護雅夫
人物情報 | |
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生誕 |
1921年3月30日 日本滋賀県長浜町 |
死没 | 1996年12月23日 (75歳没) |
出身校 | 東京帝国大学・大学院 |
配偶者 | 道子(旧姓:門脇)[注 1] |
学問 | |
研究分野 | 東洋史(内陸アジア史・トルコ学) |
研究機関 |
北海道大学 東京大学 日本大学 東洋文庫 |
学位 | 文学博士(1962年、東京大学) |
護 雅夫(もり まさお、1921年〈大正10年〉3月30日 - 1996年〈平成8年〉12月23日)は、日本の東洋学者・歴史学者。専攻はトルコ民族史・内陸アジア史・トルコ学[5]。東京大学名誉教授。勲二等瑞宝章受章。日本学士院会員。
経歴・人物
[編集]生い立ち
[編集]滋賀県長浜町(現長浜市)真宗大谷派一心寺 11世住職 釋雅亮・春枝の長男として生誕[3][注 3] 。旧制 県立虎姫中学校(現:滋賀県立虎姫高等学校)から1938年第三高等学校文科甲類へ入学、「自由寮」での寮生活を始める[7][注 4]。
1941年東京帝国大学文学部東洋史学科入学、1943年9月卒業[注 5]と同時に同大大学院入学即日休学、10月に三期兵科予備学生として広島県江田島の海軍兵学校に入校、同年末まで教育・訓練をうけ[注 6]、1944年より海兵教官として国史を担当する[15]。
1945年3月中尉任官、8月敗戦、9月復員後大学院に復学し、和田清により特別研究生に採用される[16]。1946年3月に前田直典の提唱により組織された北方史研究会主催の柴田武(当時は言語学科助手)による現代トルコ語講習会に参加 [注 7]。ペルシア語、ロシア語、モンゴル語も学ぶ[17]。在学中は和田清、榎一雄から指導を受ける。
高等学校時代の安部健夫[注 8]・大学時代の和田清 両師の影響でアジア遊牧民の歴史的研究を志すようになる[20]。
歴史学者として
[編集]1948年9月(27歳)、和田清の推挽により北海道大学法文学部助教授に任ぜられるが、同時に内地研究員として東京大学文学部東洋史研究室で蒙古史研究に従事し、翌年赴任する[3][21]。北海道網走市モヨロ貝塚での東大と北大の合同発掘調査が1947年、1948年、1951年に行われ、護も1951年の発掘調査に参加した[22]。
1956年5月(35歳)、朝鮮史講座担当として東京大学文学部助教授に着任する[22]。
1958年3月-1959年10月、山本達郎の推輓により[23]ロックフェラー財団研究員として[24][25]トルコ(アンカラ・イスタンブル両大学)[注 9] とドイツ(ハンブルク大学)へ留学。
イスタンブル大学ではラフメティ・アラト[注 10]・ゼキ・ヴェリディ・トガンの講筵に列し、アンカラ大学のバハーエッディーン・オゲル助教授と共同で研究をした。ハンブルク大学のフォン・ガベン[注 11]からも古代テュルク語の個人教授を受ける[28][30]。
1962年、東京大学より文学博士の学位を取得 (学位請求論文:「古代北アジア遊牧民族史の研究」) [31]。
1963年、松田壽男らにより再建された「日本イスラム協会」の評議員・理事をつとめる[32]。
1964年、「日本アルタイ学会(通称 野尻湖クリルタイ)」を山田信夫らと創設した[注 12][33]。
1966年3月-5月には交換教授としてレニングラード大学 東洋学部、旧ソ連科学アカデミー所属アジア諸民族研究所で古代トルコ民族史の講義・講演を行う [25][34]。
1968年4月(47歳)、東京大学文学部教授に昇任し、「北アジア史について幾多の貢献をした。その主な論文は『古代トルコ民族史研究 I』に収められている」[22]。1970年に日本学士院賞を受賞する。
1976年、イスタンブル大学 文学部より招きをうけ、9月より1年間、トルコ民族史・古代テュルク語・アジア史(日本史を含む)などについてトルコ語で講義とゼミナールを行う[35][注 13]。さらに大学での講義に加え、トルコ・日本婦人友好文化協会の要請によりイスタンブル総領事館一室で日本語講座を開く[37]。
