酒井忠順 (庄内藩)
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 宝暦2年(1752年) |
死没 | 文政7年(1824年) |
別名 | 熊蔵(幼名)、一学、豊前(通称) |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 出羽庄内藩公子 |
氏族 | 酒井氏 |
父母 | 父:酒井忠温、母:側室 |
兄弟 | 忠徳、忠順 |
子 | 忠禮、忠質、娘(市橋長昭室)、娘(坪内定儀妻)、娘(本多忠顕正室)、娘(戸川安悌妻) |
酒井 忠順(さかい ただとし)は、庄内藩酒井家の公子。酒井忠温の庶長子。出羽松山藩5代藩主酒井忠禮の実父。
経歴
[編集]宝暦2年(1753年)12月、後に庄内藩6代藩主となる酒井忠温の庶長子として江戸に生まれる。
父が正室に為姫(福岡藩主黒田継高の娘)を迎える前の出生のために、為姫の子で嫡出の実弟忠徳の弟とされる。成長すると、庄内藩から2千石を与えられ、江戸に居住した。21人もの子沢山で、暮らし向きに困窮してたびたび、藩主の忠徳から金品の援助を受けた[1]。
寛政5年(1793年)12月、次男忠質が、旗本酒井忠敬の養子となる。寛政6年(1794年)4月、長男忠禮が、松山藩4代藩主忠崇の婿養子となり、寛政10年(1798年)11月に藩主となる。
天保13年(1842年) 、酒井右京、松平舎人、酒井奥之助ら家老が、藩主忠発を廃立し、忠順の孫(忠質の子)忠明を新藩主とする企てが発覚した。忠明は松山藩に送られ幽閉された。
脚注
[編集]- ^ 佐藤三郎著『庄内藩酒井家』
参考文献
[編集]- 佐藤三郎著『庄内藩酒井家』東洋書院
- 『新訂寛政重修諸家譜』第2巻