北条業時
表示
時代 | 鎌倉時代中期 - 後期 |
---|---|
生誕 | 仁治2年(1241年)または仁治3年(1242年) |
死没 | 弘安10年6月26日(1287年8月13日) |
改名 | 業時、普恩寺全念(監忍) |
別名 | 五郎、七郎 |
官位 | 左馬権頭、越後守、駿河守、陸奥守 |
幕府 | 鎌倉幕府 引付衆、評定衆、連署 |
氏族 | 北条氏、極楽寺流 |
父母 | 北条重時、筑前局(備後局とも) |
兄弟 |
為時、長時、時茂、業時、義政、忠時、 葛西殿、安達泰盛室、宇都宮経綱室、他 |
妻 | 北条政村の娘 |
子 | 時兼、ほか |
北条 業時(ほうじょう なりとき)は鎌倉時代中期から後期にかけての北条氏の一門。普恩寺 業時(ふおんじ なりとき)とも呼ばれる。鎌倉幕府の六波羅探題北方・連署である北条重時の四男。普恩寺流北条氏の租。母は側室の筑前局。『桓武平氏諸流系図』や『関東閨閥皇代並年代記事』所蔵の「北条系図」によると、初めは重長と名乗っていた。
文永2年(1265年)に小侍所別当および引付衆、建治2年(1276年)に評定衆、建治3年(1277年)に引付頭人と歴任。
兄弟の序列は年下の異母弟・義政の下位に位置づけられ、義政が四男、業時が五男として扱われて、極楽寺流内での家格も義政(塩田流)が嫡家赤橋流の下、業時(普恩寺流)より上位の2番手に位置づけられていた。しかし建治3年(1277年)の義政遁世以後は空席となっていた連署に、業時が弘安6年(1283年)に就任すると、業時の普恩寺流が嫡家に次ぐ2番手の家格となっている。
弘安10年(1287年)6月18日に連署を辞して出家し、26日に死去。享年47。
経歴
[編集]※日付=旧暦
- 1259年(正元元)4月7日、従五位下に叙し、弾正少弼に任官。7月27日、左馬権頭に遷任。
- 1265年(文永2)6月11日、幕府の引付衆と就る。
- 1266年(文永3)、引付衆退任。
- 1269年(文永6)、引付衆再任。
- 1276年(建治2)3月、評定衆に異動。
- 1277年(建治3)5月18日、越後守に遷任。8月29日、三番引付頭人を兼帯。
- 1280年(弘安3)11月4日、駿河守に遷任。
- 1281年(弘安4)、三番引付頭人から一番引付頭人に異動。
- 1283年(弘安6)4月16日、連署に異動。7月20日、従五位上に昇叙。駿河守如元。9月26日、正五位下に昇叙。駿河守如元。
- 1284年(弘安7)8月8日、陸奥守に転任。
- 1287年(弘安10)6月18日、出家。6月26日、卒去。享年47。法名:普恩寺全念。また、鑑忍。