1981年4月東京大学を定年退官、5月名誉教授の称号を受ける[3]。同年6月より東洋文庫理事に就任[38]。1981年4月 - 1991年3月、日本大学文理学部教授に就任、定年による退職後も非常勤講師として出講した[39]。
この間、1982年3月-5月日本学術振興会の援助を得てアンカラに滞在し、梅村坦とともに「日本学術振興会 西アジア地域研究センター」の再建・設立に携わる[3][40][注 14]。1986年8月、ハンブルクでの第32回 国際アジア・北アフリカ研究会議(ICANAS)に日本学術会議と東方学会を代表して参加[42][注 15]。同年9月には、トルコ アンカラ大学に日本学科を開設する任務を帯び、国際交流基金・日本大学から派遣され、1年間客員教授をつとめる[注 16]。北アジア史、シルクロード史とともに、日本史・文化入門、日本語講義を担当した[45]。
1992年12月(71歳)日本学士院会員となる。選定にあたり日本学士院は、専攻学科目として、それまでになかった「トルコ学」部門を新設しその研究領域とした[47][48][49][注 17]。
(1980-1981)史学会理事長、(1981-1986)東洋文庫附置ユネスコ東アジア文化研究センター所長、(1985-1988)日本学術会議 第13期会員、(1985-1991)東方学会 理事長[50]、(1986-1990)東洋文庫研究部長[51]、(1987-1993)中近東文化センター理事長、トルコ共和国科学アカデミー(アタテュルク文化センター)名誉会員、 古代オリエント博物館理事、日本中国文化交流協会常任理事、出光美術館評議員、東方学会 評議員、内陸アジア史学会顧問などを歴任する[3][5][52]。
門下生に佐藤次高[53]、鈴木董[54]、森安孝夫[55]らがいる。
晩年は神奈川県藤沢市に居住し[56][57][注 18]、約6年におよぶ闘病生活の間も執筆活動は続けたが[58] [59]、1996年12月肺炎のため相模原市の病院で没した[3]。没後同日づけで正四位に叙せられる[5][60]。翌1997年、旧蔵の洋書・トルコ語などの研究書約700冊を遺族より東洋文庫に寄贈[61]。
没後、トルコ人作家アズィズ・ネスィン[注 20]の作品、加えてネスィンのインタビュー記事[注 21]の翻訳原稿がみつかり林佳世子、粕谷元[注 22]、新井政美らが「出版のための体裁を整え」[65]、2013年に藤原書店より『口で鳥をつかまえる男』として刊行された。
受賞・栄典
[編集]- 1970年:日本学士院賞『古代トルコ民族史研究 I』[66][67]
- 1973年:トルコ共和国文化功労章
- 1982年:ブルガリア人民共和国建国記念勲章
- トルコ日本友好百年記念黄金メダル
- 1991年:勲二等瑞宝章[68]
- 1992年:日本学士院会員[49]
- 1996年12月23日:叙正四位
著作
[編集]単著
[編集]- 『近代以前の東洋』三省堂〈社会科歴史文庫 4〉、1956年。全国書誌番号:45021412。
- 『古代トルコ民族史研究』山川出版社(全3巻)。 NCID BN03388834。
- 『古代トルコ民族史研究 I』1967年3月。ISBN 978-4634651609。
- ※村山七郎「護雅夫著『古代トルコ民族史研究』」『東洋学報』第50巻第4号、東洋文庫、1968年3月、522-533頁。
- 『古代トルコ民族史研究 II』1992年1月。ISBN 978-4634650206。[注 23]
- 『古代トルコ民族史研究 III』1997年4月。ISBN 978-4634650107。
- ※第III巻は遺著。別冊(全3巻総索引+護雅夫著作目録)附:全85頁[注 24]
- 『遊牧騎馬民族国家:蒼き狼の子孫たち』講談社〈講談社現代新書 116〉、1967年[注 25]。NCID BN04157870。
- 『よくわかる世界史 新課程』旺文社〈よくわかるシリーズ〉、1973年。
- 『李陵』中央公論社〈中公叢書〉[注 26]、1974年、新版1990年。NCID BN0260235X。中公文庫、1992年[注 27]。NCID BN08903687。
- 『古代遊牧帝国』中央公論社〈中公新書 437〉、1976年。NCID BN00943600。
