして「蘇民将来子孫家門」の札をさげるようになったという。

 

上記の通り、神話の世界の住人たちによる由縁はまさに伊勢神宮のお膝元であるこの地ゆえ。興味深い。

 

NHK HPより

NHK HPより

 

もう一方の「笑門」はもちろん「笑う門には福来る」に由来する。

 

MieMu HPより

NHK HPより

 

もう一つ面白いことは、伊勢地方の近辺ではしめ縄を一年中玄関に飾るということがある。

 

三重県総合博物館(MieMu。Ep.53等参照)のHPによると、

「松阪市嬉野地域から県下以南では、民間信仰との関係で約8割以上の家庭で、一年中玄関前に掛けているのが大きな特徴とであるのに対し、これより北の地域では殆どが15日までにおろす習慣となり、県下の東西文化の違いをよく示しています」

とある。

 

ただ私の住まい(四日市)の近所のご自宅でも年中「蘇民〜」のしめ縄が飾られている。

私はさすがに年中飾ることはしないので、市内の諏訪神社に持って行く。1月15日にどんど焼き(しめなわ焼き)がおこなわれるのだ。

 

四日市の諏訪神社

 

2024年もあとわずか。

来年も良い一年を。

 

 

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New Year Wreath in Mie

Ep.235

New Year Wreath are very unique one in Mie.

“蘇民将来子孫家門 Sominshorai-shisonkamon” and “笑門 Sho-mon” ,which come from Japanese mythology exist only in this prefecture, especially Ise region.

And also, people decorate it in front of their entrance during a year!

What so fun this culture is!

 

https://www.nhk.jp/p/ts/2W7WM664QP/blog/bl/plyK7Np8N6/bp/pkpGK1l4YL/

https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/83003046690.htm

https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/arekore/detail.asp?record=60

https://nordot.app/1238294988724011488?c=39546741839462401

https://okageyokocho.com/

http://www.suwajinjya.jp/news/2023/230115.html

 

小説&映画『潮騒』

Ep.234

三島由紀夫の『潮騒』(1954年)

三重県を舞台にした小説作品は数あれど、この作品ほど有名なものはない。

 

三島由紀夫 Wikipediaより

『潮騒』新潮文庫

 

作中の「歌島」とは鳥羽市神島(かみしま)がモデル。漁師の青年、新治(しんじ)と島の有力者の娘、初江の恋愛が描かれる。

 

神島 伊勢志摩観光ナビより

神島 観光三重より

 

私にとって三島由紀夫の作品といえば、大学生のとき『金閣寺』は楽しく読んだが『仮面の告白』は序盤で挫折した。

折しも仲の良い友人が『仮面の告白』を読破したと言っていた。よくあんな難解な(しかも面白くない)作品を読みきったなと驚いた。私にとっては苦行だった。

 

『潮騒』は当時読まなかったので今回が初めて。読後の感想としては、三島由紀夫の作品というイメージから連想される難解で複雑な内容とはほど遠く、読みやすい。高尚な文章は健在であるが。

想い募って金閣に放火してしまう男(『金閣寺』)や自らの性的指向に悩む男(『仮面の告白』)などを主人公に据えてきた三島作品において、そのような人物が登場せず、呆れるほどの純真・純粋な男女が主人公の同作品は“異色作”とも言われるようだ。

 

神島 伊勢志摩観光ナビより

 

「 歌島は人口千四百、周囲一里に充たない小島である 」

「 ここからは、島がその湾口に位いしている伊勢海の周辺が隈なく見える。北には知多半島が迫り、東から北へ屋美半島が延びている。西には宇治山田から津の四日市にいたる海岸線が隠見している 」

 

冒頭からこの物語の地理的な場所が明確に説明される。

先述の通り「歌島」とは実際に存在する鳥羽市の神島(かみしま)がモデル。三島は刊行前年の1958年2月、実際に神島に旅行しており、同年の8月にもまた同じ場所に出かけている。

『潮騒』は翌9月から執筆が開始されたらしく、この2度の神島行きは取材旅行だったのだろうとのことだ。(新潮文庫版巻末の解説記事より)

 

「 新治のまわりには広大な海があったが、別に根も葉もない海外雄飛の夢に憧れたりすることはなかった。海は漁師にとっては、農民のもっている土地の観念に近かった。海は生活の場所であって、稲穂や麦のかわりに、白い不定形の穂波が、青ひといろの感じやすい柔土のうえに、たえずそよいでいる畠であった 」

 

この文章だけでも美しく、いわゆる“純文学的”であるが、ここでは同時に、物語は歌島(と周辺海域)を舞台にするものであり、これらの“外側”には行かないよ、と暗示している。

主人公は東京だったり歌島以外の場所に行かない、というのが早くも分かるためそれを心得て読み進められる。

 

神島 伊勢志摩観光ナビより

 

原作でも充分有名な『潮騒』だが、さらに名高きものにしているのは過去、実に5度にも渡り映画化されたゆえである。

それぞれの時代の象徴的な俳優が起用され、実際に神島でロケを行いその美しい景観は全国の人の知るところとなった。

 

[1954年版] 新治;久保明、初江;青山京子

[1964年版] 新治;浜田光夫、初江;吉永小百合

[1971年版] 新治;朝比奈逸人、初江;小野里みどり

[1975年版] 新治;三浦友和、初江;山口百恵

[1985年版] 新治;鶴見慎吾、初江;堀ちえみ

 

「 映画『潮騒』といえば誰が主演(何年版)のものが思い浮かびますか? 」

という問いがあったならば、その回答は世代によってまちまちと思われるが、一番新しい1985年版でも約40年前であるから、映画『潮騒』といわれても分からないとする人が多くなっているだろう。(このブログの著者も1985年生まれなのでその一人だ)

 

そこで可能な限り映画『潮騒』を鑑賞してみた。

各作品の感想、原作との違いなどについて記す。(なお鑑賞順としては1975年版→1985年版→1964年版)

 

[1964年版] 新治;浜田光夫、初江;吉永小百合 Filmarks HPより

[1964年版] 新治;浜田光夫、初江;吉永小百合

・ここまで若い吉永小百合(当時19歳)の姿はかなり戸惑うが、けっこうふっくらした顔だったんだな、と。それに小麦色の肌はエキゾチックでなんだかアグネスラムみたいにグラマラスでもある。意外な一面を知った思いだ。

・浜田光夫(当時23歳)のヘアースタイル、これはスポーツ刈りというのか? 現代の基準だと“いけてない”のだが当時はカッコいい髪型だったのだろう。浜田さんは当時の日活のスーパースターだが、顔はカッコよくない。

・序盤で初江がヘビに足を噛まれて新治が傷口を吸って吐いてで毒を除いてあげるシーンがある。同作品は初江が最初から新治に想いを寄せその様を彼に示しており、同シーンでも彼を信頼しているのが分かるのが特徴だ。

 

 

[1975年版] 新治;三浦友和、初江;山口百恵 Amazonより

[1975年版] 新治;三浦友和、初江;山口百恵

・おそらく全5作品の中で最も有名なのがこの三浦友和&百恵版である。当時二人は幾度となく映画で共演し「ゴールデンコンビ」と言われた。後に結婚するのは周知のこと。三浦友和(当時23歳)の顔がカッコ良すぎる。“ザ・二枚目”だ。山口百恵(当時16歳)の初江は“絶世の美女”ではないが、眼差しや視線の強さからこの人物の揺るぎなく不変の意思を感じる。

・新治と同じ舟で漁をする同僚(船長ともう1人)の2人の役者さんの芝居と造形がとても良く、印象を残す。ちゃかしながらも恋文を届け、2人の恋をサポートしてくれる。(原作でも2人は好人物として描かれる)

 

 

[1985年版] 新治;鶴見慎吾、初江;堀ちえみ The Movie Databaseより

[1985年版] 新治;鶴見慎吾、初江;堀ちえみ

・堀ちえみ(当時18歳)が可愛くていい。鶴見辰吾(当時21歳)は顔がカッコよくなくて違和感あり。新治役はもっと、圧倒的に二枚目じゃなきゃダメだわ、と一目見たときから思う。これは小説からくる印象か、いや三浦友和の顔がカッコよすぎるからそれを引きずっているのだ。(全くの余談だが同作品の鶴見辰吾さんは私の大学時代のサークルの後輩のH君に似ていて途中から彼にしか見えなくなってしまった)

 

 

[1954年版] 新治;久保明、初江;青山京子 Wikipediaより

[1971年版] 新治;朝比奈逸人、初江;小野里みどり 映画.comより

 

ということで3作品を鑑賞できた。機会があれば1954年版と1971年版も観てみたい。

新治役は1975年版がザ・ベストだ。三浦友和さんのカッコよさと人物造形を観た後では他が受け入れられなくなってしまった。三浦さん一択である。

 

初江役はそれぞれの良さがあった。吉永小百合さんの“健康的な初江”、山口百恵さんの“強い初江”、堀ちえみさんの“可憐な初江”。同じ原作を持つとはいえ演じる俳優の外見や芝居、映画監督が描く人物造形でここまで違った姿を見せることに面白さがあるのは改めて言うまでもない。

けれど一番は山口百恵だと思う。

なぜならば、原作で初江は、“強い”のだ。

新治への想いを貫く強さ。交際に反対する父へ抗う強さ。ベテラン海女たちとの素潜り競争で優勝してしまう強さ。他の海女さんと胸をさらけ出す(おっぱいを出しあう)という珍局面においても物怖じしない強さ。

 

原作で描かれる初江のその“強さ”を、最も表現したのが山口百恵だと思うからだ。

吉永小百合の初江は健康的、だが天真爛漫すぎる。堀ちえみの初江は可憐、だが弱すぎる、と思うのだ。

 

 

<原作 vs 映画>

原作中、最も有名な場面は「古びた小屋での雨宿りの場面」である。

暖をとるための火を挟み、お互いに全裸の新治と初江が向かい合う。(どうやったらこんなシチュエーションになるのか? と原作も映画も観たことがない人は思うだろう..)

ここで初江が「その火を飛び越して来い。その火を飛び越してきたら」と新治に向かって言い放つ。

これに応じて全裸の新治が火をジャンプして初江に抱き付くのだが、原作を読んだ私は「このシーンはどのようにして映像化するのか? できるのか?」と訝しんだものだった。

 

果たして映画版では、概ね原作通りに再現されていたので感心した(作中最高のシーンなので変に誤魔化したりぼやかしたりできなかったのだろう)が、一方で「映像にしてしまうとパロディ以外の何物でもないな」と思ったのが正直なところだった。これは上記3作品に共通してのことだ。

 

このあたりが「映像は原作を越えられない」とよく言われる所以で、三島由紀夫の筆到をもってすれば同場面を違和感なく神話的に描くことなど造作もなく、これこそ「文学でしかできない」ものだなと思ってしまう。

 

神島 観光三重より

 

もう一つ、原作との違いで目についたのが千代子の描き方だった。

彼女は新治に想いを寄せ、東京での大学生活から夏休みで歌島に帰省するのだが、原作で千代子は“陰キャラ”といえるもので、自分の容姿に自信がなく美人ではないと思っている人物である。ジェラシーから意地悪するような人物ではない。

新治と初江の密会を告げ口こそするが、その罪悪感に苛まれるという負のスパイラルを誘起して自滅し、東京へ戻る。そして最終盤には「新治と初江が結ばれなければ自分は今後歌島には二度と戻れない」と自身の母に告げ、2人をくっつけるために初江の父を説得するよう懇願する、という衝撃的な好人物なのだ。

 

ところが各映画版では全般的にグイグイくる女性として描かれ、自信を持って新治へアプローチし嫉妬深い。

これはどうしたことかと考える。映像化するにおいては「主人公に想いを寄せてヒロインを邪魔する敵役」を配する方がイージーだったのだろうか? ただそれによりワンパターン化は避けられないように見える。

 

というように、『潮騒』は小説(原作)と各映画版を比べるのもまた面白い。

 

Wikipediaより

 

最後に、三島由紀夫と三重県との関わりについての余談を。

改めて説明するまでもなく三島は1970年11月、「楯の会」の4名と東京・市ヶ谷の自衛隊駐屯地に突人し、憲法改正を訴えて自衛隊員のクーデターを促したが果たせず、総監室で割腹自殺したわけだが、このとき三島と共に自決した森田必勝という人物は四日市出身であった。

 

四日市出身で「浮世絵を現代に甦らせた」立原位貫(1951-2015。Ep.227参照)は、この事件の少し前、帰郷した森田と偶然、食事を共にしたという。

「事件を臭わすようなことはいっさいなく、ただ穏やかに談笑していた。背筋を伸ばした居ずまいのきれいな人であった」とのことだ。

「その人が数日後にあのような事件を起こすとはよもや思わない」とも。(『一刀一絵』(2010年、ポプラ社より))

 

「行動の是非よりも、自身の念を貫いて凄まじい死に様をみせた男に私は打たれた」

「この事件は私の心の網目のようなものに引っかかって、ずいぶんと長い間切れ端のようにぶらさがっていた」

と自伝に記している。

この事件が当時の人間たちに、若者たちに与えた影響の大きさを想う。

 

神島 伊勢志摩観光ナビより

 

鳥羽市神島をモデルと舞台にした三島由紀夫の『潮騒』。

これまで何度も映像化されているのは、言うまでもなく原作の素晴らしさゆえ。映画版で描かれた美しい当地の景観とともに、人々の心に刻まれている。

 

 

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A Novel by Mishima Yukio & this Movies “潮騒 The Sound of Waves”

Ep.234

One of the greatest Japanese novelists, Mishima Yukio(1925-1970) wrote “潮騒 The Sound of Waves”, which was modeled on an actual island of Toba city, 神島 Kami-shima.

This is a love story between a young guy and a lady with Mishima’s authentic and beautiful sentences.

After publishing, surprisingly, this was made into a movie so many 5 times! (1954,1964,1971,1975 and 1985)

All of them were filmed on location in Toba and showed us beautiful sight.

