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露梁海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
露梁海戦
地図
戦争慶長の役
年月日慶長3年11月18日(明暦11月19日/1598年12月16日
場所:朝鮮国慶尚道露梁津
結果
文禄·慶長の役の終結
交戦勢力
豊臣政権
朝鮮国
指導者・指揮官
島津義弘
立花宗茂
宗義智
高橋直次
小早川秀包
筑紫広門[1]
寺沢広高
明軍
陳璘
陳蠶
鄧子龍 
朝鮮軍
李舜臣 
李純信
李英男 
方徳龍 
高得蒋 
李彦良 
戦力
17500人,電線300~500隻 朝鮮 兵士7,328人,板玉線60隻 明 18,000人~20,000人,電線300~500隻※『先祖実録』記録
損害
7000名~13000名 (日本側の記録で作成せず、朝鮮側の記録で数千人、中国側の記録で13000人), 電線200隻(日本と中国、朝鮮の記録で交差検証完了) 不詳
文禄・慶長の役

露梁海戦(ろりょうかいせん)は、慶長の役における最後の大規模海戦である。文禄の役に続く豊臣秀吉による再度の朝鮮侵略が慶長の役であり、明側と日本側ではたびたび講和交渉が行われていた。 かつて文禄の役での講和は日本側(豊臣秀吉)によって破られていたが、豊臣秀吉が死去したことにより徳川家康を始めとした五大老は明との講和を図った。 しかしこの講和は条約でもなく日本側が一方的に朝鮮から軍を引くという言質を明に与えただけのもので、かねてより日本側に不信感を持つ明は三度の朝鮮侵略を許すわけにはいかず、明・朝鮮が奪われた城を奪回するために軍を押し出す形となった。

露梁津は、南海島と半島本土との間にある海峡の地名で、朝鮮水軍の主将李舜臣はこの戦いで戦死した。韓国では露梁大捷[2]と呼ばれ、朝鮮・明連合水軍が日本軍に大勝した戦いとされるが、日本側の文献では成功した作戦として記述されている。両軍の戦力および損害については不詳の点が多く隻数については異説がある。

海戦の背景

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慶長3年(1598年)、日本軍最左翼の要衝である順天城守備の小西行長らは南下してきた明・朝鮮軍の9月19日から10月4日にわたる陸海からの攻撃を退け、10月9日には明・朝鮮水軍も拠点であった古今島へ退いた(順天城の戦い)。その後、豊臣秀吉死去に伴う帰国方針が朝鮮在陣の日本軍に伝えられ釜山へ撤退することとなった。にもかかわらず、李舜臣を筆頭に判断を誤った朝鮮軍によって、以後露梁海戦が始まる。

既に撤退のため巨済島に集結を終えていた島津義弘宗義智立花宗茂(当時の名乗りは親成)、高橋直次小早川秀包筑紫広門(上野介広門の子・主水正広門。当時の名乗りは茂成)らの左軍諸将や撤退の差配に出向いていた寺沢広高(正成)はそれを知り、急遽五百隻(三百隻とも言う)の兵船を仕立て、救援のため17日の夜、順天へと向かった。これを知った明・朝鮮水軍も迎撃するため封鎖を解き露梁津へと東進した。

戦闘の経過

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18日未明、露梁津を抜けようとした日本軍は南海島北西の小島、竹島の陰に潜んだ明水軍と同じく南海島北西の湾、観音浦に潜んだ朝鮮水軍とに出口で待ち伏せされ、南北から挟撃される形で戦闘が始まった。島津の将樺山久高率いる一帯は海峡突破に成功したが、これは朝明連合軍側の誘引策であり、 本隊と分断され、当初朝鮮水軍が待ち伏せしていた観音浦に逆に押し寄せ、浅い瀬に座礁して船を失い、徒歩で南海道を横断して東岸に脱出しなければならない状況も起きた。主将の島津義弘の乗船も潮に流されて後落し、敵船から熊手などを掛けられ切り込まれそうになる窮地に陥り、他家の救援も得てようやく脱出できたと伝えられる。退路のない観音浦に誤って入ってきたことに気づいた島津側は脱出を試みたが、連合軍は風が陸地に吹いてくるのを利用して火矢と藁の山を投げて島津側の船体に火をつけた。