- 電子書籍、配信開始:2023年11月 [73]。ASIN B0CP271S7F
- ※林俊雄「【新刊紹介】護雅夫著『古代遊牧帝国』中公新書 一九七六・ 二六五頁」『史学雑誌』第85巻第12号、史学会、1976年12月、1698-1699頁、doi:10.24471/shigaku.85.12_1698。
- 『中央アジア史:シルクロードに興亡した国々』旺文社〈テレビ大学講座 現代アジア論 I〉、1981年。 NCID BN11699760。
- 『草原とオアシスの人々』三省堂〈人間の世界歴史 7〉、1984年。NCID BN00328814。
- (トルコ語) Prof. Dr. Masao Mori’nin Göktürkler : Ders Notları. Prof.Dr.Gülçin Çandarlıoğlu, ed., Türk Dünyası Araştırmaları Vakfı(『護雅夫博士の突厥:講義ノート』ギュルチン・チャンダルルオウル編、トルコ世界研究財団). (2019). ISBN 978-9754982541. NCID BB2863152X
訳書
[編集]- 『ナスレッディン・ホジャ物語-トルコの知恵ばなし』平凡社〈東洋文庫〉、1965年。[注 28] ワイド版 2007年。NCID BN01197584。
- 「つけたり」285-310頁
- 1.ナスレッディン・ホジャという人物 285-302頁
- 2.ナスレッディン・ホジャ物語について 302-307頁
- 3.翻訳に利用した諸版本 307-309頁
- ※刊行前にも諸版本からの数話の翻訳・紹介文などを執筆している:後出
- 「つけたり」285-310頁
- カルピニ/ルブルク『中央アジア・蒙古旅行記』桃源社〈東西交渉旅行記全集 1〉、1965年。[注 29] NCID BN05122576。
- ※両者は修道士。詳しくはプラノ・カルピニと、ウィリアム・ルブルックの項目を参照。
- 『中央アジア・蒙古旅行記』桃源社 新装版、1979年。 NCID BA31864518。
- 『中央アジア・蒙古旅行記:遊牧民族の実情の記録』光風社出版〈光風社選書〉、1989年。 NCID BN03532566。
- 『中央アジア・蒙古旅行記』講談社〈講談社学術文庫〉、2016年。[注 30] NCID BB21394007。
- スティーヴン・ランシマン 『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房、1969年、新装版1983年、1998年。NCID BA36140005 。
- 『騎馬民族史 - 正史北狄伝』平凡社東洋文庫(全3巻)、1971-1973年。NCID BN01068945。ワイド版 2007年。訳者の一人
- デイヴィド・ホサム[注 31]『トルコ人』みすず書房、1983年。 NCID BN00634661。
- アズィズ・ネスィン『口で鳥をつかまえる男』藤原書店、2013年。 NCID BB12879832。
- 再録 16篇中の1篇「神の恵みがありますように」『世界文学アンソロジー:いまからはじめる』三省堂、2019年、302-309頁。 NCID BB28663537。[注 34]
共著
[編集]- 『東アジア文明の形成』筑摩書房編集部 編、筑摩書房〈世界の歴史 3〉、1960年、新版1968年、新訂版1978年。NCID BN01850844。
- 執筆 :「匈奴:古代遊牧帝国の形成」
- 『イスラム文化の発展』筑摩書房編集部 編、筑摩書房〈世界の歴史 7〉、1961年、新版1968年、新訂版1978年。NCID BN08704421。
- 『絹の道と香料の島』別枝達夫 共著、文藝春秋〈大世界史 9〉、1968年、NCID BN0278266X。
- 執筆:第1-8章(9-181頁)
- 『イスラム帝国の遺産』嶋田襄平 編、平凡社〈東西文明の交流 3〉、1970年。NCID BN01848343。
- 執筆 :「オスマン帝国の遺産」
- 『アラブの世界:その歴史と文化』朝日新聞社〈朝日ゼミナール双書〉、1974年8月。NCID BN04272835。