 

https://www.kankomie.or.jp/report/1412

https://www.iseshima-kanko.jp/feature/kamishima

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BD%AE%E9%A8%92_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)#%E7%AC%AC1%E4%BD%9C

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BD%AE%E9%A8%92_(1954%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BD%AE%E9%A8%92_(1964%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BD%AE%E9%A8%92_(1971%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BD%AE%E9%A8%92_(1975%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%94%B0%E5%BF%85%E5%8B%9D

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

 

御山杉(みやますぎ)

Ep.233

御山杉(みやますぎ)

伊勢神宮の敷地内で育った樹齢300年以上の杉(「神宮杉」)のうち、台風などにより倒木されたもののことをいう。

 

伊勢神宮内宮宇治橋 世古林業 HPより

御山杉 世古林業 HPより

奥伊勢堂 HPより

 

御山杉とはつまり滅多に出回らない希少なものである。

私がその存在を知ったのはいつのことか忘れたが、四日市の近鉄百貨店の催会場に出店されていたのを見かけた。御山杉をアクセサリーなどに加工して販売されていた。

制作においては高度な技術や設備が要されるわけではおそらくないだろうから”付加価値”も極まれりだなと正直思った。

 

世古林業 HPより

奥伊勢堂 HPより

 

そんなあるとき、度会町のふるさと返礼品で御山杉で作った「銘々皿(めいめいざら)」なるものを見つけた。

銘々皿とは何かわからなかったが、

”一人ひとりに(めいめいに)取り分ける小皿”

とのこと。

 

「御山杉の銘々皿」世古林業 ふるさとチョイスHPより

 

使い方の例として落雁(和菓子)が置かれた写真が載っている。

「お祝いの席、お茶会等にご使用ください」とあったが、私はどうしても違う使い方をしてみたく、入手したのだった。

 

 

夕食時のお刺身。これの盛り付け皿として使いたいというアイデアだ。

 

 

仮に300年前というと8代将軍・吉宗の時代。

そんなときから伊勢神宮にあり続けた高位な杉と、その木材を用いたお皿。信じられない..

それに盛られるお刺身。悠久の時を想わずにはいられない。

家族の冷めた目を感じながら私は自己満足に浸っているのだった。

 

 

 

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Miyama Sugi (Miyama Cedar)

Ep.233

Cutting cedar trees grown inside Ise-shrine are off course prohibited, but collapsed ones like typhoon sometimes are on the market, as “Miyama Sugi” (Miyama Cedar).

Some craftsmen make it accessory, plate and so on.  These over 300 years old woods give such men rich inspiration and provide buyers with thousands of emotion!.

 

https://www.furusato-tax.jp/product/detail/24470/20198?_favorite

https://miyamasugi.jp/

http://jingusugi.com/

 

鈴鹿医療科学大学

Ep.232

昨年より始まった”三重県内大学祭巡り”もいよいよ終盤。

10月下旬は鈴鹿医療科学大学である。

 

鈴鹿医療科学大学 HPより

鈴鹿医療科学大学 HPより

 

1991年創立の私立で、保健衛生学部・医用工学部・薬学部・看護学部からなる。学生数は3000人近くであり、地方私大としては破格の規模と言える。

「 医療は医師のみによって行われる時代は去り、これからは医師と医療技術者とが表裏一体となり、医療を支え発展させなければならない 」

と設立の意義を謳っている。

 

キャンパスは鈴鹿市白子(関連Ep.26、43、219)と千代崎にあり、大学祭は前者で開催された。桜の森公園や鈴鹿高専(Ep.190参照)に隣接した、穏やかで落ち着いたエリアである。

 

「第34回 碧鈴祭」『See Your Smile ~今しかない瞬間(とき)を~』

 

1歩足を踏み入れて盛り上がりが違うなと思った。国立の三重大学(Ep.196参照)ほどとまでは言わないが四日市大(Ep.193参照)や鈴鹿大(Ep.229参照)よりもスケールが大きく活気があることがわかる。

 

教室内での防災グッズに関するポスター発表や医療技術の説明など、充実していて感激した。

これらの展示を聴き周り、スタンプをもらって豆腐ドーナツなどの景品をもらえるというスタイルだ。

 

 

外の出店にて、ワッフルが美味しそうだったので買おうとした。すると対応してくれた年配の女性の方、どこかでお見かけしたことあるような…

もしやと思い

「あの〜、髙木先生でしょうか?」

と問うと「はい」と。その通りだったので驚いた。

 

髙木久代先生 東京新聞より

 

髙木久代先生は鈴鹿医療科学大学の副学長・保健衛生学部教授であるとともに「日本薬膳学会」の創設者だ。(同学会の事務局は鈴鹿医療科学大学)

日本薬膳学会は「東西医学を融合した日本独自の薬膳」の確立を目的に2013年に創設された。

 

日本薬膳学会 HPより

日本薬膳学会 HPより

 

同氏は英語教師だった40代の頃、中国・天津市を訪れた際に「薬膳」と出会い、以来、薬膳の効果を実感し日々の生活で実践してきたという。

59歳のとき、「薬膳をもっと正しく広く伝えるには、医学や栄養学の知識が必要だと思い」、なんと三重大大学院医学系研究科の博士課程に入学。

とてつもないバイタリティーと探究心に満ち溢れた方だ。

 

ご出身は四日市 YOUよっかいち より

日本薬膳学会 HPより

 

私は四日市市の広報に載っていた髙木先生による市民講座や『北勢情報トライフル』(北勢地方のケーブルテレビ局CTYの番組)内におけるお料理コーナーで興味を持ったので、高木先生の著書もいくつか読んできた。

 

『日本薬膳学会公認 はじめての薬膳~簡単で美味しくて運気も上がる!』(2023年,かざひの文庫)より

 

先生は薬膳は特別なものではないと言う。

「あくまで日常の食事であり、日常的に口にする食材が医薬になるという「医薬同源」「医薬は台所にあり」という考え方がベースにある」

とのこと。(『日本薬膳学会公認 はじめての薬膳~簡単で美味しくて運気も上がる!』(2023年,かざひの文庫)より)

 

因地制宜 (いんちせいぎ)

・「地理、気候条件、土地に適していること」。つまりその土地で育った食物、食文化を取り入れるということ

・土地柄と、食文化とのあいだには密接な関係があり、食材はその気候風土によって育まれる

・人も同じで、その土地の気候風土に適応するためには、土地に適した食材をとることが健康につながるという考え。「地産地消」と似た意味。

 

因時制宜 (いんじせいぎ)

・「季節や気候変化に適したもの、方法であること」。つまり季節に合った食物を季節に合った調理法で食べるということ

・季節の食材は人間がその時に必要とする栄養を与えてくれる。季節ごとに気温や湿度が異なることから、それらに適した食材を取ることが健康につながるという考え。「旬のものを食べましょう」と似た意味。

 

因人制宜 (いんじんせいぎ)

・「食する人の性別、年齢、体質、体調に合ったもの」ということ

・誰かにとっては体に良いものだとしても、自分にとっても同じであるかは分からないので、食物の特性を理解するだけでなく、自分の体を理解することが大切

・自分の体質や体調に適した食材をとることが健康につながるという考え

(以上『はじめての薬膳』、及び『日本薬膳学会 和の薬膳』(日本薬膳学会,2024年,講談社)より)

 

『日本薬膳学会 和の薬膳』(日本薬膳学会,2024年,講談社)より

 

私はこれらの著書の内容に感銘を受けていた。

確かに薬膳は特別なものではない。特別な食材(ナツメやサンザシ)を用いたからそれが薬膳料理になるわけではなく。そして”概念”としてなにも新しいものでもない。薬膳とは日々の食生活への向きあい方なのだ。

ということで私も自分の作る料理に薬膳を取り入れたり、日々の生活で実践してみよう、と思ったところで停滞しているのであるが…

 

 

そんなわけだったので、出店で対応いただいた髙木先生に

「先生の薬膳の本、読みました。CTYの料理コーナーも観ています」

と伝えたら、わざわざマスクをとってお辞儀してくれた。

とても優しくて品のある方だった。(ワッフルも美味しかった)

 

 

思わぬ出会いに恵まれた鈴鹿医療科学大学だった。

 

 

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Suzuka University of Medical Science

Ep.232

“Suzuka University of Medical Science” has 4 faculties and so many 3,000 students.

It must be an awesome jumbo scale as local university.

In their festival, we can see vital and guest-friendly events, then must have a nice time.

 

https://www.suzuka-u.ac.jp/

https://www.suzuka-u.ac.jp/special/campaign/index.html

https://www.suzuka-u.ac.jp/archives/21371

https://www.tokyo-np.co.jp/article/153740

https://www.jsmd2013.jp/

 

 

 

ラグビー 三重ホンダヒート 2024-25シーズン開幕前 鈴鹿→宇都宮への移転 編

Ep.231

ジャパンラグビーリーグワン2024-25シーズンの開幕が迫っている。

三重県鈴鹿市を拠点とする三重ホンダヒートは、Division1初年だった昨シーズン、なんとか”残留”を果たして2年目を迎える。

 

JR四日市駅に貼ってあったポスター。なんてかっこいいのだろう。再加入したレメキ選手(Ep.154など参照)

 

5月からのオフシーズンも半ばにさしかかった9/19正午、クラブから驚愕のニュースがリリースされた。

ヒートは、2026-27シーズンより本拠地を鈴鹿から栃木県宇都宮市に移すのだという。

 

これはもちろん、単にメインスタジアムが「スポーツの杜 鈴鹿」から宇都宮に移るという話ではない。

練習用グラウンドもトレーニングルームも、選手・コーチ・スタッフの生活拠点も、一切合切が移るということである。

この街からヒートが完全に去ってしまうのだ。

地元ファンにとって、こんなに悲しいことはない。ファンクラブ会員向けメールで知った私も大変驚いた。

 

三重ホンダヒートHPより

 

三重ホンダヒートというクラブは、ホンダ技研工業鈴鹿製作所のラグビー部が起源である。

1961年(!?)の創部以来、クラブは変わらずこの地に居を構え続けた。

それが移転するのだ。クラブ史で最大の変曲点であるのは間違いない。

 

「スポーツの杜 鈴鹿」 ジャパンラグビーリーグワンHPより

 

プレスリリースの文章を追ってみたい。

「 企業のスポーツクラブという枠組みを超え、より事業性や収益・地域社会貢献・企業PRなどが求められる時代となり、今後継続的・発展的にチームが力を発揮するために〜 」

とある。

つまり、鈴鹿を拠点にする限りは収益向上の余地がないと判断されたのだ。

年々膨張するリーグワンと三重ホンダヒートにとって、鈴鹿と三重県では観客動員の少なさが致命的だったのだ。

 

三重ホンダヒートHPより

 

昨シーズン、ヒートのホーム・鈴鹿開催での平均観客数は約3000人であり、リーグワンの中でワーストだったという(ただ正直に言うと3000人も入ったの!?と私は驚いた)。

そんな中で着目すべきは、一試合だけあった東京・秩父宮での主催試合である(3/1の横浜キヤノンイーグルス戦)。

金曜日かつ19時キックオフの同試合は1万3000人(!?)もの観客を集めた。

 

都心か東京近郊に勤務しているホンダの社員なのだろう、多くのファンが歓声をあげていた。劣勢のゲーム展開(21-50で敗戦)においてもヒートのトライを後押しする熱量、一体感は鈴鹿開催以上のものがあり、ハイライト映像を見た私は動揺し、嫉妬した。

 

ヒートの経営者たちは、きっと、ここで手応えを掴んだに違いない。

 

関東(東京近郊)に拠点を移せば、観客動員を劇的に増やすことができる。まず絶対的な人口が違う。

そして関東のチームが多い現状のリーグワンDivision1(12チーム中、8チームが関東)においては、そのアクセスの良さゆえ相手チームのファンも足を運びやすいことだろう。

 

そう考えると、ますます鈴鹿から東京近郊への移転は必然だったように感じてくる。

 

国や社会が叫ぶ東京一極集中への是正はラグビー界では果たされず。

結局、みんなが一箇所に集まっていれば何かと「旨みがある・都合が良い」という理屈である。

これでは何年経っても東京へヒト・モノ・カネが流れる。地方は衰退する。さようなら、日本。

 

と、一地元ファンが批判的に述べただけでは思考が停止するのでもう少し掘り下げて考えてみたい。

 

三重ホンダヒートHPより

 

 

<Hondaにとって鈴鹿とは?>

ところで私は袋井市に住んでいたこともあってその隣の隣の街である浜松市は縁ある土地だ。

この静岡県西部最大の都市は、日本の現代産業界の巨人たちを多く輩出してきた。

 

山葉寅楠(1851年生。ヤマハ創業者)

豊田佐吉(1867年生。トヨタグループ創始者)

河合小市(1886年生。河合楽器創業者)

鈴木道雄(1887年生。スズキ自動車創業者)

高柳健次郎(1899年生。「日本のテレビの父」と呼ばれる)

川上源一(1912年生。ヤマハ発動機創業者)

堀内平八郎(1915年生。浜松ホトニクス創業者)

 

「スズキ歴史館」(浜松市中央区)での展示より

 

錚々たるこの「遠州偉人クラブ」の中に、本田宗一郎(1906年生)も名を連ねる。

今では世界で知らぬ者はいないHonda(本田技研工業)の創業者は、遠州・浜松で生まれ、育まれたのである。

 

本田宗一郎 浜松・浜名湖だいすきネットより

 

先日縁あって「本田宗一郎ものづくり伝承館」(浜松市天竜区)を訪れた。

天竜区とは浜松市の最北部である。さらに北上するともちろん長野県に至るが、両者の間には深い森と山々が横たわり容易にアクセスできないことはこの辺の地理に明るくない人でも分かると思う。

同資料館近くの国道でクルマを走らせていた私は、左前方のコンビニを視界で確認した次の瞬間、突如目の前をニホンザルの一群が横切ったのでブレーキを踏んだ。サルたちは電信柱を登って森に消えて行った。(それにしてもサルは本当に登るのが得意だな..と思った)

浜松市天竜区とは、そのような場所である。

 

そして本田宗一郎の出身地区のすぐ近くにできた同資料館は、彼の業績とHondaの歴史が語られていた。

 

「本田宗一郎ものづくり伝承館」

 

Hondaにとっての「創業の地・浜松」。同市には現在でも「トランスミッション製造部」という工場があるようだ。

(余談だが、JFLでヴィアティン三重(Ep.46など参照)や鈴鹿ポイントゲッターズ(現・アトレチコ鈴鹿クラブ。Ep.40など参照)と競い合う「Honda FC」は浜松市浜名区の都田(みやこだ)が本拠地である。”Jリーグ入りへの登竜門”と呼ばれるJFL界の盟主は今でもHondaの名を背負って創業の地から活躍している)

 

ただ国内でさらに規模が大きく「Hondaの企業城下町」と呼べるような地は「埼玉・鈴鹿・熊本」であることは自動車業界の人間でなくても知りうるところ。

 

この中で鈴鹿製作所は1960年開業。

なぜ、本田宗一郎は創業の浜松から西に約150km離れた三重県北部の町、鈴鹿市を選んだのか?

