コンテンツにスキップ

金忠 (兵部尚書)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

金 忠(きん ちゅう、至正13年(1353年)- 永楽13年4月17日1415年5月25日))は、明代易者軍人は世忠。本貫明州鄞県

生涯

[編集]

金文英と馬氏のあいだの子として生まれた。若くして読書し、易による占いを得意とした。兄が通州での兵役で死去したため、金忠が代わって兵役につくことになった。任地に行く資金がなかったため、相者の袁珙が支援した。任地につくと、兵士として部隊に編入された。北平の市で占卜して、その占いの多くが的中したと評判になった。建文元年(1399年)、僧の道衍が燕王朱棣に金忠を紹介した。ときに朱棣は起兵しようとしており、病にかこつけて金忠を召し出して占卜させ、鑄印乗軒(果断に行動すべきで、天を継承することができる)の卦を得た。朱棣は占卜の結果を秘密とし、金忠は燕王府に出入りするようになった。朱棣は起兵計画の決定を金忠の占いの勧めるとおりにおこなった。燕王軍が起兵し靖難の変が起こると、金忠は燕王府紀善に任じられ、通州を守った。建文帝側の兵はたびたび通州の城を攻めたが、落とすことはできなかった。ほどなく金忠は朱棣に召し出されて側近に置かれ、諮問に答え、ときに計略を進言した。建文3年(1401年)、右長史に任じられ、軍務に参与し、朱棣の謀臣をつとめた。

建文4年(1402年)、朱棣(永楽帝)が皇帝に即位すると、金忠は王業を補佐した功績により、工部右侍郎に抜擢され、永楽帝の長男の朱高熾北京を守るのを補佐した。永楽2年(1404年)、南京に召還され、兵部尚書に進んだ。靖難の変のときに、永楽帝の次男の朱高煦が従軍して功績があり、丘福らをはじめとして朱高煦を太子に推す動きがあった。金忠はこれに反対し、嫡子をしりぞけて災難を呼んだ故事を列挙した。永楽帝がひそかに解縉黄淮尹昌隆と相談すると、解縉らは金忠の意見を支持した。朱高熾が皇太子に立てられ、金忠は東宮輔導官となり、兵部尚書のまま詹事府詹事を兼ねた。永楽6年(1408年)、皇太孫朱瞻基の輔導を兼ねるよう命じられた。

永楽11年(1413年)、永楽帝が北京に移ると、金忠は蹇義・黄淮・楊士奇とともに南京に留まって太子朱高熾の監国を補佐した。このとき漢王朱高煦による奪嫡の陰謀が進み、太子を謗る蜚語が飛び交った。永楽12年(1414年)、永楽帝が漠北遠征から帰還すると、東宮の属官たちが召し出されて獄に下されたが、ひとり金忠は旧功のため不問とされた。

永楽13年4月甲申(1415年5月25日)、死去した。享年は63。洪熙元年(1425年)、栄禄大夫・少師の位を追贈され、は忠襄といった。

子に金達があり、翰林院検討を経て長蘆都転運使となった。

参考文献

[編集]
  • 明史』巻150 列伝第38
  • 兵部尚書兼詹事金公墓碑銘