- 『中国文明と内陸アジア』三上次男・佐久間重男 共著、講談社〈人類文化史 4〉、1974年9月。NCID BN0188399X
- 執筆 :「第二部 内陸アジア遊牧民の世界」「第三部 新しい体制への歩み 3「タタールの平和」」
- 『アラブの覚醒』牟田口義郎 共著、講談社〈世界の歴史 22〉、1978年、NCID BN02413266
- 『続・私のシルクロード』朝日新聞社、1978年。NCID BN07005256。ASIN B000J8KOVS。
- 執筆:講演(1978.3.3)「トルコ民族と東西文化の交流」を収録。[77]
- 『シルクロード』加藤九祚・長沢和俊 共著、筑摩書房〈読書マップ〉、1983年。※3人による対談・鼎談をまとめたもの[注 36]。NCID BN04223986。
- 『すべての道はローマに通ず:イスタンブール・ギリシャ・イタリア』日本放送出版協会〈シルクロード ローマへの道〉第12巻(最終巻)、1984年。NCID BN00789329。
- 座談会:シルクロードを考える(井上靖・司馬遼太郎・陳舜臣・榎一雄・樋口隆康・護雅夫・加藤九祚・岡崎敬・長沢和俊、鈴木肇 司会)5-137頁。
- NHK取材班 記:すべての道はローマに通ず、付 マルコ・ポーロの遺言状 149-253頁。アレキサンダー遺物を訪ねて 255-277頁。
- 『すべての道はローマに通ず NHKシルクロード ローマへの道 第12巻』日本放送出版協会〈新コンパクト・シリーズ〉、1989年。NCID BN03973721。※新書判で再刊。
- 『身ぶりと音楽』野村雅一・鈴木道子責任編集、東京書籍〈民族音楽叢書 9〉、1990年。NCID BN05317360
- 執筆 :「イスラムにおける音楽と舞踊:メヴレヴィー教団の旋舞をめぐって」
編著
[編集]- 『日土会話練習帖』大学書林、1966年。 NCID BA41778900。
- 『漢とローマ』平凡社〈東西文明の交流 1〉、1970年。 NCID BN01905888。
- 『内陸アジア・西アジアの社会と文化』山川出版社、1983年。[注 37] NCID BN01452003
- ※柳橋博之「【新刊紹介】護 雅夫 編『内陸アジア・西アジアの社会と文化』山川出版社 一九八三・九一九頁」『史学雑誌』第93巻第4号、1984年、545-546頁、doi:10.24471/shigaku.93.4_545。
共編著・共編
[編集]- 『岩波講座 世界歴史』岩波書店、1969-71年。全30巻、下記6巻に執筆
- 第6「北アジア・古代遊牧国家の構造」359-386頁。1971年。NCID BN02399482。
- 第8「西アジア世界 総説」3-32頁。1969年。NCID BN01797683。
- 第9「内陸アジア世界の展開I 総説」3-17頁。1970年。NCID BN01859929。
- 第21「オスマン帝国の改革運動 1トルコの改革運動」386-410頁。1971年。全国書誌番号:73015989。
- 第25「トルコ革命」pp.451-475。1970年。NCID BN0186884X。
- 第30「西アジアにおける歴史意識」(別巻 現代歴史学の課題) 35-77頁。1971年。NCID BN0185721X。
- 『内陸アジア史論集』(全2巻)国書刊行会、1979-80年[注 38]。NCID BN00478307。
- 『北アジア史(新版)』神田信夫 共編、山川出版社〈世界各国史 12〉、1981年。NCID BN01429001。
- 執筆 :「まえがき」「序説」「第二章 遊牧国家の成立と発展」「第三章 遊牧国家の「文明化」」
- 『オリエント史講座』(全6巻)前嶋信次・杉勇と共編、學生社、1982-86年。NCID BN00154451。
- 執筆 :「序説」『第3巻 渦巻く諸宗教』1982年、「コンスタンティノープルの征服」『第5巻 スルタンの時代』1986年
- 執筆 :「まえがき」i-v頁、「第2部 トルコ系民族」105-106頁[78]
