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青山幸宜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
青山幸宜
時代 江戸時代後期 - 昭和時代
生誕 嘉永7年11月20日1855年1月8日
死没 昭和5年(1930年2月6日
改名 峯之助(幼名)、幸宜
戒名 院殿翼齋大居士
墓所 東京都港区南青山梅窓院浄土宗
官位 従五位下大膳亮子爵
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜明治天皇大正天皇昭和天皇
美濃郡上藩
氏族 青山氏
父母 父:青山幸哉、養母:戸田氏庸の娘
兄弟 幸宜、澄子、禄子、錫子、鈎子
定子広幡忠礼の娘)
待子井伊直弼の娘)
文子藤堂高邦の娘)
幸正、幸直幸泰岩城隆徳、幸高、中井幸敬、孝子
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青山 幸宜(あおやま ゆきよし)は、江戸時代末期の大名美濃国郡上藩第7代(最後)の藩主。幸成系青山家11代。明治維新後は華族子爵)に列し、貴族院議員を務めた。

生涯

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嘉永7年(1854年)、6代藩主・青山幸哉の長男として誕生した。文久3年(1863年)、父の死去により家督を継ぐ。

元治元年(1864年)、天狗党の乱では幕命に従って鎮圧のために出兵したが、天狗党が既に通過した後だったために戦うことなく終わっている。幕末期の郡上藩では、佐幕派と尊王派が対立し、幸宜も消極的ながら佐幕派として行動していたが、慶応4年(1868年)に戊辰戦争が始まると、2月に新政府に恭順している。しかし家老の朝比奈藤兵衛の子・朝比奈茂吉凌霜隊を結成して脱藩し、幕府側に味方して会津若松城で戦うなどしている。

明治2年(1869年)の版籍奉還で郡上藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で免職された。明治17年(1884年)の華族令制定に伴い、同年7月8日に子爵を叙爵[1]。その後は実業家として活動、日本印刷社長、岩倉鉄道学校理事などを務めた[2]1890年(明治23年)7月10日に貴族院議員に就任し[2][3]、1925年(大正14年)7月9日まで5期在任した[3]。このほか、赤坂区会議員[3]東京市会議員を務めた[4]

昭和5年(1930年)2月6日に死去。享年77。

栄典

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人物

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市川米庵に書を学び、多くの名筆を残したといわれる。
幸宜の従兄弟で、旧篠山藩主子弟の青山忠誠が藩内の子弟(のちに兵庫県居住者の子弟)のために東京に建てた寄宿舎尚志館には、幸宜によって書かれた看板が現在も残っている。[7]

系譜

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父母

子女

長男の幸正は、父に先立って1904年に死去した[13]。幸宜の跡は次男の幸直が継ぎ、幸直が1947年7月に没すると長男の幸壽が跡を継ぐ[13]。幸壽は1986年に没した[13]

六男の幸高は、陸軍勤務の後、戦後は日本で初めて競馬馬の輸送自動車会社を起こした。ローマオリンピックの日本馬術競技の監督、日本馬術連盟理事などを歴任している。七男の幸敬は陸軍獣医学校教官など陸軍畑で活躍後、戦後は会社経営に携わった。

脚注

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  1. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  2. ^ a b 青山幸宜”. 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2014年3月19日閲覧。
  3. ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』33頁。
  4. ^ 制限選挙期における東京市会議員総選挙の結果について(櫻井良樹)
  5. ^ 『太政官日誌』明治6年、第157号
  6. ^ 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
  7. ^ 尚志館”. 2021年12月13日閲覧。
  8. ^ 読みはゆきまさ
  9. ^ 読みはゆきなお
  10. ^ 読みはゆきたか
  11. ^ 名はゆきひろ、中井に改姓、のち復姓
  12. ^ 名はゆきなが
  13. ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成』上、pp.8-9

出典

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  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 霞会館 華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上、霞会館、1996年。

外部リンク

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日本の爵位
先代
叙爵
子爵
郡上青山家初代
1884年 - 1930年
次代
青山幸直