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間秀矩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
はざま 秀矩ひでのり
間秀矩肖像(1860年代1870年代頃撮影)
人物情報
全名 間半兵衛秀矩
別名 半兵衛(通称)
生誕 文政5年1月18日1822年2月9日[1]
日本の旗 日本美濃国(現・岐阜県
死没 明治9年(1876年1月23日
享年55(満53歳没)
国籍 日本の旗 日本
配偶者 おたに[2]
子供 間元矩[3]
園田みつ[注釈 1][3]
学問
時代 江戸時代末期明治時代
活動地域 美濃国
学派 平田派
研究分野 国学
影響を受けた人物 馬島靖庵
平田鐵胤
影響を与えた人物 島崎正樹
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間 秀矩(はざま ひでのり、文政5年1月18日1822年2月9日〉 - 明治9年〈1876年1月23日)は、幕末から明治時代にかけての国学者

山半間半兵衛家五代当主で中津川宿の問屋役。島崎藤村の小説「夜明け前」の「蜂谷香蔵」のモデルとなった人物である。通称半兵衛

人物

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文政5年(1822年)、美濃国酒造業の山半十八屋を営む家庭に生まれ、22歳で家を継ぎ中津川宿問屋と年寄役とを兼務する。安政4年(1857年)には本家(間杢右衛門家)8代当主の間喜矩から問屋(屋号・丸八星)[4]を分家の秀矩に譲った[5]
安政6年(1859年10月義兄)である馬島靖庵[注釈 2]紹介平田門に入門する[6]

長州中津川会談

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文久2年(1862年)に桂小五郎中津川宿を訪ねる。理由は、江戸から宿にやって来る長州藩主毛利敬親を待って、説得するためだった。その後、敬親が到着し桂小五郎・志道聞多福原越後世良孫槌らが3日間かけて敬親を説き伏せた結果、藩論は破約攘夷に変わり、長州藩は攘夷の道をひた走るようになった。この「長州中津川会談」を設定したのが秀矩と、同じく中津川宿の役人・市岡殷政だった。

この会談も、内容も関係者以外は秘密にしなければならなかった。だから、中津川宿を治めている尾張藩、さらには幕府に伝わることは、絶対にあってはならないことだった。

処分をおそれず、秘密を守って中津川会談を設定した殷政と秀矩は、この後長州藩士の攘夷派から信頼され、京都の秘密情報がそのネットワークから入って来るようになった。[3]

晩年

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文久3年2月23日1863年4月10日)、市岡殷政夫妻が平田銕胤延胤上京の知らせを聞き、秀矩は息子の亀吉や娘を連れて殷政と共に京都へ向かった。この前日に等持院事件が発生しており、関係者の逮捕・処刑がなされた。幸い、平田親子や秀矩などの門人たちは江戸に帰ることができた。

脚注

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出典

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注釈

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  1. ^ 園田市兵衛結婚
  2. ^ 天保7年(1836年)、中津川宿の秀矩の姉・の女婿(じょせい)となったが、かつての医術の師に私淑して生涯馬島姓を名乗った。