- Near Eastern studies : dedicated to H.I.H. Prince Takahito Mikasa on the occasion of his seventy-fifth birthday、小川英雄・吉川守と共編、Otto Harrassowitz〈Bulletin of the Middle Eastern Culture Center in Japan[79], v.5〉、1991年。NCID BA17073556
監修
[編集]- 護雅夫 監修、高橋昭一と分担訳/写真:並河萬里『トプカプ宮殿博物館』 全5冊+別冊、トプカプ宮殿博物館 全集刊行会、1980年10月。 NCID BN04925134。
- 1 宝物館・2 細密画・3 スルタンの衣装・4 宮廷絨毯・5 ハレムの建築
- 別冊は解説冊子:ケマル・チュー(Kemal Çığ)[80] 著・護雅夫 訳『トプカプ宮殿博物館概論』
海軍兵学校
[編集]- 「海軍兵学校・研究室・みづほ館」『戦中戦後に青春を生きて 東大東洋史同期生の記録』神田信夫・山根幸夫 編、山川出版社、1984年、117-143頁。ISBN 978-4634640702。[注 39]
- 「三角形と蚯蚓-解説にかえて-」『江田島教育』豊田穣著、集英社〈集英社文庫〉、1983年、252-260頁。ISBN 978-4087506976。[注 40]
エッセイ・寄稿
[編集]- 「「勤勉さ」からの決別」『道 昭和の一人一話集』 9巻、上山義雄 編、中統教育図書、1984年9月、105-111頁。全国書誌番号:85014076。
- 「男の社交場 トルコのカフェ」『想い出のカフェ:ドゥマゴからの贈り物』井上俊子 編、Bunkamura、1994年9月、8-11頁。 NCID BA31361776。
- 再録 「男の社交場 - トルコのカフェ」『世界カフェ紀行:5分で巡る50の想い出』中央公論新社編〈中公文庫〉、2023年2月、110-113頁。 NCID BD00805108。
- 〈リテレール・ブックス〉シリーズ 安原顯 編、メタローグ
- 「外国語は少しでも油断すると忘却の彼方へ」『私の外国語上達法』〈2〉1994年5月、28-33頁。 NCID BN10828595。
- 「死ぬまで直らぬ蒐書癖と無精」『私の「本」整理術』〈8〉1994年8月、28-31頁。 NCID BN11376116。
- 「癌告知を契機に、人生を濃密に生きる日々」『私の死生観』〈10〉1994年9月、36-39頁。 NCID BN11703325。
- 「旅の醍醐味は、異国の人と話し、理解しあうこと」『私の海外旅行術』〈12〉1994年10月、80-83頁。 NCID BN11765413。
- 「学生も教師もつまらぬことで多忙すぎる」『日本の大学どこがダメか』安原顯 編、メタローグ、1994年12月、144-147頁。 NCID BN11789105。
論文
[編集]- 護 雅夫 - CiNii Research
- N.ホジャ関連
- 「ナスレッディン=ホジャ物語:ホジャとティムール」『遊牧社会史探究』第14号、遊牧社会研究グループ - 内陸アジア史学会、1961年、1-18頁。
- 資料紹介「ナスレッディン=ホジャ物語」『史学雑誌』70編10号、史学会、1961年10月、1258-1270(61-73)頁。NAID 40001511243。
- 「ナスレッディン=ホジャとその語物」『オリエント』第5巻第1号、日本オリエント学会、1962年3月、33-45,iv頁。doi:10.5356/jorient.5.33。
- 「トルコにおけるナスレッディン=ホジャ研究:特にその生存年代について」『アジア・アフリカ文献調査報告』第24冊、アジア・アフリカ文献調査委員会、1964年、NCID BA32770293。
- 「アー・レフィク・ギュル(トルコ語版 A.Refik Gür)[81]著『ナスレッディン=ホジャの機知のプリズムを通して来る光《物語の教訓》: その生涯・逸話に関する思想的・哲学的一研究』[82]」『東洋学報』第47巻第1号、東洋文庫、1964年6月、124-129頁。東洋文庫リポジトリ。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 門脇願珠(広島高等師範学校 英語学 教授。1945年3月10日退任 / 3月20日 叙従三位[1][2])の二女として生誕、1948年4月に結婚[3]。晩年、歌集『道程』を上梓[4]。