 

それには伝説があるようだ。

前年の1959年、本田宗一郎は各候補地を視察していた。その誘致競争で鈴鹿市はライバルのように宴会をせず、暑い現地視察の後、冷たいおしぼりと茶だけを出すシンプルな接待をした。その簡潔さに本田氏が感心し、進出を決めたらしい。(2018/06/14の朝日新聞の記事より)

 

と言われても、これだけでは全くピンとこないのが正直なところ。

だがとにかく、本田宗一郎が感心し、感銘を受け、彼に選ばれた特別な地が鈴鹿市なのである。

 

鈴鹿製作所は埼玉工場よりは後発であるものの、同社の、というか世界の二輪の歴史を変えた「スーパーカブ」をかつて製造し、現在でもフィットやN-BOXを製造する主力中の主力工場である。

そして同社がモータースポーツに傾注する中で鈴鹿サーキット(Ep.185など参照)も創り、これが現在でも鈴鹿市の知名度を全国的なものにしている。

自動車産業における裾野の広さは大きなもので、四輪車の組立工場があるということは地理的に周辺には多くの(下請け)工場があることを意味する。レース関連の企業も存在している。

他県から四日市に越してきた私にとってもそれは実感できるところで「鈴鹿はHondaの街」「モータースポーツの街 鈴鹿」と呼ぶのは正真正銘のものである。

 

このようにHondaにとって鈴鹿市は特別な地。ここを、三重ホンダヒートは離れようというのだ。

 

ではその移転先の宇都宮市は、と考えたとき、まったくピンとこなかった。

なぜ、埼玉ではないのか?

 

 

<移転先は宇都宮>

先述の通り埼玉はHondaの主力工場がある地だが調べてみると現在では寄居町という、秩父や長瀞に近い随分北部の町にあるようだ。

ここでは都心からのアクセスの悪さとハコ(スタジアム)のサイズという不都合がありそう。

加えて日本ラグビー界で「埼玉」といえば、強豪の「埼玉パナソニックワイルドナイツ」(熊谷市)の存在が大きすぎ、この点でも本拠地にするのは不都合に思える。

 

関東(都心近く)ありきでかつ「埼玉県以外」ということで、栃木県の県庁所在地に着目したのだろうか?

調べてみると同地にはHondaの研究開発の拠点が置かれているようだ。縁(ゆかり)がないわけではないもよう。

先述のプレスリリースによると同市の「栃木県グリーンスタジアム」という1万8000人収容の施設をメインにするという。

ヒート経営陣は、この地にかけたのだ。

 

「栃木県グリーンスタジアム」 栃木県スポーツコミッションHPより

 

 

<移転の原因はどこに?>

先述の通り、地元ファンである私にとってヒートが鈴鹿を去るのは悲しいことだが、こうなってしまった遠因は”私たち”にもあると言わざるをえない。

 

私は知っている。昨シーズン、いやその前からも、ヒートが鈴鹿市民Dayや四日市市民Dayなるものを開催して当該市在住者を無料でスタジアムに招待していたことを。「三重ホンダヒート」の地元における知名度向上のために、経営陣も選手たちも最大級に努めていたことを。

それでも観客動員は伸びず、名も売れない。

私のように足繁く鈴鹿の杜に通う地元民は稀で、多くの人は存在すらろくに知らないこと。

 

そう、ヒートが鈴鹿を去ってしまうのは、私たち(地元民)の関心の低さと収益への非貢献にあるのだ。

 

三重ホンダヒートHPより

 

<三重県民がファンとなる地元スポーツチームとは?>

せっかくなのでもう少し考察を深めてみたい。

これはラグビーというマイナー競技が、中央(東京やその近郊)と比して地方(三重県)では人気が低いゆえ、人口の絶対数で不利であるゆえと片付けて良いのか?

リーグワンより先んじること数年前にスタートした男子バスケットボールのBリーグを見る限りそうは見えない。(向こうでは栃木や沖縄や広島のチームが優勝して当該地元も盛り上がっている)

 

結論から言うと、三重県では地元のスポーツチームを応援するに乏しい地域柄だったりしないか? という私見である。

 

中日ドラゴンズ HPより

名古屋グランパス HPより

 

私は職場の地元出身者とたまにスポーツの話をするが、中日ドラゴンズや名古屋グランパスの大ファンでたまにスタジアム観戦に訪れるという人間に出会ったことがない。大谷翔平や、サッカーW杯の日本代表戦はよく話題にのぼる一方で。

隣県に大都市・名古屋があるせいで三重県内にはメジャー競技の強豪が育たず。ましてや先述のV三重や鈴鹿PGのようなカテゴリー下位の弱小チームを熱烈に応援するはずもなく。

 

三重県とは、げに地元スポーツチームを応援する柄にはない土地なのである。

 

ヒートの経営陣はここまで把握して移転という手を打っただろうか?

彼らの決断は、きっと正しい。

真に反省すべきは三重県民であり、我らの地元クラブチームへの愛情・熱情の低さにあるのだと思う。

 

三重ホンダヒートHPより

 

その他、シーズンオフの話題としては闘将FBレメキ選手が帰還したり私のお気に入りだったNo.8カイポウリ選手が退団したりキャプテンがFL古田凌選手からPR藤井拓海選手に交代したり若手選手が酒気帯び運転で検挙されたりしたが、いずれも移転の話題に比べれば些細なものだった。

 

移転は悲しいことだが2年後のこと。

まずは目の前にあるゲームとシーズンに集中。

初戦は12/21(土)@鈴鹿、リコーブラックラムズ東京戦(Ep.195参照)である。

ヒートの、開幕戦勝利を期待したい。

 

 

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Rugby Mie Honda Heat Before the start of 2024-25 season, Home-area Transfer from Suzuka to Utsunomiya

Ep.231

Japan Rugby League ONE Division1 will open 2024-25 season in this December. 

Before the start, we had the biggest and marvelous news for this team.  According to this, they are going to transfer their home-area from Suzuka to Utsunomiya city, Tochigi prefecture(Tokyo suburbs) in 26-27 season, though they have been since 1961?!

This is very sad news for HEAT fun, but it might be as a matter of course, because of small audience or disinterested citizens of this region, Mie..

 

https://www.honda-heat.jp/news/1859/

https://global.honda/jp/suzuka/

http://www.asahi.com/area/aichi/articles/MTW20180626241640003.html

 

ドミニクドゥーセの店

Ep.230

昔からずっと興味深く思っていたことの一つに「人名を冠したファッションブランド」の存在がある。

つまりは創業者、あるいはデザイナーのフルネームをそのまま社名にしてしまっているハイブランドのことである。

 

LOUIS VUITTON ルイヴィトン

RALPH LAUREN ラルフローレン

Christian Dior クリスチャンディオール

Yves Saint Laurent イヴサンローラン

Salvatore Ferragamo サルヴァトーレフェラガモ

Vivienne Westwood ヴィヴィアンウエストウッド

MARC JACOBS マークジェイコブス

 

自分の名前を社名にしてしまうなんてどれだけ自分の名前に自信があるんだよと思うのである。

ここでいう「名前」とは、名声という意味ではない。

名前そのものや音の響き、語感といったものである。

彼ら/彼女らは自身の名前が”カッコいい”から社名にしてもいける、と判断したのだろうか?

 

Ralph Lauren Wikipediaより

 

ことわっておくとばかにしているわけではない。多くの人の名前は特段カッコいいわけではないし平凡と思えるものだ。

であるがゆえに、

ヴィヴィアンウエストウッド

なんて、なんてカッコいい名前だろうか!?

そう、確かに、カッコいいのである。

存在感、アピール感が尋常じゃない、気がする。

 

Vivienne Westwood Wikipediaより

 

では飲食業界・レストランではどうだろうか?

この業界でも、ハイブランドほどではないけれどオーナーシェフの名前を冠したお店がある。

私の頭に浮かんだ限りでは、

L'ATELIER de Joël Robuchon ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション

オテル・ドゥ・ミクニ

懐食みちば

 

けれどそう多くはないし、フルネームともなると限られそうだ。

 

Joël Robuchon(関連Ep.9) Wikipediaより 

三國清三氏 みんなのきょうの料理より

道場六三郎氏 (関連Ep.147、181) 到知出版社 HPより

 

ここ三重県にも、オーナーシェフの名前を冠したパン屋/洋菓子店がある。

「ドミニクドゥーセの店」(鈴鹿市南江島町)である。

ここはフランス出身であるドミニク・ドゥーセさんが営むお店である。(あまりにそのまますぎて改めて言うまでもない)

 

ドミニク・ドゥーセさん Dominique Doucet  HPより

 

同店のHPによるとドゥーセさんは1961年生まれ、フランスのリジュー(Lisieux)市出身。

「 幼い頃から、パン・ケーキ作りが日常となり、13歳の時に「パン職人になる!」と決意しパリへ。学業とパン修行を両立させ、17歳には、パリのあらゆる店で経験を積み、19歳でパン・ケーキ組合に加入しました。パリのコンコルド・ラファイエットでジョエル・ロブション氏に師事し料理も習得 」

 

なんと先述の故ジョエル・ロブションの弟子でもあったのだ!?

 

アイルトン・セナと HPより

 

そんなドゥーセさんは1987年、鈴鹿サーキットで第1回F1日本グランプリが開催されたことに伴い、HONDAからのオファーで来日(関連Ep.124など)。鈴鹿サーキットホテルのパンレストランで腕を振るったのち、1993年に独立。

以来、この地にお店を構えて現在に至る。

 

すごいことだな、と思う。

サーキット場、F1日本グランプリ、HONDA..

これらが一つでも欠けていたらドゥーセさんと鈴鹿との、日本との縁はなかったのだ。

 

”運命”、と言葉にするのは陳腐だが、自分の信じる道を行き、人生を切り拓いたフランスの青年はこの鈴鹿で大成したのだ。

 

「ドミニクドゥーセの店」(鈴鹿市本店南江島町)

 

1997年と1999年には『TVチャンピオン』(テレビ東京系列)の「パン職人選手権大会」で2連覇を達成!?

2021年には同社の看板商品であるカヌレを作っている工場が全焼するという不幸に遭うも、クラウドファンディングにて多くの人の支援も受けて復活。

 

HPより

 

私も「ドミニクドゥーセの店」鈴鹿本店に2度訪れたことがある。そのうち一方は12月上旬の、平日の午前だった。

パンと惣菜(同店ではドリアやキッシュなども販売している)を買ってお店の外のテラスで家族と食べていたら、ドミニク・ドゥーセさんご本人がやってきてカヌレをいただいた。

 

HPより

カヌレ Canelé HPより

 

作りたてで、熱い。真冬に外で食べるカヌレ。それはとても美味しかった。とても驚いた。

私はそれまで、カヌレを美味しいと思ったことはなかった。

 

いやそう言うと少し語弊があるが、そもそもカヌレを食べる機会は滅多にないし売っているのを見ても積極的に買って食べようとするものではない。

例えばデパートやイオンで何かスイーツを買って帰ろうというときに、シュークリームや大判焼きやお団子は思いつくが、そこで「カヌレ」というのは選択肢として挙がらないだろう。

 

けれど、それはこの国に美味しいカヌレを提供できるお店(人)がいないからなのだ、と気付く。

「 フランス風ではない、本当のフランスの味を。自身が食べて美味しいと思うもの、完璧に納得できる商品だけを商品化する 」(HPより)

という同店において、最も自信を持っているのがこのカヌレのようだ。

 

イオンモール桑名の中には「オーベルジュ デュ ロワ byドミニクドゥーセ」という店舗がある

等身大パネル?

 

明るくてオープンマインドなドゥーセさんがさらに話しかけてきてくれた。

「最近小麦粉の価格が上がってるっていうでしょ。確かにそうなんだけど、商品一つ一つにしたらそんなに効くわけじゃない」(→だからうちは値上げしない)

という趣旨だった。

 

クリスマスシーズンも迫り忙しい時期。同店で作った商品(鈴鹿本店は工場・厨房も兼ねている)を社有車(バン)に運び入れる作業中。

「これから大阪の高島屋に納品しに行くの。忙しい。この時期、休みどれくらいあると思う?」

と尋ねてこられたので

「3日くらいですか?」

と答えたら

「ううん、ゼロ(日)!」

とのことだった。

 

忙しそうだがイキイキしている。

一般客にすぎない私たち家族にグイグイ話してくれる気さくな方だ。

 

HPより

 

ところでドゥーセさんの瞳は青い。いや、碧か、あるいはターコイズと言った方が正確か。

こんな美しい虹彩の色を持つ人がいるのだ、と私が心底では驚嘆して魅せられていたことにご本人は気付いていなかったと思う。ホモサピエンスの多様さを感じた(おおげさ?)。

お話だけでなく、瞳にも引き込まれてしまうのだ。

 

HPより

 

これからクルマに乗って納品先に出発するのだろう。私がパンを食べている5mほど前でドゥーセさんと奥様が10秒以上ハグしている。

私が一応、目のやり場に困って少し逸らしながらもチラ見していたらちょうどハグが終わったタイミングでお二人と目が合う。お二人とも肩をすくめて笑顔を向けてくれたので、私もニコッと笑顔を返した。

するとドゥーセさんがおっしゃった。

「これが、人生です」

 

かなわないな。ここでそういうセリフが出てくるなんて、と思った。

 

HPより

 

冒頭の話に戻るとドゥーセさんも「ドミニクドゥーセ」という名前がカッコいいからいけると判断して「ドミニクドゥーセの店」というそのまんまの店名にしたのだろうか? その辺のところも機会があれば伺ってみたいものだ笑

 

人柄も瞳も名前すらもかっこいい。もちろん料理もパンも菓子も美味しい。

ドゥーセさんの人生の軌跡を示す「ドミニクドゥーセの店」なのだった。

 

 

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Dominique Doucet Boulanger & Pâtisserie shop

Ep.230

Dominique Doucet Boulanger & Pâtisserie shop has been located in Suzuka since 1993.

Lisieux city, France born Mr. Doucet came to Japan in 1987 due to invitation by HONDA for F1 Japan Grand-prix in Suzuka Circuit.

Since then,

His awesome bread, patisserie and especially cannelé make lots of Suzuka people for a long time.

 

冒頭の話に戻るとドゥーセさんも「ドミニクドゥーセ」という名前がカッコいいからいけると判断して「ドミニクドゥーセの店」というそのまんまの店名にしたのだろうか? その辺のところも機会があれば伺ってみたいものだ笑

 

人柄も瞳も名前すらもかっこいい。もちろん料理もパンも菓子も美味しい。

ドゥーセさんの人生の軌跡を示す「ドミニクドゥーセの店」なのだった。

 

 

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Dominique Doucet Boulanger & Pâtisserie shop

Ep.230

Dominique Doucet Boulanger & Pâtisserie shop has been located in Suzuka since 1993.

Lisieux city, France born Mr. Doucet came to Japan in 1987 due to invitation by HONDA for F1 Japan Grand-prix in Suzuka Circuit.

Since then,

His awesome bread, patisserie and especially cannelé make lots of Suzuka people for a long time.