この戦いについて、島津家臣の川上久国は自身の日記で海戦にも敵の偵察を用心し、善戦した立花高橋軍に比べ自軍の死傷甚大を嘆いていると記述した、また、宗茂は朝鮮船六十隻を捕獲して日本軍の撤退に用いた[3]。 この渦中に朝明連合軍が援軍を攻撃する隙間に乗った小西は脱出に成功し、島津側は包囲攻撃を突破するために朝明連合軍包囲網を突破しようと試みる。 このように戦況は日本軍に不利であり、夜が明けるころには大勢は決し、日本側の撤退により戦闘は終結した。[4]

明・朝鮮側資料では勝利を強調しているが、明・朝鮮軍側では、明軍の副将鄧子龍や朝鮮軍の主将李舜臣、さらに李英男(加里浦僉使)、方徳龍(樂安郡守)、高得蒋(興陽県監)、李彦良といった将官が戦死し、一時突出した明軍の主将陳璘も日本軍の包囲から危うく逃れたとされ、明・朝鮮水軍が退却する日本軍を追撃したり、あるいは再び順天を封鎖することは適わなかった。日本軍側に将官クラスの戦死者はおらず、主力の島津軍戦死者数も征韓録では実名を26名あげ、高麗軍覚でも実名を39名を載せ50余人が戦死したとし、その他の日本軍の戦死者数を加えても損害は100人に満たないと推定されている。


しかし、朝鮮王朝実録3月7日の記録から明朝側から露梁海戦で200隻以上の軍艦を壊し、13000人の倭軍を殺害したという記録が発見され、日本側の記録である征韓国偉略では島津の軍艦200隻が破壊されたという記録から見て、実際に韓中日三国の交差検証が行われる事実で200隻の日本軍艦が破壊された可能性が高いという意見があるが、征韓偉略は江戸時代後期の著作であり、朝鮮王朝実録の記述を単に受け入れただけに過ぎない可能性が高い。島津の軍艦が200隻破壊されれば、その直後に10万人の日本軍が大勢の朝鮮人を乗せて帰国する事は不可能であるから、この信用性は著しく低い。

また、既存に日本軍26人死亡という記録も、原文には名前がある人物26人という意味であり、死亡者の数字を意味するものではない。 また別の日本側記録である高麗軍秘錄には朝鮮水軍に襲撃を受けた日本水軍が無秩序に崩れ逃げたという記録も発見され、現在学界では該当戦闘で数千人以上の日本軍が被害を受けたというのが定説だと言う意見があるが、そのような被害があれば露梁海戦の僅か1週間後に10万人の日本軍が大勢の朝鮮人を乗せて帰国した事実と矛盾する。元々日本水軍は1万人程度であり、数千人の被害が水軍にあれば船の運用は不可能であるからだ。日本軍の迅速な帰国は、日本水軍に相当数の船と水夫が残っていた証拠である。それに加えて、日本水軍は朝鮮軍から奪った船も帰国に利用した[3]

また、既存の研究を通じて作成された露梁海戦のウィキで日本軍が被害を軽微に被ったという朝鮮側の文献は実際には存在しない文書であり、露梁海戦が発生する200年前の太宗実録を偽りで貼った。 また、11月18日の朝鮮王朝実録で日本軍の被害が低かったという記録も捏造だ。 露梁海戦は11月19日に発生した。 11月18日の朝鮮王朝実録は、皇太子の見舞いと官僚たちの会議の内容である

朝鮮王朝実録では、李舜臣の死亡により3日間の収拾期間以後、正確に宣祖実録31年、旧暦11月24日と宣祖実録31年、旧暦11月27日にそれぞれ朝鮮側と明側で記録した日本軍の被害現況に関する内容だけで、朝鮮側は数千人、明は13,000人と記録した。 共通しては軍艦200隻が破壊されたと記録し、これは日本側でもクロスチェックとなったと言う意見も、前述のとおり日本側の著作自体が後年の物であるから、誤りである。