- ^ 一心寺 13世住職 護嵓(もり いわお) 『真宗』2022年4月号「お寺の掲示板」
- ^ 1957年に父が急逝、釋雅夫として12世住職をほぼ4年間継承[6][注 2]。「住職とは名ばかりであったが、それでも、休暇には帰郷して法要はもとより葬儀での導師もつとめた」: 護 (1994, p. 38)
- ^ 三高時代の19歳、『自由寮報』や全校の『嶽水会雑誌』によく投稿していた [8]/寄稿:「「孤独」と「共在」-一年生の人々に」『自由寮報』24 8面、1940.5/「小さい研究-陶淵明に於ける儒教的なるもの」『自由寮報』26 4-5面、1940.10[9]。
- ^ 卒業論文のテーマは探馬赤、和田清の勧めを受け論文の一部を2編に分け手渡したものが、兵学校時代に公刊された[10]:「元初に於ける「探馬赤部族」について」『北亞細亞學報』3輯、1944年。NCID BA77783414/「探馬赤部族考序說」『史學雜誌』55編1號、1944年。論文原文は敗戦後の混乱で焼失[11][12]。
- ^ 同期予備学生に布目潮渢、山田信夫、佐伯彰一らがいる[13][14]。
- ^ 講習テキストにナスレッディン・ホジャの逸話があったことが、訳書(護 1965a)上梓のきっかけとなり「いろんな意味で、柴田さんは私の先生なのである」: 護 (1996, pp. 23, 26–27)
- ^ (1903年12月-1959年2月 / 55歳没)羽田亨の下で元代史を専攻。1957年、「西ウィグル国史の研究」で京都大学より文学博士 学位取得(NAID 500000491466)[18][19]。
- ^ 37歳で最初に一年近く留学したのはアンカラ大学 言語歴史地理学部。当時アンカラ在住の日本人は「大使館員をのぞくと私一人であった」[26]。当時外務省トルコ語在外留学生だった31歳の高橋昭一が護と懇意になり「いずれも新進気鋭の学徒として」と、二人のアンカラでの思い出を記している:高橋昭一 (1997)。イスタンブルでは牟田口義郎(当時カイロ在住 朝日新聞中東特派員)と1958年に出会い交流を続け、20年後に共著『アラブの覚醒』(講談社・1978年)を刊行[27]。
- ^ 講義だけでなく、古代テュルク語(突厥語・ウイグル語)の個人教授を受けた[28]
- ^ 2度来日し、ウイグルに関する講演・講義・セミナーなどを行う:1962年・1975年。1962年の講演は護雅夫 訳により発表される:「ウィグル王国における品位のある姿勢(講演要旨)」『東洋学報』第45巻第3号、東洋文庫、1962年12月、378-388頁。[29]
- ^ 「山田信夫、神田信夫、池上二良、萩原淳平、それに護雅夫が発起人となって「若手アルタイ学者の集まり」として1964年に発足した。第2回と第3回は「若手アルタイ学・中央アジア研究者集会」とされ、第4回から「野尻湖クリルタイ」と称されるようになった」: 梅村坦 (1997b, p. 108)
- ^ 2019年、講義内容が、G.チャンダルルオウル博士[36]により書籍化される:Prof. Dr. Masao Mori'nin Göktürkler。
- ^ ケマル・アタチュルク伝記執筆のための資料収集も目的のひとつであった[37][41]。
- ^ イェニセイ碑文に関する発表を英語で行う[43]。
- ^ トルコでの日本学教育は、日本留学から帰国したプラト・オトカンPulat Otkan (1942-2014)[44]により、1978年言語歴史地理学部 中国学科の選択科目として日本語教育が開始され、1986年公的教育機関として初めて日本語日本文学科の設立となり、17名の一年生が入学する[45][46]。
- ^ 「『日本の学界にトルコ学の存在を認めてもらえた』と、しみじみ述懐して」いた:高橋昭一 (1997)
- ^ 72歳の12月、写真家中野六郎により自宅書斎デスクの前で撮影が行われ、翌年刊行される:『文化を創る人たち-湘南:中野六郎写真集』湘南写真工房、1994年8月、34頁。 NCID BA66977419。※小倉遊亀、城山三郎、團伊玖磨ら各界の湘南在住112名の肖像。