 

http://www.dominique.co.jp/

https://camp-fire.jp/projects/443544/view

 

鈴鹿大学

Ep.229

「鈴鹿大学」

1994年創設の私立で国際地域学部とこども教育学部からなる。学生数は700名程度。

 

鈴鹿大学 HPより

 

10月下旬、当大学の学祭「鈴大祭」が開催されていたため訪れた。

HPには駐車場案内がなかったので伊勢鉄道(Ep.172参照)の中瀬古駅へ。

 

中瀬古駅

中瀬古駅(無人駅)の駅舎の中にあった鈴鹿大学のアート

 

ここから徒歩で向かう。私たちの他に大学方面に歩いている人は皆無だ。

 

 

正門らしきところに到着。

大学祭の看板はあるものの周囲に人っこ一人いない。(後で分かったが、もう一つの門から入場する人の方が多かった)

会場は上にありそう。

 

 

コの字型の校舎に囲まれた中庭に大勢の人がいた。

テントでは焼きそばや肉団子スープなど飲食が販売されていた一方で、手芸などの小物を販売しているところがやたら多い。手芸サークルなどが出展しているのだろうか。

子ども服の無償提供まであった。

 

これはなぜだろう?、と思ったときにピンときた。近鉄四日市駅改札前の柱にある鈴鹿大学の看板を。

 

近鉄四日市駅改札前の看板

 

「小学校の先生をめざす、きみへ」

この看板は改札前の一番目立つ柱に掲げられているので覚えていた。

ふ〜ん鈴鹿大学では小学校教員免許を取れるのか〜

と思ったものだった。(目立つ場所への広告の効果は絶大である)

 

すると小学校の先生を目指して鈴鹿大に来る学生も多そうだ。

子どもに喜ばれること→手芸の技術

子どもに喜ばれるモノ→子ども服

というつながりだろうか?

併設の鈴鹿短期大学部(短大)は1966年の開学で、当時から家政科があったようだからこちらによるものかもしれない。

ともかく、子どもにフレンドリーなことを打ち出している大学祭と大学であるようだ。

 

 

あらためてキャンパスに着目すると、やや洋風?の洒落た建物。大きな私立高校のようにも見えるが、まさに典型的な地方私大とも言える。四日市大学&三重県立看護大学(Ep.193参照)や私の地元にあるつくば国際大学もこんな感じだが、鈴鹿大の方がキレイだ。少なくともHPの写真の映えはすばらしい。

 

鈴鹿大学 HPより イギリスの名門私立みたい!?

 

2015年までは「鈴鹿国際大学」という名称だった。中国、韓国、台湾、ウクライナ、スペイン、ニュージーランド、カナダの大学とも学術交流を結んでいたようだ。(学祭でもアジアからの留学生を見かけた)

学園の創設者は、1905年に渡米してアメリカで勉学に励んだ後、帰国してアメリカ的な商業教育の日本への導入を目指した人物とのこと。

 

鈴鹿大学 HPより

 

「鈴鹿大学」への名称変更が2015年、こども教育学部の新設が2017年、小学校教員養成課程の新設が2021年。

”国際”の看板を下ろして初頭教育を学ぶ場へ。

 

HPの沿革を見るだけで、人口減により定員割れする地方私大の苦しさを想像してしまうが、同大学の教育理念を読むと、

「(中略)社会が望む信頼される近代人として資質を高めるために〜 」

とある。小学校の教員が“社会のニーズ”としてあったから、それに応えるために創設したのだろう。

 

 

鈴鹿大学には、120年前の建学の精神がいかされていた。

 

 

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Suzuka University

Ep.229

Suzuka University has only 2 faculties, 700 students.

But they are known as a distinctive university that capitalizes on the needs of the community.

 

https://www.suzuka.ac.jp/faculty/

 

全日本大学駅伝 2024

Ep.228

四日市の「四」は四区の「四」。

全日本大学駅伝の話である。(Ep.12、14、74、127、180参照)

沿道観戦は私にとって毎年の恒例行事。今年は11/3(日)に行われた第56回大会である。

 

日本陸連 HPより

 

今年は前年の覇者で実に5連覇を狙う駒澤大学

前哨戦の出雲駅伝を制した国学院大学

年初の箱根駅伝を制した青山学院大学

が3強とされていた。

 

出雲駅伝 アンカーでゴールテープを切った平林清澄 日刊スポーツより

 

優勝争い以外に目を向けると、立教大学が全日本初出場というのが話題である。

数年前より本格的に強化を開始した古豪は近年、着実に実力をつけて箱根駅伝にも22年シーズンに出場。18位という成績を残した。

しかしその一年後(23年秋)、激震が走る。当時の監督が前代未聞の不祥事を起こし解任されたのだ。

 

その監督とは、もちろん上野裕一郎である。

 

上野裕一郎(中央大学時代) 日本テレビより

 

彼のことは以前このブログでも取り上げた(Ep.14参照)。

1985年度生まれの「日本長距離界の四天王」。(嗚呼、懐かしい。今この呼び名を知っている人は少ないだろう)

その四天王の中でも筆頭格であった男だ。

私は上野の現役時代をよく知っているし、好きだった。キャラクターとして面白すぎるのだ。

 

ある大学駅伝ではタスキを渡した後、

「俺らが勝つぞぉぉぉっっ!!」

と絶叫して道路にぶっ倒れたり、

 

2009年の世界陸上5000mでは、

「スピードだったらベケレにも負けない」

と発言して初期の数周は先頭を走ったり。(ケネニサ・ベケレのこと。当時の5千、1万mの世界記録保持者であり現役五輪王者であり絶対王者。同レースで上野は最下位で予選落ち)

 

これだけだったら陸上ファンからただの「ネタ」として扱われるエピソードであり人物かもしれない。が、その突出した実力の高さは万人が認めるところであり説明不要のものだった。

だからこそ、最高に面白い選手だったのだ。

 

上野裕一郎(2009国際千葉駅伝での日本代表時代) 日本陸上競技連盟HPより

 

そんな男が18年秋に立教の監督に就任したとき、陸上関係者やファンの心の中ではきっと懐疑的な見方が多かったはずだ。

競技での実績は別としてこれまでの言動がそうさせていた。天才肌の選手が指導者になっても言語化できなかったり理論的に説明できない、と、良く言えばそういう見方もある。

 

ただ結果的に、(計5年間の)指導者として箱根出場という第一弾のチーム目標を完遂し、一歩ずつ着実に力をつけさせたことに、評価は上々だった。

立教はますます強くなる。そう思われた。そんな折の不祥事だったのだ。

 

稀代の天才ランナーが、日本陸上史上最も愚かな人物に堕ちた。

部員も関係者もファンも裏切った。

上野は今後の生涯を通じて反省しなければならない。

 

上野裕一郎(2024年現在) Number Webより

 

と、ついつい上野裕一郎について語ってしまったが今回の本題はそこじゃない。

彼の解任後、2024年4月、新たな立教の監督に就任したのが高林祐介である。

伊勢市出身、伊賀白鳳高校(旧・伊賀上野工業高校。三重県における長距離の強豪。中村匠吾(Ep.42参照)も同校)卒。

駒澤大学→トヨタ自動車と進んで活躍したエリートランナーだった。(西山雄介(Ep.142参照)も同じルート)

 

高林祐介(駒澤大学での現役時代) 月刊陸上競技より

 

高林を語る上で外せないのは宇賀地強、深津卓也という2人の選手である。

彼らは高校時代、5000mで13分台の記録を出した世代屈指のランナーだった。

現在でこそ珍しくないが2005年度当時としては高校生年代のトップオブトップ。厚底シューズの影響により高速化著しい現在の高校長距離界に換算すると”5000mで13分30秒台”ほどのインパクトがあると言えるだろうか。

 

そしてこの”世代のトップスリー”が、こぞって駒澤大学の門を叩いたのである。それは当時、大学長距離界の大きなニュースだった。2006年春の話だ。

 

左から高林、宇賀地、深津(嗚呼、この写真、みんな若い。眉毛の細さが時代を感じる) 全日本大学駅伝 HPより

 

宇賀地・深津・高林のトリオは駒澤でも大活躍。数々の駅伝タイトルを獲得した。(振り返ると私が駒澤のファンになったのはこの時であり、彼らの活躍があったゆえである)

大八木弘明監督のもと、着実な成長を遂げた3人は結局、大学4年間においても”世代のトップスリー”だったと言っていい。

 

ここで、彼らの前後世代について見てみたい。

 

[2004年入学]

上野 裕一郎 (中央大 ← 長野・佐久長聖高)

北村 聡 (日本体育大 ← 兵庫・西脇工高)

松岡 佑起 (順天堂大 ← 京都・洛南高)

伊達 秀晃 (東海大 ← 福岡・大牟田高)

 

[2005年入学]

佐藤 悠基 (東海大 ← 長野・佐久長聖高)

竹沢 健介 (早稲田大 ← 兵庫・報徳学園高)

木原 真佐人 (中央学院大 ← 兵庫・報徳学園高)

M.J.モグス (山梨学院大 ← 山梨・山梨学院大付属高) 

 

[2006年入学]

宇賀地 強 (駒澤大 ← 栃木・作新学院高)

深津 卓也 (駒澤大 ← 群馬・東農大二高)

高林 祐介 (駒澤大 ← 三重・上野工業高)

ギタウ・ダニエル (日本大 ←ケニア・ガル高)

 

[2007年入学]

 

[2008年入学]

柏原 竜二 (東洋大 ←福島・いわき総合高)

鎧坂 哲哉 (明治大 ←広島・世羅高)

 

[2009年入学]

村澤 明伸 (東海大 ← 長野・佐久長聖高)

 

錚々たるメンバーだ。

多士済々のスーパースターたちが各大学に分散し、百花繚乱の状況だった。(私はこの頃の大学長距離シーンが歴代で最も好きだ)

2学年上が上野たち四天王、1学年上が佐藤悠基・竹沢。そして2学年下に柏原、3学年下に村澤。

 

つまり高林たちの世代というのは、下級生のときは超強力な先輩世代の背中を追いかける挑戦者として、上級生になるとこれまた超強力な後輩たちの挑戦を受けて立つ、そんな4年間だったと言っていい。

 

日本テレビより

 

かかる状況下、高林は大学3大駅伝(出雲・全日本・箱根。2006〜2009年度)で11回出走、うち7回で区間賞を獲得!?

驚異と脅威の記録である。

 

だがここで触れなければならない大事なことは、当該トリオの中で高林は”序列3位”だったということだ。

 

宇賀地強(駒澤大学時代) 加納由里オフィシャルサイトより

深津卓也(駒澤大学時代) スポーツナビより

 

外の人間が見る分には宇賀地・深津・高林に実力差はないように見えた。

が、駒澤大学の中で(大八木監督の中で)は異なっていたようだ。

 

当時の駒澤においては、エース区間は宇賀地、準エース区間は深津が担っていた。

特に宇賀地は大学駅伝皆勤賞(4年間×3大会=12回出走)。しかし区間賞はわずか2回。だがその事実こそが、他大学のエースたちと同区間に出走して激闘を繰り広げた彼の軌跡であり、粘り・ガッツ・攻め・勝利への意志・ファイティングスピリット… 現在に連なる宇賀地強というランナーの価値を、世間に強烈に示し続けた。

 

宇賀地強(コニカミノルタ時代) 加納由里オフィシャルサイトより

 

と、ついつい宇賀地強について語ってしまったが今回の本題はそこじゃない。

高林祐介についてである。

 

彼ら3人は大学4年間で4つの駅伝タイトルを獲得したが、うち3つが全日本大学駅伝である(06、07、08年)。

全日本の、例えば2008年(三年次)大会に着目すると、

 

2区(前半最大の見せ場。序盤のエース区間でありスピードランナーが集う)は宇賀地が(ちなみに4年連続で同区間出走)、

8区(エース区間。当時は同区間だけ突出して距離が長かったため各大学の最高のランナーが集結した)は深津が担当した。

 

高林は、

1年次;5区、区間3位

2年次;5区、区間賞

3年次;6区、区間賞

4年次;6区、区間賞

と計3度の区間賞を獲得。地元で大活躍した。特に6区というのは彼の出身地(伊勢市)のすぐ近くらしい。

 

ここで「計3度の区間賞」というのがポイントである。

先述の通り、当時の駒澤では宇賀地&深津が2区&8区に出走した。他大学も当然、チームのトップ2をこの2区間にぶつける。だが戦力に劣る他大学は3番手以下に駒が足りなかったのだ。

 

そんな中で駒澤。3番手が高林。宇賀地&深津とほぼ同等の実力を持つ。

そんなランナーがいわゆる「つなぎ区間」に出走。これが超強力だった。ここで他大学と大差がついたといっていい。

 

深津、宇賀地、高林 AERA dotより

 

結局このブログの著者は一体何が言いたいのか、と思われるかもしれないがもちろん、高林は最高のランナーの一人だったということである。

 

確かにチーム内の序列は宇賀地、深津に劣ったかもしれない。

しかし他大学のエースが出てこない区間において、ぶっちぎりの実力を見せつけて確実に差をつけた。それが彼の役割だった。格が違ったのである。

常勝・駒澤大学の不可欠なピースであり、チームへの貢献は絶大だった。

 

大学入学後、長らくトラック競技の1万mに出走せず、したがって自己記録の表示には5千mの記録が載り続けた。本人も言うように初期はスピードに磨きをかけていたこともあり、距離の短い出雲と全日本の区間賞は納得するところもある。

だが20kmの箱根でも区間賞を2度獲得。長い距離でも強さを発揮した。(ここが後に入学する油布郁人との違いだと思う)

 

高林祐介(トヨタ自動車時代) スポーツナビより

 

大学卒業後、高林はトヨタ自動車へ、宇賀地はコニカミノルタへ、深津は旭化成へ進んだ。いずれも実業団の強豪である。

特筆すべきは、3人とも、ニューイヤー駅伝で活躍してチームを優勝に導いたことだ。

 

高林は大学卒業後もトップランナーの一人ではあったが、トラック(個人種目)のタイトル獲得はなく、日本代表にもならなかった。マラソンでも大成せず、2016年に引退。しばらくトヨタでの社業に専念した後、22年から駒澤大学でコーチに。

そして先述の通り、24年春から立教大学の監督へ。当時の話題性は高かった。

(現役時代よりも有名になったのではないかとすら思う。嗚呼、それにしても箱根駅伝人気は異常である..。ちなみに宇賀地強は現コニカミノルタの監督、深津卓也は現旭化成のコーチに。現在は3人とも指導者になっている。立場を変えて、3人の活躍は続いている)

 

先日の箱根駅伝予選会(10/19)ではなんとトップ通過。それとは別にすでに全日本への出場権は手に入れており、今回、本大会に出場することとなったのだ。

 

箱根駅伝2025の予選会をトップ通過した立教大学 日本テレビより

 

話を全日本大学駅伝2024に戻そう。

11/3(日)当日、自宅のTVで8:10の熱田神宮からのレーススタートを見て沿道観戦のために出発。 

今年は塩浜駅近くで見ると決めていた。昨年のJR四日市駅付近は人が多すぎる。2年前のように、そこからJRの「快速みえ」に乗って松阪まで南下して再び沿道観戦するのならまだしも。

 

選手通過予定時刻の30分ほど前に塩浜駅に到着。若い女性、中年の男性、同じ目的っぽい人たちがちらほら。遠征してきたようにも見えた。

私としては地の利をいかし穴場だと思って来たのだが..。同じことを考える人もいるようだ。

 

だが駅から23号線まで歩き、さらにそこから駅から遠ざかる方向に歩くとさすがにほぼ人がいなかった。

やはり観戦には良いところかもしれない。

 

 

レースの方は2区で駒澤が遅れていた。第3中継所(4区へのタスキリレー)の時点でトップ青山学院大とは1分44秒の差。5連覇を狙う王者は早くも厳しい状況に追い込まれていた。

 

全日本大学駅伝 スタート時 日刊スポーツより

 

沿道で待っている間、TVerで中継を観て状況は把握していた。

そして10時頃、私が観戦していた場所にトップ・青山学院の黒田朝日選手が来た。声援を送る。

(以下同様。当然、目の前を走っている選手に声援を送らずスマホで撮影しているだけなんていう失礼な人間では私はない。なので選手を撮影した写真は今回もない)

 

2,3,4位で城西大、国学院大、創価大が通過した後、5,6位で駒澤と中央大がやってきた。

駒澤ファンの私としてはここでルーキーの谷中晴選手を激励したいところだったので、

「駒澤、中央、諦めるな前を追えぇぇ!」

とエールを送っておいた。

(TV中継でも声を確認できた笑)

 

 

監督車(大型観光バス3台に分乗)も通ったので、彼らの方に向かって笑顔で手を振っておいた。

唯一気付いてくれたのが黄緑色のジャージの方。大東文化大の真名子監督かな?