正確な数字については、少なくとも数千人から最大10,000人と学界では推定しているが、当該戦闘に参戦した大名たちの兵力は上陸当時に17500人であり、現地で死んだ兵士たちを合わせれば実際の参戦した兵力推算は10,000人程度と推定される。 ただ、現地で拉致した朝鮮人の奴隷や捕虜の数を合わせれば、数はさらに増える可能性があると言う意見は意味不明である。日本軍の総勢は15万人以上、帰国時に10万人である。これに10万人程度の朝鮮人民衆がその意志はともかく、日本軍の帰国時に乗船した。(10万人が日本に復帰したという根拠は存在しないため、正確な1次資料を要求します。)と言う要求に対する答えは以下の通り。日本軍の総勢は15万人であり、死者が5万人程度であったことは、「完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇II」より、ルイス・フロイスらが「百方手を尽くして」情報収集した結果、「もっとも信頼でき、かつ正確」だと判断した数字である。死因については「敵によって殺された者はわずかであり、大部分の者は、まったく、労苦、飢餓、寒気、および疾病によって死亡したのである」と記している。


朝鮮側史料

  • 1598年12月16日(宣祖31年、旧暦11月24日、乙巳) 倭敵の軍艦100隻を捕獲し、200隻を燃やし、500級を斬首し、180人を生け捕りにした。 溺れて死んだ者はいまだに浮かび上がらず、その数字が分からない。 李舜臣(イ·スンシン)が死亡した。
  • 1598年12月19日(宣祖31年、旧暦11月27日、武臣) 日本軍の軍艦300隻が力を合わせて露梁に到着すると、李舜臣が水軍を率いてすぐに出て戦い、中国の軍事も力を合わせて進撃すると、倭敵が大敗して水に溺れて死んだ者は数え切れない、倭船200隻余りが壊れて死んで負傷した者が数千人余り。 倭敵の死体と壊れた船の木の板·武器または衣服などが海を覆って浮いていて水が流れず、海水が一面に赤くなりました。
  • 1599年3月11日( 宣祖32年、旧暦3月11日) 陳提督彼は「露梁の戦いで勝帖をおさめる時、倭奴の死者が1万3千人だ」(中国側記録)と話した

日本側史料

  • 『征韓偉略』日本側の隊長船さえ破壊され、やっと小さな軍艦に乗って生存した島津をはじめ200隻が全壊した。
  • 『高麗軍秘錄』:攻撃を受けた日本軍が無秩序に散らばって逃げた (日本方 被成御打負 御船散散罷成候 維新公 御召船誠御難儀候)

学術論文

  • 池宮彰宏「露梁海戦における日本軍の損害について」 (『朝鮮学報』第180輯、2000年):朝鮮側日本側史料比較検討 し、日本軍損害100名満たない推定 している。
  • 矢田敏雄「露梁海戦の様相と教訓」 (『軍事史学』第34巻第2号、2005年):考古学 的な 調査科学 的な 分析 を基に、露梁海戦戦闘状況分析 し、日本軍損害朝鮮側史料記載 されている 数字ほぼ一致 すると 結論 づけ ている。
  • 金成基「露梁海戦における明・朝鮮水軍の戦術」 (『東アジア研究』第22号、2009年):明・朝鮮水軍視点 から 露梁海戦分析 し、日本軍損害朝鮮側史料記載 されている 数字ほぼ一致 すると 指摘 している。

これらの史料研究成果 に基づいて、露梁海戦 における 日本軍損害7000~10000名推定 されていると言う意見があるが、信ぴょう性はない。露梁海戦は水軍の戦闘であり、元々日本水軍は1万人程度であったことから、もし大きな被害が出ていれば、日本軍の帰国は不可能であった。実際には露梁海戦の1週間後には日本軍は帰国を完了しているから、日本水軍は多くの船と水夫を維持していたはずである。さらに宗茂などが朝鮮軍から奪った船も帰国に使用したと考えるのが合理的である。それが無ければ、日本軍10万人と朝鮮人数万~10万人を短期間に日本に渡航させることは不可能だからだ。10万人が日本に復帰したという根拠は存在しないため、正確な1次資料を要求します。と言う要求に対する答えは以下の通り。日本軍の総勢は15万人であり、死者が5万人程度であったことは、「完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇II」より、ルイス・フロイスらが「百方手を尽くして」情報収集した結果、「もっとも信頼でき、かつ正確」だと判断した数字である。死因については「敵によって殺された者はわずかであり、大部分の者は、まったく、労苦、飢餓、寒気、および疾病によって死亡したのである」と記している。