- ^ アルスラン・カイナルダア(1923-2008)。訳書に、A.ネスィンへとともに謝意を表している(p.309「つけたり」)。また編著『日土会話練習帖』(1966)でも協力を得た(「はしがき」)。A.カイナルダアは1997年Cumhuriyet Kitapにて護への追悼文を記している[62]。
- ^ ※A.ネスィンとの交流はナスレッディン・ホジャが縁となり1960年代に始まる:翻訳(護 1965a)を思いたった際「イスタンブルの一古書肆の主人」[注 19]から「ホジャ研究の第一人者であるだけでなく、かれ自身が現代トルコのホジャである」とネスィンを紹介され、以後文通を交わす。1982年アンカラ滞在時に書店で出逢い、ネスィン基金財団本部へも赴く[63]。
※D.ホサムも『トルコ人』の中で、ネスィンとホジャの諷刺・ユーモアについて記述している:(pp.227-234)。"ホサムの言を借りるなら、「ネシンは、きわめて平易に、しかし大変なウィットを駆使して書き、官僚社会のほとんどすべての面を揶揄する」":護 (1982b, p. 303) - ※訳書『トルコ人』刊行前の執筆であり、訳書中(p.233)の表現とは異なる。 - ^ 1987年アンカラ滞在時に新聞掲載されたもの[64]。
- ^ “西アジア・イスラーム史 粕谷 元 教授”. 日本大学 文理学部 史学科. 2023年7月24日閲覧。
- ^ 古稀を迎える1991年3月に第I巻の続編を刊行しようと提案・企画され取りかかるが、体調不全により古稀翌年の刊行となる。佐藤次高・梅村坦・片山章雄らにより論文の収集・選択がなされた[69][70]
- ^ 編集全般担当は佐藤次高・梅村坦・片山章雄[71][72]
- ^ 講演体(ですます文)、1980年代に装丁変更し副題なし。
- ^ 中央公論社の歴史雑誌「歴史と人物」に連載。粕谷一希が編集長だった。
- ^ 巻末に著者による「文庫版あとがき」(pp.237-247)
- ^ 文通をしていたA.ネスィンに初版本を送ると、自身の編集雑誌に、写真と、コメントを付して紹介した:「日本でナスレッディン・ホジャ物語が翻訳・刊行された。これは、恐らく、日本ではもちろん、東アジアでも最初の出版であろう」:護 (1982b, p. 300)。
- ^ 訳者解説は「モンゴル人と西方世界 — 両修道士派遣にいたるまで」
- ^ 原本(桃源社 新装版:護 1979)から「附録 ポーランド人ベネディクト修道士の口述」を削除:p.452〈原本と表記について〉。
- ^ David Hotham はイギリスのジャーナリスト、1966年まで8年間トルコに滞在。原著は1972年刊 英語版:p.321 訳者あとがき / p.328 著者略歴。
- ^ ネスィンの短編集 2冊 Aferin(1959)/Yüz Liraya Bir Deli(1961)の翻訳原稿より16篇を集録(p.227:解説 林佳世子)。
- ^ 「アズィズ・ネスィン、半生を語る」:当時72歳のネスィンへのインタビュー記事。原文の見出しは「72歳のアズィズ・ネスィンによれば、人間は何歳になっても恋愛できる『私の恋人が望むならディスコへだって行く』」/PAZAR SOHBETİ 1987。
- ^ “目次”. 三省堂. 2022年12月22日閲覧。
- ^ この2論文にて「おそらくわが国ではじめて、オスマン朝を歴代イスラーム諸王朝の「完成形態」とする考えが表明」された[74]。
- ^ 1979年から数回の対談・鼎談を行ったが、互いの多忙により原稿の推敲・改訂が遅れ1983年刊行となる:pp347-349 あとがき 長沢和俊。
- ^ 定年退官の記念に企画し、内陸アジア・西アジアの研究成果の一端をまとめる目的で39名の論文を自身で収録・編集した900頁を超える歴史学論集[40]。
- ^ “各巻論文タイトル・著者/出版物一覧”. 内陸アジア史学会. 2022年12月22日閲覧。
- ^ 海軍兵学校時代から敗戦を経、北海道大学教員に任じられるまでの5年間を回想(1943年10月-1948年9月)。