藤田監督(駒澤)、原監督(青山学院)、前田監督(国学院)などは確認できなかった(カーテン閉めてた?)。

けれど先述の立教大、高林監督は確認できた。

「高林、おかえりー」

と心の中で声かけする。

 

最終ランナーの通過を待って今年の沿道観戦は終了。

場所も良く、充実の時間だった。

 

 

帰宅してTVで観戦を再開。

レースの方は6区終盤からトップ青山学院と2位、国学院の優勝争いが緊迫化してきた。中盤まで大量リードを奪っていた青山だが、6区で国学院・山本歩夢の猛追を受けて4秒差。

7区は凌いだもののアンカー8区で逆転を許し、かつ2分37秒後にスタートした駒澤・山川拓馬にも抜かれた。

国学院は初優勝、駒澤は地力を見せて2位、青山学院は3位に沈んだ。

 

優勝した国学院大学 8区・上原琉翔 日刊スポーツより

 

<5連覇逃すも圧倒的な力を示した前王者 駒澤大学>

2区桑田駿介のミス(区間17位でトップと2分23秒差でタスキリレー)で「終わった」感もあった駒澤だが、最終的にトップと28秒差の2位フィニッシュは「負けてなお強し」を印象付けた。しかも全8区間中、1,2年生が5人、内駅伝デビューが3人という布陣で優勝に肉薄した。

 

昨年度のチームは先行逃げ切りだったので、序盤からリスクを負って前を追う、突っ込む、という状況は初のはずだが、それでも3区伊藤蒼唯(16位→8位)、4区谷中(8位→5位)が先行するチームを追い抜き格の違いを示した。(振り返ると伊藤の走りは大きかった)

 

エース集結の7区では篠原倖太朗が、アンカーの8区では山川が、怒涛の連続区間賞。

大会前、藤田監督が「後半区間には自信を持っている」と述べていた通り、2人は他チームを寄せ付けなかった。

 

7区・篠原倖太朗(駒澤) 月刊陸上競技より

 

全日本は2018年にコース変更が行われて7区が17.6kmに延長されたことでとても面白くなった(1〜8区の総距離は不変)。つまり(8区と併せて)20kmを走れる強い選手を2枚揃えなければ勝てなくなったためだ。

これに最も上手く対応したのが駒澤である。

7&8区が小林歩夢&田澤廉、田澤&花尾恭輔、鈴木芽吹&山川、そして今大会の篠原&山川。

毎年、超強力なワンツーパンチを放っている。この7&8区の合計タイムは毎年駒澤が一番のはずだ。

 

特に今大会、7区篠原が歴代3位、8区山川が日本人歴代2位(歴史ある同区間は外国人ランナーが歴代記録を席巻している)で走り、計1時間47分6秒というのは歴代最速であり、国学院の同1時間49分21秒、青山学院の同1時間50分10秒と比較してもぶっちぎりだった。

 

特にレース最終盤、国学院がビクトリーロードをひた走る後方で山川が青山学院の塩出翔太を抜き去っていた様がTV中継で映った際は誰もが目を疑った。

優勝に届かなかったものの藤田監督には笑顔があり「強かった。あれは駒澤のエースの走り」と称えた。

 

山川の走りは本当に凄まじいものだったので、それだけにTV中継の”見せ方”に不満が残る。3位から猛追しているのに先頭とのタイム差をろくに紹介せず。

タスキリレー時点でトップまで2分半あったし、届かないと踏んだのだろう。しかし終わってみれば28秒まで迫った。

見せ方次第では2011年の全日本で、最終8区でトップを走るもペースが上がらない駒澤・窪田忍に対し、炎の猛追を見せた東洋大・柏原竜二のように、ハラハラさせるドラマを視聴者に提示できただろうに。

 

8区・山川拓馬(駒澤) 日刊スポーツより

 

<伊勢路の歴史に刻まれた新王者 国学院大学>

全員が区間上位で走りミスなし。総合力の高さと6区山本の爆発力で勝った国学院。

前田監督の区間配置もはまった。”つなぎ区間”とされる6区にチーム一のスピードランナーを配し、叩き出した区間新記録。10人批評家がいたら10人全員が「MVPは山本」と答えるに違いないパフォーマンスだった。

 

国学院にとって「幸運」だったのは、最終8区へのタスキリレー時点で3位・駒澤とは2分33秒もの大差(距離で言うと約900m)があったことだ。(もちろん国学院の実力の高さがゆえに駒澤を突き放せたまでで、「幸運」とするのは実際には不適であるのを敢えてこう称す)

8区序盤、まったくペースの上がらない青山学院・塩出の後ろにくっついていた国学院・上原だったが、中盤で後ろの3位、駒澤・山川との差を気にして前に出る。(あっさり首位交代する)

 

振り返るとこのときの上原の判断は正解だった。

もし、タスキリレー時点で駒澤との差がもう少し詰まっていて1分半程度だったら、違うレース展開と結末だったかもしれない。

もちろん上原と山川の間に2分の実力差はないはずだが、今回の山川の凄まじい走りは、最後に捉えてもおかしくないものだったはずだ。上原は結局、区間9位の走りにすぎなかったのだ。

 

ゴール100m前の最後の直線で後ろを振り向いた上原はギョッとしたに違いない。青山学院より手前に駒澤がいるし、しかもその姿は自分の30秒後方まで迫っていたのだから。

 

8区・山川拓馬(駒澤) 月刊陸上競技より

 

<またも勝負弱さを露呈した箱根王者 青山学院大学>

相変わらず青山学院は情けない。4区・黒田の区間新の爆走で狙い通り先行逃げ切りを図ったがつなぎ区間で国学院にダラダラ差を詰められアンカー勝負で完敗。しかも3位まで転落。

 

「駅伝は前でレースを進めるのが鉄則」とする原監督だが、20kmを走れる選手が1枚足りず。8区・塩出は区間15位に沈む。

この辺が昨シーズンの駒澤との違いだ(彼らは昨年の出雲&全日本で1区から一度もトップを譲らない完全無欠の強さを示した)。

というか青学はよく全日本の8区で首位転落する。同じことを繰り返している。単純に実力がないのだ。

 

青学というチームは過大評価されていると私は思う。確かに毎年・毎大会常に3位以内に入るのはすごいのだが、必ずどこかでミスをして優勝できない。

今大会でいうと8区・塩出であり、3週間前の出雲では5区・若林宏樹(緊迫の首位争いで粘れず、区間5位でトップと24秒差へ拡大を招く)だった。

 

箱根の強さは認めるところだが、それでも彼らが勝つのは2年に1度。優勝できない年は必ず往路で誰かがミスをやらかしてジ・エンドとなる。

つまり2年間、計6大会でミスのない走りをするのは「2年に1度の箱根」だけなのだ。

 

8区・塩出翔太(青山学院) 日刊スポーツより

 

ただ7区・太田蒼生のパフォーマンスは輝きを放つ。

今シーズンの学生長距離シーンは駒澤・篠原、国学院・平林清澄、青山学院・太田を「3強」として見る向きがあるが、個人的には太田を篠原&平林と同格に扱うことに違和感があった。

しかし出雲と今回の全日本の結果を見る限り、「3強」の評価は正しいようだ。

 

平林の4秒前にスタートするも、一度も前に出さず。大方の予想を覆して首位をキープした(結局、両者は同タイム。4秒差のままで8区にタスキリレー)。

 

太田の、この”得体の知れない強さ・不気味さ・タフネス”、というのは健在であり、箱根駅伝2024の3区で佐藤圭汰(駒澤)が「なんであんなに強いんだろう。太田さん」と感想を漏らしたあのときの空気を、今年は早くも全日本で感じることとなった。

 

7区・太田蒼生(青山学院) 日本テレビより

 

<その強さはもはやホンモノ 立教大学>

初出場の立教大学は堂々の7位フィニッシュ。箱根駅伝2023出場以来、毎大会、面白いように順位が上になっていく。

今大会、立教は日体大、中央大、大東文化大、東洋大、神奈川大、東海大ら箱根優勝経験のある大学に先着したのだ。(憐れ、順天堂大なんて予選すら突破できていない)

もう、完全に実力はホンモノである。

 

高林監督も大きな手応えを感じているようだ。就任1年目でこれほどの結果を出す手腕には最上級の評価がなされるべき。

本人の人柄や、現役引退後の社業専念(トヨタ自動車)時代に養ったマインドもさることながら、就任直前まで王者・駒澤大学でコーチを務めていたことが何より大きい。

それは具体的なトレーニングメニューやメソッドを知っているからというよりも、「練習でココまでやらなければレースでは勝てない」という明確な基準を選手に提示できることが最大の強みだと推察する。

立教大学の駅伝強化プロジェクトチームは、まったく最高の人選をしたと思う。

高林監督と立教大学の今後の活躍に目が離せない。

 

8区・安藤圭佑(立教) 日刊スポーツより

 

というわけで、三重県を舞台に全国の学生長距離ランナーたちが輝きを放った全日本大学駅伝2024が幕を閉じた。

来年の大会までに、どんな一年が待っているだろう。

 

 

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All Japan University Ekiden Championship 2024

Ep.228

“All Japan University Ekiden Championship 2024” was held alongside Route23 from Nagoya to Ise-jingu shrine, way to Yokkaichi, so long 106.8km.

This year, Kokugakuin university won this race, for the first time!

 

https://daigaku-ekiden.com/

https://www.tv-asahi.co.jp/ekiden/

 

立原位貫

Ep.227

江戸時代の浮世絵の色を現代に甦らせ、その作品が大英博物館に永久所蔵された立原位貫(たちはらいぬき。1951-2015)。

 

この四日市出身の現代版画家の特別展が23年9月、四日市市立博物館(Ep.21、59、113、119参照)で開かれた。

 

立原位貫氏 公式HPより

 

立原氏は江戸時代の有名な浮世絵作品(歌川国芳や歌川国貞など)に関して、

自分でその構図通りの絵を描き、自分で木版を彫り、自分で色を調整して紙に摺ることをした人物だ。

 

ここで留意すべきは、そもそも江戸時代、浮世絵は「分業制」になっていたということ。

絵師・・・絵を描く人(かつ摺師に色を指示する人)

彫師(ほりし)・・・彫刻刀を用いて絵の通りに木版に凹凸を彫る人

摺師(すりし)・・・色を調整して紙に擦っていく(印刷していく)人

 

葛飾北斎、喜多川歌麿、安藤広重など浮世絵で有名な人たちは皆、絵師である。

彫師と摺師が後世に名を残すことはない。けれど彼らの卓越した技量があってこの芸術作品が完成することは言うまでもない。

 

絵師・彫師・摺師の3役をこなした立原氏のような人物は、江戸時代には存在しない。

途方もないことをたった一人でおこなってきた人なのだ。

 

 

本特別展に訪れたのは、彼が地元四日市出身だったということと、少し前に近代の版画家、川瀬巴水の特別展をパラミタミュージアム(Ep.170参照)で見て浮世絵や版画に興味を持ったの理由だったが、正直に言うとこのときはその作品を鑑賞して心を揺さぶられた、というものではなかった。

それから1年近く経ち、ふと思い立って立原氏の自伝を四日市図書館で借りて読むまでは。

 

優れた芸術家(文筆家を除く)ならばその作品を鑑賞しただけで感動するのが本来なのだろうが、私の審美眼ではそれはかなわず..

当該人物の“想い”や人となり、人生を、その書を通じて知ることで、初めて深い感動に至ったのだった。

 

『一刀一絵』(立原位貫著、2010年、ポプラ社)の内容は衝撃だった。

以下、同著を参照しながらを紹介したい。

 

『一刀一絵』(2010年)

 

本名、勝原信也。

1951年、名古屋に生まれすぐに父親の地元である広島県三原市に移る。7歳のとき、破天荒な父と決別して母の地元、四日市市富田(とみだ)へ。

やんちゃな少年時代で、よく遊びよくケンカをしたという。

私立・鈴鹿高校を卒業してから地元企業に就職。しかしすぐに辞めてしまう。

 

「 学校で受けた給与の説明と会社からの説明が違っていたので、なぜ違うのかと説明を求めたのである。しかし明確な答えがないままであったので、「ちゃんと説明していただかなければ、納得ができません」と食い下がったら

「生意気だ、もう来なくていい」と言われたのである。そうですかとやめたのだが、学校側にはずいぶんと怒られるはめになった。私が納得いかなかったのは給与の額ではなく、きちんと説明をしようとしない、誠実さがみられないことがなんとも嫌だったのだ 」

 

痛快だ。この例に限らず、立原氏の少年〜青年時代の様子はさながら『坊ちゃん』(夏目漱石)の主人公、坊ちゃんのようなのだ。

 

四日市市富田一色町 WITH LAUREL HPより

東海道五十三次『桑名 富田立場之図』 WITH LAUREL HPより

 

もう一つ、少年時代の章で私の心を捉えてならなかったのは、彼の地元・富田(とみだ)の描写だった。

富田地区は、現在でも四日市市北部で最も栄えているエリアである。

ここは東海道五十三次で『桑名 富田立場之図』として(当時の)名物、焼きハマグリ(Ep.31参照)が描かれた宿場町だった。

 

「 家の周辺は今にして思えばやや特殊な環境で、まことに色香のある町並みであった。木造の二階家が連なり、たいがいの家には連子格子がはめられ、いわゆる江戸の宿場町の名残を思わせる趣である。

ほとんどの家が商いをしており、染物屋、漆塗屋、着物の仕立て屋、餅屋、建材屋、具服屋、鍼灸・按摩屋、薬屋、八百屋、仏壇屋、旅館…と揃い、しかし商売といえど、どこかのんびりとした雰囲気があって、あちこちの店先で暖簾が涼風に揺れている様子は、ゆったりとした風情であった 」

 

「 髪結いの店には、いつも芸者たちがやってきては髪を結ってもらっている様子が通りからも見えた。線路を渡ったアーチ型の赤いネオンの先に芸者宿が何軒かあったからだ。東海道沿いの、いわゆる田舎の遊郭である 」

 

「 そういう場所柄もあったろうか、背や腕に派手な刺青をした男たちの姿も見かけた。いや、見かけたというより彫り物だらけだったといっていい。実際、祖父の体にも肩から腕、背中にかけて紅と墨とで桜と般若が彫られていた 」

「 刺青は漁師らも日常的に入れていたし、女たちにとっても特別なことではなかった。祖父の家から伊勢の海に向かっていくと漁師町が広がり、威勢のいい漁師らが毎朝ポンポン船に乗り富田漁港から漁に出て行く。漁師の子どもの家に遊びに行くと、上半身裸の婆さまたちが腰巻一枚で縁台で団扇をあおいだりしていた時代である 」

 

私はこれらの描写に頭がクラクラした。

遊郭、刺青だらけの住民、漁師、上半身裸の婆さまたち..

