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越後国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
越後守から転送)
越後国

-越後国
-北陸道
別称 越州(えっしゅう)[注釈 1]
所属 北陸道
相当領域 新潟県本州部分および粟島
諸元
国力 上国
距離 遠国
7郡34郷
国内主要施設
越後国府 新潟県上越市
越後国分寺 (推定)新潟県上越市
越後国分尼寺 (未詳)
一宮 彌彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村
居多神社(新潟県上越市)
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越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。

沿革

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『越後国細見図』天保13年(1842年)、池田東籬亭編。

前身は4世紀代に設置された久比岐国造高志深江国造、その他豪族の領域で、律令制の施行に伴ってそれら各領域が統合された。

7世紀末、文武天皇元年(697年)以前のいずれかの年になされた越国こしのくに)の磐船(いわふね)・渟足(ぬたり)の二郡の分割によって成立した。当初の領域は、現在の新潟県本州部分の北部(阿賀野川以北か)から山形県庄内、秋田県方面で、日本海側で蝦夷の領域に接する辺境国であった。

蝦夷政策の拠点国として大宝2年(702年)3月に、越中国から親不知以東、すなわち頸城郡古志郡魚沼郡蒲原郡の四郡を譲り受けた。和銅元年(708年)に、北に領域を伸ばして出羽郡を新しく設置し七郡体制となった。出羽郡を建てるのと前後して出羽柵の築造と柵戸の移住が行われた。さらに、和銅5年(712年9月23日 に、出羽郡が出羽国として分離したことで、後々まで続く越後の形ができあがった。天平16年(743年2月11日佐渡国を合わせたが、天平勝宝4年(752年11月3日に元に復した。その後、沼垂郡が蒲原郡に統合されたり、古志郡から三嶋郡(みしまぐん、のちの刈羽郡)、ついで三島郡(さんとうぐん)が分立するなど郡に変動があった。

大和政権は蝦夷地における版図拡大に城柵を設けて、南の地域の人民を移民し、開発と村づくりに当たらせ公民とし、郡を設置した。越後に設置された城柵は、647年(大化3年)渟足柵(新潟市か)、648年(大化4年)磐舟柵(新潟県村上市か)である。

近代以降の沿革

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『天保国絵図越後国高田長岡天保9年(1838年)。国立公文書館デジタルアーカイブより。
越後高田城三重櫓(新潟県上越市)

国内の施設

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全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力 - KML

国府

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国府は頸城郡にあった。10世紀頃までの国衙は上越市今池と見る説が有力視される[1]。11世紀以降の中世国衙には諸説あるが、近年では上越市の直江津地区にあったと考えられている[1]

国分寺・国分尼寺

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尼寺跡は不詳。

神社

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延喜式内社
延喜式神名帳』には、大社1座1社、小社55座53社の計56座54社が記載されている(「越後国の式内社一覧」参照)。大社1社は以下に示すもので、名神大社である。
総社一宮以下
『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[2]

なお、一宮を天津神社(糸魚川市)とする説もある。

地域

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江戸時代の藩

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人物

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国司

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越後守

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守護

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鎌倉幕府

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室町幕府

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武家官位としての越後守

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名誉称号としての越後目(朝廷から芸術家・職人への受領)

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  • 藤原貞勝(のちの都万大夫) 浄瑠璃の太夫・家元。寛文3年(1663年)に正六位下[注釈 3]越後目(えちごのさかん)を受領[注釈 4]

脚注

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注釈

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  1. ^ 別称「越州」は、越前国越中国とあわせて、または単独での呼称。
  2. ^ 山東(さんとう)郡から転じたため。
  3. ^ 本来は、律令下で上国の主典(さかん)は、従八位下。
  4. ^ 江戸時代の武家官位の下限は、大名が従五位下の諸大夫、旗本が正六位下の布衣、平士でも正七位下である。八位以下の受領は稀となった。

出典

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  1. ^ a b 『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)p. 370。
  2. ^ 『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 364-370。

参考文献

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関連項目

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