海戦後の経緯

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順天倭城の小西軍は封鎖が解けたのを見て、19日早朝に順天倭城を船出し、海戦の生じた朝鮮半島南部と南海島北部の海峡ルートを避け、南海島の南を大きく迂回して翌20日に、無事巨済島に到着した。小西軍が露梁海戦に参加することは無かった。同じく20日、南海島に残った樺山ら約五百の島津兵も順次海路を使って収容し、西部方面の日本軍は撤退を完了する。

結果

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死舜臣破生倭(《先祖実録》先祖31年(1598年)11月27日記事)

倭軍船約200隻を撃沈し、死傷者が数千人。(先祖実録巻106 先祖31年11月。左議定のイ・ドクヒョンが戦闘が終わった現場を調査して上げた報告)

文献では双方が勝利として記述している。しかし明・朝鮮側は、待ち伏せであったにもかかわらず、結局は小西行長軍を取り逃がしてしまった上に、日本側の将クラスの首級を一つも挙げられず、逆に李舜臣鄧子龍、李英男、方徳龍、高得蒋、李彦良ら諸将を戦死させて失った。一方、日本側は小西軍の撤兵は成功させたものの、夜間の待ち伏せから開始された戦闘は終始不利であった。双方の部隊とも被害は甚大で、痛み分けであったといえるが、戦術的には苦戦を強いられた日本軍の勇戦がめだち、殿(しんがり)の任を果たして血路を開いて脱出して、多数の捕虜を得ようとしていた明・朝鮮側の戦略の意図を破綻させた。

この海戦の結果、豊臣軍は朝鮮の侵略に失敗。 豊臣秀吉の求心力の低下をもたらし、のちに関ヶ原で西軍が大敗し豊臣家が滅亡する遠因になった。 李氏朝鮮は国亡の危機を脱しその後400年続いた。他国の侵略に対して命を賭して国を守護した李舜臣は国防の英雄として奉られている。

備考

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参加兵力について

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日本側兵力は五百隻とも三百隻とも言われるが、どちらも日本側史料によるものではなくその実数や構成・兵数は不詳である。参考としては、五家の動員定数は合計1万7千ほど(島津1万、立花5千、宗1千、高橋5百、寺沢1千[5])であったが、実際の動員数はその八割程度とする見方があり[6]、文禄の役においては島津勢の非戦闘員の割合は約4割であり [7]、立花勢の非戦闘員の割合は約5割であった[8]。 さらにそれまでの損耗と後方警備・撤退準備などのために巨済島等に残置した兵力もあるであろうと考えると、日本側の兵力は多く見積もっても1万を超えることはなかったのではないかと推測される。また、参加諸将は水軍の将ではないため、正規の軍船主体ではなく、各家の保有していた大小様々な兵站用の運送船を流用したものと考えるのが妥当と思われる。当時の和船は船体の構造的には軍船と運送船との大きな違いはなかったが、当然ながら上部の楯板などの装甲の有無という違いがある。この海戦では明・朝鮮軍の使用する投擲火器の効果が大であったとされており、その点も運送船の軍船流用を示しているように考えられる。なお、損失は二百隻(「朝鮮王朝実録[9]」、「懲毖録[10]」)とされる場合が多いが、これも日本側の記録によるものではない。島津家の公式記録『征韓録』には、船舶の損害について「夥し」とあるものの具体的な数字は上げられておらず、戦死者も二六名の名を挙げ「其外戦死の人々多し」とあるのみである。