これは明治後半〜大正時代についての話ではない。戦後の、1950年代後半にすぎない話なのだ。

 

例えば市発行の刊行物や資料館などで「富田地区には遊郭があった」との記述を見たとしても「ふ〜んそういうものか」としか私は思わなかっただろう。

しかし立原氏の、いやこのときはまだ市井の少年に過ぎない人間が語るからこそ、鮮烈で、生々しい当時の実相が伝わるし、また当時を深く想像するに至ったのだと思う。

 

鳥出神社の鯨船行事はユネスコ無形文化遺産(Ep.122参照)

 

「 山と海、豊かな自然からの恩恵はたっぷりと受けた。自由に駆けずり廻った日々は、何ものにも替えがたい大切な思い出である。

特に海には親しんだ。松林が続く砂浜はきれいで、それはまさに広重の描いた浮世絵の世界であった。入り江からは遠く知多半島が見渡せ、天気がよければかすんだ富士山が望めた 」

「 泳げるのはあたりまえで、子どもらは誰に教わらなくても魚のように泳ぎ廻った。そのころの海は食の宝庫でもあり、木曾川と長良川が注ぎ込む海水はたっぷりと栄養を含んで種々の魚を肥やし、天然の牡蠣を密生させた。かれいが畳を敷いたように海面をおおっていたこともある。上質なうなぎも多く、竹の先に煮干のえさをつけては穴から出てきたうなぎにモリを刺して何匹も仕留めたものだ。家に帰り自分でさばいては焼き、祖父の作っていた年代物の濃いたれをつけて食べるのが楽しみであった 」

 

「 その絵に描いたような風光明媚な自然環境が、急速に壊されていったのが、四年生のころである。名四国道と呼ばれる産業道路ができて以来、あたりは一変した。日本は高度成長期に入り経済と効率の至上主義にひた走り始めていた。

道路にはたえず大型トラックが行き交い、排気ガスがばらまかれた。素朴だった漁港は荒らされて、ついには漁業権を放棄することになり、埋め立てられてみるみる姿を変えていった。

四日市の工業地帯には、さらにコンビナートが増え続け、空はたえず灰色の霧がかかったようなスモッグに覆われ、やがて川崎と並んで日本最大といわれる公害問題が起こった。釣った魚は臭く、もはや以前の魚の味ではなくなっていた。

少年だった私は変わり果てていく町と、それを誰ひとり止められない理不尽さに、たとえようもない怒りを覚える毎日だった 」

 

「 思えば、富田の町がいちばん穏やかな時期に、少年時代を過ごせたことは幸せだった 」

 

宿場町の時代の残り香と豊かな自然。

それらがドラスティックに変化し、二度と戻れなくなる様を、この人は目撃してきたんだ。(関連Ep.21、119)

 

アンソニー・ブラックストンAnthony Braxton Spotify より

 

地元での仕事も長続きせずくすぶっていたが、高校時代から親しんでいたジャズで、アルトサックス奏者として一念発起して東京へ。

仲間と組んでライブハウスで演奏などしていたが、当時傾倒していたアンソニー・ブラックストン(1945-)という新進のサックス奏者の演奏を生で聴いたとき「心臓をわし掴みされて、大げさでなく茫然自失の状態」となり「ジャズをやるべき人間とはこういう人をいうのだ」と悟り「ジャズと決別しよう。瞬時に思った。ああいう音を聴いてしまったら、もう私がジャズをやる意味などない」として故郷、四日市へ戻ることとなる。25歳の時であった。

 

そしてひょんなことで浮世絵に出会い、いよいよ創作活動を開始していくのである。

 

立原位貫公式HPより

 

「 私は小学生のように初めて浮世絵版画を彫り、自分なりの解釈と研究を続けてきた。そして彫れば彫るほど、摺れば摺るほどに、狂おしいほど浮世絵という世界に魅せられてきた。版画家や浮世絵作家をめざしたわけではない。功名を狙ったわけではない、古美術としての価値を求めたわけでもない 」

 

その過程で”色”への想いをつのらせていく。

 

「 このときはっきりと自覚したのは、私は江戸とまったく同じものを復刻する、ということだった。そしてそれは当時の色の正確な再現ということであった。たとえば北斎の赤富士。

二百年前に、それが摺り上がったときの美しい色とはどういうものだったのか。その、おそらく飛び上がらんばかりに美しかったはずの富士の色を目にした人たちがいるのである 」

 

「 色褪せることが浮世絵のさだめだとしても、私は今生きている人たちに、かつての江戸の工房で生まれた色を見せたいと思った。江戸に戻し、年月をかけて失われ、退化したものに光を当てたい。そしてそれは江戸浮世絵職人たちの技と志を伝えることでもあり、伝統という歴史を紡ぐことでもあると思った 」

 

バレン 立原位貫公式HPより

 

木版、バレン、和紙、顔料..

同著書で、”最高の道具・素材”を求めて岐阜、徳島、山形、全国に赴き、職人たちを訪ねる様は、さながらロールプレイングゲームやマンガの主人公である。

そしてそれは三重県も例外ではない。

「近所に住む陶芸作家」とか「鈴鹿の墨職人から最高の膠(にかわ)を入手」などの記述に私はニヤリとした。

三重県指定の伝統工芸品、萬古焼(Ep.23、24など参照)と「鈴鹿墨」である。

立原氏の地元、三重が誇る歴史と伝統、それを支える現役の職人たちも、彼の創作活動を支えたのだ。

 

特別展の公式図録『立原位貫 想像力から創造力へ』より

 

門前払いされながらも想いを伝え、中には十年来の望みが結実したものも。

ただし「集める」だけではなく「ないものは自作する、工夫する」という意思と行動力も併せ持つ。

 

手元がぼやけてしまうのが難点の「作業部屋の電球」について、フラスコを外側に配置して光の当たり方を改善した例(公式HPの写真で実際の様子が分かる)が印象的だった。

糊(のり)も自分で米から作るし、色も化学製品由来の顔料・染料ではなく、植物から抽出して作る。江戸時代の技法・素材を再現するために試行錯誤する人だ。(レシピを記した当時の書物は残されていないためよく分からないことだらけのようなのだ)

 

これはさながらエンジニアである。

私は材料技術者だが、ある実験や検証を行うためベストな材料や設備を調達し、もしそれが世の中になかったり入手不可能であれば自分で工夫して作ることがある。

エンジニアの行動原理と立原氏も同じなのだ。

 

「 別段、そこまでこだわらなくとも代用品の青で充分ではないかという声も多い。だが私はこういうちょっとしたことが、実は決定的に大きいと思ってここまでやってきた。伝統文化を護っていくためには、このちょっとしたことに命がけにならなければ、護ることはできないのである 」

 

『竹取物語』(2008年。江國香織著、立原位貫画)

四日市市松本にある子どもの本専門店「メリーゴーランド」(Ep.173参照) 著書内で「店主とは友人」とある。これが縁で江國香織氏とのコラボが実現したようだ

 

復刻に限らずオリジナル作品も発表してこれからの活躍が期待された2015年。64歳で生涯を閉じた。

彼が生み出した復刻浮世絵作品の「色」もまた、時が経つにつれて退色し劣化していく。それが(自然由来の)染料の宿命である。

だが現代の私たちは幸せだ。彼が再現した「江戸時代の色」を鑑賞できるのだから。そしてこのようなことはきっと、今後二度と起こらない。

なぜなら立原位貫という人間とその活動自体が空前絶後のものだからだ。

 

「 私は小さなころから、理不尽なものごとに対して無性に憤るところがある。あらゆる権力や権力構造というものに対して、国家や団体、徒党という論理に対して(中略)

それは「個人」というものに、強いこだわりがあるからだ。個人を否定されたり軽視されることに徹底して憤慨する。生きるということは、個人のあり様であると考えているからだ 」

 

四日市市富田が生んだ傑物、立原位貫であった。

 

 

 

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Tachihara Inuki

Ep.227

立原位貫Tachihara Inuki(1951-2015) was a contemporary Hanga artist(printmaker) from Yokkaichi.

He is regarding the famous Ukiyo-e works of the Edo period like Utagawa Kuniyoshi, drew the picture as it, carved the woodblock, adjusted the colors and printed it on paper by himself.  All of process of Ukiyo-e was done by him.  This was remarkable and unprecedented!

Now, several his works are in the permanent collection of the British Museum.

 

https://inuki-art.com/index.html

https://www.takezasa.co.jp/mokuhan/mokuhan06.html

https://www.kintetsu-re.co.jp/with_laurel/machi/2011/001.html

 

 

尾鷲わっぱ

Ep.226

「曲げわっぱ」(または単に“わっぱ”)とは、スギやヒノキなどの木の板を曲線に曲げ、継ぎ目を山桜の皮で綴じて底をつけた器などのことをいう。

最も有名なのはおそらく秋田県大館市の「大館曲げわっぱ」で、百貨店の食器コーナーでも見かけることがある。

全国にはこの曲げわっぱの伝統的な産地がいくつかあるようだ。

 

曲げわっぱ イメージ 日本工芸堂HPより

柄杓(ひしゃく)もわっぱである Wikipediaより

 

三重県もそのうちの一つ「尾鷲わっぱ」がある。

詳細な起源は不明とのことだが、江戸時代初期に尾鷲の林業の振興とともに従事者が急増し、これらの人々の食器として木製の曲げ物(わっぱ)が既に使用されていたらしい。時を同じくしてカツオ漁も盛んとなり、漁師たちも食器にわっぱを愛用したとのことだ。(尾鷲市HPより)

 

明治20年(1887年)創業の「ぬし熊」では、当時から受け継がれてきた45工程(!?)にも及ぶ技法を駆使してわっぱを制作しているそうだ(同社のHPでは各工程が紹介されている)。

「ぬし熊」の四代目である世古効史氏は現在唯一の尾鷲わっぱ製作者。この伝統を守り続けているのだ。

 

「ぬし熊」HPより

「ぬし熊」HPより

 

尾鷲わっぱの素材は「尾鷲ヒノキ」。こちらも三重県自慢のブランドである。

というのも県南部の東紀州地域はヒノキの人工造林が盛んなエリア。

2016年には「日本農業遺産」に『急峻な地形と日本有数の多雨が生み出す尾鷲ヒノキ林業』として認定された。

 

尾鷲ヒノキ 尾鷲市HPより

 

「 急峻で土地生産力が低いという悪条件下において、密度管理を適切に行い、長い年月をかけてゆっくり育てることで緻密な年輪幅が形成された高品質なヒノキを持続的に生産する独自の伝統技術が継承されている」

ことが理由らしい。

 

尾鷲わっぱで用いられのは、そんな尾鷲ヒノキの厳選した上質部分とのことだ。

 

尾鷲ヒノキ 「ぬし熊」HPより

 

そんな尾鷲わっぱの二段弁当箱を購入!

同社のHPによると一年近く待つかもしれない(!?)とのことだったが、思いのほか早く届く。

 

 

艶(つや)があって美しい。

圧倒的な“工芸品感”がある。

お弁当箱がこんなにカッコよくて良いのか?

フタを開けるとき、そして食べるとき、楽しみが何倍にも増幅されそうだ。

 

さっそく使ってみよう。

白米、焼き鮭、玉子焼き、ウインナー、野菜..

“ザ・日本のお弁当”ともいえるものを作ってみた。

 

 

お昼の職場にて。このお弁当箱はレンジでチンできるのも特長だ。

レンチン後、ヒノキの香りが漂う。これはすごい! こんなことまで想定していなかった!

 

以降の平日も、毎日愛用している。

この尾鷲わっぱのお弁当箱に、私は大満足しているのだ。

お昼が楽しみになったことは言うまでもない。

 

 

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Owase Wappa (Circular Bento Box)

Ep.226

Wappa is a vessel made of wooden planks such as cedar or cypress, bent into a curved shape using a special technics.

Regarding to this awesome craft, there has been some producing area in whole of Japan.  And Mie, Owase Wappa is one of them.

Thanks to this classy, shiny and distinctive man-made bento-box, I enjoy eating lunch in my work place every week day!

 

https://nushikuma.com/

https://www.miebrand.jp/certified_product/13

https://www.city.owase.lg.jp/category/5-1-2-1-1-0-0-0-0-0.html

https://japanesecrafts.com/blogs/news/wappapopularity?srsltid=AfmBOopsiUazDddCQ_Asx8vrltIxKdPCfY27jZK9vPx94Tg2TcZEbvfh

 

三重県立看護大学

Ep.225

津市の夢が丘という住宅街にある三重県立看護大学。

看護学部のみからなる単科大学で、毎年100名ほどが入学者する。

創立は1997年。地域に根差した看護専門職を養成する公立大学としてスタートしたようだ。

 

 

一般的に大学祭のシーズンといえば10月、11月。しかしこの三重県立看護大学は珍しく7月中旬の開催。

「夢緑祭(ゆめみどりさい)」を訪れてみた。

 

 

ゆるキャラみたいなのがいる。みかんの顔をしている「みかんちゃん」。

ピンと来た。

 

ミエケンリツカンゴダイガク

ミカン大(三看大)。

みかんちゃん!

