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龍造寺政家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
龍造寺 政家 / 鎮賢
龍造寺政家像(佐賀県教育委員会蔵)
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 弘治2年(1556年
死没 慶長12年10月2日1607年11月21日
改名 長法師丸(幼名)[1]、鎮賢(初名[1])、久家、政家[1]
別名 太郎四郎(通称)[1]
戒名 龍洞院殿大雲宗長大居士
墓所 佐賀県佐賀市本庄町の高伝寺
官位 従五位下民部大輔[1]従四位下侍従[1]肥前守
主君 豊臣秀吉
氏族 龍造寺氏
父母 龍造寺隆信[1]龍造寺家門[1]
兄弟 政家隆平江上家種後藤家信、玉鶴姫
有馬義貞
安姫、松壽院、高房、波多弥太郎、
村田安良佐野雅義犬塚家重
鍋島孝顕
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龍造寺 政家(りゅうぞうじ まさいえ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将肥前国戦国大名。戦国大名としての龍造寺氏最後の当主。官位従四位下侍従肥前守

生涯

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弘治2年(1556年)、肥前国の戦国大名・龍造寺隆信の嫡男として誕生[1]永禄4年(1561年)に元服し、近隣の強大勢力・大友義鎮(宗麟)から偏諱(「鎮」の字)を賜って鎮賢(しげとも、通称は太郎四郎)と名乗った[1]。のちに久家(ひさいえ)、政家と改名。

天正6年(1578年)に父から家督を譲られるが、形式的な家督相続であり、政治・軍事の実権は隆信が握り続けたままであった。天正12年(1584年)に有馬晴信が龍造寺氏から離反すると、父から有馬氏討伐を命じられた。しかし、正室が有馬氏の出身でこれに消極的であったため、隆信自ら有馬討伐に向かい、政家は留守を守った。この有馬攻めの最中、隆信は沖田畷の戦いで戦死する。

父の死後、祖母と共に国政を行うが、島津氏が来襲するという流言があり、政家の叔父・信周は宿老と相談して鍋島直茂を柳河より呼び戻した[2]。また、隆信の死で勢いづいた島津氏の侵攻は如何ともしがたく、政家は島津氏に降った。

天正15年(1587年)、交誼のあった豊臣秀吉により嫡男の長法師は藤八郎と改名された[3]。さらに九州平定により、龍造寺政家は肥前国7郡30万9902石を安堵されたが、朱印状は龍造寺高房(藤八郎)宛となっている。重臣の鍋島直茂はそのうち3万石余(直茂と子の勝茂の合計高4万4500石)を与えられ[4]ている。

政家は秀吉から肥前国のうち7郡を与えられた[5]訳であるが、政家はこれに不満を感じたのか九州平定後に肥後で肥後国人一揆が起こって秀吉からその鎮定を命じられた際に出兵しなかった。これにより秀吉は政家を罰しようとしたが、この時鍋島直茂の弁解により、事無きを得た[6]。こうした経緯があったためか、秀吉は鍋島直茂に政家に代わって国政を担うよう命じている[1]

天正16年(1588年)、政家は羽柴の名字と豊臣姓を下賜された[7]

病のため政家は隠居し、天正16年(1591年)11月28日、政家は鍋島直茂を養子とし、藤八郎(後の高房)を直茂の養子とした上で羽柴の姓が与えられた。

関ヶ原で龍造寺氏は西軍に属したが(鍋島勝茂伏見城攻めや安濃津城攻めに西軍主力として参加)、同じ西軍の立花宗茂を攻略することで所領を安堵された。

慶長12年(1607年)3月に子・高房は江戸で室を刺殺し自身も自殺未遂を起こしこれが元で死去[8]。同年に政家も後を追うように死去したため、これにより大名としての龍造寺宗家は断絶した。

その後は、鍋島氏が高房の死により35万7千石の朱印高を幕府に公認され、佐賀藩として龍造寺の遺領を継承していく。

人物像

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  • 九州平定の際に秀吉と碁の勝負をして敗れ、盤面を見つめて敗因を考え込んでいたため、秀吉が帰る際の見送りを忘れたという言い伝えがある。
  • 団扇型の印章を使用しており、格の高い相手には朱印、格下の相手には黒印と明確に使い分けていた[9]

系譜

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 系図纂要』。
  2. ^ 川副 2006, p. 362.
  3. ^ 川副 2006, p. 364.
  4. ^ 「龍造寺高房宛て豊臣秀吉朱印状写 (龍造寺藤八郎知行割之事)」(公益財団法人鍋島報效会)
  5. ^ 肥前国では、降伏した有馬氏の他に大村・松浦(平戸)・五島らが所領安堵されている。
  6. ^ 川副 2006, p. 363.
  7. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年、29・38頁頁。 
  8. ^ 川副 2006, p. 365.
  9. ^ 鈴木敦子 著「肥前国における戦国期の印章使用」、有光友学 編『戦国期印章・印判状の研究』岩田書院、2006年。 

出典

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書籍
  • 川副博、川副義敦(考訂)『五州二島の太守龍造寺隆信』佐賀新聞社、2006年。 
史料