明・朝鮮水軍についても具体的な参加兵力は不詳であるが、明水軍については『明史』に派遣の際に陳璘に与えられた兵力として兵一万三千余、戦艦数百とあり、さらに『乱中日記』に順天城攻めの最中に明水軍遊撃将王元周らが百余隻を率いて着到した記述がある。(ただし、これが当初の兵数に含まれるのか増援なのかは不明である。)他方、日本側史料に海戦時のものとして明船五六百隻、朝鮮船百隻との数字を上げたもの[11]があり、参謀本部編纂の『日本戦史 朝鮮役』では合わせて五百隻の数字を採っている。朝鮮水軍については同時代史料である『懲毖録』に順天の戦い以前の兵数として八千余人とあり、また、『宣祖実録』に明水軍一万九千四百、朝鮮水軍七千三百二十八人とある。明・朝鮮軍を合わせると、順天での損耗を差し引いても本会戦の参加兵力は一万数千から二万程度になり、日本軍の兵力に対し概ね二倍程度の優位にあったことになろう。なお、明・朝鮮軍の喪失数は、明・朝鮮側史料にあるのは戦果報告ばかりのため不詳だが、日本側史料には『征韓録』に朝鮮船四隻、明船二隻を切り捕らえたや、島津家臣の川上久国が『泗川御在陣記』に露梁海戦について、立花宗茂は朝鮮船六十隻を捕獲したと記述がある。

李舜臣の戦死について

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朝鮮の官僚である柳成龍が記した「懲毖録」では、李舜臣の死のことを『李舜臣は日本軍を大いに撃破し、これを追撃している最中に鉄砲の弾丸で戦死した』と記しているが[12][13]、同じ朝鮮側の文献である「乱中雑録」では「砲賊伏於船尾、向舜臣斉発、舜臣中丸、不省人事」(鉄砲を持った賊(倭人)が船尾に伏せており、舜臣に向け斉射したところ弾が当たり人事不省となった)と記述されている。中国の史料の「明史」では、『舜臣は鄧子龍を救援に赴き戦死した』とのみ記されている[14]

日本側文献の『征韓録』[15]によれば、小船で先出してきた鄧子龍が従卒二百余兵とともに討ち取られるのを救援に進出してきたところを和兵に囲まれ船を乗っ取られたとのみ記し、死に至る詳細については残されていない。

日本側捕虜について

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この海戦及びその前後の戦い前後に捕虜となった61名の日本兵(降倭)は、朝鮮側より明側に献納され、明の万暦27年(日本の慶長4年/1599年)に北京で全員が処刑された。同年4月、北京での降倭の献俘式に先だって、兵部尚書として明軍の責任者となった邢玠が万暦帝に上奏した『経略御倭奏議』の中に降倭に関する報告書「献俘疏」に次の内容がある。降倭のうち、特に重要とされたのは「平秀政」と「平正成」と呼ばれる人物で、前者は薩摩出身の島津義弘の族姪で京都で豊臣秀吉の養子になった後に朝鮮に派遣されたとされている。後者も当初前線からは島津氏の一族と報告されていたが兵部の役人の中から「秀吉の家臣である寺沢正成ではないのか?」と疑問を出されたために訂正をしたことが記されている。また、露梁海戦において石曼子の二兄(島津義弘)を討ち取って首を挙げ、「平秀政」と「平正成」に確認させたところ慟哭したという。だが、日本側の資料に「平秀政」に相当する人物は存在しておらず、また寺沢正成や島津義弘も無事帰還している。これは突然の日本軍撤退によって日本軍の主だった武将を1人も捕縛出来なかった責任を追及されることを恐れた明軍が事実関係を捏造して皇帝に成果を大袈裟に報告したものであると考えられている。また、献俘式で俘虜を皇帝に目通りさせる際に演出として敵軍の首魁とも言うべき大将級の俘虜を必要とした事情もあったと見られる。これとは別に対馬の住人・梯七大夫と同一人物と推定され、小西行長と李氏朝鮮の間を往復して和平工作に従事していた要時羅も海戦直前の6月に明将との会見中に捕縛されて明に送られたことが知ることが出来る。後に刑部・礼部の意見によって「平秀政」と「平正成」は凌遅処死、要時羅ほか残り59名全員が斬刑とされた[16]