 

 

大学が独自のキャラクターを持っているのはありそうでない。

私は様々な理由でこれまで全国の100以上の大学のキャンパスを訪れたことがあるが、

岩手大学の「がんちゃん」、横浜市立大学の「ヨッチー」、静岡理工科大学の「おりこうちゃん」

が思い出される。

 

岩手大学 HPより

横浜市立大学 HPより

 

ということを思い返していたら先日、三重大学(Ep.196参照)でマスコットキャラクター「ミールド」というのが誕生したと新聞に出ていた。(中日新聞2024/09/13より)

 

三重大学のマスコットキャラクター 中日新聞より

 

大学祭には学生たちの(おそらく)ご両親の姿をよく見た。

確かに、自分が学ぶキャンパスを親に見てもらう貴重な機会だ。

地域住民と思われる小さな子どもたちの姿も。

だがそのどちらでもない私はおそらくレアな存在だった。

 

例によって職場の人に

「今週末は三重県立看護大学の学祭に行くんだ」

と言ったら

「そういう情報はどこで取得するんですか?」

と言われた。

 

その疑問はもっともで、自分から積極的に取りに行かなければ地方の単科大学の学祭の日程なんて分からない。

私は昨秋から三重県内の大学祭を訪れることをしているので、ときたま三重県立看護大のHPをチェックし、今回の日程を確認していたのだ。

 

お子様向けコーナー

「いももち」は美味しかった。(写真は撮り忘れた)

トー◯ス?

 

三重県立看護大学(三看大)の「夢緑祭」。

初夏の良い思い出になった。

 

 

 

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Mie Prefectural College of Nursing

Ep.225

Mie Prefectural College of Nursing is located in Tsu and has only 100 new students every year.

In July, this tiny college held their university’s festa.  It seemed that students, their parents and  residents around here had a nice time.

 

https://www.mcn.ac.jp/

https://www.mcn.ac.jp/community/yumemidorisai/

 

四郷郷土資料館

Ep.224

四日市近代イノベーションの発火点、旧・四郷村(Ep.213参照)。

 

誇り高き四郷(よごう)地区では、同地の歴史や郷土の偉人を顕彰する施設がある。

「四郷郷土資料館」である。

24年3月にリニューアルオープンした。

 

 

まず外観に目が行く。ここは旧四郷村役場だった。

1921年建設。アールデコ様式で、内部も洒落ている。

明治時代以降、欧米の技術を用いた役場が全国各地にできたとのことだが、現存しているのは珍しいようだ。

 

 

館内では偉人たちの紹介から始まる。

「新しいことに積極的に取り組む四郷の人々」

新進気鋭な気質だったようだ。

 

中でも代表的なのが伊藤小左衛門(5世。1819-1879)と伊藤伝七(10世。1852-1924)である。

 

四日市市立図書館内の展示

 

伊藤小左衛門は開校した横浜を訪れた折、生糸と茶が人気であることを知り、富岡製糸場を視察して器機製糸工場を設立した。

四郷を生糸と茶の一大産地とさせた、同地発展の始祖である。(これが四日市あすなろう鉄道の前身ができた理由でもある)

 

伊藤伝七は渋沢栄一の援助を受けて紡績機器で三重紡績会社を設立。これは後に東洋紡績株式会社となり「東洋一の紡績工場」と称されるようになった。現在の東洋紡(株)である。

 

四日市市立図書館内の展示

 

明治から大正にかけて、四日市や三重県は紡績所や製糸場で溢れていたようだ。時代の勢いを感じる。

紡績とは、綿や羊毛などを長い糸にする作業。製糸(せいし)とは、蚕の繭から糸を引き出して太い糸にすること。

 

数多くの紡績会社が合併を繰り返して東洋紡績が誕生したことが分かる 四日市市立図書館内の展示より

 

なお、現在の四日市市では、東洋紡の痕跡はわずかに見ることができる。

楠(Ep.174、218参照)には工場があるし、関連会社として御幸毛織(株)が中川原に、東洋紡ロジスティクス(株)が塩浜に、それぞれ工場がある。

 

そして「富田工場原綿倉庫」が富州原に。イオンモール四日市北(Ep.8参照)の敷地内である。(同ショッピングモール自体が工場跡地)

建物は国の有形文化財であり、中にはカフェが入っている(横浜の赤レンガ倉庫みたいだ!)。

 

富田工場原綿倉庫

「イオンモール四日市北」の敷地内

 

そもそも、この四郷地区はとりたてて何の取り柄もない土地だ。

だからこそ先人たちの偉業が光る。

 

 

実は同資料館がリニューアルする前の2020年にも訪れたことがあった。

このときは昔の農作業用具の展示がメインだった。

私はこの手の郷土資料館をよく訪れる(Ep.94など参照)。そしてこれは不思議なのだが、それらはだいたい昔の生活の道具や用具が展示されている。特別、地域の特色を反映しているわけではないと思うのが..

 

だからリニューアルされた四郷郷土資料館が「この地の偉人と歴史」にフォーカスしたのは大きな変化であり、それだけ語るべき(誇るべき)物語が充実していることを意味する。

しかも説明員の方が3人も常駐するというのは、破格の贅沢度!?

 

昔の市井の人々の暮らしぶりが分かる展示も残されている

昔の玩具

神楽酒造はこの地区の室山にある(Ep.39参照)

 

四郷郷土資料館。

この土地が生んだ偉大なる先人たちの活躍を学ぶことができる場だった。

 

 

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四郷 Yogo Folk Museum

Ep.224

四郷 Yogo Folk Museum reopened in March 2024.  This former village hall which is made as “Art Deco style” tells us history, great persons and lifestyle in old days.

 

https://www.city.yokkaichi.lg.jp/www/contents/1001000002609/index.html

 

美しき県庁所在地・津 中津軒「メアベア」編

Ep.223

洋食文化が花開いた三重県の県庁所在地・津。(Ep.214参照)

“津の洋食三軒”と呼ばれる一つが「中津軒」である。

 

 

津市中央にある中津軒の創業は1911年。

お店のHP には、

「明治44年に中津軒初代 中田豊麿が妻の郷里、三重県津市に創業。創業当時は洋食そのものが人々にまだ馴染みがなく、カツレツ、ソテーを食べたお客様が料理の価値や値段を決めていた時代もあった」

とある。

 

そんな同店の看板メニューは「特別料理メアベア」

 

そんな料理名聞いたことない..

 

のは私だけではないはずだ。

Wikipediaには「ミヤビヤ」の項で記載があった。

 

「東海地方のレストランなどで提供される」

「ドミグラスソースで鶏肉などを煮込んだ料理」

 

とのこと。ただしお店によって異なるようだ。

 

中津軒のHPによると、

「『特別料理 メアベア』は東海地方の数店舗にだけ残るメニューで名前の由来や歴史など未だに解明されていない謎の多い料理であり時代を超えて今尚繋がっている」

とのことだ。

さっそく中津軒に行って食してみよう。

 

「中津軒」のメアベア

 

楕円形のお皿に載ってでてきたメアベア。

上に半熟目玉焼きが載っているのが目を引く。

 

 

食べてみる。

予想通り、美味しい。

 

美味しい、のだが当然という気もする。

これは不味くなり得ないんじゃないか、とも。

なにしろデミグラスソースに肉だ。

もちろんこのメニューの着想に至ったことがすごいのだけれど..

 

 

そんなメアベアを家で作ってみよう。

レシピはローカル雑誌「NAGI」の 23年春号「まちの洋食屋さん」特集号の記事を参考にした。

それによると中津軒のメアベアは3種類の肉を使うのが特徴だそうだ。

 

牛肉・豚肉・鶏肉の3点セットを用意。玉ねぎはざく切り

デミグラスソースを投入。本当はここから作ろうと思ったがめんどくさくなったため市販のビーフシチューのルウを使用

にんじん、マッシュルーム、にんにく

最後に半熟目玉焼きをトップに載せて完成!

 

美味しい。

にんにくの香ばしさがかなり効いている。スライスしてオリーブオイルで揚げる作業をサボらなかったおかげだ。

玉ねぎも食べ応えがあっていい。しんなりするまで炒め過ぎなかったのが良かった。

 

中津軒の「特別料理メアベア」はきっと、これからもファンを増やしていくことだろう。

 

 

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津 Tsu, How beautiful this city is!  “Meyarbeyar” by Nakatsuken

Ep.223

 

A special cuisine “Meyarbeyar” ,which is passed down Tokai region is mysterious one.

It’s made of Demi-glace sauce and several meats, but nobody can define it, therefore each restaurants serve own receipt.

Nakatsuken is one of them.  This 1911 established classical yoshoku restaurant of Tsu expresses Demi-glace sauce, beef, pork chicken and “half-boiled egg on it”!

Wow, it must be delicious!

 

https://nakatsuken.jp/

https://usagism2000.theshop.jp/items/71917354

 

映画『浮草』

Ep.222

映画監督、小津安二郎(1903-1963)の最高傑作は『東京物語』(1953年)だと誰もが思っている。

 

だがそれは誤りだ。

『浮草』(1959年)こそ、ザ・ベストである。

 

小津安二郎 Wikipediaより

『浮草』 cinema classics HPより

 

<三重県にゆかりのある巨匠 小津安二郎>

母の家系が伊勢商人で実家は津出身。本人は東京生まれだが小学生のとき父の「田舎で教育させた方が良い」という教育方針(?!)により、一家で松阪に移り住むこととなる。

日本映画界の最高の巨匠の一人である小津は、三重県ゆかりの人物だ。

 

 

<最高傑作との名声高い『東京物語』だが…>

1953年公開の『東京物語』。広島・尾道に住む周吉(笠智衆)と妻・とみの老夫婦が東京で暮らす成人した子どもたちに会いに行く。

けれど特に長女・志げ(杉村春子)は、せっかく両親が遊びに来たのに迷惑そう。自身の仕事や日々の生活に忙しいのだ。長男夫婦もまた同様。唯一、戦死した次男の妻・紀子(原節子)だけは義父母を心からもてなす。

東京観光もろくにできず、実の子供たちからも歓待されないため予定を切り上げて尾道に帰ることとした周吉たち。すると道中で妻・とみが体調を崩し、そのまま帰らぬ人となり…という物語だ。

 

『東京物語』

 

私は最初に観たとき、ひどくつまらない映画だと思った。

けれど同作のあまりの名声の高さと自分の感想のギャップに、「自分は何か見落としているんじゃないか? 自分の見方が悪いんじゃないか?」とモヤモヤが残った。

そしてしばらく経ってから2回目を観た。先よりもっと真剣に。

 

結果、やっぱりつまらなかった。正直なところ、まったく面白くない。

志げ(杉村春子)を始め、両親を邪険に扱う子どもたちの描写は腹立たしいことこの上なく、不快である。

 

『東京物語』 照明探偵団 HPより

 

同作がこれほど有名になった一端には時代背景もありそうだ。

戦争はもう終わった。戦後すぐの混乱期も一通り終わった。人々は未来に向かって、社会も新しい時代に向かって走っている。

みんな忙しいのだ。自分の事で、いっぱいなのだ。

 

そんな様相をリアルに示したのがきっとこの映画だった。当時の人たちにとって衝撃は大きかったに違いない。

「仕事 > プライベート」になっていく、高度成長期前夜でもある。

両親への親愛の情も、他者をもてなす心の余裕も、希薄になっていった。

 

当時鑑賞した人の中には、世の空気を言い当てられた気恥ずかしさや、自分事だと思って後ろめたさを感じた人も多かっただろう。

 

『東京物語』 映画.comより

 

ただ、同作の笠智衆と原節子のラストシーンは圧巻である。

「わしらに一番良うしてくれたのは血が繋がってないあんたじゃった。ありがとう。あんたが再婚して幸せになってくれることが、わしの願いじゃ」

と心からの感謝と亡き妻の形見である腕時計を送る周吉。

「私なんて、そんな…」

と泣き崩れる紀子。

 

紀子というキャラクターと、演じた原節子を“神格化”させたシーンである。

日本映画史、いや世界の映画史に輝く伝説のシーンとなっている。

 

 

<異色の作品『浮草』>

三重県出身である小津が唯一、三重県を舞台にして描いた作品。

家族の機微を描くことが得意な小津が、”旅役者”について描いた作品。

これらの観点から異色作とされる『浮草』は1959年の作品。

 

キャストは以下である。

 

嵐駒十郎:2代目中村鴈治郎(1902年生。目力が凄い。女優の中村玉緒さんのお父さん。1983年没)

すみ子:京マチ子(1924年生。”絶世の美女”型女優。本作でもその美しさは神々しい。2019年没)

お芳:杉村春子(1906年生。『東京物語』ではイヤ〜な長女の役だったが本作では…。1997年没)

清:川口浩(1936年生。顔がカッコいい。典型的な2枚目。私は世代ではないが後に「川口浩探検隊」で人気を博す人。1987年没)

加代:若尾文子(1933年生。若くて可愛い本作のヒロイン。後に建築家の故・黒川紀章さんの妻に)

相生座の旦那:笠智衆(1904年生。説明不要の「日本映画史上最高の老け役」。1993年没)

 

2代目中村鴈治郎 Wikipediaより

京マチ子 Wikipediaより

杉村春子 Wikipediaより

川口浩 Wikipediaより

若尾文子 時事ドットコムより

笠智衆 NHKより

 

[あらすじ]

夏、旅役者の嵐駒十郎一座は渥美半島の伊良湖岬からフェリーに揺られて志摩半島にある小さな町(モデルは三重県志摩市)にやって来た。公演のため同地にしばらく滞在する。駒十郎(中村鴈治郎)は楽しみにしていた。かつて深い仲になったお芳(杉村春子)と、成人した息子・清(川口浩)に12年ぶりに再会できるからだ。お芳とは今や「恋愛」関係にあるわけではないが、お互いに信頼しあい、良好な関係を築いている。清には自身が実の父親であることは伏せていて「叔父」と称している。駒十郎は立派な青年になった清との交流が嬉しくてたまらない。清もまた再会を喜んでくれた。公演以外の時間、二人は釣りをしたりなどして一緒に過ごす。

 

そんな様子を、劇団の看板女優であり駒十郎の公私に渡るパートナーであるすみ子(京マチ子)は気に入らない。とても、気に入らない。(お芳の預かり知らぬところで)激しい嫉妬心に燃える。プライドが高く”絶世の美女”タイプの自身と異なり、お芳は美人ではないが母性に溢れ、陰ながら駒十郎を支え、慕い、また一座の公演も心から楽しんでいる。すみ子は気に入らない。それが元で駒十郎とすみ子は激しく口論になる。口汚く彼女を罵る駒十郎。ブチ切れる駒十郎。圧巻の剣幕の駒十郎。負けずに口撃するすみ子。ここが、大雨が降る中、軒下にいる両者が路を挟んで激しく言い争うという、作中一の有名シーンである(後述)。

 

すみ子は一計を案じる。後輩の加代(若尾文子)に清をそそのかすよう言う。加代は姉さんからの依頼を受け(そしてお小遣いももらい)、清に接触する。すると、共に純真な心を持つ清と加代はやがて互いに惹かれあい、本当の恋仲となる。

清と加代が二人で一緒にいるのを偶然目撃した駒十郎は激しく狼狽する。そして後に、加代を激しく詰問する。口汚く彼女を罵る。パワハラもモラハラもあったもんじゃない、それどころか加代をどつく駒十郎。ブチ切れる駒十郎。兎にも角にもブチ切れる。そして加代の口から、これはすみ子からの依頼だったと聞き出す。

 

物語は進む。やがて一座の元に、この先の公演予定地である紀州・新宮に先乗りしたはずだった団員の一人が、金を持ち逃げした(!? 銀行振込がない時代だ)との一報が入る。

驚愕の駒十郎と団員たち。一同、座敷で円になって座り込み、沈痛な表情。そして駒十郎が口を開く。「一座を解散する」と。ある者は役者を辞め、ある者はツテを頼ると言う。場は重い空気だ。

駒十郎も、旅役者の団員たちも、特定の土地に根ざしていない浮草(うきぐさ)なのだ。

 

クライマックス。清と共にいる加代をなおも叱る駒十郎。しかしすでに彼女と恋仲の清はかばう。場はヒートアップし、ついにお芳が「駒十郎はあんたの実の父親」だと、「あんたの養育費として金銭的援助もしてくれていた」のだと清に告げるが、清は「なんで今になって出てくるんや。おれには父親なんていらん。出ていってくれ」と言う。筋の通った理屈。駒十郎は激しく落胆し、加代に清のもとにいるよう言い、その場を去る。

 

離れて暮らせど、心からの愛情を注ぎ、誰よりも息子の将来を楽しみにしていた駒十郎。なのに何故、一体何を間違えたというのか?