- ^ 「三角形と蚯蚓」とは当時の兵学校校長 井上成美が三期予備学生教育修業の12月に行った訓話から。阿川弘之 (1992, pp. 513–514) にも記されている。
出典
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参考文献
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- 護雅夫「トルコの熱いまなざし:日本学講座開設から帰って/伝統と近代化の両立に関心:日本語コースの盛況に驚く」『朝日新聞 夕刊』1987年11月19日、5面。
- 岸田達也(名古屋大学名誉教授) (1997年3月24日). “通える夢は崑崙の高嶺の此方ゴビの原-在りし日の三高の青春(護雅夫さんの学問形成と三高との関係) (PDF:1204 KB)”. 神陵文庫「紅萌抄」第8巻 三高自昭会. pp. 13-37. 2022年12月22日閲覧。
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- 護雅夫「序文に代えて」(一九九六年六月二七日 藤沢の寓居にて)『古代トルコ民族史研究 III』、1-36頁。
- 佐藤次高・梅村坦・片山章雄「跋文」『古代トルコ民族史研究 III』、577-579頁。
- 「著者略歴」『古代トルコ民族史研究 III』、586頁。
- 片山章雄 編「護雅夫著作目録」『古代トルコ民族史研究 III〈別冊〉』、53-85頁。
- 高橋昭一(常任理事)「護 雅夫先生逝く」『アナトリアニュース』第87号、日本・トルコ協会、1997年3月、1頁。
- 梅村坦「追悼 護 雅夫先生」『内陸アジア史研究』第12巻、内陸アジア史学会、1997年3月、99-102頁、NAID 40004580999。
- 森安孝夫「護 雅夫博士の訃」『史学雑誌』第106巻第3号、史学会、1997年3月、436-439頁、doi:10.24471/shigaku.106.3_436。
- 梅村坦「護雅夫先生を偲んで」『東洋学報』第79巻第1号、東洋文庫、1997年6月、105-111頁。
- 永田雄三「護雅夫先生とイスラーム世界」『イスラム世界』第49号、日本イスラム協会、1997年7月、118-119頁、doi:10.57470/theworldofislam.49.0_118。
- 「護雅夫博士追悼錄」『東方學 第九十四輯』、東方學會、1997年7月、140-151頁、NAID 40002633722。
- 神田信夫「弔辞」。141-142頁。
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- 荒松雄「級友・護雅夫君を偲ぶ」。145-147頁。
- 佐藤次高「護雅夫先生を想う」。147-149頁。
- 森安孝夫「護雅夫先生と私」。149-151頁。
- 佐藤次高 (司會・文責者)・片山章雄・森安孝夫・志茂碩敏・小山皓一郎・松村潤・柳瀬廣「座談会 先學を語る - 護雅夫博士〈含 略年譜・主要著書目録〉」『東方學 第百八輯』、東方學會、2004年7月、122-149頁、国立国会図書館サーチ:R000000004-I7070115。
- 阿川弘之『井上成美』新潮社〈新潮文庫〉、1992年7月。ISBN 978-4101110141。
外部リンク
[編集]- "Prof. Dr. Masao Mori'nin Anısına"(護雅夫博士を偲んで)Mücteba İlgürel(ミュジュテバ・イルギュレル),Ağustos 1998,Belleten,Türk Tarih Kurumu(トルコ歴史協会)/(PDF版:1700KB) 含 肖像写真
- トルコと日本の学術交流の架け橋として 護雅夫(1921-1996) 東洋文庫 - 東洋文庫の歩み > 人物 - 運営
- CiNii (論文 151 / 本 84 / 博士論文 1 / プロジェクト 4 / 本文・本体リンクあり 80)
- INBUDS>護雅夫
- 護雅夫 東洋学文献類目 - ウェイバックマシン(2022年12月22日アーカイブ分)
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