関連作品

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脚注

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  1. ^ 『柳川市史・史料篇V・近世文書』(前編)P.240、佐田家文書A12より、秀包と広門の参戦が判明。
  2. ^ 大捷=大勝利の意味
  3. ^ a b 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第百八十七宗茂露梁の戦功)[1]
  4. ^ 参謀本部編纂『日本戦史 朝鮮役』本編418頁。また島津家の編纂史料である『征韓録』に、日本側の被害について「大明の舟よりは大石火壺を投入、日本の舟共を打破焼沈めなどする事夥し」、日本側が撤退を図ったことについては「去程に島津、寺沢、宗、高橋の軍兵は合戦を止、唐島に至て引退んとする」、さらに明船に取り付かれそれを撃退した義弘の乗船につき「此故に漸く唐島に至て引退く」と重ねての記述がある。
  5. ^ 寺沢正成は兵站を担当しており名護屋・壱岐・対馬・釜山などに分駐した。それらの総数は不詳だが、釜山の支城である丸山城での在番定数が一千である。
  6. ^ 『文禄・慶長の役』中野等/吉川弘文館 137頁 文禄の役において動員定数一万の小早川隆景軍の実数が八千ほどであった例が示されている。
  7. ^ 文禄の役における島津勢15,437人のうち6,565人 (43%) が人夫・水夫であった学研 編『文禄・慶長の役 : 東アジアを揺るがせた秀吉の野望』学研〈歴史群像シリーズ35〉、1993年、74頁。
  8. ^ 『文禄・慶長の役 : 東アジアを揺るがせた秀吉の野望』学研〈歴史群像シリーズ35〉、1993年
  9. ^ http://sillok.history.go.kr/popup/viewer.do?id=kna_13111027_005&type=view&reSearchWords=&reSearchWords_ime= 朝鮮王朝実録、"倭船二百餘隻敗沒, 死傷者累千餘名"
  10. ^ 懲毖録、"焚賊舟二百餘艘"
  11. ^ 『朝鮮征伐記』 鹿児島大学蔵
  12. ^ 『舜臣は、進撃して大いにこれを撃破し、賊船二百余艘を焼き払い、数えきれないほどの賊を殺獲し、(賊を)追いながら南海との界(=露梁)にまで至った。舜臣は危険をものともせず、みずから力戦していたが、飛来した弾丸がその胸に命中し背中に抜けた。左右の者が帳中に扶け入れた。舜臣は「戦いはまさに切迫している。くれぐれも私の死を知らせぬように」と言い、いい終わるや息絶えた。』東洋文庫「懲毖録」訳・朴鐘鳴
  13. ^ 『十月。劉提督再攻順天賊營。統制使李舜臣。以舟師大敗其救兵於海中。舜臣死之。賊將平行長。棄城而遁。釜山蔚山河東沿海賊屯悉退。時行長築城干順天居芮橋堅守。劉綎以大兵侵攻不利。還順天。既而復侵攻之。李舜臣與唐將陳璘。扼海口以逼之。行長求援於泗川賊沈安頓吾。頓吾從水路来援。舜臣進撃大破之。焚賊舟二百餘艘。殺獲無算。追至南海界。舜臣親犯矢石力戰。有飛丸中其胸出背後。左右扶入帳中。舜臣曰。戰方急。愼勿言我死。言訖而絶。』(朝鮮群書大系.懲毖録全、朝鮮古書刊行会・大正2年、国立国会図書館デジタル化資料)P.66、コマ番号P.36[2]
  14. ^ 他舟誤擲火器入子龍舟,舟中火,賊乘之,子龍戰死。舜臣赴救,亦死。
  15. ^ 『日本戦史・朝鮮役補伝』[3]
  16. ^ 久芳崇「明朝皇帝に献納された降倭 —『経略御倭奏議』を主要史料として—」(所収:『山根幸夫教授追悼記念論叢 明代中国の歴史的位相 下巻』(汲古書院、2007年) ISBN 978-4-7629-2814-7) P143-163。

文献情報

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座標: 北緯34度56分43秒 東経127度52分35秒 / 北緯34.94528度 東経127.87639度 / 34.94528; 127.87639