お芳と、清と、自身の3人で、穏やかで最良な”家族”という当たり前のかたちを、何故とれないのか?

哀しさと可笑しさと。駒十郎は、何故幸せになれないのか?(著者感想)

 

ラストシーン。夜の寂しい木造駅舎で汽車を待つ駒十郎とすみ子。夜の闇に虫の音が聞こえる。秋が近いのだろう。駅には二人の他に誰もいない。すみ子は話しかける。「またやり直そう。これから二人でがんばろう」と。それを無視し、自身のタバコにマッチで火をつけようとするすみ子に無言で抵抗する駒十郎。

長い沈黙を経て駒十郎は口を開く。「桑名のツテを頼ってみるか。また一旗あげてみるか」と。笑顔のすみ子。駒十郎の心に小さな火が灯った。

 

というところで物語は終了する。

 

 

まあこんなところだが、あらすじを文字で起こすにあたり同作を思い返すと、あぁ、本当になんて素晴らしい映画なんだろう、とあらためてうっとりする。印象的なシーンがいくつもいくつも、思い出される。

 

『浮草』 Wikipediaより

 

本作、私が思う『浮草』の着目点として5つ(!?)を挙げた。

 

<『浮草』の着目点1 結局、印象に残るは笠智衆>

序盤、一座が寝泊まりすることになる宿の座敷に一人の老人が挨拶にやって来る。彼は公演場の旦那で一座を同地に12年ぶりに招いた人のようだ。

 

この老人が現れたとき、私は

「あっ、りゅうちしゅうだ!」

と思った。キャストを確認せずに観始めたためこの人が出ているのを知らなかったのだ。

 

映画『浮草』より

 

笠智衆と中村鴈治郎の会話シーンとなる。『東京物語』のラストシーンのように、カメラがほぼ正面から画面いっぱいに両者をそれぞれ捉える。

 

笠智衆:「ほれ、この前の...、◯◯の役やった」

鴈治郎:「ああ、△△ですか? 死にました。福知山で」

笠智衆:「なんで?」

鴈治郎:「脳溢血ですわ」

笠智衆:「い〜役者やったがなぁ。わからんもんやなぁ」

 

上記の会話シーンが終わり、笠智衆はお役御免。その後物語には出てこない。

 

会話の内容が内容でも大きなリアクションをとることはない。相変わらずゆったり話す。泰然としている。

笠智衆の芝居は一見すると「これ台本の棒読みじゃないの?」 と思うこともある。

 

が、あの口調、抑揚、表情、眼差しはいつまでたっても心に引っかかり、結局鑑賞し終わった後、最も印象に残る役者がこの人になる。

『浮草』を観て思ったのは、端役でもそうなんだ、ということ。結局、この人が最後に持っていくのだ。

 

映画『浮草』より

映画『浮草』より

 

私は二人の会話の内容にも軽く衝撃を受けた。この時代は死が日常にあるのだ、と。

と、思ったが鑑賞し終えてしばらく経つと、自分はもっと深いところで驚きを感じたのだと気付いた。

 

というのは、旅役者とは同じメンバーで同じ公演内容を繰り返す人たちだ。ただ場所が移り変わるだけで、年がら年中同じことを繰り返している。

 

が、時には仲間の急死という「非日常」に遭遇する。今と同じ延長線上に未来があるわけでは、ない。

その、いわば当たり前の事実に気付いて、驚きを感じたのだと思う。

 

 

<『浮草』の着目点2 顔が違う杉村春子>

お芳を演じる杉村春子さんが画面に登場したとき、ひどく驚いた。

まるで顔が違ったからだ。

 

『東京物語』の志げが、言い方は悪いが“クソババア”であるのに対し、本作のお芳は、優しくて実直な役柄。

それが表情一発で理解できた。

すごいと感じずにはいられない瞬間だった。

 

映画『浮草』より

 

お芳の、いわゆる“良妻賢母”のキャラクターがいたから、すみ子(京マチコ)のプライドの高さと美しさが際立つのだ。

 

『東京物語』のときだってそうだった。

志げというキャラがいたから、紀子と原節子が神の如き存在になり得たのだ。

そんなことくらい、わかっていたさ。

 

杉村春子がいたから、原節子と京マチコは光り輝いたのだ。

 

 

<『浮草』の着目点3 中村鴈治郎vs京マチ子 史上最高の言い争い 大雨の降りしきる軒下にて>

同作品で最も有名なのが、大雨の軒下での中村鴈治郎vs京マチ子の言い争い、というか罵り合いである。

 

映画『浮草』より

この表情、最高! 映画『浮草』より

この表情、最高!! 映画『浮草』より

 

私は過去に創作物でこのようなシーンを見たことがない。類似のシーンも見たことがない。

絵画的でもある。セリフもいい。信じられない。

 

本作品を初めて観たとき、私は電車での移動中にスマホで観始めた(長時間移動中に私はよくこういうことをする)。正直に言うと、序盤はあまり真剣に観ていなかった。

だがこの雨中のシーンから、加速度的に惹き込まれていった(遅いよ!)

 

そして思った。

この作品は最初から最後まで真剣に観なきゃダメだ!

と。

そんなわけで、最後まで観終わった後すぐに、また始めから再生するはめになったのだった。

 

この雨中のシーンに至るまで、例えば駒十郎と清は再会したときどんな会話を交わしてたっけ、中村鴈治郎はどんな表情をしていたっけ、と。

 

映画『浮草』より

 

使い古された表現だけれど、

銀幕の中のスターというのは、永遠に輝き続けるのだなぁ

とこのシーンを見てしみじみ思う。

この2人だけじゃなく、現在では主要キャストのうち若尾文子さん以外はみな鬼籍に入られた。

本作は、65年前の映画である。

 

 

<『浮草』の着目点4 季節は夏>

本作の季節は夏である。この設定は抜群にいい。やっぱり志摩には夏が似合う。

 

作中、登場人物たちが扇子やうちわで扇ぐシーンがたくさん出てくる。

うちわをパタパタパタパタ、パタパタパタパタ扇ぐ。

私はこれがいやに気になった。これも小津監督の演出だろうと思った。暑い夏を表現するための。

 

映画『浮草』より

映画『浮草』より

 

しかし考えるとこの時代にはクーラーも扇風機もない。

するとこのように、どこもかしこも人々がうちわをパタパタ扇いでいる光景は、当時の日常だったのかもしれない。特別な演出などではなく。

1950年代が舞台なのだ。私は遠い昔に思いを馳せた。

 

映画『浮草』より

映画『浮草』より

 

本作における”季節”に関して。あらすじでも記したようにラストシーンは夜の寂しい木造駅舎で汽車を待つ駒十郎とすみ子だ。このシーンは二人のセリフが少ないから必然、バックの音が際立つ。夜の闇から聞こえてくるのは虫の音だ。もう、秋が近いのだ。

 

夏から秋へ。新しい季節がやって来るのと同時に、駒十郎(とすみ子)もまた、これから彼の新たな人生が始まることを示唆して物語は終わるのである。

 

 

<『浮草』の着目点5 物語の舞台は三重県>

三重県出身の小津監督が唯一、三重県を舞台にして描いた作品。

 

ロケは志摩市の大王町などで行われたそうだ。

一座がフェリーに乗ってやって来る。青い海と大王崎の灯台。登場人物たちの着物の色。

冒頭から、思わず私は「えっ!?」と驚いた。

色彩が美しすぎる。

確かに『東京物語』はモノクロであるのに対して本作はカラー映画。けれど"デジタルリマスター版"だから、というそんな理屈ではない。

これが小津監督の手腕と技量なのだ。

「◯◯万画素」のように昨今の(デジタル)カメラのスペックを謳う文句も、小津監督の前には無意味だ。

 

本作には1950年台の志摩市の美しい風景が映し出されている。

 

映画『浮草』より

映画『浮草』より

私は三重県に越して来る前、たまたま観光で大王崎に来たことがあった

大王崎灯台から見る風景

 

ラストシーンの木造駅舎は、玉城(たまき)町の田丸駅とのことだ。

 

ラストシーン 映画『浮草』より

映画『浮草』より

 

一座の次の講演先は新宮の予定だった。ラストに駒十郎がツテを頼って向かう先は桑名(Ep.31など参照)だ。

 

そして極め付けは一座の解散シーン。

駒十郎が若手団員の一人に尋ねる。

「○○はこれからどうするんや?」

「前の主人のとこでまたお世話になろう思います」

「確か一身田の松の湯やったな」

 

私は思わずニヤッとした。

「一身田(いしんでん)」なんて地名が出てきたところで、三重県外の人にはまず伝わらない。

津市の一身田は真宗高田派の本山、専修寺(Ep.55参照。津市大門の津観音には小津監督の記念碑もある)があり、自治都市として発展した経緯のある津市の中でも格調高いエリアである。小津監督の母方の親戚は津なので、このあたりはよく知っていたのだろう。

 

あらためてこの映画の舞台は三重県なのだ。

小津監督のふるさとへの強い想いも入っていたはずだ。

 

実は私がこの映画の存在を知ったのも、小津監督の生誕120年、没後60年を記念して志摩市で上映会が行われるという地元の新聞記事だった。(2024年1月23日。中日新聞)

 

小津安二郎の最高傑作『浮草』。

それは、これからもずっと、この地で愛されていくのだろう。

 

 

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『浮草』“Floating Weeds” by Ozu Yasujiro

Ep.222

One of the greatest movie director, Ozu Yasujiro (1903-1963) was from Matsusaka, Mie.

“浮草 Floating Weeds” is an only his film which is set in Mie and human drama regarding to itinerant entertainer.

What was shown in this fantastic film was beautiful nature and sight in Shima region, 1950’s.

 

https://eiga.com/movie/34865/

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AE%E8%8D%89_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B4%A5%E5%AE%89%E4%BA%8C%E9%83%8E

https://www.chunichi.co.jp/article/842003

 

 

桑名鋳物

Ep.221

鋳物(いもの)

溶かした金属を鋳型(いがた)に流し込んで固めるその製造方法と製品の総称。

 

鋳物の製造 イメージ OTONAMIEより

鋳物製品 桑名市HPより

 

桑名市はその鋳物の伝統的な産地だ。

歴史は古く、なんと初代桑名藩主・本多忠勝が鉄砲の生産を命じたことに始まるらしい。

 

桑名の本多忠勝像

 

原料に用いる高品質な「砂」をとなりの朝日町から供給できたため、桑名の鋳物はますます躍進。明治から大正にかけては「東の川口、西の桑名」と称されたらしい。

(埼玉県川口市も鋳物の街として有名だ。)

 

戦後も高度成長により近代化が加速。工業製品や建設材料の増大に伴い更に発展したが、近年は生産高が減少を続け、生産者の高齢化もあり同産業を取り巻く状況は厳しさを増しているようだ。

 

マンホールも鋳物 「七里の渡し」 桑名市のデザインマンホール その1 Ep.134参照

「蛤」 桑名市のデザインマンホール その2

「桑名の千羽鶴」 桑名市のデザインマンホール その3

 

今では「桑名鋳物」として三重県指定伝統工芸品に数えられるが、それこそ産業が衰退して関係者が危機感を抱いている証左である。

 

桑名市では「暮らしに身近な鋳物」というコンセプトを打ち出して日用品の製造を奨励。現在に至る。

(以上、桑名市HPより)

 

蚊 ダスキン HPより

 

蚊に悩まされるのは夏の常だと思っていたが彼らには「活動高度」があることを最近新聞で知った。

いやそんなこと考えればその通りなのだが。

一般的な「家蚊」は地上1〜3m、「ヤブ蚊」は地上1〜10mという。

すると高層マンションやタワマンの上階住民たちは蚊に悩まされることはないのだなぁ。

 

だが、私の住まいはあいにくそうじゃない。

今夏、部屋に蚊がいたので蚊取り線香を使うことにした。

いつぶりだろう、これを使うのは。

 

蚊取り線香 wakoreより

 

そして先述の桑名鋳物の登場である。

ふるさと納税サイトで(株)マルデ鋳器の「蚊やり器」があった。

同社は現在の住所こそいなべ市だが桑名鋳物を代表するメーカーで、業務用ガスコンロが主力である。

CTY(北勢地域のケーブルテレビ)の「地域のチカラ 〜このまちのビジネス最前線〜」(23年12月放送)で紹介されていた。

 

鋳物のガスコンロ(イメージ) 厨房リサイクルより

マルデ鋳器 いなべ市HPより

 

同社の蚊やり器は桑名市が奨励した日用品鋳物の一つ。

それにしても蚊やり器。なんて素晴らしい着想だろう。

デザインも洗練されている。

いつも蚊取り線香を使っていたい、と思わせる一品だった。

 

桑名市の伝統産業、鋳物は私たちの身近なモノにも活躍の場を広げている。

 

 

ところで余談だが、蚊やり器といえばとなり町である四日市の萬古焼(Ep.23、24など参照)も有名だ。

実は蚊やり器におけるシェアNo.1は萬古焼なのだ。

 

じばさん三重(Ep.140など参照)には、「日本一巨大な蚊やり器」がある。

ぜひ一度ご覧あれ。

 

四日市の「じばさん三重」にある日本一の蚊やり豚

 

 

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Casting Products in Kuwana

Ep.221

Kuwana has been famous for casting products for long time, but their production is declining due to aging of manufacturers.

So, Kuwana city established it as “Kuwana Casting Products” and encouraged to make daily products like a “pottery mosquito coil holder”!?

What innovative this idea is!  Thus we can be familiar with their special crafts.

 

https://www.city.kuwana.lg.jp/shoko/shigoto/sangyou/26-11395-281-622.html

http://www.kuwana.ne.jp/m-imono/kwimono/

https://www.pref.mie.lg.jp/CHISHI/HP/72503045146_00001.htm

https://marude-chuki.co.jp/

https://ctycns-streaming.evv.jp/

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